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Shota Maehara's Blog

Archive for 2012年1月

汝の如く隣人を愛せよ―ルター「商業と高利」について

Posted by Shota Maehara : 1月 24, 2012

一月下旬からのきびしい寒さの中で、心身ともに守られ、仕事をさせてもらっている。私の仕事は二月から三月が年度の変わり目なので、今は少しずつ新しい年度の準備に取り掛かっている。そのために書店などを巡って新しい情報の収集などをするのだが、私が地元の書店に行った際、そこで路上生活者の方が寒さから逃れるためベンチで眠っている姿を目にした。

私はそばを通り過ぎる時には彼を起こさないようにして、自分の目的の本を探していた。彼の髪はぼさぼさで小さくところどころ破れかけたリュックだけが足元に置かれていた。私は仕事柄、裕福なご家庭やその子弟とかかわることが多いのだが、その一方で格差の波は確実にこの町にも押し寄せてきているようだと実感した。かつて主イエスが貧しい人々を御癒しになられたこと、そしてなにより薄暗い日本の将来を案じて複雑な思いを胸に抱きながら家路についた。

そもそも近代以来、キリスト教秩序を破って生れた資本制経済は、いまだに残るキリスト教的倫理の下に、制約されて活動することを余儀なくされていた。例えば、ドイツで宗教改革を行ったアウグスティヌス派の修道士マルティン・ルターは、当時フッガー家を中心とした大商人による利子生み資本、とりわけ高利貸しを繰り返し批判している。また、教会が免罪符を発行したことに対して、一五一七年十月三十一日ウィッテンベルク城教会の扉に「九十五カ条の論題」と呼ばれる論争の文書を貼り出したことはあまりにも有名である。

やがて資本主義が中世の教会秩序の残滓を払い落していくにしたがって、自己の利益を最大化すること、つまり金銭こそが神にとってかわりはじめる。なぜならば、ルターも言うように、人間が信頼して自己をゆだねるものが、その人にとっての神だからである(「商業と高利」)。

今日のグローバルな金融資本や、そこで利益を上げるヘッジファンドや投機家の姿は、こうした歴史の延長線上にあると言えよう。ただし、今や一部の資本家や経営者だけではなくほぼすべての人びとが無批判に金がすべてであると信じている。金自体は善でも悪でもない。ただどう用いられるのかによって良くも悪くもなる。つまり動機こそすべてであって、金そのものは目的であってはならないが、貨幣にはある種のフェティシズムがあり、それが人の心を狂わしている。

しかし、取引において自己の利益を最大化したいと彼らがいうとき、実のところ次のように言っているのに等しいのではないか。つまり、私は隣人については何もかまわない。ただ自分の利益と欲望が満たされさえする限り、たとえ彼らが被害を被ったとしてもそれが何だというのか、と。これは、「汝の如く隣人を愛せよ」というキリストの教えとは真逆である。

自らは働くことをせず、商売に伴う危険(リスク)をヘッジして、第三者から利益を上げ続ける。あたかも貨幣が貨幣を生むごときこの金融システムは、世界の富を彼らのところへ一極集中させ、他者を貧困に追いやり、世界経済を不安定化させる。これは神だけではなく、自然の法にも反していると言える。ルターはこれに対して無償で貸すべきだと説いている。その意味で、『資本論』の中でマルクスが資本の自己増殖の原型を、M-M’-M”・・・・という形を取る利子生み資本の中に見た洞察は正しかったと私は考える。

では、私とマルクス主義者との差異はどこにあるのか。私は博学なマルクス主義者の諸著作に敬意を払いながらも、政治的・経済的アクションではなく、なお「理念」による現実批判を通して、この世界の倫理的基盤の再構築に力を注ぎたいと考えているのである。なぜなら破壊ではなく、創造、デモではなく、教育の中にこそ答えがあるような気がしているからである。願わくは近代のヒューマニズムを乗り越え、新しい「人間」を育てていくことができますように。

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アウグスティヌスとともに―「神の国」の現代的意義

Posted by Shota Maehara : 1月 10, 2012

二〇一二年元旦に杉戸キリスト教会で新年礼拝に参加させていただいた。その説教の中で、野町牧師は、「傍観者にならずに、一歩を踏み出すことのできる一年へ」という言葉を述べられた。まさしく牧師様の口を通して、主がわれわれに語られた御言葉のような気がして、大変感銘を受けて、大切に胸にしまって帰った。

しかし、私はこの言葉を何度も反芻するうちに、一体自分には何ができるだろうかと考えて途方に暮れた。私はキリスト者としていまの時代において自分がなさねばならぬ務めは何かを真剣に考えてみた。そして、あたえられた答えは、紀元五世紀の偉大なキリスト教神学者アウグスティヌス(345-430)の中にあるのではないかということであった。

たび重なるゴート族のローマ帝国への侵入に恐怖した当時のローマの人びとは、この原因が自分たちが異教の神々を捨てて、キリスト教に帰依したからではないかという論をもって、キリスト教を非難した。それに対して、キリスト教正統派の立場から、そうした論にはなんの根拠もないことを証明し、擁護するために選ばれたのが当時最大の知識人であり、教父(=神学者)でもあったアウグスティヌスである。そして彼がそのために四〇年の長きにわたって書き綴ったのが『神の国』という書物である。

そこで彼はヨブのような義人でも、苦難に遭うことがあり得ること、そしてなにより、蛮族の侵入以前から、ローマの人心はすでに堕落しはじめていたことを指摘し、多くの事実を突き付ける。劇場の設置や、剣闘へのローマ市民の熱狂は、共同の福利に関心をもつべき共和国の精神を土台から腐らせていたと。

それに対して、アウグスティヌスは「神の国」を理念として対置する。私はいま「理念」としての「神の国」と言ったが、これを日常のことばや分析的知性(実証科学)の意味に解してはならない。ドイツ観念論の最高峰であるカントやヘーゲルの意味で私はこれを使っているのだ。つまり、通常理念や概念とは私たちが外のありふれた現実を抽象して頭の中で産み出したものと考えられているが、ヘーゲルは学問としての哲学が追求するものはそんなものではないと述べている。むしろ、私たち人間をこそ産み出したような理念を追求することが学問の本来の目的だというのだ(『論理学』)。

こうした「神の国」の理念は、単に超越的な存在ではなく、生きた言葉としてわれわれの社会を絶えず批判し、救いの道を指し示すものとしてあり続ける。ゲルマン民族の大移動によってローマ帝国が分裂していくなかで、自分たち人間が進むべき道のりは、単に物質的なものではなく、神の国の理念を実現する方向でなければならないと考えたアウグスティヌスの信仰の深さと強靭的な知性には圧倒させられざるを得ない。事実、ローマ帝国崩壊後、ゲルマン民族によって統治されたヨーロッパ諸国は彼を通して神が語られた信仰と思想の基盤の上に花開いたと言っても過言ではないだろう。

何よりも私が現代性を見いだすのは、彼がパウロの信仰義認説に着目することで、我らの原罪をとりのぞくのは人間的な努力によるのではなく、ただ神の恩寵(恵み)によるのであるという考えを再導入したことである。なぜなら、まずアウシュビッツ以後、人間の理性による共同の努力によって善き社会が建設されていくのであるという近代のヒューマニズム幻想を批判することができるからである。そして、次に、それでもニヒリズムに陥ることなしに、神の恩寵を待ち望んで、倫理的基盤の上に政治、経済、社会を再建するための指針が得られるからである。

かつて日本の夏目漱石は『それから』という作品の中で、明治以来日本は世界の一等国になるために西洋に追いつき追い越せとばかりに、物質的繁栄を求めてきた。しかし、この国の道徳的基盤の崩壊はそれに反比例して加速度的に進んでいると述べた。そしてその帰結をわれわれは日々目の当たりにしている。今必要になるのは人びとが共に生きていくために共同体を支える道義的基盤の再建なのである。性急な答えを急ぐ必要はない。私はアウグスティヌスとともにその方策を探り、同時代の人々へ訴えかけていきたいと願っている。

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ヘーゲルの哲学を読む―コーヒー・ブレイク!

Posted by Shota Maehara : 1月 2, 2012

そんな或る日、たまたま徳川山のお宅を訪ねたとき、先生は丁度本質論の訳を終えられ、概念論に入るところであった。先生はその日、日頃になく興奮気味で、やはりヘーゲルはすばらしいという話を始められた。話は、ヘーゲルが真理は具体的なものとかトタールなものといっているのをどう理解するか、というようなことであった。先生は立ち上がって原書を広げたまま持って来られ、本質論の最後の節(第一五九節、本書四〇〇頁)を示された。そこは「他者において己自身のもとにある」という表現が、さらに「他のもののなかで自分自身と合致すること」と深められ、その合致をさまざまな視覚から「解放」であり、「自我」であり、「自由な精神」であり、「愛」であり、「浄福」である、と表明しているところである。具体的とかトタールというのはこういうことなのだ。ただ自分が自分自身と合致するというたんなる自己同一では、なんら自我の確立でも自由の実現でもない。ヘーゲルが自分を失う分だけ自分が豊かになるといっている逆説的な意味を正しく理解しなければならない。真理のあるべき姿をこれだけ見事に表明できたのはヘーゲルだけではないか。こういうヘーゲルが、僕はたまらなく好きなのだ。先生はその日珍しく多くを語られた。(略)(ヘーゲル『小論理学』「訳者あとがき」)

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ヘーゲルの哲学を読む4―概念について

Posted by Shota Maehara : 1月 2, 2012

概念というと、普通は抽象的な一般性のことしか思いうかべられず、したがって、概念とは一般的な観念だと定義されるのが普通です。色の概念とか植物の概念とか動物の概念とかいわれるものがそうで、これらの概念は、さまざまな色や植物や動物のあいだに見られる特殊な要素をとりのぞき、すべてに共通するものを確定するすることによって得られます。分析的知性による概念のとらえかたがそれで、そうした概念を見て、無味乾燥で空虚だと感じ、それをたんなる図式ないし影だと思うのは当然のことです。たいして、普遍的な概念というものは、特殊なものをそのままに放置して、共通なものだけをとりだしてきたというものではなく、みずからを特殊化していくものであり、異質なものをとりこみながら濁りのない明晰さのうちにおのれを保つものです。たんなる共通のものと真に普遍的なものとを混同しないことは、認識にとっても実践にとっても、この上なく大切です。思考一般にたいして、とりわけ哲学的思考にたいして、感情の立場からよくもちだされる非難のすべては、そして、しばしばくりかえされる、いわゆる思考の行きすぎの危険性という主張は、右の混同に発するものです。

真なる包括的な意味での普遍性の思考は、それが人類の意識に入ってくるのには何千年の時を必要としたといわねばならないもので、キリスト教を通じてはじめて完全に承認されるようになりました。高度な文明をもつ古代ギリシャでさえ、真に普遍的な神も、真に普遍的な人間も知らなかった。古代ギリシャの神々は精神の特殊な力を体現したものにすぎず、普遍的な民族の神はアテネの人びとにとっていまだ隠されていた。だからこそ、ギリシャ人にとって、自分たちと異国人たちとのあいだには絶対の断絶があり、人間そのものがその無限の価値と無限の権利を承認されることはありませんでした。近代のヨーロッパで奴隷制が消滅したのはなぜか、と問われるとき、この現象を説明するものとしてあれこれの特殊な事情がもちだされます。が、キリスト教ヨーロッパにもはや奴隷が存在しない本当の理由は、キリスト教の原理以外に求めようがない。キリスト教は絶対自由の宗教であって、人間そのものが無限の普遍性をもつと認められるのは、キリスト教以外にはありません。奴隷に欠けているのは、その人格性の承認だが、人格性の原理こそが普遍的です。主人は奴隷を人格として見るのではなく、自己を欠いた物として見るので、奴隷には自我が認められず、主人が奴隷の自我です。

上に述べた、たんに共通なものと真に普遍的なものとのちがいは、ルソーの有名な社会契約論において見事に表現されています。国家の法律は普遍意志(volonté générale)から生じなければならないが、といって、万人の意志(volonté de tous)である必要はない、と。ルソーがこの区別をつねにしっかり見すえていたならば、その国家論はもっと徹底したものになったと思われます。普遍意志こそが意志の概念であり、法律はこの概念に根をおろした、意志の特殊な規定なのです。(ヘーゲル『論理学』三四八~三四九頁)
知性論理学のなかで諸概念の生成と形成にかんして普通、論じられていることにかんしてなお注意されねばならないのは、われわれが諸概念を形成するのでは全然ないということ、またおよそ概念は何か成立してきたものと見なされることはまったくできないということである。もちろん概念はたんに存在とか直接的なものとかにすぎないものではなく、それにはまた媒介も属するのであるが、しかしこの媒介は概念そのもののうちにあるのであって、概念は自己によって、そして自己自身と、媒介されたものである。われわれの諸表象の内容をなす諸対象が初めにあって、そのあとからわれわれの主観的なはたらきがやって来、これが先に述べた、諸対象に共通なものの抽象と総括の作業を通じて諸対象の概念を形成するというふうに考えるのは逆さまである。むしろ概念はほんとうに最初のものなのであって、もろもろの事物が現にあるあり方をしているのは、それらに内在してそれらのうちで己れを顕わにする概念のはたらきによるのである。われわれの宗教的意識においては、このことは、神は世界を無から創造したとか、あるいは換言すれば、世界と有限な諸事物は神の豊かな思想と思召しから出てきたとかいう言い方に見られる。このことは、思想、もっと精確には概念が無限な形式、あるいは自由な、創造的なはたらきであって、このはたらきは己れを現実化するために、己れの外に存在する素材などを必要としないことを認めている。(ヘーゲル『小論理学』四一二~四一三頁、真下信一、宮本十蔵訳)

概念はずばり具体的なものである。なぜなら即自かつ対自的に規定されたあり方は個体性であるが、そのようなあり方としての自己との否定的一体性はそれ自体、概念の自己への関係、普遍性をなすからである。そのかぎり概念の諸契機はばらばらに切り離されることはできない。(同書、四一三頁)

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ヘーゲルの哲学を読む3―思考について

Posted by Shota Maehara : 1月 2, 2012

必然性から自由への移行、あるいは、現実から概念への移行は、難解この上ない。自立した現実とは、他への移行や自分とは別の自立した現実との一体化のなかでのみその実体性をもつのだ、という思想がそこにこめられているのだから。概念がこの上なく難解なのも、概念こそがそうした一体化の運動だからである。一方、現実の実体たる原因は、おのれの自立存在のうちにいかなるものの介入もゆるさないのだから、まさにそれゆえに、他から設定されるものへと移行する必然性(運命)にさらされている。その理路がまた難解この上ない。

ところで、この難解さを解きほぐすには、必然性を思考するのが一番である。思考とは、自己が他者のうちで自己と出会うことであり、抽象化に逃げを打つのではなく、現実が必然性の力によって他の現実と結びつくとき、自分を他者としてではなく、みずから設定したみずからの存在としてとらえるような解放の力なのだから。この解放の力は、自分とむきあう実在としては「自我」であり、全体性へと発展したものとしては「自由な精神」であり、感覚としては「愛」であり、満足の状態としては「至福」である。スピノザの実体には偉大な直観がこめられているが、それは人を有限な自立存在から解き放つ潜在的な力にすぎない。概念そのものこそ必然性の力とむきあい、現実に自由となった運動である。(ヘーゲル『論理学』三三八~三三九頁)

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ヘーゲルの哲学を読む2―「現象」と「現実」の区別について

Posted by Shota Maehara : 1月 2, 2012

他方、同じように重要なことだが、哲学の内容とは生きた精神の領域において根源的に発生し、いまなお発生しつつあるものが、意識内外の充実した世界になったものであること―つづめていえば、現実そのものが哲学の内容をなすこと―、そのことを哲学は理解しなければならない。この内容を直接に意識することが、「経験」と呼ばれるものだ。世界を慎重に考察すれば、内外の広汎な事物について、移ろいゆく意味なき「現象」にすぎないものと、真の意味で「現実」の名に値するものとが区別される。同一の内容について、哲学とその他の意識とを区別するものは形式しかないのだから、哲学と現実の経験との一致がどうしても必要になる。少なくとも、この一致は、哲学の真理を判定する外的な試金石と見なされるので、この一致の認識からさらに進んで、自覚的な理性と存在する理性―との和解をもたらすことを、学問の最高究極の目的と見なさねばならない。

《注解》
わたしの『法哲学要綱』の序文に、

理性的なものは現実的であり、
現実的なものは理性的である、

ということながある。
 
この単純な命題は多くの人びとを驚かせ、敵意を招くことにもなったが、哲学のみならず宗教をも所有していると主張する人びとさえも、敵意を隠さなかった。宗教についていえば、神の世界支配というその教義は右の命題を明々白々に表現したものだから、ここで引きあいに出す必要はあるまい。が、哲学的な意味にかんしていえば、神が現実的な存在であること、もっとも現実的で、真に現実的な唯一の存在であること、のみならず、形式面でいうと。この世にあるものはその一部は「現象」であり、残りの一部だけが現実であること、そうしたことを知るには、それなりの教養を積む必要がある。日常の生活では、ちょっとした思いつきやあやまりやまちがったことやそれに類すること、さらにまた、退化して消えていくような存在までが、なんでも、目につくままに「現実」と名づけられる。しかし、日常の感覚からしても、偶然の存在は、あえて現実的と呼ぶには当たらない。偶然の存在とは、可能な存在という以上の価値をもたず、あってもなくてもよいものなのだ。わたしが「現実」というとき、わたしがどんな意味でそのことばを使っているのか、よく考えてもらいたい。わたしの精細な『論理学』(一八一二~一六)では「現実」という概念もあつかわれていて、「現実」は、存在の一角を占める偶然的なものから区別されるだけでなく、「そこにあるもの」や「げんにあるもの」などからも厳密に区別されている。

理性的なものが現実的だという考えは、理念や理想が幻想にすぎず、哲学はそうした妄想の体系だという考えと対立するだけでなく、逆に、理念や理想は高貴にすぎて現実に降りてこられない、とか、無力にすぎて現実へと至りつけない、といった考えとも、きっぱりと対立する。ところが、おのれの抽象観念の夢を真なるものと見なし、「こうあるべきだ」という発想を、とりわけ政治の分野で振りかざして得意になる分析的知性ときたら、現実と理念とを切り離すことが、とくにお気にいりなのだ。世界が分析的知性に期待しているのは、世界がいかに「あるべきか」を経験することで、いかにあるかの経験ではない、といわんばかりだ。あるべきすがたが現実のものとなったら、こましゃくれた「あるべき」はどうなることか。一定期間、特定の場所で、相対的に重要な意味をもった、些細で、外的で、はかない対象や制度や状態にたいして、「こうあるべきだ」を対置するのは理にかなっているし、その場合には、正当な一般観念に合致しないものが数多く見いだされもしよう。身のまわりを見わたして、あるべきすがたを現実にとっていないものをあれこれ見つけるぐらいの賢さは、誰にでも備わっている。が、そんな対象やそんな「あるべき」が哲学的な関心領域にまで通用すると考えたら、それはとんだお門ちがいというものだ。哲学のあつかう理念は、「あるべき」ものにとどまって現実にあるものとならないような、そんな無力な理念ではないし、哲学のあつかう現実はといえば、永遠の理性につらぬかれた現実である。些細で、外的で、はかない対象や制度や状態と見えるものは、たんなる表面的なありさまにすぎない。(ヘーゲル『論理学』五一~五三頁)

現実と思考ないし理念とを俗っぽく対立させるのは、よくおこなわれるところです。そして、その対立を踏まえて、ある思考が理にかなって正しいことにはなんの異議もないが、ただ、その思考は現実的ではないし、現実に実行できない、といういいかたがよくなされる。が、そんないいかたをする人びとは、自分が思考の本性も現実の本性も的確に把握してはいないことを証明しているだけです。右のいい草では、思考は、主観的な想念、計画、意図などと同義とされ、現実は、外的で感覚的な実在と同義だとされています。カテゴリーの使いかたや表示のしかたがいい加減な日常生活では、まあそれでもよく、たとえば、一定の税制計画、ないし、税制のいわゆる理念が、それ自体ではまったくよくできていて目的にかなっているが、いわゆる現実には合わず、あたえられた状況のもとでは実行できない、ということもあるかもしれない。が、抽象的・分析的な知性が二つの規定をとらえてそのちがいを強調し、現実と思考のあいだにはどうにもならない対立があるから、現実の世界では理念を頭からたたきださねばならない、というとき、その考えは、学問と健全な理性の名において、断固として拒否されねばなりません。まず理念だが、理念はわたしたちの頭のなかに隠れているだけのものではまったくなく、また、それ自体はまったく無力で、それを実現するかどうかはわたしたちの胸先三寸にある、というのでもなく、むしろ、みずから実現へとむかう現実的なものであるし、他方、現実は現実で、思考を欠いた実践家や、思考が苦手で思考は落第の実践家が勝手に想像するような、そんなくだらない非理性的なものではない。たんなる現象とは区別される現実は、内と外の統一体として、理性の反対側にあるようなものではなく、徹底して理性的なものであって、理性的でないものは、もうそれだけで現実的なものとは見なされないのです。その意味で、たとえば、すぐれた理性的な仕事をなしとげられない詩人や政治家を、現実的な詩人ないし政治家とは認めない、といった教養人は、現実という語の用法をよくわきまえているということができます。

ここに述べたような通俗的な現実のとらえかたに加えて、手にとることができ、直接に知覚できるものと現実とが混同されることにもなると、それは、アリストテレス哲学とプラトン哲学との関係についての、広く行きわたった先入見の原因ともなる。その先入見によると、プラトンとアリストテレスのちがいは、前者は理念を、理念のみを真理だと認めるのにたいして、後者は、理念を捨てて現実に即(つ)き、それゆえに、経験主義の創始者ないし唱道者と見なされる、という点にある。その際、注意すべきは、現実がアリストテレス哲学の原理をなすのはたしかだが、その現実は、直接目の前にある卑俗な現実ではなく、理念が現実となったもののことだという点です。アリストテレスがプラトンに異を称えたのは、プラトンの理念(イデア)がたんなるデュナミス(潜在態)でしかないことにたいしてで、二人がともにそれだけが真理だと考える理念は、その本質からして、エネルゲイア(顕在態)―内なるものがそのまま外に出たもの―でなければならず、内と外の統一体でなければならない。それが、アリストテレスのいわんとするところです。わたしたちのいう強い意味での現実とは、アリストテレスのエネルゲイア(顕在態)に相当します。(ヘーゲル『論理学』三一一~三一二頁)

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ヘーゲルの哲学を読む1―精神の弁証法について

Posted by Shota Maehara : 1月 1, 2012

神の永遠の生命は、自己を発見すること、自己を意識すること、自己と一致することに等しい。その過程で自己を疎外し、分裂することも生じるが、自己を発見するために、まず自己を疎外するのは精神の、理念の特質である。この動きこそが自由そのものなのだ。なぜならば、ものごとを外側から見ていてさえ、他人に依存せず、抑圧されず、他人と深い関係にない人間は自由だというではないか。精神は自己に還ることによって自由を達成する―この普遍的動きは実は、精神の一連の形態にほかならない。これを直線的な動きと考えてはならない。自己に還る円なのだ。この円は無数の円に囲まれている。発展(ビルドゥング)とは抽象的無限に向って進むことではなく、自己に還ることである。(ヘーゲル『論理学』)

したがって、精神が自由に向って展開していくという進歩の過程は、自然への隷属から解放されていく過程でもある。(ヘーゲル『歴史哲学講義』)

矛盾はあらゆる運動と生命性の根源である。あらゆるものはそのうちに矛盾をもつかぎりにおいてのみ運動し、そのかぎりにおいてのみ物をつき動かし、また活動しようとする性質をもっている。(ヘーゲル『大論理学』「矛盾」)

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