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Shota Maehara's Blog

人間は身体的欠如を過剰に取り戻す生き物である

Posted by Shota Maehara : 10月 21, 2010

この受苦的であるがゆえに情熱的である、あるいは、受動的であるために主体的能動的であるというマルクスの存在論把握を一貫して追求してきたのは田中吉六である。人間がもつ欠如あるいは欲求が人間的なものとなる、あるいは文化的なものとなる所以はどこにあるのか。田中吉六が注目したのは、マルクスがそれを人間の「身体的組織」に求めていることである。(「マルクス、再出発」)

 すべての人間史の第一の前提はもちろん生きた人間個体の生存である。したがって確認される第一の事態はこれら個人の身体的組織と、そしてこの身体的組織によってあたえられる、その他の自然への彼らの関係とである。われわれは、もちろんここでは人間の肉体の特性とか人間が直面する自然諸条件、地質学的、山水誌的、風土的その他の諸関係に立ちいることはできない。すべての歴史記述は、この自然的諸基礎および歴史過程内での人間の行為によるそれら諸基礎の変形から出発しなければならない。
 人々は動物から人間を意識、宗教その他お望みのもので区別することができる。人間自身は彼らが生活手段を生産しはじめるやいなや、すなわちかれらの身体的組織によって義務づけられている処置を講じめるやいなや、みずからを動物から区別しはじめる。人間はかれらの生活手段を生産することによって、間接的にかれらの物質的生活そのものを生産する。(「ドイツ・イデオロギー」)

 田中吉六はたとえば無毛という「身体的組織」の条件を指摘している。しかし、それを具体的にいおうとするなら「裸のサル」(デズモンド・モリス)としての人間の条件を一般的に検討しなければならないはずである。

 つまり一般的にいえば、人間の身体的組織の特徴は本能をもたないこと、つまり外的環境に自動的に適合しうるメカニズムをもたないということになるであろう。特殊人間的な受苦性とは一つの遅延化によってもたらされている。それを生物学的にいえば、たとえば人間が異常に長い幼年期をもたねばならないということである。フロイトは、まさにそこに、世代(親と子の関係)が制度(非自然)として生じるゆえんをみいだしたといえる。だから、彼は本能と衝動を区別している。衝動とは、〝欠如〟からくるものであり、それはすでに表象であり、「意味するもの」なのである。意味作用の根源は、「衝動」にある。むろんわれわれは、マルクスのいう〝情熱的存在〟を、この意味における「衝動」だと理解してもよい。

 マルクスが「身体的組織と、この身体的組織によって与えられる自然との関係」を、歴史の第一前提とするとき、注目すべきは、この「関係」という概念である。つまり、「人間と自然との関係」は、ある欠如=遅延化によって生じるような「関係」なのであり、実はそれだけが「関係」なのである。マルクスは、言語についてのべたあと、つぎのようにいっている。

 一つの関係が存在するばあいには、それは私にとって存在する。動物はなにものにも「関係する」ことなく、また一般に関係しない。動物にとっては他のものへのその関係は、関係として存在しない。したがって意識ははじめからすでに一つの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(「ドイツ・イデオロギー」)

 ふつうのいい方では、動物も対象をもつし、対象と関係する。だが、彼らが環界と一体である以上、対象も関係もありえない。対象や関係は、遅延化(差異化)のなかではじめて存在するようになる。つまり、対象物は、欠如―表象(意味作用)のなかで形成される。
 
 たとえば、スザンヌ・ランガーは動物と人間を区別するものを、各々の伝達形式の差異にみいだしている。動物は一対一の応答関係すなわちサインしかもたないのに対して、人間は多様な応答関係すなわちシンボルをもつ。だが、マルクスのいうように、「一対一の応答関係」は「関係」ではない。「関係」はすでに多重的なものである。シンボルは、遅延化をこうむった「身体的組織」から考察されるべきである。
                             
                             ◎

 マルクス、ニーチェ、フロイトは、いずれも「身体的組織」における欠如・無力性から出発し、そこに、表象・欲望・言語の発生をみいだすことにおいて、共通している。だが、そのような発生論的な視点ではなく、逆に現象学的な遡行をもってしても、われわれは、同じ地点に到達するだろう。(略)

 だが、何がそのような差異化・遅延化をもたらすのかを問うことはできない。もし問うならば、神または自然が「主体」として「原因」として表象されるだろう。しかし、それらは「意味」なのであり、根源的な意味作用の原因ではなく、結果なのである。重要なのは、そのような「起源」への問い―それ自体が形而上学に導く―ではなく、マルクスがここにおいて、人間の意識または「意味」がアプリオリに存するのではなく、感性的な受苦性(受動性)においてはじめて存するという考えをつらぬいていることである。(略)

 もちろん、マルクスが「誤解」をおそれたように、マルクス主義は人間の目的的意識や主体性を第一においてしまう。だが、マルクスにおいて、「目的」とは、欠如をとりかえすことであり、しかも過剰にとりかえすことである。だから、「目的」とはつねに遅延性の逆転にほかならない。たとえば、眼は見るためにあるというとき、それは一つの目的論的思考である。この「ありふれた思惟形態」が、形而上学とつながっているのだ。ニーチェはそれを認識における遠近法(パースペクティヴ)の倒錯とよんだが、目的論一般がそこに成り立つのである。
 
 マルクスは、人間の労働について、つぎのようにいっている。

 …われわれの前提する労働は、人間にのみ属するような形の労働である。蜘蛛は織匠の作業に似た作業をするし、蜜蜂は蠟房の構造によってよく多くの人間の大工を顔色なからしめる。だが、元来、最低の大工でも、最良の蜜蜂にまさっているゆえんは、大工のほうは蜜房を、蠟でつくるより前に、頭のなかでつくっていることだ。労働過程のはじめにすでに労働者の頭のなかに、したがってすでに観念的に存在していたものが、労働過程の終りに結果として出てくるのだ。
 労働者は、自然を変形させるだけではない。同時に、自然のうちに自分の目的を実現させるのだ。その目的は彼の知っているものであり、彼の行動を律し、さらに、彼の意識をそれに従わせねばならないものである。しかも意志を従わせるだけで終わるのではない。労働する器官の緊張のほかに、注意力としてあらわれる合目的意志が、労働の全継続期間にわたって必要なのだ。(「資本論」)

 たしかに、マルクスは、人間の生涯がつねに目的的であり、表象によってなされることを強調しているようにみえる。だが、人間がそのような「能力」をもつということは、逆にいえば、蜘蛛や蜜蜂のような能力を欠くということの結果なのだ。《人間が歴史をもつのは、かれらがかれらの生活を生産しなければならないから、しかも一定の様式でそうしなければならないからである。このことはかれらの身体的組織によってあたえられねばならない》(「ドイツ・イデオロギー」)。「表象」や「目的」は、人間にとってアプリオリにあるのではない。それらは、欠如や遅延によって存するのである。(略)

マルクスは、「問題」を自発的にて提起することが根本的には受動的なものであることを強調したのである。《人間は解決可能な問題だけを提起する》。しかし、それは、構造主義者のように、人間がある構造に強いられているということを強調することではない。なぜなら、「構造」とは、家の構造であれ、言語の構造であれ、それ自体目的論的にのみつかまれるものであって、われわれはいまそれを問題にしているからである。そこには微妙なちがいがある。
 
 目的意識性それ自体が、遅延化にもとづく受苦性に発している。人間の「意識」は自発性・主体性としてあるとき、そのことに気づかない。しかし、「意識しないがそう行う」のであり、人間は「考えている」のとはちがったことをやってしまうのだ。革命とは、新しいものを創出することではない。それはそでにおこっている「変化」に追いつくことである。人間は目的的にたちむかうとき、実は「遅れ」を過剰にとりもどそうとしているのである。
 
 しかし、この受苦性を、けっしてキリスト教的な概念ととりちがえてはならない。むしろ、それはギリシャ悲劇的な概念である。「苦」はとりのぞかるべきものでもなければ、原罪でもない。なぜならば、それは、根源的な「偏差」であり「たわむれ」以外の何ものでもないからである。―柄谷行人『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫、一九九〇年、一二三~一三五頁)

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