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Shota Maehara's Blog

Archive for 2009年11月

神の愛に応え得る人間はいるか?―アガペーとエロース

Posted by Shota Maehara : 11月 23, 2009

“神の愛に応え得る人間はおりますか?どういう人間が神を愛したというのでしょうか?(答)かかる人間は存在しない―というのがキリスト教の教えです。私もそれに同意します。アガペーは神のみのもの、人間の持つものはエロース(形而上学の高い意味の)である―との、ニイグレンの研究や、波多野先生の「宗教哲学」第四章二節のエロース論参照。(アガペーは「他者規定」「他者実現」を原理とする)三十九、四十、「時と永遠」第七章一節、エロースとアガペーお気分の良いときにお読み下さい。

つまり、神は我々の外にあり、我々を包摂するものであるのですから、簡単に言えば提灯に釣鐘とつりがね―以上の絶対的な意味での比較を絶しています。つまり、恐ろしい重荷でもありますが、神は人間を愛するが、その愛に応え得る人間は存在しない―のです。ですから、「どういう人間が…」の質問は意味のないことです。

波多野先生の三部作を綾ちゃんに差し上げるについて、「時と永遠」の扉に次の言葉を私は書きたく思っていました。―《イエスこの世を去りて父に往くべき己が時の来れるを知り世に在る己の者を愛して極みまでこれを愛し給えり。(ヨハネ伝十三章一)の「世に在る…」以下です。「極みまで之を愛し給えり」この言葉を、人間同士の愛にも使える人ははたしてあり得るでしょうか?”-三浦綾子『生命に刻まれし愛のかたみ』(新潮文庫、六〇~六一頁)

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根源とは目標である―カール・クラウス『詩となったことば』

Posted by Shota Maehara : 11月 15, 2009

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“新しい天使(アンゲルス・ノーヴス)と題されたクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見つめている何かから、今まさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。…私たちの目には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつ、破局(カタストロフ)だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へと引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。”―ヴァルター・ベンヤミン<歴史の概念について>(浅井健一郎・訳)

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アウシュビッツ以後詩を書くことは野蛮である―アドルノ 『プリズメン』

Posted by Shota Maehara : 11月 15, 2009

……唯物論的に見通しの利く文化は、唯物論的により率直になったのではなく、単に低級になったにすぎない。この文化は、おのれ自身が特殊性になるのにともなって、それがかつて他の特殊性と対立した際もっていた真理の塩をも失った。この文化にその責任を問うたところで、否定されるだけで、単に文化的もったいぶりが確認されるにすぎない。しかし今日では、すべての文化的伝統が、中性化され、しつらえられた文化として、なきに等しいものになっている。ロシア人たちが自分たちはその遺産を相続したと殊勝げに喧伝しているその遺産も、取り返しのつかない過程を通じて、その大半がなくてもいいもの、不用なもの、屑となった。すると次に、文化をこういう屑として扱う大衆文化の荒稼ぎ屋たちが薄笑いしながらそれを私的できることになる。社会がより全体的になれば、それに応じて精神も物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる。宿命に関する最低の意識でさえ、悪くすると無駄話に堕するおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語り出す認識を浸食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。-テオドール・W・アドルノ(渡辺祐邦・三原弟平訳)「文化批判と社会」、『プリズメン』(ちくま学芸文庫、1996年)。

「根源とは目標である」という保守的に聞こえる命題の中には、「根源の概念は、その静的な在りもしない姿を捨てるべきだ」という考えすらも言い表されている。それは「目標は根源へと還ることである。あるいは<善き自然>という幻想に戻ることである」と言っているのではない。そうではなく、「根源はただ目標に対してのみ与えられる、それは目標から始めて構成される」と言っているのである。この束の間の人生を除いてどこにも根源などありはしない。―アドルノ 『否定弁証法』(作品社、一九九六年)

永遠につづく苦悩は、拷問にあっている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には自己を主張する権利を持っている。その点では、「アウシュビッツのあとではもはや詩は書けない」というのは、誤りかもしれない。だが、この問題と較べて文化的度合いは低いかもしれないが、けっして誤った問題でないのは、アウシュビッツのあとではまだ生きることができるかという問題である。偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されていてもおかしくなかった者は、生きていてよいのかという問題である。彼が生き続けていくためには、冷酷さを必要とする。この冷酷さこそは市民的主観性の根本原理、それがなければアウシュビッツそのものも可能ではなかった市民的主観性の根本原理なのである。それは殺戮を免れた者につきまとう激烈な罪科である。その罪科の報いとして彼は悪夢に襲われる。自分はもはや生きているのではなく、一九四四年にガス室で殺されているのではないか、現在の生活全体は単に想像のなかで営まれているのではないか、つまり二十年前に虐殺された人間の狂った望みから流出した幻想ではないのかという悪夢である。―アドルノ 『否定弁証法』(作品社、四四〇~四一頁)

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カール・バルトに関するノート―アガペー(神の愛)とエロース(自己愛)

Posted by Shota Maehara : 11月 8, 2009

BarthKarl1聖霊の働きによって固有の存在様態(Seinsweise)は、我と汝の交わりである。したがって聖霊の視座から、キリスト教の主題である愛について論ずることが可能になる。愛は自己を否定して他者のために生きることであるが、これがアガペーであり、自己の主張を貫くエロースとは異なる。しかし、アガぺーもエロースも、人間にとって生得の性質ではなく、人間に対して出来事として生起する。

換言すると、アガペーは神の像に相応しい人間のあり方として生起するのに対して、エロースは神の像に逆らった人間のあり方として生起する。第八章「神の選び」の中で言及したように、人間の本来的あり方は交わりと和解であり、孤独と滅びは人間の非本来的あり方であるが、この二つのあり方がアガペーとエロースに対応する。エロースは、神と隣人に対して自己を閉じている人間のあり方である。そして孤立した人間にとっては、愛はエロースであり、この愛の主体と客体は同一の自我である。したがって自閉的な人間にとっては、神も自閉的な存在と映る。その結果、エロースのあり方をする人間は自己中心的な生き方をし、神も自分とは関係のない空虚な存在と考える。しかし神は実在している。つまりキリストの愛に応答しない孤独の人間に対しては、神は自己を隠している事実に、われわれが気づかないだけのことなのである。

さてアガペーは、自己を他者へ与えることであるが、他者の中に自己を失うことではない。なぜならば、他者の中に自己を失うならば、主体と客体は再び同一となり、エロースのあり方に逆戻りするからである。真の意味で自己を他者に与えることは、脱自的に生きることであり、隣人との交わりの中に脱自的に生きる人間の存在根拠は三位一体の神の交わりである。そして人間のあり方が神のあり方を反映し、神の像(姿)を実現するまでに人間を導くのは聖霊なる神である。聖霊は、自発的な愛の行為へとわれわれを解放し、神と人間、人間と人間の交わりを確立する。この愛と、交わりが神の創造と救済の本質であり、愛は過去、現在、将来を結ぶ絆(きずな)なのである。―大島末男 『カール・バルト』(清水書院、212~3頁)

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パウル・ツェランに関するノート―「投壜通信」としての詩

Posted by Shota Maehara : 11月 4, 2009

celan-paul-dt-literaturarchiv-marbach-paris-ca-1960詩は、言葉の一つの現象形態であり、したがってその本質からして対話的である故に、いつかどこかの陸地に、もしかして心の陸地に打ちあげられるかもしれないという、かならずしも希望にみちているとはいえない信念のもとに託された投壜通信といったものなのかもしれません。詩はこうした点でも途上にあります。詩は何かを目指しているのです。―パウル・ツェラン 「ブレーメン文学賞受賞講演」より

マンデリシュタムはそこで詩人とジャーナリストの言葉の違いに言及する。詩人の言葉は誰にも向けられていないのに対し、ジャーナリストのそれはいつも具体的な一定の人々、同時代人や同世代人、隣人に向き合い、また一般社会よりも高いところに立って教え導くというのである。しかし、詩人は卑近な相手は拒むけれども、未知なる人、特定できない遠くの人、後から生まれる読者に賭ける。不可視の、しかしながら存在する対話者を必要とするのである。対話者としては誰もいないけれども誰かいる、という否定と肯定の間に揺れる詩の、浮遊する中間者的あり方をマンデリシュタムは投壜通信のイメージで描き出す。

ひとには誰にも友人がいる。何故詩人は自分にとにかく一番親しい人間である友人を相手として書いてはならないのか。―船員は生きるか死ぬかの時に、自分の名と自分の運命を書いたものを壜に入れて封印し、海中に投げ込む。長い年月がたった後に砂丘を歩いているとき、私はそれを砂の中に見つける。私は手紙を読み、今になって行方不明者の遺志と事件の日時を知る。私にはそうする権利があったのだ。私は他人宛の手紙は開封したことがない。壜の中にあった手紙はその発見者宛だったのである。私は壜を発見した、ということは私が謎の隠れた受取人というわけである。

「僕の才能など取るに足りない、それに僕は有名でもない、/でも僕は生きている―/僕の存在を貴重に思ってくれる/誰かがこの世にいてくれるから。/僕よりはるか未来のひとが僕の詩のなかにそれを/再び見つけ出す、すると僕の魂は―/誰がそれを知りえよう―そのひとの魂と結ばれる。/僕は友人は僕の世代に見つけたが、/読者は未来に見出すだろう。」

バラチンスキーのこの詩を読むと、私はそうした投壜通信を手に入れたような気持ちになる。途方もない原始の力のすべてをそなえた海のはたらきにより、それは私の手に届いたのである。―海がこうして力を貸すことは予定された運命であり、神の摂理がここにはたらいたという感じが発見者の心をとらえる。船員は壜を海中に投げ、バラチンスキーは彼の詩を手放す。両方の出来事にとって表現の動機は二つとも完全に同じで共通する。その手紙は詩と全く同じく、特定の人に向けて出されたものではない。それにもかかわらず両者は受取人をもつ。手紙にとってそれは偶然砂の中に壜を発見する人であり、詩にとっては「未来の読者」である。引用したバラチンスキーの詩句を読んで、例えば思いがけず名を呼ばれたときのように嬉しさと不気味さがまじり合った戦慄が背すじを走らない人がいたら知りたいものだ。―森治 『ツェラーン―人と思想』(清水書院、1996年、157~8頁)

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