一月下旬からのきびしい寒さの中で、心身ともに守られ、仕事をさせてもらっている。私の仕事は二月から三月が年度の変わり目なので、今は少しずつ新しい年度の準備に取り掛かっている。そのために書店などを巡って新しい情報の収集などをするのだが、私が地元の書店に行った際、そこで路上生活者の方が寒さから逃れるためベンチで眠っている姿を目にした。
私はそばを通り過ぎる時には彼を起こさないようにして、自分の目的の本を探していた。彼の髪はぼさぼさで小さくところどころ破れかけたリュックだけが足元に置かれていた。私は仕事柄、裕福なご家庭やその子弟とかかわることが多いのだが、その一方で格差の波は確実にこの町にも押し寄せてきているようだと実感した。かつて主イエスが貧しい人々を御癒しになられたこと、そしてなにより薄暗い日本の将来を案じて複雑な思いを胸に抱きながら家路についた。
そもそも近代以来、キリスト教秩序を破って生れた資本制経済は、いまだに残るキリスト教的倫理の下に、制約されて活動することを余儀なくされていた。例えば、ドイツで宗教改革を行ったアウグスティヌス派の修道士マルティン・ルターは、当時フッガー家を中心とした大商人による利子生み資本、とりわけ高利貸しを繰り返し批判している。また、教会が免罪符を発行したことに対して、一五一七年十月三十一日ウィッテンベルク城教会の扉に「九十五カ条の論題」と呼ばれる論争の文書を貼り出したことはあまりにも有名である。
やがて資本主義が中世の教会秩序の残滓を払い落していくにしたがって、自己の利益を最大化すること、つまり金銭こそが神にとってかわりはじめる。なぜならば、ルターも言うように、人間が信頼して自己をゆだねるものが、その人にとっての神だからである(「商業と高利」)。
今日のグローバルな金融資本や、そこで利益を上げるヘッジファンドや投機家の姿は、こうした歴史の延長線上にあると言えよう。ただし、今や一部の資本家や経営者だけではなくほぼすべての人びとが無批判に金がすべてであると信じている。金自体は善でも悪でもない。ただどう用いられるのかによって良くも悪くもなる。つまり動機こそすべてであって、金そのものは目的であってはならないが、貨幣にはある種のフェティシズムがあり、それが人の心を狂わしている。
しかし、取引において自己の利益を最大化したいと彼らがいうとき、実のところ次のように言っているのに等しいのではないか。つまり、私は隣人については何もかまわない。ただ自分の利益と欲望が満たされさえする限り、たとえ彼らが被害を被ったとしてもそれが何だというのか、と。これは、「汝の如く隣人を愛せよ」というキリストの教えとは真逆である。
自らは働くことをせず、商売に伴う危険(リスク)をヘッジして、第三者から利益を上げ続ける。あたかも貨幣が貨幣を生むごときこの金融システムは、世界の富を彼らのところへ一極集中させ、他者を貧困に追いやり、世界経済を不安定化させる。これは神だけではなく、自然の法にも反していると言える。ルターはこれに対して無償で貸すべきだと説いている。その意味で、『資本論』の中でマルクスが資本の自己増殖の原型を、M-M’-M”・・・・という形を取る利子生み資本の中に見た洞察は正しかったと私は考える。
では、私とマルクス主義者との差異はどこにあるのか。私は博学なマルクス主義者の諸著作に敬意を払いながらも、政治的・経済的アクションではなく、なお「理念」による現実批判を通して、この世界の倫理的基盤の再構築に力を注ぎたいと考えているのである。なぜなら破壊ではなく、創造、デモではなく、教育の中にこそ答えがあるような気がしているからである。願わくは近代のヒューマニズムを乗り越え、新しい「人間」を育てていくことができますように。