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Shota Maehara's Blog

Archive for 2010年2月

精神なき経済人間

Posted by Shota Maehara : 2月 24, 2010

近代の科学技術はまことに超人間的な業績であるが、それだけこれに応じて精神道徳も超人間的発達がなければならぬ。それがまるで反対に堕落しているという不調が現代文明の悲劇である。-シュバイツァー、ノーベル平和賞受賞、ストックホルム記念講演にて

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ルター―信仰義認論に関するノート

Posted by Shota Maehara : 2月 24, 2010

信仰義認ラテン語 Sola fide)はルター神学の中軸をなす概念である。ルターは16世紀初頭当時のカトリック教会の腐敗を、行為義認(善行によって神は人をとする)説に由来するものと考え、これに対して、人は善行ではなく信仰によってのみ義とされるとパウロ書簡によって説いた。ルターの贖宥状批判はこの説に基づいている。

ルターは、アウグスティヌスの恩恵論を信仰義認によって表現される、「教会が立つか、倒れるかの条項」(articulus stantis et cadentis ecclesiae)とみなした。[1]

ルターは自ら翻訳したドイツ語聖書の序文で、行為の伴わない信仰の虚しさを説く『ヤコブの手紙』を批判し、この文書を「藁の手紙」と呼んだこともある。ただしルターはこの記述をのちに削除した。すべてのプロテスタント新約聖書のヤコブ書を聖書正典と認めている。 のちにルターはデジデリウス・エラスムスの『自由意志論』に反駁する書『奴隷意志論』においては、信仰義認に対して、自由意志による善行から救いが得られるというカトリック教会の説を否定する根拠づけとして、人は最初の人アダムの堕罪後、神に向かう自由意志をもたないため、そもそも善行を行うことが出来ないと説いた。

ここにあるのは「信仰」「善行」「義認」をめぐるそれぞれの理解の衝突である。行為と善行を対立させるルターの解釈については、カトリック教会や東方正教会の論者からは、以下のような反論がなされてきた。曰く、善行が単独で救いをもたらすと説いているのではなく、信仰と善行が救いをもたらすのである、真の信仰は主観的な信仰ではなく必ず善行をともなわずにはおかないなどである。一方で、ルターの意思論や行為理解からすれば、真に善行といいうるのは、自分が神の救済を受けたいというようなレベルをすら超えて純粋な愛からなされうる行為のみである。そのような行為は、神の恩寵のうちにのみ可能であろう。そのとき善行は義認の原因ではなく結果としてのみ可能であり、「善行に拠る義認」という事態は存立し得ないということになる。結果としては、善行と信仰の必然的な結びつきをすべての論者は共有しつつ、しかしその結びつきのあり方をめぐって、かみ合わない議論が展開されてきたといえる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E7%BE%A9%E8%AA%8D

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内村鑑三―信仰義認論に関するノート

Posted by Shota Maehara : 2月 24, 2010

内村の聖書研究―<近代人>あるいは<近代文明>への批判

「義人は信仰に由りて生くべし」(ローマ人への手紙第一章第一七節)

「十字架のキリストを仰ぎ見る事に由て義とせられ、復活せるキリストを仰ぎ見る事に由て聖められ、再臨すべき彼を仰ぎ見る事に由て栄化せられる。一として自己の功、行、積善、努力に由て達成せらるるものはない。凡て凡て彼を信ずる信仰に由り、彼の遂げ給いし功に由り、ただ偏(ひと)えに彼を信受し、彼に信頼し、彼を仰ぎ見る事に由りて我らは義とせられ、又聖められ、又栄化せしめらる。」(ロマ書の研究第一講)

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パウロ―信仰義認論に関するノート

Posted by Shota Maehara : 2月 24, 2010

ローマの信徒への手紙1 (義認/贖罪論)・・・・・・・・・・・・・全人類の救い

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。3:23~3:24
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書かれた背景―執筆事情,執筆年代

第三次宣教旅行で最終目的地をローマと考えていたパウロは、エフェソに滞在中、予想外のコリント教会のトラブルに手間取り、ローマ行きの計画(※1)を変更します。

ローマに行く前に、エルサレム教会の最高権威、主の兄弟ヤコブの了解(和解?)を得る必要性を感じたパウロは、身の危険を顧みず、異邦人教会の献金を持参してエルサレムを訪問する決心をします(15・25~26)。

このため、遅れてはいるがやがて訪れる予定のローマの異邦人信徒(※2)宛に、自己紹介を兼ね自分の福音を紹介して、挨拶と励ましの手紙を書きます。コリント教会と和解し三度目の訪問を果たしたパウロが、コリント滞在中書いたとされます(57年~58年冬)。

構成(※3)は、大きく四つに分けられ、前文(1・1~17)と三部からなる本論(1・18~11・36)、共同体への勧告(12・1~15・13)と結び(15・14~16・27)からなりますが、内容的にはユダヤ的キリスト者の説得と、ユダヤ人と異邦人の和解を目的(※4)としているようです。

コリント事件など、今までの宣教から得た信仰体験をもとに、キリストの死と復活の意義を発展させて、今までのパウロの教えを総括します。

前文(1・1~17)―挨拶と手紙の主題

挨拶として(1・1~7b)
「1:2 この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、 1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」

と、肉(人)と霊の二つから福音を定義しますが、言うまでの無くパウロの福音は、霊によるもの、復活に重きをおいたものです。この霊の福音に異邦人を、「信仰による従順へ導く、5a」(※5)使徒がパウロであること、そして、この異邦人の中にローマの信徒も含まれていることを述べます。

続いて、神への感謝とローマ訪問の希望(1・8~15)が述べられます。訪問の目的として、お互いに霊の賜物を分かち合い、持っている信仰によって励ましあい、その実りを得たいということ。ローマには何回も行こうとしてその都度妨げられたが、異邦人への福音宣教の使徒としての責任を果たすパウロの使命感を明らかにします。

本論に入る前に、本書簡の根本主題(1・16~17)を示します。
「1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

ユダヤ人の律法は、異邦人には役立たない。福音だけが、それを信じる全ての人々(全人類)の救いとなる神の力である。これがローマ書の主題です。そして、神の前では、律法によらず、信仰によって義とされると、ハバ2・4を引用して、副題をいいそえます。

第一部、義認論(1・18~5・11)―信仰により義とされる(生きる)

信じる人は誰でも、信仰によって生きる。律法によらない、というガラテア書でも論じた従来の律法批判を、再論します。切迫する終末の裁きに備えるためには、ユダヤ人の誇る律法では、役立たない(神の前で義とされない)のです。

その理由は、すべての人、ユダヤ人も異邦人もみな罪を犯し、神の敵となっているからです(1・18~3・20、絶望論)。人はこの絶望的状況に気付かなければ救われないのです。

1、異邦人(人類)の罪(1・18~32)―自然崇拝の罪(※6)

人間は、「1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができ」るにもかかわらず、「神としてあがめることも感謝することもせず」、神に帰すべき栄光を人間や他の被造物(偶像神)に帰し、神を被造物の地位に貶めていると、偶像崇拝を断罪します(1・18~23)。

その罰として、彼ら異邦人を「恥ずべき情欲」や「無価値な想いに渡され」た結果、同性愛に耽り、犯すに至った数々の悪罪を列挙します(1・24~32)。

2、ユダヤ人の罪(2章)―神を侮る頑くなな心

自分は正しいと信じ、異邦人を汚れた存在として裁いている者たち(ユダヤ人)も同罪であると告発します。なぜなら同じような悪を行っている偽善者に過ぎず、神の怒りはやがて来る終末の裁きに現れると、断罪します(2・1~5)。

2:11 神は人を分け隔てなさいません。2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。

 2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。

この神の怒りは、すべて悪を行うものに及び、ユダヤ人も異邦人も神は分け隔てをせず、律法の有無には関係なく(2・6~16)、キリスト再臨の日に明らかにされます(16)。

そして、ユダヤ人のシンボルである、割礼も役立たないと、ユダヤ人と律法(2・17~29)について述べます。モーゼの律法は、ユダヤ人の命の源・誇りなのです。

2:17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、 2:18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。

 2:19 -20また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。

と、パウロは知識と真理を示す律法の偉大さを指摘しますが、この律法を誇るユダヤ人は、心の中では盗み、姦淫し、神殿を汚し、モーゼの律法を誇りとしながら、(実態は)律法を破って神を侮っている(2・17~24)と告発します。

従って

2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。 2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。

と、律法と割礼の無意味なこと(2・25~29)を繰り返し、特に異邦人とユダヤ人とを聖別する重大なしるし――選民ユダヤ人のシンボルである割礼――の意義を否定します。

3、信仰/義認論(3章)-キリスト信仰によって、全人類は義とされる

では、ユダヤ人が割礼、聖書(律法/契約)など優れた神の賜物を持ちながら何故不誠実な者がいるのか。全能の神が不十分だからなのか。また、ユダヤ人の不義が神の義を現し、善を生じるなら何故、神の栄光(義と善)を現したユダヤ人を罪人として裁くのか。善を生じるためには、悪をしたほうが良いのではないか。パウロは、このような詭弁を弄する者は罰をうけると断言します(3・1~8、このことは、9~11章で詳述される)。

そして詩編や聖句を引用しながら、正しい者は一人もいない(3・9~20)とパウロは結論します。ユダヤ人もギリシャ人も、割礼の有無に関わらず皆、罪の状態にあり、来るべき終末には、神の裁きを逃れることは出来ないのです。律法も役立たないのです。
「3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(律法の限界は、7章で詳論されます)

ところが、今まで忍耐したきた神が人間の歴史に介入した結果――「ところが今や、律法とは関係なく」3・21、神の義はキリスト信仰により実現したことを明らかにします。贖罪/義認論を展開して(3・21~4・25)、遂に、神の愛が全人類に及んだことを述べます。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

 3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

 3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

と、今この時に、キリストの贖いの業、「贖罪」により、「信仰による義」が無償で実現したことを明らかにします(3・21~31)。イエス・キリストを信じる人は皆、キリストの贖いの業により、割礼の有無を問わす、律法によらず、誰でも神の前に義とされる福音です。

では、ユダヤ人の誇り、契約の民としての誇りは、どうなるのか。それは信仰の法則により取り除かれた(3・27)。「3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」

異邦人とユダヤ人にとって、唯一の神は、割礼の有無を問わず、誰でも「信仰によって義とされる」のです。律法ではないのです。信仰が問題なのです。

しかし、パウロは、決して律法が破棄されたのではないと、いいます。
「3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」と、信仰による律法確立/完結(※7)を強調しています。(しかし裏返せば、これは「モーゼの律法」が不完全なことをいっている)

では何故、ユダヤ人のみならず、割礼無き者(異邦人)も、また何故、「律法によらず、信仰により義とされるか」を、アブラハムの信仰で論証します。

ユダヤ人から民族の父として、また模範として尊敬されている父祖アブラハムに注目したのは、全人類の救いの視点から(旧約)聖書を再解釈した、パウロの創見です。

4、 アブラハムの模範/先証(4章)―アブラハムの信仰と約束の成就

 ガラテヤ書(3・6)でも論じた、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた。」と、聖書にあるアブラハムの故事(創世15・6)を「義認論」の根拠としてあげます(4・3)。

そして、「4:4 ところで、働く者に対する報酬(※8)は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。」と、イサク奉献によるアブラハムへの報酬(祝福)は当然のことであり、何ら誇るべきものではないが、 4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」と、行い(律法)がない罪人(異邦人)も、信仰によって、義とされるといい、さらにこれは、神の愛・恵みであると、ダビデの幸い(詩編32・1~2)を引用します(4・6~8)。

この幸いは、割礼のない異邦人にも及びます(4・9~12)。何故かというと、このアブラハムの恵みは、アブラハムが割礼を受ける前(創17・10~11)だったからだといいます。

4:11 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。

このような(未割礼の)アブラハムの模範で、ユダヤ人と(無割礼の)異邦人らすべての人が、信仰により義とされることを聖書から立証します。実に、アブラハムは全人類の父(※9)だからです。

そしてまた、信仰によって実現される約束(4・13~25)として、イサク誕生物語をとりあげます。すなわち、アブラハムの子孫が受けた、世界を受け継ぐ約束(創18・18、22・17~18)は、神を信じる全人類に及ぶ約束(創17・5)であり、信仰に従うすべての者は、この約束にあずかるのです。律法によらず、信仰により御国の約束が実現するのです。

老齢で不可能と思われていたイサクの誕生について、妻のサラさえ信じなかった神の約束が成就したことは、彼の信仰によるものという故事(創世17・15~20)で証明します。

この神の義の約束は、アブラハムだけではなく、わたし達にもなされていて、その約束は(新約として)キリストの復活において成就したのです。

4:21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。

 4:22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。

 4:23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、 4:24 わたしたちのためにも記されているのです。

わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。

 4:25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

 何故、キリストを信じれば、義とされるのか。それは既に述べた(3・25~26)ように、キリストは十字架死で、無償で私たちの罪を贖ってくださったからですが、更に復活してわたし達と正しい関係になられ(4・25b)、しかも命を与えて下さったのです(5・10)。神の救いの約束は、こうしてキリストの死と復活により実現したのです。

 5‐1、贖罪/和解論(5・1~11)―キリスト信仰によって義とされて

 このように、復活したキリストを信じることにより、義とされたわたしたちは、「神との間に平和を得ており 」また、終末の「神の栄光にあずかる希望を誇りに」するのと同時に、聖霊によって「苦難をも誇りとする」神の愛を賛美します(5・1~5の「神の愛」は、8・31~39で更に詳述される)。

そして、キリストは、罪人である私たちのために命を捧げてくださった。私たちは、キリストの流された血によって義とされた(5・6~11)。このキリストを信じることによって義とされた私たちは、神との和解が成立したと、贖罪/和解論を展開します。

5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。

 5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

 5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

 5:11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

このように、イエスキリストにおいて実現した神の義により、私たち人間は神の怒りから救われて、神と和解することが出来るようになったのです(5・11)。イエスの死によって、ユダヤ民族(律法)の壁を突破することが出来たのです。これが、全人類にたいする、神の愛なのです。

ユダヤ人も異邦人も共に、キリスト信仰により義とされた私たちは、終末の審きの時、神の栄光にあずかる希望とともに、この世においても神との間に和解/平和(※10)を得ることができたことを論証します。モーゼの律法と割礼では果たせなかったことです。

 以上が本論の第一部です。今までのガラテア書やコリント書のパウロの教えを総合した「信仰義認論」といえます。ユダヤ人を超えた全人類にたいする、救いを明かにします。

パウロは次の第二部で、この考えを更に深化して、復活/新生論に発展させます。パウロ神学の真髄に入ります。本論の核心と言ってよいでしょう。

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 ※    1、ローマ訪問計画と度重なる延期
第二次宣教旅行でパウロは、ローマに行くつもりだったらしい。コリント滞在中、ローマ皇帝クラウディウスのユダヤ人退去命令でローマからコリントに逃れたブリスキラ、アキラ夫妻からユダヤ人の居住禁止を聞いて断念した。第三次旅行でも、ローマを目指したが、エフェソで入獄や、コリント問題で時間を費やして断念し、この手紙を書いた。

 ※    2、ローマの異邦人信徒―家の教会?でユダヤ人キリスト者の指導を拒否?
早くからローマには、キリスト教徒が存在したらしい。クラウディウス帝の49年、ユダヤ教徒との対立・抗争で、ユダヤ人はすべてローマから退去させられた。ブリスキラ、アキラ夫妻がコリントに来たのはこの時とされる。追放が解除されたのは、54年頃とされる。このユダヤ人キリスト者不在の期間、異邦人信徒は自立を余儀なくされたらしい。
ローマ書の宛先は、「ローマの人達一同へ、1・7a」とあり、教会宛ではない。異邦人たちの教会は存在せず、家の教会的に分散していたらしい(パウロは、彼ら異邦人信徒の組織化・教会化を企図して、ローマ訪問を計画したという説もあるが)。
なお使徒ペトロは、ローマのユダヤ人キリスト教会を指導したと思われる。64/67年のネロ大迫害の時、ローマで殉教したとされる使徒ペトロは、伝承では紀元30年から64/67年までの34年/37年間ローマ司教(教皇)であったというから、ペトロに比べてパウロの影響は薄かったと思われる(ユダヤ人教会のほうが力を持っていた)。

 ※    3、構成-いろいろの説があるが、一例 (フランシスコ会のローマ人への手紙) をしめすと
前文(1・1~17)
第一編(1・18~11・36)救いについての教え
  第一部(1・16~4・25、または1・16~5・11)信仰の役割(義認論)
      人が罪の状態から信仰によって神のとの正しい関係に入れられるという「義
      認」の問題。
  第二部(5・1~8・39、または5・12~8・39)信じる者を救う神の愛(再生論)
      人が死の状態から、神の愛によって生かされるという「再生」の考え方。
  第三部(9章~11章)イスラエルの不信の問題
第二編(12・1~15・13)倫理的勧告
あとがき(15・14~16・27)
なお、ローマ書の文脈が難解なのは、脇道にそれながら同一テーマを何度も繰返し展開してゆくパウロ独特の弁証法的論法である。おそらく口述筆記法によると思われる個々の文節が、説教的に優れて感動的なので、我われはその名言に幻惑されて、その文脈を見失い勝ちである。しかし大局的には上記例のように起承転結の論理的構造をもっている。

 ※    4、ローマ書の書かれた目的―「ローマ追放説」と「エルサレム危機説」あり(ハーパー聖書注解、1186頁。「ローマ人への手紙」33頁、フランシスコ会聖書研究会参照)
ユダヤ人追放間に、異邦人教会が自立した。追放が解除されて、戻ってきたユダヤ人キリスト者と異邦人対立の調停のためという「ローマ追放説」がある。パウロは、帰還ユダヤ人を受け入れるように異邦人キリスト者に呼びかけている(11・13~24)。
また、エルサレム(ヤコブ)教会との関係が危機の状態にあり、その和解のため(エルサレム献金もその一つ)に書いたという「エルサレム危機説」がある。律法破棄の過激な論調は影を潜め、律法を確立したパウロの福音を強調している。
いずれにせよ、ユダヤ人キリスト者と対決しようとした今までの過激なガラテヤ書やコリント書と違い、ユダヤ教的異邦人とユダヤ人キリスト者にも、民族主義を超えたユダヤ教であるパウロの福音を理解してもらおうというのがローマ書の特長。

 ※    5、「信仰による従順へ導く、5a」使徒
コリント教会事件の反省が見られる。ローマ書では、使徒の権威への従順さを求めることなく、信徒は「信仰による」従順性が大切であり、そのように教え導くのが使徒の使命と考えるに至った。

 ※    6、異教徒の自然崇拝の罪、1・20―知恵13・1~9参照
知恵13・1~9では、異邦人(エジプト人)たちは、自然の神秘の中に、創造主をみることなく、自然の美しさを崇拝していると、その偶像神尊崇が批判されている。パウロは「知恵の書」を知っていたと思われる。
当時、末世終末観がユダヤ人社会を覆い、神の裁きが近いことが、最大の問題であった。この神の怒りに、ユダヤ人の律法は無益であるとパウロは考えた。
ユダヤ人も異邦人も罪の中にあり、それを救うことの出来るのはキリストの福音だけだと、パウロは主張する。

 ※    7、律法確立、3・31-モーゼ律法の不十分なところを、福音が完結/確立
ここではパウロは、割礼は否定するが、ガラテヤ書のように、全面的な律法破棄を宣言しない。しかし、モーゼの律法が不完全であると、批判していることは明らかである。
ガラテヤ書では、律法=割礼として、律法不用、従って割礼無用と論議は明快であったが、ここでは「自由解放」が行過ぎたコリント教会問題の体験から、(神の)律法は有用と考えるようになった(それともローマ教会のユダヤ人を意識したからであろうか)。
パウロは、律法有用論を展開しているが、割礼を否定して、律法を否定しない論理は、無理があり、議論を難渋にしている。
神(霊)の律法と、掟(割礼や食物禁忌など)としての肉の律法と分けて考えているようであるが、判りにくい。(なお、ユダヤ人を対象としたマタイ福音書マタ5・17~20では、律法厳守が命じられて、当然割礼厳守と思われ、趣旨一貫して論旨明快である)。
パウロにとって、モーゼの律法(割礼と食物規定など)が、全人類に及ぶべき神の愛、恵みを阻害していると認識し、律法から自由なキリストの福音を異邦人向けの新しいユダヤ教として宣教したのであるが、ユダヤ人からはモーゼ律法を軽視していると、結局理解されず、異邦人(特にギリシャ語圏)の間だけにパウロのキリスト教として広まった。
パウロはこのようにローマ書ではコリント教会の事件の教訓から、律法の放棄を説かない。霊の働きにより、喜びと愛とをもって、律法の命じることを、律法に強制されずに、解放された自由な心で行う。律法を放棄した代りに、霊の力を導入した。この霊は、キリスト信仰においてのみ、神から恵まれるのである。第二部でこれが論じられるのである。
かくして、コリント書の難題(自由の自己制限、自律と自由の両立)は解決したのであるが、後世のパウロ主義は聖霊/神秘主義か新律法主義の何れかにに陥らざるを得なかった。

 ※    8、働く者に対する報酬、4:4―イサク奉献に対する神の祝福?
難解。イサクの奉献(創22・2~9)などを暗示していると思われる。パウロは、このアブラハムの最も有名な出来事であるイサクの奉献については、全く黙して語らず(逆に、ユダヤ的キリスト者であるヤコブはヤコブ2・21~24で、真の信仰者の自己犠牲として、最大の評価を与えている)。このことは、パウロはイサクの奉献を「行い」として、価値をおかないことを意味していると解釈される(カールバルト「ローマ書新解」47頁、新教出版社)。
或いは、シナイ契約を意味しているかもしれない。エジプト脱出という「行い」の結果の「シナイ契約」(モーゼの十戒、石の板)授与は、当然の報酬で、神の恵みではない、というパウロの思いがあるかもしれない。何れにせよ、黙示的であるのはユダヤ人の反発を考慮してと思われる。

 ※    9、全人類の父アブラハム―ユダヤ民族を超えて
アブラハムは、イサクの父であるが、またイシュマエルなど他民族の父でもあった(創16・15、25・2)。イスラエルと呼ばれたヤコブは12部族の祖先。モーゼは律法の祖述者であり、何れもユダヤ民族の祖先として限定されるが、全人類の父としてのアブラハムに着目し、ユダヤ民族の枠を超えようとしたのがパウロの意図。

 ※    10、神との和解―律法によらず、和解が可能となる(Ⅱコリント5・17~18参照)
ユダヤ人は、申命記にあるように、律法遵守こそ、神との和解の道と考えていた。
10:12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、 10:13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
また、神を愛することは、律法を愛すること(詩編119も参照)であり、律法はユダヤ人の命ともされた。逆にいえば、律法がユダヤ教をユダヤ人の民族宗教に限定したのである。

しかし、パウロは律法によらず、キリスト信仰により神との和解が可能ということは、このように神聖視されたモーゼ律法を軽んじていると思われ、命を狙われた(使徒21・27)。

http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/27roma.html

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イエス・キリスト―真理と事後性

Posted by Shota Maehara : 2月 3, 2010

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた(痛みを知っていた)。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ書第53章1~3節)

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かっていった。しかし、主は、私たちすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書第53章4~6節)

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼が私の民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ。彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。」(イザヤ書第53章7~9節)

「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物として分かちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(イザヤ書第53章10~12節)

私たちはともすると自分たちの時代をあまりにも暗く思い描くことがある。もはや自分たちの国には救いはなく、新しい何かが生まれる兆しもないと。しかし、新しい創造は今まさに起きているのかもしれない。本当に優れたモノの価値は、今すぐには分からないからだ。どれほど多くの優れた人たちや彼らの無数の功績が同世代人によってではなく、死後後世の人によって明らかにされてきたことか。だからこれほどみずみずしい感性や深い思想があたかも地下水脈のように私たちの大地の下に流れているのだといつかきっと気づき、驚嘆する日が来るに違いない。奇跡は毎日この瞬間に起こっている。願わくは、どうかそれを見る私たちの心の目を開かせてくださいますように。(2010年2月3日 秋月誠仁)

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