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Shota Maehara's Blog

Archive for 2010年11月

我は信ず―使徒信条

Posted by Shota Maehara : 11月 25, 2010

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、

天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、

からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。

アーメン

【ラテン語】

Credo in Deum, Patrem omnipotentem, Creatorem caeli et terrae,

et in Iesum Christum, Filium Eius unicum, Dominum nostrum, qui conceptus est de Spiritu Sancto, natus ex Maria Virgine, passus sub Pontio Pilato, crucifixus, mortuus, et sepultus, descendit ad inferos, tertia die resurrexit a mortuis, ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Patris omnipotentis, inde venturus est iudicare vivos et mortuos.

Credo in Spiritum Sanctum, sanctam Ecclesiam catholicam, sanctorum communionem, remissionem peccatorum, carnis resurrectionem, vitam aeternam.

Amen

– “Symbolum Apostolicum”.

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アルンダティ・ロイが語るインド経済成長の犠牲者たち

Posted by Shota Maehara : 11月 23, 2010

インドの首都ニューデリーから、グローバル・ジャスティスを訴える作家アルンダティ・ロイが発売されたばかりの新作について語ります。『民主主義フィールドノート イナゴの襲来に耳をすまして』は、世界最大の民主主義インドで今なにが起こっているのかを詳細に描いています。それを通してグローバル化の時代の「民主主義」の変容が浮かび上がってきます。

インド政府は、国内のテロリスト過激派を掃討するためと称して中央部から西部にかけての森林地帯に軍隊を派遣しています。「共産党マオ派の武装勢力」が潜んでいるとされる森林地帯は、インドで最も貧しい先住民が住む地域です。マオ派から隔離するために、この人たちは政府の建てたキャンプに強制収容されます。収容所に行かない人々は、自動的にマオ派とみなされ、殺してもよいということになります。

いよいよ「貧困層がテロリストと一緒くたにされる」時代がきたのです。しかも掃討作戦の尖兵となる民兵部隊は、収容所に入れられた先住民を訓練したものなのです。インド政府がここまで強引に先住民を立ち退かせようとする理由は、経済開発にかかわっています。

インドはまた、建国以来カシミール地方の軍事占領を続けています。長期にわたる過酷な占領統治はが「パレスチナと違うのは、まだ住民を爆撃していないことぐらいだ」とロイは言います。殺人や失踪や拷問やレイプが横行し、開発や紛争の影で何百万もの人々が犠牲になっています。それにもかかわらずインドは好調な民主主義国として国際社会にもてはやされます。膨大な中産階級をかかえるインド市場の魅力が、忌まわしい暗部をかきけしてしまうのです。

何百万もの弱者を犠牲にして強権的に進められる経済開発と喜んで手を結ぶ欧米の民主主義諸国。グローバル化の中で民主主義そのものが変容しているのだとロイは言います。(中野)

☆ このインタビューの全訳が、2010年2月8日発売の雑誌『世界』3月号に掲載されます。翻訳にあたったのは、デモクラシー・ナウ!のメンバーです。ぜひ、書店でお手にとってください。

ゲスト
アルンダティ・ロイ(Arundhati Roy)
世界的に知られるインドの作家、グローバル・ジャスティスを求める活動家。デビュー作の小説『小さきものたちの神』で1997年のブッカー賞を受賞し、戦争や気候変動やインドにおける自由市場主義の発展の危険性に警鐘をならす論考を数多く発表している。番組が放送された9月28日に新作Field Notes on Democracy: Listening to Grasshoppers.(『民主主義フィールドノート イナゴの襲来に耳をすまして』)が発売された。

序章部分は、 こちらで読めます→http://www.tomdispatch.com/post/175119/arundhati_roy_is_democracy_melting

字幕翻訳:桜井まり子/校正:大竹秀子
全体監修:中野真紀子・付天斉

おすすめの【動画】→http://dnj.sakura.ne.jp/video/20090928-2

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ユダヤ思想とはなにか―エマニュエル・レヴィナス

Posted by Shota Maehara : 11月 12, 2010

“ユダヤ思想は何に記されているのか?おそらく、あらゆるものの上に。だから、わたしたちはそのすべてを列挙することをしない。しかし、これだけは言える。ユダヤ教の根本的な使信は、すべての経験の意味を人間と人間のあいだの倫理的関係に帰着させることに、つまり、人間の個人的有責性に訴えることに存する、と。というのも、人間はその個人的有責性を通じて、自らを選ばれた者、他のだれによっても代替しえぬ者として覚知し、そうすることによってはじめて人間が人間として遇される人間的社会が実現されるからである。この義なる社会の実現は、事実上、人間が神と交わる準位にまで向上したということを意味している。この社会=交わり(sosiete)の成就こそが人間の至福であり、生きることの意味なのである。だから、「現実的なものの意味は倫理の関数として理解される」ということはただちに「世界は聖なるものである」というに等しいのである。倫理とは神性の光学である。神との関係以上に直截なもの、それ以上に無媒介なものは存在しない。神性は隣人を経由してのみ顕現するからである。神の子の受肉はユダヤ教徒にとって不可能だし、不必要なのである。次の「エレミア書」の言葉がその意を尽くしている。「貧しき者たち、虐げられた者たちのために裁きを下すこと、それがわたしを知ることなのではないか。主はそう言われた」(「エレミア書」二二・16)”―「今日のユダヤ思想」(『困難な自由―ユダヤ教についての試論』、国文社、227頁)

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ルネ・ジラール「欲望の三角形」

Posted by Shota Maehara : 11月 4, 2010

欲望の充足に限界はない

ルネ・ジラールの欲望の三角形ってご存知でしょうか?
主体・他者(主体から見た他者)・対象が存在する状況において、他者が対象を欲望する時、主体もそれを真似て欲望するという説です。このとき、主体が対象を直接欲望することはないと考えられています。他者の欲望を自分の欲望と勘違いして欲望しているので、この主体における欲望は無限な訳であります。

ルネ.ジラールは人間には自発的な欲望がないという。
性欲や食欲というのは要求であるから、食欲ならば何かを食べれば満たされるわけであって、欲望というのは厳密に言えば対象を選択するものである。
ジラールはこの欲望を「媒体」「対象」「主体」というシステムにおいて、これらの関係を「欲望の三角形」という風になづけた。

「媒体」というのは宣伝であり、例えば有名ブランドの服を欲しいと思うのは有名人が着ているからで、この有名人が「媒体」となり、「主体」すなわち消費者である我々に「対象」としてのもの欲することを煽っているという、これが彼の言う「欲望の三角形」である。(以下参照『欲望の現象学』、『暴力と聖なるもの』、関連するものとしてスタンダール『赤と黒』など)

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民主政治の危機の兆候としてのアノミー―トクヴィルとデュルケム

Posted by Shota Maehara : 11月 4, 2010

トクヴィルが述べたように諸階層の平等に特徴づけられた民主主義社会では、誰しもが定まった社会的地位を持たず、能力と努力と機会次第で、出世し、高い名声や社会的地位を占める可能性がある。そのため、人びとの欲望は膨張していくが、一方でその目標達成の手段や機会はなかなか訪れない。こうした民主主義社会の建前と本音の相克は、人びとを憂鬱にさせ、無気力、無関心、無感動、すなわちアパシーを人びとの心に引き起こす。それはデュルケムに依れば「アノミー」という社会現象であり、19世紀に資本主義が発達した民主主義における自殺の大きな原因ともなってきた。

高度経済成長期に、学歴や年功序列という制度、何より経済の好況に支えられて充足されてきた人々の野心や欲望は今日の日本社会において決定的な行き詰まりを見せ始めている。この人びとの憂鬱は、「多数の専制」や「民主的専制」などの社会的にきわめて不安定な要素になりかねない。日本やアメリカで保守派(ナショナリスト、キリスト教右派)が現実的に発言力を持ち始めているのはこのためである。この流れは、今や日米の民主党政権を転覆させかねない動きともなっている。

こうした民主主義の病理は今後も続けて掘り下げて研究されるべきテーマであると私は考えている。私たちに残された選択肢は二つだけなのだ。安易なしかし現実の悲惨に裏付けられた右派の台頭を許すか、それとも民主主義をもっと健全な形で未来に向けて作り替えていくか。私はできれば後者の道を歩みたいと思っている。その際、キーワードとなるのは、宗教である。一見すると日本人は民主主義は宗教と何も関係がないと思われるかもしれない。しかし、民主主義を健全に機能させる上で、個人の精神を支え、ルールある社会秩序を維持していく上で宗教は今も必要不可欠である。逆に言えば、宗教の衰退、商業化、すなわち堕落こそが民主主義の危機の兆候なのである。

アノミー(anomie、anomy)
「法がないこと」を意味するギリシァ語アノモスが語源。デュルケム(Durkheim)は、社会的規律の働きの衰退、崩壊または欠如のために生じた無規制状態という意味でこの語を使い、社会学の主要概念として確立した。かれは当初、この概念を産業社会での道徳的な連帯性を欠いた分業の病理の記述に用いたが、『自殺論』(1897)では、そうした病理的な社会の状態のなかで規範による規制を欠いた欲求が無際限に膨れあがり、その充たされない欲求が人を悩ませてアノミー的自殺に追いやると説いて、社会環境と個人の心理状態とをつなぐ自殺の原因論を展開した。
 その後、この概念はアメリカ社会学に受け継がれ、なかでもマートン(Merton)のアノミー(緊張)理論は大きな影響力をもった。マートンは、「民主的」でしかも階層化された産業社会であるアメリカでは、成功という文化目標とそのために利用可能な手段とが不釣り合いな状態にとりわけ下層階級がおかれ、そうした乖離が種々の逸脱行動の原因となるとした。(略)―『社会学用語辞典』(学文社)

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