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Shota Maehara's Blog

Archive for 2011年3月

カール・バルトを読む―キリストという出来事をめぐって

Posted by Shota Maehara : 3月 23, 2011

二〇世紀の最大の問題の一つが、ナチスドイツや日本の軍部によるファシズムであった点に異論はないであろう。近代は、デカルト以来、自己をあらゆる認識・存在の中心に置き、そこから科学を発展させ繁栄を築いてきた。

しかし、そうした理性や科学の時代こそが、ナチスを生んだのである。したがって、ナチスなどの国家に対して啓蒙主義的(=合理主義的)批判は無力であった。なぜなら、遥かにナチスドイツのほうが科学的合理性(優性遺伝子、メディア操作、原子力、ガス室など)を援用して民族を指導したからである。

では、ここにおいて何がこうした歴史の流れを押しとどめる力となりえるのか。その答えはスイスの神学者・カール・バルトにとって、神であるよりもむしろ、イエス・キリストをめぐる出来事であった。

おそらくバルトはこうしたキリストに対する認識をキルケゴールから得たのではないかと考える。それはバルトがやはりキルケゴールの強い影響を受けて、『ローマ書講解』を書き、それは時に「弁証法神学」とも呼ばれもしたからである。

ここでイエス・キリストとは無論、超越者ではない。むしろ、ありふれた隣人である。だが、この無限なる神がまさに地上に有限者として存在し給うたということ。ここにキリスト教の核心であるパラドックス(逆説)が存在するのである。

この他者性をもったイエス・キリストという出来事こそが、歴史に埋没しない特異な力でいまも我々を正しい道に連れ戻そうと呼びかけている。後期の彼の畢生の大作『教会教義学』はこのキリストの出来事を中心にして展開されていくのである。

本書は、こうした二〇世紀最高の神学者カール・バルトの全仕事を俯瞰することができる画期的なコレクションである。訳者である天野有氏に最大級の賛辞を送りつつ、日々紐解かせていただいている。

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他者へ―「見る」哲学と「聞く」神学

Posted by Shota Maehara : 3月 23, 2011

人間は孤独の自我として自己中心的に生きる存在ではない。むしろ人間イエスが隣人であることが、人間の本質を形成するのである。それゆえわれわれは、神との交わり、イエスとの交わりの背後に人間の本質を求むべきではない。すなわち人間はまず独りで存在し、時に神との交わりの中に取り入れられ、また孤独の存在に戻ると考えるべきではない。なぜなら孤独の存在が不変の状態(Zustand)であり、その特殊の様態(あり方)だけが神との交わりによって影響されると考えることは、人間の本質、人間の根本構造そのものを変えるキリストの出来事を理解するのに相応しくない思考形式であるからである。

詳言すると、神と人間との出会いは、神が人間の堅い殻を打ち破るとき、真の意味で生起する。これは、他者に対して自己を開く人間に変えることであり、古来の思考形式の殻を打ち破ることを意味する。古来、哲学は見ることを本質とするが、この場合、人間は自己の中にとどまっているわけである。ところが、他者の言葉に聴従することは、自己の中心を他者に明け渡すことであり、他者の言葉が自己の存在根拠となることである。これがキリストの出来事の本質であることは言うまでもない。反面、見る立場を堅持する傍観者と対象の間には、真の出会いは生起せず、われわれは影の人間、空虚な人間にとどまるのである。

われわれがイエス(隣人)のために生きるということは、閉ざされた心が聖書の言葉によって開かれて、神の言葉がわれわれの心を占領することである。これが神の言葉によって呼び出されることであり、創造の真の意味である。ところがアダムの堕落により、われわれは自閉的な影の人間に転落したのである。神の言葉は、この空虚な人間、非本来的人間を再び真に実在する人間、本来的人間に変え、神との交わりの中に呼び出すのである。そして神によって呼び出される時、われわれは自己を超越し、神の歴史の形成に参与するのであるが、これが正統神学の「生まれ変わること」「新たに生まれること」の核心である。―大島末男『カール・バルト』(清水書院、一八〇~一八一頁)

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バルメン宣言

Posted by Shota Maehara : 3月 17, 2011

ナチズムとそれに迎合する「ドイツ的キリスト者」と戦うため、
ルター派、改革派、合同派が一致して行った信仰告白.。
 主に、20世紀を代表する神学者カール・バルトが起草した。
重要なのは後半部分にある6つのテーゼである。原典つき。

バルメン宣言
 
ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言(バルメン宣言)

1934年5月29-30日、バルメン告白会議の神学的宣言

 ドイツ福音主義教会は、その1933年7月11日の憲法前文に従えぱ、宗教改革から生まれた等しい権利をもって並存している諸告白教会の同盟である。それらの諸教会を結合している神学的前提は1933年7月14日に政府によって承認されたドイツ福音主義教会の憲法第一条および第二条第一項において次のように述べられている。

 第一条ドイツ福音主義教会の侵すべからざる基礎は、聖書においてわれわれ証しせられ宗教改革の信仰告白において新しく示されたイエス・キリストの福音である。教会がその使命のために必要とする一切の権限は、その事実によって規定され、且つ制限されている。

 第二条第一項ドイツ福音主義教会は、諸教会(州教会)に分かたれる。

 ドイツ福音主義教会の告白会議に集ったわれわれルター派教会、改革派教会、合同派教会の代表者、および独立したもろもろの教会会議、諸大会、諸団体の代表者は、われわれがドイツの告白諸教会の同盟としてのドイツ福音主義教会という地盤の上に、共に立っていることを宣言する。その際われわれを結合するものは、一にして聖なる普遍的な使徒的教会のただひとりの主に対する信仰告白である。

 われわれは、この信仰告白の連帯性と同時にドイツ福音主義教会の一致が、極度の危険にさらされているという事実を、ドイツにおける全福音主義教会の前に、公に宣言する。それが脅かされているのは、ドイツ福音主義教会成立の最初の年に次第に明らかとなってきた、ドイツ・キリスト者という有力な教会的党派およびその党派によって支持されている教会当局の指導方式・行動方式による。この脅威というのは、ドイツ福音主義教会を統一している神学的前提が、ドイツ・キリスト者の指導者・代表者によっても、また教会当局によっても、たえず根本的に他のさまざまの前提によって妨害され無効なものにされているという事実である。われわれの間で効力を持っているどの信仰告白に従っても、もしそのような諸前提が通用するならば、教会は教会でなくなる。従ってそのような諸前提が通用するならば、ドイツ福音主義教会もまた、告白教会の同盟として、内的に不可能となるのである。

 われわれは今日、この事柄に関して、ルター派・改革派・合同派各教会の肢々として、共同して語りうるし、また語らねばならない。われわれがそれぞれの異なった信仰告白に対して忠実でありたいと願い、またいつまでも忠実でありたいと願うゆえにこそ、われわれには沈黙が許されない。それは、共通の困窮と試練の一時代の中にあって、われわれは一つの共通の言葉を語らされると信ずるからである。このことが告白教会相互の関係にとって、どのようなことを意味しようとも、われわれはそれを神に委ねる。

 われわれは、教会を荒廃させ、そのことによってドイツ福音主義教会の一致をも破壌する「ドイツ・キリスト者」および今日のドイツ教会当局の誤謬に直面して、次の福音主義的諸真理を告白する。

第1テーゼ

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書14・6)

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネによる福音書10・7、9)

 聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

 教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

第2テーゼ

「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」(コリントの信徒への手紙一1・30)

 イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しについての神の慰めであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼は、われわれの全生活にたいする神の力ある要求でもある。彼によってわれわれは、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝にみちた奉仕へと赴く喜ばしい解放を与えられる。

 われわれがイエス・キリストのものではなく他の主のものであるような、われわれの生の領域があるとか、われわれがイエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

第3テーゼ

「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされています」(エフェソの信徒への手紙4・15、16)

 キリスト教会は、イエス・キリストが御言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今日も働きたもう兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、またその信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただ彼の慰めと指示とによってだけ彼が現われたもうことを期待しつつ生きているということ、生きたいと願っているということを証ししなければならない。

 教会が、その使信やその秩序の形を、教会自身の好むところに任せてよいとか、その時々に支配的な世界観的確信や政治的確信の変化に任せてよいとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。

第4テーゼ

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(マタイによる福音書20・25、26)

 教会にさまざまな職位があるということは、ある人びとが他の人びとを支配する根拠にはならない。それは、教会全体に委ねられ命ぜられた奉仕を行なうための根拠である。

 教会が、このような奉仕を離れて、支配権を与えられた特別の指導者を持ったり、与えられたりすることができるとか、そのようなことをしてもよいとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

第5テーゼ

「神を畏れ、王を敬いなさい」(ペトロの第1の手紙2・17)

 国家は、教会もその中にあるいまだ救われないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量(はかり)に従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、法と平和とのために配慮するという課題を、神の定めによって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神にたいする感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。

 国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。

 教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。

第6テーゼ

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28・20)

「しかし、神の言葉はつながれていません」(テモテへの手紙二2・9)

 その中にこそ教会の自由の基礎があるところの教会への委託は、キリストに代わって、したがってキリスト御自身の御言葉と御業に説教とサクラメントによって奉仕しつつ、神の自由な恵みの使信を、すべての人に伝えるということである。

 教会が、人間的な自立性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめることができるというような誤った教えを、われわれは退ける。

 ドイツ福音主義教会の告白会議は、以上のような諸真理を承認し、以上のような諸誤謬を退けることが、諸教会の同盟としてのドイツ福音主義教会の不可欠の神学的基礎と考えることを宣言する。この告白会議は、その宣言に賛同しうるすべての人々に対して、彼らが教会政治的決断を行う際に、この神学的認識を記憶するように要求する。またかかわりあるすべての人々が、信仰と愛と希望の一致の中へと、帰り来るようにこいねがう。

Verbum Dei manet in aeternum(神の言葉はとこしえに保つ)

<邦訳は信条集(新教出版社)のテキストに若干手を加えた。テーゼ部分は宮田光雄「十字架とハーケンクロイツ」(同)所収の訳文。ただし、引用聖句は新共同訳を基本にドイツ語原文と整合性を持たせた>

 
 
Die Barmer Theologische Erklärung
 
Theologische Erklärung zur gegenwärtigen Lage der Deutschen Evangelischen Kirche

Die theologische Erklärung der Bekenntnissynode von Barmen vom 29. bis 31. Mai 1934.

Die Deutsche Evangelische Kirche ist nach den Eingangsworten ihrer Verfassung vom 11. Juli 1933 ein Bund der aus der Reformation erwachsenen, gleichberechtigt nebeneinanderstehenden Bekenntniskirchen. Die theologische Voraussetzung der Vereinigung dieser Kirchen ist in Art. 1 und Art. 2,1 der von der Reichsregierung am 14. Juli 1933 anerkannten Verfassung der Deutschen Evangelischen Kirche angegeben

Art. 1: Die unantastbare Grundlage der Deutschen Evangelischen Kirche ist das Evangelium von Jesus Christus, wie es uns in der Heiligen Schrift bezeugt und in den Bekenntnissen der Reformation neu ans Licht getreten ist. Hierdurch werden die Vollmachten, deren die Kirche für ihre Sendung bedarf, bestimmt und begrenzt. Art. 2: Die Deutsche Evangelische Kirche gliedert sich in Kirchen (Landeskirchen).

Wir, die zur Bekenntnissynode der Deutschen Evangelischen Kirche vereinigten Vertreter lutherischer, reformierter und unierter Kirchen, freier Synoden, Kirchentage und Gemeindekreise erklären, daß wir gemeinsam auf dem Boden der Deutschen Evangelischen Kirche als eines Bundes der deutschen Bekenntniskirchen stehen. Uns fügt dabei zusammen das Bekenntnis zu dem einen Herrn der einen, heiligen, allgemeinen und apostolischen Kirche.

Wir erklären vor der Öffentlichkeit aller evangelischen Kirchen Deutschlands, daß die Gemeinschaft dieses Bekenntnisses und damit auch die Einheit der Deutschen Evangelischen Kirche aufs schwerste gefährdet ist. Sie ist bedroht durch die in dem ersten Jahr des Bestehens der Deutschen Evangelischen Kirche mehr und mehr sichtbar gewordene Lehr- und Handlungsweise der beherrschenden Kirchenpartei der

Deutschen Christen und des von ihr getragenen Kirchenregimentes. Diese Bedrohung besteht darin, daß die theologische Voraussetzung, in der die Deutsche Evangelische Kirche vereinigt ist, sowohl seitens der Führer und Sprecher der Deutschen Christen als auch seitens des Kirchenregimentes dauernd und grundsätzlich durch fremde Voraussetzungen durchkreuzt und unwirksam gemacht wird. Bei deren Geltung hört die Kirche nach allen bei uns in Kraft stehenden Bekenntnissen auf, Kirche zu sein. Bei deren Geltung wird also auch die Deutsche Evangelische Kirche als Bund der Bekenntniskirchen innerlich unmöglich.

Gemeinsam dürfen und müssen wird als Glieder lutherischer, reformierter und unierter Kirchen heute in dieser Sache reden. Gerade weil wir unseren verschiedenen Bekenntnissen treu sein und bleiben wollen, dürfen wir nicht schweigen, da wir glauben, daß uns in einer Zeit gemeinsamer Not und Anfechtung ein gemeinsames Wort in den Mund gelegt ist. Wir befehlen es Gott, was dies für das Verhältnis der Bekenntniskirchen untereinander bedeuten mag. Wir bekennen uns angesichts der die Kirche verwüstenden und damit auch die Einheit der Deutschen Evangelischen Kirche sprengenden Irrtümer der Deutschen Christen und der gegenwärtigen Reichskirchenregierung zu folgenden evangelischen Wahrheiten:

1. „Ich bin der Weg und die Wahrheit und das Leben; niemand kommt zum Vater denn durch mich.“ (Joh. 14, 6)

„Wahrlich, wahrlich, ich sage euch: Wer nicht zur Tür hineingeht in den Schafstall, sondern steigt anderswo hinein, der ist ein Dieb und ein Mörder. Ich bin die Tür; so jemand durch mich eingeht, der wird selig werden.“ (Joh 10,1.9)

Jesus Christus, wie er uns in der Heiligen Schrift bezeugt wird, ist das eine Wort Gottes, das wir zu hören, dem wir im Leben und im Sterben zu vertrauen und zu gehorchen haben.

Wir verwerfen die falsche Lehre, als könne und müsse die Kirche als Quelle ihrer Verkündigung außer und neben diesem einen Worte Gottes auch noch andere Ereignisse und Mächte, Gestalten und Wahrheiten als Gottes Offenbarung anerkennen.

2. „Jesus Christus ist uns gemacht von Gott zur Weisheit und zur Gerechtigkeit und zur Heiligung und zur Erlösung.“ (1. Kor 1,30)

Wie Jesus Christus Gottes Zuspruch der Vergebung aller unserer Sünden ist, so und mit gleichem Ernst ist er auch Gottes kräftiger Anspruch auf unser ganzes Leben; durch ihn widerfährt uns frohe Befreiung aus den gottlosen Bindungen dieser Welt zu freiem, dankbarem Dienst an seinen Geschöpfen.

Wir verwerfen die falsche Lehre, als gebe es Bereiche unseres Lebens, in denen wir nicht Jesus Christus, sondern anderen Herren zu eigen wären, Bereiche, in denen wir nicht der Rechtfertigung und Heiligung durch ihn bedürften.

3. „Lasset uns aber rechtschaffen sein in der Liebe und wachsen in allen Stücken an dem, der das Haupt ist, Christus, von welchem aus der ganze Leib zusammengefügt ist.“ (Eph 4, l5.16)

Die christliche Kirche ist die Gemeinde von Brüdern, in der Jesus Christus in Wort und Sakrament durch den Heiligen Geist als der Herr gegenwärtig handelt. Sie hat mit ihrem Glauben wie mit ihrem Gehorsam, mit ihrer Botschaft wie mit ihrer Ordnung mitten in der Welt der Sünde als die Kirche der begnadigten Sünder zu bezeugen, daß sie allein sein Eigentum ist, allein von seinem Trost und von seiner Weisung in Erwartung seiner Erscheinung lebt und leben möchte.

Wir verwerfen die falsche Lehre, als dürfe die Kirche die Gestalt ihrer Botschaft und ihrer Ordnung ihrem Belieben oder dem Wechsel der jeweils herrschenden weltanschaulichen und politischen Überzeugungen überlassen.

4. „Ihr wisset, daß die weltlichen Fürsten herrschen, und die Oberherren haben Gewalt. So soll es nicht sein unter euch; sondern so jemand will unter euch gewaltig sein, der sei euer Diener.“ (Mt 20, 25.26)

Die verschiedenen Ämter in der Kirche begründen keine Herrschaft der einen über die anderen, sondern die Ausübung des der ganzen Gemeinde anvertrauten und befohlenen Dienstes.

Wir verwerfen die falsche Lehre, als könne und dürfe sich die Kirche abseits von diesem Dienst besondere, mit Herrschaftsbefugnissen ausgestattete Führer geben und geben lassen.

5. „Fürchtet Gott, ehret den König!“ (1. Petr 2,17)

Die Schrift sagt uns, daß der Staat nach göttlicher Anordnung die Aufgabe hat in der noch nicht erlösten Welt, in der auch die Kirche steht, nach dem Maß menschlicher Einsicht und menschlichen Vermögens unter Androhung und Ausübung von Gewalt für Recht und Frieden zu sorgen. Die Kirche erkennt in Dank und Ehrfurcht gegen Gott die Wohltat dieser seiner Anordnung an. Sie erinnert an Gottes Reich, an Gottes Gebot und Gerechtigkeit und damit an die Verantwortung der Regierenden und Regierten. Sie vertraut und gehorcht der Kraft des Wortes, durch das Gott alle Dinge trägt.

Wir verwerfen die falsche Lehre, als solle und könne der Staat über seinen besonderen Auftrag hinaus die einzige und totale Ordnung menschlichen Lebens werden und also auch die Bestimmung der Kirche erfüllen. Wir verwerfen die falsche Lehre, als solle und könne sich die Kirche über ihren besonderen Auftrag hinaus staatliche Art, staatliche Aufgaben und staatliche Würde aneignen und damit selbst zu einem Organ des Staates werden.

6. „Siehe, ich bin bei euch alle Tage bis an der Welt Ende.“ (Mt 28,20)

„Gottes Wort ist nicht gebunden.“ (2. Tim 2,9)

Der Auftrag der Kirche, in welchem ihre Freiheit gründet, besteht darin, an Christi Statt und also im Dienst seines eigenen Wortes und Werkes durch Predigt und Sakrament die Botschaft von der freien Gnade Gottes auszurichten an alles Volk.

Wir verwerfen die falsche Lehre, als könne die Kirche in menschlicher Selbstherrlichkeit das Wort und Werk des Herrn in den Dienst irgendwelcher eigenmächtig gewählter Wünsche, Zwecke und Pläne stellen.

Die Bekenntnissynode der Deutschen Evangelischen Kirche erklärt, daß sie in der Anerkennung dieser Wahrheiten und in der Verwerfung dieser Irrtümer die unumgängliche theologische Grundlage der Deutschen Evangelischen Kirche als eines Bundes der Bekenntniskirchen sieht. Sie fordert alle, die sich ihrer Erklärung anschließen können, auf, bei ihren kirchenpolitischen Entscheidungen dieser theologischen Erkenntnisse eingedenk zu sein. Sie bittet alle, die es angeht, in die Einheit des Glaubens, der Liebe und der Hoffnung zurückzukehren.

Verbum Dei manet in aeternum

http://homepage2.nifty.com/hokkochurch/barmen.htm

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日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰

Posted by Shota Maehara : 3月 17, 2011

日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰
<日本基督教団は1941年、宗教を戦争に奉仕させようとする国家の政策によって、当時のプロテスタント教会が合同して成立した。以下の書翰は1944年、日本軍が侵略した地域のキリスト教会に向かって、天皇崇拝と、日本が進める戦争への積極的協力を呼びかけるために作成された。「全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なる我が日本の国体であると言ふ事実を、信仰によって判断しつつ我らに信頼せられんことを」と放言し、当時の教団が陥った異端状態と罪責をあらわに示している。教団は戦後、この手紙を取り消す意図を込めて「戦争責任告白」を公にした>

日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰
序文

 基督教は福音である。即ち「大なる歓喜の音信」である。故に四福音書あり、福音を伝へるために使はされた徒の旅行記あり、使徒パウロの著作は何れも教会或は同信同志の人々に贈った書翰である。福音書に始まった聖書はアジヤの七教会に贈ったヨハネの書翰で終ってゐる。基督教は実に福音である。

 今茲に日本基督教団が東亜共栄圏内の諸教会及び同信同志の兄弟達に書翰を贈る所以は、基督教が「大なる歓喜の音信」であると云ふ信仰に基く為にして之を現代の使徒的書翰と称するも言ひ過ぎでなからう。

 日本基督教団は東亜共栄圏内の基督教会に対して常に関心を有し其の発達のため熱祷して已まない。これが為め教団は共働者を遣し、又必要なるものを送らうと計画してゐるが今日の事情に於ては其の志望の如く実行できないのを甚だ遺憾としてゐる。已むを得ず、先づ教団を代表する公同的使徒的書翰を送って挨拶し、我等の平素の志を略述する事にした。其の詳しき内容に就いては受信者が本書翰を詳かに通読せられん事を望む。

 日本基督教団の現代的使徒書翰は、本書が第一信であつて、続いて屡々書翰を贈る計画である。望むらくは諸君が此等の書翰を隔意なく迎へて、これを文字通りに解釈して、我等の志を理解し、信望愛を同じうせられん事である。少数ではあるが日本基督教団より特派した伝道者あり、書翰中に若し諸君に理解し難き所あらばこれを詳かに懇ろに説明するであらう。彼等も亦、使徒パウロの記せし如く「基督の書」であるから諸君は隔意なく彼等と親交せられん事を併せ望まざるを得ない。

 予は教団の統理者として種々記したい事多いが、今は書翰を紹介する文だけに留め、後便に譲る事とした。書翰を読んだ人々にして其の腹蔵なき応答を寄せられるならば、我等の喜悦これより大なるは無い。

 最後に予は二千年来伝へ来つた使徒的挨拶を以て此の序文を終らう。「願はくは、主イエス・キリストの恩恵、神の愛、聖霊の交感、汝ら凡ての者と偕にあらん事を」

昭和十九年

千九百四十四年復活節の日

日本基督教団

教団統理者富田満

第一章

 我ら、日本に在りてキリスト・イエスとその福音とを告白し、その恩寵の佑助によりて一国一教会となれる日本基督教団及び其に属するもろもろの肢は、東亜共栄圏内に在る主にありて忠信なる基督者たちに心よりの挨拶を送る。願はくは我らの主イエス・キリストの恩寵と平安、常に諸君の上にあらんことを。

 主に在りて忠信なる兄弟たちよ。我らは未だ面識の機会なく、互に伝統と生活の慣習とを異にしてゐるが、かかる諸々の相違にかかはらず我らを一つに結ぶ鞏固なる紐帯が二つあると思ふ。其の一つは、我らの共同の敵に対する共同の戦ひといふ運命的課題である。彼ら敵国人は白人種の優越性といふ聖書に悖る思想の上に立って、諸君の国と土地との収益を壟断し、口に人道と平和とを唱へつつ我らを人種的差別待遇の下に繋ぎ留め、東亜の諸民族に向って王者の如く君臨せんと欲し、皮膚の色の差別を以て人間そのものの相違ででもあるかのやうに妄断し、かくして我ら東洋人を自己の安逸と享楽とのために頤使し奴隷化せんと欲し、遂に東亜をして自国の領土的延長たらしめやうとする非望を敢てした。確かに彼らは我らよりも一日早く主イエスの福音を知ったのであり、我らも初め信仰に召されたのは彼らの福音宣教に負ふものであることを率直に認むるに吝かではないが、その彼らが今日飽くなき貪りと支配慾との誘惑に打ち負かされ、聖なる福音から脱落してさまざまの誇と驕慢とに陥り、如何に貪婪と偽善と不信仰とを作り出したかを眼のあたり見て全く戦慄を覚えざるを得ない。かくの如き形態を採るに至つた敵米英の基督教は、自己を絶対者の如く偶像化し、嘗て使徒がまともに其の攻撃に終始したユダヤ的基督者と同一の型に嵌ったのである。「汝ユダヤ人と称へられ、盲人の手引、暗黒にをる者の光明、愚なる者の守役、幼児の教師なりと自ら信ずる者よ。何ゆゑ人を教へて己を教へぬか。竊む勿れと宣べて自ら竊むか。姦淫する勿れと言ひて姦淫するか偶像を悪みて宮の物を奪ふか」(ロマ書二・一七-二二)。これは悉く先進基督教国を以て自認する彼らの所業に当嵌ってはゐないであらうか。彼らがもしこのやうな自己の罪に目覚め、悔改をなし、一日後れて信じた我らと同一線上に立って始めて信ずる者の如く日毎に主を告白する純真な信仰を有ってゐたならば、かかる反聖書的な東亜政策を採るに到らなかったであらう。彼らが若し主への真の従順と奉仕とを日毎に決断し実行してゐたなら、自国の内外の政治軍事経済文化の凡ゆる領域に亘ってあのやうな敗退と混乱とを演じないですんだであらう。

 我らは聖書に基く洞察と認識とによって彼らの現状を憐むと共に、この不正不義を許すべからざるものとして憎まずにはゐられない。

 日本はこの敵性国家群の不正義に対して凡ゆる平和的手段に出でたるに拘らず、彼らの傲慢は遂に之を容れず、日本は自存自衛の必要上敢然と干戈を取って立った。而も緒戦以来皇軍によつて挙げられた諸戦果とその跡に打樹てられた諸事実とは、我が日本の聖戦の意義を愈々明確に表示しつつあるではないか。彼らの不正と不義から東亜諸民族が解放されることは神の聖なる意志である。「神は高ぶる者を拒ぎ、謙だる者に恩恵を与へ給ふ」(ヤコブ書四・六)。それでは米英の高ぶりは何によつて排撃されるであらうか。皇軍の将兵によつてであり、地上の正義のために立ち上った東亜諸民族の手によってである。そして諸君の民族がこの大聖戦に我ら日本と共に同甘共苦、所期の目的を達成するまで戦ひ抜かうと深く決意し、欣然参加協力せられたことによって、大東亜の天地には、我ら日本人と共に諸君の、即ち大東亜諸民族の一大解放の戦ひ、サタンの狂暴に対する一大殲滅戦の進軍を告ぐる角笛は高らかに吹き鳴らされたのである。聖にして義なる神よ、願はくは起き給へ! 而して我らの出でゆく途に常に偕に在して、行手を照し助け導き給へ。兄弟たちよ、諸君と我らを結ぶ第一の絆は、我らが相共にこの聖戦に出で征く戦友同志であるといふ深い意識である。

 次に我らを種々の相違にも拘らず一つに結ぶ第二の、而も決定的な絆は、我らが共に主キリストを信じ霊的に彼の所属であるといふことである。彼は我らの生と死における唯一の慰めであり、教会の主であり給ふ。我らはこの天地の主なる神の御言また御子が肉体を取り、我らの如きものの一人として、我らの兄弟として今此処に立ち給ふことによつて、何等の代償無くして、唯御恩寵に由り主イエスの兄弟としての破格の待遇に浴し、一切の罪を赦され、罪と死との彼岸にある永遠の生命の約束に与る神の子たちの新しい身分に移されたのである。信仰者の生にとってこの主を認識し、この主に奉仕すること以上に貴重なる財産は何一つない。兄弟たちよ、我らは、この信仰の認識と奉仕とを、この感謝と讃美とを、我らより奪ひ去りうるものは何一つとしてないという確信に於て一致してゐる。この主より賜はりたる貴き福音の富を、我らの同胞と隣人に持ち運ぶ愛の委託を我らより奪ひうるものは何一つとしてないのである。「而して御国のこの喜びの使信はもろもろの民族への証言として全世界に亙って宣伝へられん」(マタイ伝二四・一四)

 我らがかかる約束を賜はったといふことは、福音宣教の唯一の命令に縛り付けられたといふことに他ならない。我らは罪人たる我らの業や言に頼って、どれだけこの約束を実証し、どれだけこの命令を果しうるであらうかを知らない。

 しかし我々の罪ある被造的な、相対的な決意と努力と業とを通じて、真にこの命令を成遂げ給ふ者は、我らではなく命令者イエス・キリスト御自身であり、ただ彼のみであるといふ確信において一致してゐると信ずる。またこの主イエスは、神を愛するとともに「己の如く汝の隣を愛すべし」と命じ給ふた。我らが主の福音を聞いたといふことは、必然的にこの主の誡命に聴き徒ったといふことでなければならぬ。大東亜共栄圏の理想は、この主の隣人愛の誡を信仰に於て聞き、服従の行為によつて実践躬行することを我らに迫る。我らはこの主の誡命の下に立ち、凡ゆる障害を排して一直線に前進すべきである。この必然の道において我らは全き一致を示し得るではないか。「汝ら召されたる召に適ひて歩み、平和の繋(靭帯)のうちに勉めて御霊の賜ふ一致を守れ」(エペソ書四・一、三)。兄弟たちよ、我らは牛が力を合せて黎を牽くやうに、この強靭なる紐を牽いてゆかなくてはならぬ。これが諸君と我らとを結ぶ第二の決定的な索縄である。

第二章

 愛する兄弟たちよ。

 我らは諸君に期待し、諸君を信頼してゐる。諸君は、「凡そ真なること、凡そ尊ぶべきこと、凡そ正しきこと、凡そ潔よきこと、凡そ愛すべきこと、凡そ令聞あること、如何なる徳、いかなる誉にても汝らこれを念ひ」(ピリピ書四・八)。これを認むるに吝かでないであらうことを。この大東亜戦争遂行にあたって、我が日本と日本国民とが如何なる高遠の理想と抱負とを懐いてゐるかは、次第に諸君の了解されつつある所であらう。我らも亦政治経済文化の各部面で諸君と提携するために腐心し挺身しつつある我が朝野の、軍官民の先達たちの報告によつて、諸君の中に我らの学ぶべき「凡そ愛すべきこと、凡そ令聞あるべきこと」のあるを聞き知り、尊敬と共感と親愛の情を覚え、諸君に強く牽かるる思ひがする。諸君が地域の如何を問はず、文化の傾向を論ぜず、よきものに共感し、尊きものを尊しとする公明正大の心を有ち、敵性国民の無責任にして放従なる個人主義とは全く類を異にすることを確信する。而も諸君は人間の個性的な面に於てまことに深きものを包蔵し各自の職域にあって飽くまでも自己の深い信念に生き、それと密接に繋ってゐる高い公の犠牲的精神を備へてゐらるる様子を聞くに及んで、早く諸君の風ぼうに接したいと願ふ念ひや切である。神若し許し給はばいつか我らは諸君の許に往き、諸君も我らの許に来って、互に個人的に親しく相交り、顔と顔とを合せて相識り、かたく手を握り合ふことも許されるであらう。しかし我らも諸君自身を相識ること浅い如く、諸君も亦我が日本の真の姿を識ることに於て未だ不十分であるかも知れない。乞ふ、我らが今少しく「大胆に誇りて言ふ」(コリント後書二・一七)ことを許せ。

 抑々我が日本帝国は、万世一系の、天皇これを統治し給ひ、国民は皇室を宗家と仰ぎ、天皇は国民を顧み給ふこと親の子におけるが如き慈愛を以てし給ひ、国民は忠孝一本の高遠なる道徳に生き、その国柄を遠き祖先より末々の子孫に伝へつゝある一大家族国家である。我ら国民は、畏くも民を思ひ民安かれと祈り給ふ天皇の御徳に応へ奉り、この大君のために己自身は申すまでもなく親も子も、夫も妻も、家も郷も、悉くを捧げて忠誠の限りを致さんと日夜念願してゐるのである。この事実は諸君が既に大東亜戦争下皇軍将士の世界を驚倒せしむる勇猛果敢な働きをみて、その背後に潜む神秘な力として感付いてゐらるる所であらうが一度でも我国の歴史をひもといた者はその各頁がこの精神に充ち満ちてゐることに驚異せられるに違ひない。

 兄弟たちよ。諸君は使徒が「凡そ真なること、凡そ尊ぶべきこと」と語ってゐるところのものは、単に教会の中なる諸徳について云ってゐるのではなく、教会の外の一般社会の中にある斯くの如きものを、思念せよ、尊敬せよと云ってゐるのである事を十分御承知と思ふ。この美徳を慕ふ感情においても諸君は我らと一つであられるであらう。分裂崩潰の前夜にある個人主義西欧文明が未だ一度も識らなかった「凡そ尊ぶべきもの」が、東洋には残ってゐる。我らはこの東洋的なものが、今後の全世界を導き救ふであらうといふ希望と信念において諸君と一致してゐる。全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なる我が日本の国体であると言ふ事実を、信仰によって判断しつつ我らに信頼せられんことを。

 諸君の既に屡々聞き知ってゐられるやうに、我ら日本人の組先は非常に謙虚に、而も積極的に、心を打ち開いて外来の文化を摂取したのである。中国よりは、君らの優れたる父祖である孔、孟の教を。印度よりは、君たちの聖者釈迦を開祖とする仏教と之と共に印度文明を。而も我らの先組たちは決して当時の先進諸外国の文化に心酔したのではなく、非常に博大な心と謙虚な思ひをもって之を摂取し習得したのみならず、高く強い国体への信念と之に基く自主性に立って、これを我国振りに副ふやうに醇化し日本化して来たのである。かの聖徳太子の準備せられ中大兄皇子の完成し給うた大化の改新は、支那古代の儒教と制度文化が日本化して具現された最初の結実である。次に我が鎌倉時代の日本仏教特に道元の開いた日本禅は、印度の仏教が中国を経て我国の土壌に吸収消化され、之に全く日本的な新生面を開いたもので、この時代以後我が国民精神の基調となり日本武士道の培養の素となったものである。又支那の曇鸞、善導の浄土門信仰は、日本の法然、親鸞によって世界の宗教学者達が驚歎するほどの絶対恩寵宗教の立場に醇化発展を遂げたのである。我が飛鳥天平の文化、平安時代の文芸より、鎌倉時代の武芸、禅学、彫刻にいたるまで、更に室町、安土、桃山時代の豪華なる建築、茶道、絵画、江戸時代の儒学、国学、蘭学より、さては明治維新以後のヨーロッパ文明の摂取醇化にいたるまで、凡て日本人の深い謙虚さと己を失はない高い信念との所産でないものはない。我らの父祖は此等の外国のよきものを虚心怛懐に学ぼうとしたと共に、深い批評精神に基いて之に創意を加へ、日本化し、独特の日本文化を産出し、今日の隆盛をいたしたのである。

 かくの如き歴史の盛観を現出することを得た所以は、日本精神の創造的活動の根柢に儼乎たる尊厳無比の国体が存したるに由る。殊に外来文化の摂取に当って指導者達が常に新文化の先覚者であったことは、日本精神が如何に強靭にして而も柔軟性に富んでゐるかを物語る。まことに霊峰富士に象徴せらるる明るき清き直き心である。

 右の如き大精神は、ただ日本の国土内に留まるにはあまりに崇高にして広大無辺である。今より十余年前に独立し爾来益々発展を遂げつつある満洲帝国といひ、我らと協力して敵米英に宣戦した中華民国といひ、盟邦泰国、過ぐる日独立を祝祭した新生ビルマ国家、最近独立して新政府を組織した我らの兄弟フイリッピン、その他如何なる地域いかなる辺境といへども、恰も太陽が万物を光被化育するやうに、この大精神に照し掩はれてゐないものはなく、相共に深い決意を以て互に扶け、互に尊敬し、互に愛し、正義と共栄との美しい国土を東亜の天地に建設することによって神の国をさながらに地上に出現せしめることは、我ら基督者にしてこの東亜に生を享けし者の衷心の祈念であり、最高の義務であると信ずる。

第三章

 我国の有力な基督者の一人である内村鑑三は、当時欧米文明の滔々たる輸入と憧憬との支配してゐた時代風潮の中にあって「世界は畢竟基督教によりて救はるのである。而かも武士道の上に接木せられたる基督教に由りて救はれるのである」と喝破した。彼は夙に欧米の特に米国の宣教師が成功と称して勢力と利益と快楽とを追求する信仰を非信仰として排斥し、宣教師の一日も早く日本より退散して、日本人の手による日本国自生の基督教の必要を叫んだ先覚者である。

 彼の予言はまた諸君にも当嵌るところであり、心ある士が既に考へられてゐるやうに、大東亜には大東亜の伝統と歴史と民族性とに即した「大東亜の基督教」が樹立さるべきである。我らは今信仰における喜びと感謝と誇りとをもって、日本には日本の社会と伝統と民族性とに基いた独特の日本の基督教会が建設されるに至った、而もそれが愈々確立しつつあるといふ事実を報じたいのである。今その日本基督教確立の歴史的沿革と独自固有の性格とを簡略に述べたいと思ふ。

 日本に基督教が渡来したのは、遠く天文十八年(一五四九)にフランシス・ザヴイエルが最初の宣教師として来朝したことに遡る。しかしこれはロマ・カトリック教会の基督教であつて、プロテスタント教会の伝道は明治維新以後近代日本国家が世界に向って開国したのちのことである。当時武士の子弟にして青雲の志を抱く前途有為の青年達が、宣教師の開きし聖書学校に最初は英語を学ばうとして集い来ったが、実に測りがたき神の恩恵によって彼らの中の或る人々に御言の種が植えつけられることとなった。澤山保羅、新島裏、本多庸一、植村正久、海老名弾正、小崎弘道等みな純然たる日本武士が、此の教を聴くに及んでその中に日本武士道に通ずる深い奥儀の秘められてあるを悟り、啻に一人の基督教信徒たりしのみならず、進んでイエスの命令「汝は往きて宣伝へよ」に全心全霊を以て従ひ、パウロの如く「然れど母の胎を出でしより我を選び別ち、その恩恵をもて召し給へる者」の声を聴き、「御子を我が内に顕して其の福音を異邦人に宣伝へしむるを可しとし給へる時」といふ信仰と自覚との下に、御言をこの国土と同胞との間に持ち運ばうと深く決意した。彼らは走った。併し彼らと共に御言が。主御自身が走り給うた。彼らは倒れもした。併し主は彼らと共に倒れ給はぬ。福音の宣教は未だ数少き幼い教会によつて大胆に行はれた。この様子を看て宣教師たちは驚いた。そして心ある者は秘かに考へたと云ふ。「日本人は変つてゐる。日本人の伝道は日本人の手に委ねるべきである」と。かくして日本における『使徒行伝』は彼ら初代伝道者先覚者たちによって綴られていった。或時は同胞の無理解と侮蔑と嘲笑を買ったが此やうな状況下に次第に信ずる者の数増し加へられ、日本の基督教会は生ひ立っていった。主イエスは彼らの真実な活動によってこの国に益々偉大となり、彼らの弱きときに彼等の中に神の力をもって強く存した。ことに基督教は日本武士道に接樹され、儒教と仏教とによって最善の地ならしをされた日本精神の土壌に根を下し花を開き結実していったのである。

 初代先覚者によって薫陶された第二、第三の後継者たちも大君に捧ぐる清明心と隣人を敬愛する情誼と千万人といへども我往かんといふ勇気とを以て地上的一切の栄達を擲ち、キリストに把へられつつ後のものを忘れ前方の目標を追ひ求めていった。そして個人主義・自然主義・杜会主義・無政府主義・共産主義などの諸思想が猛り狂ひ、怒涛の如く押寄せて来る大正時代より昭和の初期にかけて、能く之に戦を挑み、キリストの真理を護り、肇国の大義に生き抜いたのである。これら日本基督教の指導者たちを偲ぶにつけても、我国体の本義と日本精紳の美しくして厳しいものが遺憾なく発揚せられたる事実を想起し感慨無量である。

 而して遂に名実とも日本の基督教会を樹立するの日は来た、我が皇紀二千六百年の祝典の盛儀を前にして我ら日本の基督教諸教会諸教派は東都の一角に集ひ、神と国との前にこれら諸教派の在来の博統、慣習、機構、教理の一切の差別を払拭し、全く外国宣教師たちの精神的・物理的援助と羈絆から脱却、独立し、諸教派を打つて一丸とする一国一教会となりて、世界教会史上先例と類例を見ざる驚異すべき事実が出来したのである。これはただ神の恵みの佑助にのみよる我らの久しき祈の聴許であると共に、我が国体の尊厳無比なる基礎に立ち、天業翼賛の皇道倫理を身に体したる日本人基督者にして始めて能く為し得たところである。

 かかる経過を経て成立したものが、ここに諸君に呼びかけ語ってゐる「日本基督教団」である。その後教団統理者は、畏くも宮中に参内、賜謁の恩典に浴するといふ破格の光栄に与り、教団の一同は大御心の有難さに感泣し、一意宗教報国の熱意に燃え、大御心の万分の一にも応へ奉らうと深く決意したのである。

 本年四月には在来の諸学校が教団立神学校として統一され、教団の制度組織も形式内容も日々に整備せられ、全一体たる教会の実を益々具現しつゝある。之を国史に徴するも一大盛事と謂ふべく、之を古より闘争に終始した西欧の教会史に徴するも、寔に主の日の予兆の大なる標識といふべきであらう。「遂に一つの群一人の牧者となるべし」(ヨハネ伝一〇・一六)。

第四章.

 我らの敬愛する兄弟たちよ。

 我らは諸君に我らの信仰を告白し我らの衷情を披瀝したこの長い書翰を結ぶ前に今少しく熟慮して頂きたいことがある。使徒パウロがピリピの教会に勧めてゐるやうに、我らはキリストの慰めによって呼びかけられてゐる者として同じ愛と同じ思念とを懐き一つとならなければならない。我らは敵性国民らの基督教にのみならず、我ら自らの中にも、自己に立ち、己を高しとし、他を己に優れりとなし得ぬ罪が「唯一つの事」(ピリピ書二・二)を念はうと欲せざる人間固有の分裂的遠心作用が働いてゐることを人間存在の秘奥の底に認めざるを得ない。キリストはかかる我らに代って我らの成し得ず又成さうと欲しない所を成し達げ給うた。即ち彼は神の子であり神と同等の者であり給うたが、この彼の本来固有の所有をさへ我ら人間の如く固執することを事とし給はず、却て己を空虚にし、己の神的本質とは全く異質の人間的本性を身に纏ひ、人と成り給ひ、それのみならず更に進んで我らのために十字架上に苦しみ、死し、この彼の途を地の底なきところにまで進み給うた。而して父なる神の意志に我らに代って完全に従ひ給うた。ここに神の人間に向ってなし給うた宥和と啓示との行動は、隠されつつしかも現実に起つた。このゆゑに神は彼を死の床より起し給うた。死人の中より甦へらしめ給うた。さうして彼の死人の復活を我らの救ひ、助け、力として栄光の中に証示し給うたのである。まことにイエスは教会と共に全世界に父を示した予言者であり、教会と共に全世界に代わって父の許に執成をなし給うた祭司であり、全教会の主にて在し給ふ。

 兄弟たちよ。我々はこのキリストを証しする証人であり、彼の体であるといふことを銘記しようではないか。彼よりこの宥和を宣伝へる職務を賜はってゐない者は彼の恩寵を受けてゐるとはいへない。彼なしには失はれてをり彼に於てのみ救の約束をもってゐる全世界の、被造物の嘆きを聞かないでは、我らは教会の主の御声を聞いてゐるのではない。我ら大東亜の基督者が同胞諸民族の間でこの主の光を反射してから輝いてゐなければ、光を有ってゐるのではない。ナザレのイエスの使信と犠牲の死と権能の証示とこそ、我らの慰めである。ただに我ら基督者のみならず。我らの属する大東亜諸民族の慰めである。彼の中に我らの途の終があると共に凡ての人の一切の途の終がある。彼の中に我らの途の始があると共に我らの同胞凡ての生くる途の真の発端がある。この事こそ我らの希望である。啻に我ら基督者のみならず、東亜諸民族の希望である。繰返して云ふ。かのイスラエル民族によって捨てられ、天地の主なる神によって栄光の中に証示され給へる者、彼が我ら教会とその肢のみならず全世界の慰めである。我らが様々の運命と謎と苦難と死との中に存在しつつ而もそこで生命への信頼を有ち得る基礎は、イエス・キリストの栄光の日に於て天地の更新に於て顕示せられるものに外ならぬ。これが我らの希望である。

 兄弟たちよ、我らはこの慰とこの希望とを一つにするがゆゑに、同じ愛、同じ思念の中に一つとならなければならぬ。隣人愛の高き誠命の中にあの福音を聞き信じつつ大東亜共栄圏の建設といふ地上に於ける次の目標に全人を挙げ全力を尽さなければならぬ。我らはこの信仰とこの希望とこの愛とを一つにする者共であるから、同じ念ひ、共同の戦友意識、鞏固なる精神的靭帯に一つに結び合はされて、不義を挫き、正義と愛の共栄圏を樹立するためにこの難字を最後まで戦ひぬかなければならぬ。我らはこのことを諸君に語る前に自分自らに語ってゐる。我らの盟友にして戦友よ! 「汝らキリスト・イエスのよき兵卒として我らと共に苦難を忍べ」(テモテ後書二・三)。

 我らは祈る。キリストの恩恵、父なる神の愛、聖霊の交際、我らがその実現の一日も早からんことを望みて止まざる大東亜共栄圏の凡ての兄弟姉妹の上にあらんことを、アアメン。

http://homepage2.nifty.com/hokkochurch/barmen.htm

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友人への手紙―新たな都市共同体のために

Posted by Shota Maehara : 3月 15, 2011

私たち日本人が、次の時代になすべきことは私には唯一つであると思われます。それはすなわち、民間起業家やNGOやNPOをはじめとする市民によるアソシエーションに依って都市に共同体を築き、その上で新しい民主主義社会を再建することです。

もちろんこれは以前からの私の考えでもあったわけですが、同時になぜこの動きが日本に置いて遅々として進まないのかという問題に対して疑問をもっていました。理由はいくつか考えられますが、核心をいうならば日本人のエートスの欠如です。たとえ制度ができてもそれに向かう情熱(エネルギー)をもった人間がいなくてはなりません。私は欧米はかなりのところキリスト教的な隣人愛が民主主義を支えていると見ています(無論それだけではありませんが)。

しかし、今回の東北や東日本を襲った地震は図らずも日本人にその情熱を与えました。今日本人は皆何かをしなければいけないという思いに駆られ、個人という殻を脱して、ともに協力し、公共善とも呼べる全体の幸せのために動いています。かなり楽観的な見方かもしれませんが、私はここに希望を見ます。そして、我々が次になすべきことは、その力をどこに振り向けるべきかを考える事です。新しい社会のヴィジョンを描くことは、我々ものを考える人間の最大の務めです。

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聖書朗読 (詩篇19篇/psalm19)

Posted by Shota Maehara : 3月 15, 2011

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聖書朗読 (ヨハネによる福音書 第1章)

Posted by Shota Maehara : 3月 15, 2011

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わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください

Posted by Shota Maehara : 3月 9, 2011

…それだから、生は危険である。しかも、この危険の最も大いなるものは、いつでも、ひそかに、知らず知らずのうちに起こるので、神はその御言(みことば)によって、この危険を知るように教え給う。神は、このことをよくご存じであるから、エペソ人の手紙は、信仰とは武装することだと言い、弟子の生活は兵士の生活であると言うのである(エペソ六・一〇~一七)。その生活は、死に至らせる危険とその迫撃との戦いである。

 それだから、イエスもまた、われわれに平和を与えず、むしろ剣を与え給う(マタイ一〇・三四)。だから、イエスは、ほゆる狼の中に羊を送り出すように、われわれを遣わし給う(マタイ一〇・一六)。

 まさにこのことをよく知って、アルブレヒト・デューラーは、「騎士と死と悪魔」というあの有名な版画をつくったのである。その絵には、ひきがえるも、いもりも、われわれを下に引きずり落とそうとする下劣な衝迫力や本能を表したものから、われわれに不安を注ぎ込み、その物凄い恐怖によって信仰を根こそぎにしようとする死者の幽霊も、さらにまた、その背景には、楽しい家庭を思わせる城、だから「財産と栄誉、子と妻」、その騎士はしかしそこを通り過ぎてゆかねばならないあの愛するもの、親しいもの、いとしいものが、みなそこにいる城に至るまで、われわれを試みる諸力がすべて描かれている。どうして、この愛する者、いとしい者が、試みる者であるのか。この愛する者もまた、戦いの命ぜられているこの時に、大きな危険となるからである。戦いの命ぜられているこの時に、彼を平和に誘い、休息と喜悦にいざなう―そうしていてはならないのに―ことがないとも限らないとすれば、この愛する者もまた、大きな危険であるからである。―ティーリケ『主の祈り』(新教新書)

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