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Shota Maehara's Blog

Archive for 2012年8月

宗教改革についてのノート

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2012

16世紀の宗教改革は、新約聖書の中のローマ書の次に私が重要視する研究テーマである。ここに最低限の基礎知識を書き記しておこう。

「宗教改革が提起したものは、時代が要求する人間の魂の「神への限りない飢え」にキリスト教がいかに応えるかということであった。」―『詳説・世界史研究』(山川出版社、2008年、296頁)

「ルターやカルヴァンは、聖書から直接神のことばを学び、「信仰によってのみ神の恩寵がえられるとし、神と人との間にカトリック教会が介在することを否定したのである。」―同書、269頁

「キリスト者は自己自身において生きるのではなく、キリストと自己の隣人において、すなわちキリストにおいては信仰をとおして、隣人においては愛をとおして生きる」―マルティン・ルター『キリスト者の自由』

少しここで簡単に整理してみると、歴史的な記述ではルターやカルヴァンの宗教改革の思想基盤は次の三つである。すなわち、「聖書主義」(信者が直接神のことばを学ぶ)、「信仰義認」(人間の行為ではなく、神への信仰によって救われる)、「万人祭司主義」(教会の司祭ではなく、各自でが自己の信仰生活を守る)。

しかし、こうした記述からは宗教改革の真の意義は触れられず、こぼれ落ちてしまっているのではないかと私は恐れる。おそらくルターにとって、「信仰」とは、自分の人生を振り返ってみた時、惨めな自分がそれにもかかわらず、命の綱をしっかりと握られてここにあるという生の確信なのではないだろうか。

いずれにしても、プロテスタントもカトリックもなく、主イエス・キリストへの信仰を告白するという点で一致して、人々の生き方、社会の進むべき道をともにさし示すことができたらどんなに素晴らしいかと思う。子供っぽい夢想だと笑われてしまうかもしれないが。

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フス派について―チェコ宗教改革の源流

Posted by Shota Maehara : 8月 15, 2012

フス派は、カトリック司祭ヤン・フスチェコで始めた改革派。フーシテン(ドイツ語:Hussiten)とも呼ばれた。主にチェコとポーランドに勢力を拡大した。

フスは、パンの秘蹟のみならずワインの秘蹟にも民衆が預かる二種聖餐を主張し、また、チェコ語典礼を行い、当時の支配者であるドイツから睨まれ、また教会の腐敗を批判したため、コンスタンツ公会議に喚問され、異端とされた後焚刑にされた。当時のボヘミアはルクセンブルク家に支配され、ドイツ語が強要されるなどした為、ボヘミアにおいてはチェコ人の民族運動としての側面が強かった。

いっぽう、ポーランド王国にもボヘミアに匹敵する規模のポーランド人フス派信者がいた。ボヘミアと異なりポーランドは伝統の自由主義のもと13世紀から制度的にも宗教的寛容が実現していたため、フス派が宗教的理由で迫害されることはなかった。そのためフス戦争の期間も一度に数千人ものチェコ人のフス派が義勇兵としてポーランドの戦争の際ポーランドに味方したり、これまた一度に数千人ものポーランド人のフス派がボヘミアに遠征してチェコのフス派に味方したりと、互いに連帯して敵と戦ったのである。

フス戦争後期には遠征(侵略)も行ったためドイツ民衆には災厄のように恐れられた。また、一部のフス派は強盗団同然に不良化し、フス派の味方であるポーランドでさえも村々を渡り歩いて狼藉をはたらき、ポーランド民衆から疎まれた。

フス派は後に和約が成立し、カトリックに復帰したが、意味合い的にはプロテスタントの先駆けである。

15世紀前半、ボヘミアでのフス派消滅後、チェコ人のフス派信仰者のうちの多くはポーランド南部に大量亡命した。18世紀終盤に「ポーランド分割」によりポーランド王国が滅亡すると、フス派の系統の人々はみな、ポーランドの地を支配する外国による厳しい統治が始まったポーランドからアメリカにわたり、現在もアメリカで広く活動しているモラヴィア兄弟団などが残っている。彼らはワルドー派など諸派を合流させた。ジョン・ウェスレーなど、既存のプロテスタント指導者にもフスの思想の影響を受けた者がいる。

また、後の時代には三十年戦争が、このフス戦争を模倣する形で開戦した。なお、ボヘミアのフス派自体はこの三十年戦争の初期、1620年白山の戦いでプロテスタント系の貴族がハプスブルク家に敗れた事で完全に壊滅した。このときも生き残ったチェコ貴族の多くがポーランドへと亡命している。

ただし、19世紀末から始まったボヘミア地域でのカトリック改革運動は、チェコスロバキア建国による民族意識の高揚を受けてフス派の教義への復帰とカトリックからの離脱運動へと転化し、1920年にチェコスロバキア教会が成立した。同教会はフス派の後継者を自称し、1971年チェコスロバキア・フス派教会と改称している。[1]

ウィキペディアより)

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神の恵みの選び―「予定説」をめぐって

Posted by Shota Maehara : 8月 11, 2012

「カルヴァン神学の中心教義は予定説二重予定説)である」というアレクサンダー・シュヴァイツァーの学説は、マックス・ヴェーバーらに影響を及ぼした見方ではあるが、現在は支持されないという主張を行う者が現れているがその者の名前を知る者は多くはない。[要出典]「予定」の項目が現われるのは『キリスト教綱要』第3版からである。カルヴァンの中心思想を特定することは困難であるが、「神中心主義」などと表現されることが多くなった。

予定の教義は、カルヴァンの死後も後継者の手によって発展し、1619年ドルト会議の「ドルト信仰基準」(ドルト信仰告白)などを経て、カルヴァンの死後約100年後のウェストミンスター教会会議1643年7月1日1649年2月22日)において採択された「ウェストミンスター信仰告白」(1647年)によって現代見られるような形で一応完成した。それ以来、改革派神学者の保守的陣営において、19世紀の終わりまでは二重予定論に関して、ウェストミンスター信仰告白の枠組みを抜本的に変えることを迫るほど新しく有効な議論が起こされた形跡はない。

しかし20世紀に入ると、カール・バルトが主著『教会教義学』[12]等のなかでカルヴァンやウェストミンスター信仰告白の二重予定説を強く批判したのを受けて、それまでは保守的陣営にとどまっていた改革派神学者たち自身が、二重予定説の立論そのものについての抜本的な再検討へと動き始めた。

とくに、アムステルダム自由大学神学部で長く教鞭をとった改革派教義学者G. C. ベルカウワーによる再検討は、抜本的なものであった。ベルカウワーは、神の予定の二重性は「非均衡的」であること、つまり、選びと遺棄は同等の強調を置かれるべきではないこと、また、「キリストにある選び」(Election in Christ)という点、つまり、予定論のキリスト論的側面を強調することが重要であることなどを主張した[13]

ただし、カール・バルト自身の予定論(恵みの選びの教説)の大意は「神の御子イエス・キリストが十字架において遺棄されることによって、万人が選びに定められた」ということであり、人間のなかに救いへと選ばれる者と遺棄される者がいるとするカルヴァンの予定論とは全く趣を異にするものである。

カルヴァンは、職業は神から与えられたものであるとし、得られた富の蓄財を認めた。この思想は、当時中小商工業者から多くの支持を得、資本主義の幕開けを思想の上からも支持するものであったとされる。

ウィキペディア ジャン・カルヴァンより)

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