I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

Archive for 2010年7月

人間の忘れっぽさ

Posted by Shota Maehara : 7月 25, 2010

人は忘れゆく存在
喜びも 悲しみも 幸福すらも

ただ 懐かしい過去の風に吹かれて
心の中に寂しさを抱えている

人は慣れてゆく存在
人のありがたみも 誰かからの愛情も

空気のように無感覚になっていき、
全てを失った時、その本当の価値に気づく

人は離れてゆく存在
あるべき場所からも 光のあたる場所からも

人は素晴らしいものをもとめるが、
やがてそれにも慣れてしまう。だからまた求める。
まさしく欲望には限りがない。

私は知りたい
我々は一体いつまで求め続けるのか。
そして、何を求めているのか。

霧のなかにこそ真実はある

(2010.7.25 Akizukiseijin)

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月夜に吠える

Posted by Shota Maehara : 7月 18, 2010

道端にうずくまる酔いつぶれた男のように
 私の心も 世界とのコミュニケーションを
        閉ざして蹲(うずくま)る

他者と分かりあうこと これほどの神秘が
   この世の中にまたとあろうか
  誰もが自分のことは自分しか知らないと
   自らの殻に閉じこもる中で、
  孤独という代償を払って、得た静寂に
          何の意味がある

人と交わらない生活を望む君
だが、君は本当の孤独というものを知っているのか
 もし人が一生独りで生きられるのなら
       言葉をもつ必要もなかった

夢のような人生で、消えゆく泡のように
      自己の存在も一瞬にして消え去るのみ

(2010.7.17 Akizukiseijin)

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ライフ・ワークのすゝめ―芸術の自律性について

Posted by Shota Maehara : 7月 15, 2010

少し前のこと、私は偶然に手にしたある外国の詩人の詩集に感動した。その本と出会ってからしばらく私は放心状態になって、やがて眼の前の風景が一変する経験をした。いかに自分が眼の前の世界を見ていなかったか。日々眼の前で起きていること、眼の前の一人から無限の情報を引き出すことをせずに本ばかり読んでいたことの愚に改めて気づかされた。とりわけこの作品に添えられた次の前書きの一節は私にあることを想起させた。

「この書に依然として変わらぬ人間の言葉の価値があるとすれば…」(サンドバーグ『シカゴ詩集』)

「人間の言葉の価値」。何という素晴らしい表現であろうかと私は思った。それは多くの人にとって言葉は情報を相手に伝達するために手段でしかないかもしれないが、詩人にとってのそれは違う。詩人にとって言葉とは、意味を伝えるものではなく、それ自体に普遍の価値をもつものだからだ。それは私が常日頃考え喋っている「芸術の自律性」という問題と結び付くのだ。

実はサンドバーグが先の「人間の言葉の価値」という言い方で言おうとしているのは、言葉は伝達手段であるから素晴らしいという意味ではないのはもちろんのこと、誰かを感動させるから芸術の言葉は素晴らしいという意味ですらない。むしろ、そうした何かの「役に立つための存在」という有用性の鎖から言葉と私たち自身を解放するこことなのである。

私たちは資本制社会の中に暮らしている限りあらゆる物事は意味や存在価値をもつ、いや、持つべきだという偏見にとらわれている。例えば私たちが朝ご飯を食べるのも仕事に行くため、仕事に行くのも給料を稼ぐため、給料を稼ぐのも家族を養うため…この「ため」の原因と結果の鎖は半永久的に続いていく。この社会で生きていく以上この連鎖から逃れることはできない。近年はさらに能力社会と呼ばれ、誰もかれもが能力や実績を誇示し、周囲から認められることで有用な人材として存在価値を高めようとしている。

しかし、実際誰しも悟っていることだがこのゲームに終わりはない。一生勝ち続けなければ生き残れないレースなのだ。休むことも赦されず、ひたすら実績を上げ続けなくてはならない。時には友人や恋人や家族と過ごす時間を犠牲にしてまでも利益を会社にもたらし続けなければならない。確かに経営者もそれこそ出来るビジネス・パーソンであり、人間は仕事で成長するなどどと嘯くが、20年間この調子で突っ走たところで、男と女も年金手帳と引き換えに産業廃棄物の様に取り換えられるだけである。まさに生きているだけの中身のない空っぽの人形と同じだ。

おそらく芸術家という人種は、人類の歴史の中で最も早く敏感にこの問題を感じ取った生き物である。役立つという目的合理性からそれた存在として、ギリシャの哲学者プラトンは芸術家を国家から追放しようとした。また弟子のアリストテレスは一種の政治的不満のガス抜きとして演劇のカタルシス効果を認めある程度容認した。おそらくプラトンは民衆を権力によって支配する政治的な空間や秩序と別に、それと拮抗してくるかのようにして芸術が生み出す独自な空間に危険性を察知したのであろう。

このプラトンの危惧はあながち間違ってはいない。なぜなら、政治空間もまた経済空間と同様に「目的合理性」(無駄を省き、効率を良くする)に沿って作り上げられているからである。人間もその組織やシステムの中では取り換えのきく道具や部品に過ぎない。こうした流れに唯一対抗できるのは私の知る限り「共同体」の相互扶助や互酬であり「宗教」や「芸術」の無償性・無目的性である。何者にも奉仕しないこと、存在するだけで価値がある。それこそが神の無償の愛(アガペー)であり、また詩や音楽や絵画や彫刻のもつ自律性なのだ。

私たちは今希望のない時代に生きていると言われている。しかし、希望とは世の中や社会といった自分の外側にあるものではない。むしろ、自分の内側から外部(神、世界、自然)との啓示や対話を通して見出してきた者ではないのか。果して本当にいい時代というものがあったのかどうか私は疑問でならない。常に時代や人生は苦難に満ち、その中で「幸福」という名の答えを誰しもが探し求めてきた。

その意味で、私はこう思う。人生の勝利者とは、芸術家の自律的世界のようにどんな時代でもこれをやってさえいれば自分は幸せでいられるといういわゆる「ライフ・ワーク」を見つけ出した人なのではないだろうか。ただし、それは趣味とは似て非なるものだ。かつて私も音楽で生きていこうと考えた時期があった。その時作曲のために無数の楽曲を聴いていた。やがて、自分は音楽の才能はないとあきらめ、知的なものの世界ならば一%の可能性に賭けられると人生の選択を決めた。そして自分のCDのなかで音楽をやめてもなお聴き続けたいと思えるものが二、三枚しかないことに愕然とした。生きていくためにどうしても必要なものをとることこそ真のライフ・ワークだとするなら、私の場合、音楽は趣味の領域でしかなかったのである。

カナダのフレデリック・バックが制作した『木を植えた男』という素晴らしい作品をみなさんはご存じだろうか。家族を失った男が第一次大戦と第二次大戦の両大戦を越えてひたすら南フランスの荒野に木を植え続けた話である。やがてその男の静かなる不屈の精神は荒野を緑に変え、そこに何万人もの集落ができる。ただし奇蹟にも似た彼の営為を知る者は偶然知り合った語り手とその友人、そして神だけなのである。物語の中で、友人は言った―「彼は人生を幸福に生きる最高の方法を見つけたのだ」と。

我々もまた芸術において、また人生において、自分の中に自律した世界を作り上げられたなら、これこそが幸福であり、人生に勝利するということなのではあるまいか。希望とは社会が与えてくれるものではない、めいめいが自分の中からから見出していくものなのだ。

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「進歩」という名の逆風

Posted by Shota Maehara : 7月 15, 2010

人は生きるために働くのか、それとも働くために生きるのか。
涙とともに故郷を追われ、家族を奪われ、命さえも奪われる。
人間とはなんと憐れな生き物であろうか。

安らぎもなく、精根が尽き果てるまで働き続け、
命を枯らして、そして死の床に横たわる。

終電で体を弓なりに曲げて眠り込む仕事帰りの乗客。
その姿は、祈りのようにも見える。体を支えられず、
隣の乗客にもたれかかる疲れた男と女。
この夜の墓場。

ゆらゆらと亡霊のように体を左右に揺らしながら、
隣の乗客が席を立つとシートに頭を打ち付ける。
そしてふたたびその単調な動きを繰り返すのだ。

ふと目覚めたときここが天国ではなく、死の谷へ向う、
鉄の箱舟であることに気づくまで。

物のすれ合う音、軋む音、ぶつかり合う金属音。
それは死の谷の住人が奏でる「交響曲」」(symphony)。
下品な哄笑が混ざり合う。一列に並んだ揺れる吊革。

彼らの顔の皺一つ一つが物語るのは、破れたかつての夢の跡。
それは一つの象形文字のように、不気味に闇夜に浮かび上がる。
感傷的な物語。だが誰もそれに見向きもしない。
映画のエキストラ、名もなき者たちに感情移入する客はいない。

いまや貨幣を介して世界は変わる、社会も変わる、
そこに住む人間の精神を置き去りにして。

切なさや情熱とは無関係に新しいものが地上に生み落とされる。
否応なく私たちはそれを受け取り、自らの生活を変えてゆく。
「進歩」という名の逆風、それが善か悪かを誰が知ろう。

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鉄道―その光と影

Posted by Shota Maehara : 7月 13, 2010

脚色された都会のネオンから錆びついた郊外の街灯へと
疲れてふだんより重くなった体を引きずりながら帰る夜
人もまばらな駅の階段で、赤黒い棒のようなペンが落ちていた。

私はその一本のペンを拾い上げた。
そして、このペンの持ち主は果してどんな人物であったのだろう、
一体、どんな経緯で私の手元に来ることになったのかと、
とりとめのない空想に耽った。

その時に不思議と、
私はけだるい体の内側に新鮮な力が蘇ってくるのを感じた。
何らかのきっかけは思いがけずふとしたところからやってくる。

まさに詩を書くことは、このペンの運命のようだ。
どこからともなく現れて、またどこかへ去りゆく
持ち主が言葉を選ぶのではなく、
言葉が自ら詩となるためにその持ち主を選ぶように。

しばらく世界を見ることを忘れていた私の眼は
夜の静寂と闇を疾走する夜の列車に揺られながら
車窓の外に向かっていた。

一体これから私はどこに運ばれていくのだろう。
そうした疑念とともに、しかし、書くこと、
ただそれだけが唯一の答えだ、という心の声が聞こえる。

夜の車内。顔を失った顔。髪をかき上げるしぐさ。
若さを内に秘めながら、いまだその輝きを燃やすことなく
持て余すようにして途中の駅で列車を降りる女性。

それこそこの時代の最良の隠喩(metaphor)ではないか。
誰からも見捨てられ若さを切り売りする以外に生きる術のない
醒めた老人の国。散乱した人々の魂よ。

(2010.7.13 Akizukiseijin)

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信仰について

Posted by Shota Maehara : 7月 2, 2010

“信仰は教えるものではなく、燃えうつるものである。伝道とは、私たちが神のために働くことではなく、神が私たちを通して働いて下さることです。神を信じないのは、信じたくないからだ。”(ベルナノス)
“キリストが死なれたのは、わたしのため、あなたのため、全ての人のため。ここに例外はない。試練の中で、神の恵みの大きさを知り、新しい命を受けて立ち上がることができる。それが信仰の証となる。キリストなしでは、我々は神を知らず、神を呼ぶこともできず、神に行くこともできなかった。キリストは、神に至る道と、兄弟に至る道とを開きたもうた。”(ボンヘッファー)

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