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Shota Maehara's Blog

Archive for 2013年1月

教会における若い信徒へー「きちんと悩もう。そこに主は寄り添ってくれるのだ。」

Posted by Shota Maehara : 1月 26, 2013

asking_for_help_from_christ教会における若い求道者や受洗者が霊的に成長していくために、周囲の大人がどう向き合っていったらよいかを祈り考えていたところ、その祈りに対して主が答えを示されたように感じた。私がふいに思い出したのは、昨年行われた日本同盟基督教団の宣教121周年記念大会でKGKキリスト者学生会主事の大嶋重徳さんがしてくれたスピーチであった。大切な内容であるので分かち合うために私がここに要約してまとめることにする。

話に先立って大嶋主事は、今の時代がすべてが相対的な価値しか持たない「ポストモダン社会」であるという点を強調された。その上で、まず聖書に見る若者の特徴、長所として「きよさ、力強さ、将来性、希望」を挙げ、また短所として「葛藤、混乱、未完成性、途上性」を挙げられた。そして、青年期特有の課題と若者を取り巻く現状を次のように分析する。

1.<青年期特有の課題>
①本当の自分とは何かというアイデンティティの問題
②愛するとはどういうことかという問題
③どこに進むべきか、何をやるべきかという進路の問題

2.<若者を取り巻く現状>
①家庭の複雑さ
②性的な倫理観の変化(特に女性)
③優しすぎる学生(KYなど)
④判断基準がフィーリング(心が合えばO.K.)

これらのどれもが若者と日々接していて頷けるものばかりだが、最近の若者の傾向としては、その多くが心に安らぎを求めて教会に来るが、神様を感じたいという理屈抜きのスピリチュアルな人が多く、信仰もまた相対化で押し付けられるのを嫌い、だんだん聖書を読まなくなっているという。

多くの教会の大人の信徒たちはこうした若者に対して、奉仕の失敗を責めたり、自分たちの立派な信仰を語ろうとしてしまう。そして、最後は若者の成長のなさに失望してしまうかもしれない。

しかし、教会に求められるのは次のようなものであると大嶋主事は語る。すなわち若者に届く説教、聖書の学び、特に「失敗に付き合う大人達」である。言い換えれば聖霊が教会に寄り添うように「若者のそばにいて励ます大人の存在」だ。その際には立派な信仰や成功談よりも、失敗や挫折の共有が大切であると語る。

次に、教会と若者の関係について重要だと思う指摘を以下に引用する。

3.<教会と若者の関係>

①「キリストのからだなる教会は、成長し続ける有機体であり、地上では終末の完成を夢見る存在。決して完成しない「途上性」と「未完成性」を持った存在」

②「教会は、歴史の中で絶えずその傍らで教会の成長を忍耐とうめきを持って執り成してこられた聖霊なる神の存在によって成長してきた。」

③「若者の側で執り成し、祈り、失敗に付き合い、諦めずに祈り続ける存在は、キリストのリアリティーを差し出すことのできる教会へと成長させる。」

④「教会は、自らと同じく未完成で途上にある若者と共に生きることによって、健全な自己認識をなし、聖霊論的な教会形成をなすことができる。」

⑤「若者宣教は、教会が伝統と呼んでいたものの本質を問い、我々の受け継いできた信仰の告白を再点検される営み。」

⑥「教会が若者と生きることは、自らが真の教会として生きる出来事である。」

では、そのような教会の役割に目覚めた大人達は、具体的に若者に対してどう接していったらいいのだろうか。それは、何よりも若者に寄り添って「忍耐を持って祈る」ことだと大嶋主事は言う。さらにこの点もまとめておこう。

4.<忍耐を持って祈る>
①時間をかける。
②一般的な若者などどこにもいない、目の前にいる若者こそ、若者伝道の出発点。
③同労者としての尊敬を持って、人格的に交わる。

最後にKGKの大嶋主事のメッセージとして私が強く心に残った言葉をここに書き記しておきたい。それは若者と長く向き合ってきたからこそ言える本当に彼らの心を知っている人の言葉だ。すなわち、「きちんと悩もう。そこに主は寄り添ってくれるのだ。」

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「死線を越えて―賀川豊彦物語―」

Posted by Shota Maehara : 1月 26, 2013

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日々雑感ー山室軍平と新島八重について

Posted by Shota Maehara : 1月 26, 2013

山室軍平1ここ数ヶ月日本の優れたキリスト教徒の著作や説教を読んでいます。その中で、山室軍平という方がおります。日本救世軍の創設者の一人で、キリスト教社会事業家として知られている方です。

日本救世軍の創設者の一人で、キリスト教社会事業家として知られている方です。また新島襄の同志社大学の出身で、「平民の福音」という優れた本を残しています。

その繋がりで新島襄の妻、新島八重の葬儀の際には彼女の遺言により説教を行いました。

明治から昭和にかけて、日本には優れた信仰者であり、知識人でもある方が日本に大きな影響を与えていたのだと思わされる日々です。その中には私と同じ大学出身賀川豊彦という方もあり、自分のことを省みています。

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「聖なるもの」としての信仰者ーレビ記19章2節から

Posted by Shota Maehara : 1月 26, 2013

060209_dismas_thumb「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」ーレビ記19:2

この聖句から、私たちは神によって「聖なのもの」とされるが、同時に聖なるものとなることを求められてもいるというメッセージが読み取れる。

しかし、それは決して義務ではない。もし義務感で人間が礼拝を捧げても神は喜ぶだろうか。そこに人間の自由意思の余地が神によって残されている理由がある。

すなわち、先に神の愛による救いがあり、自らの行いによらず、存在の喜びに立って私たちは生きることができる。そして、もしその喜びと感謝が大きければ、自ずと神の愛に応答して積極的に生きたいという気持ちが生まれる。このことを神は人間に望んでいらっしゃるのではないだろうか。

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教会の社会的役割についての雑感

Posted by Shota Maehara : 1月 26, 2013

1246611939教会の中だけで福音について語ることではなく、教会の外へも福音を語ることは、私が召しを受けて以来たえず私がしなければならないと痛切に感じている役目です。

また、教会が地域で絶海の孤島のように存在しているだけでなく、ある役割を持って社会と関わっていかなければならないということ感じています。

それにはそれぞれのキリスト教会が自分たちしかできない「社会的役割」とは何なのかを見出さねければならないと思います。

例えば、それは挨拶をすることでしょうか、ゴミ拾いをすることでしょうか、炊き出しをすることでしょうか、あるいはクリスマス会を開くことでしょうか。

もちろん、それらはどれも大切なことです。しかし、もっとその土台となる重要な役目があるのではないでしょうか。

では、一体それは何なのか。現代のような閉塞感に満ちた社会において、私たち教会だけが果たすことのできる役割とは何なのでしょうか。

私は、それは原点に返ること、すなわち、「福音」をいかに外へ宣べ伝えるか、どう社会で実践してくか、そして福音を通して地域共同体の交わりのハブになっていけるか、この点にヒントが隠されているような気がします。

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信仰のリバイバルのための哲学入門

Posted by Shota Maehara : 1月 24, 2013

9.11人間の価値とは、他の人との関係性の中に埋め込まれていますが、それゆえ各々が自分の価値を相手に認めてもらうために承認をめぐる闘争が起こります。例えば、職場では、同僚が能力を誇示し合っているために、ギスギスしているなど光景がよく見られます。

ここから分かるのは人間の関係は根本的に暴力を孕んでいるということです。さらに、20世紀に入り、フロイトは今まで理性を持った合理的な存在だと思われていた人間の根底に「無意識」という領域を発見し、その領域には「生の欲動」に加えて、「死の欲動」という人間の攻撃性が横たわっていることを主張したのです。

日本の哲学者の柄谷行人氏は、『倫理21』の中で、神戸の須磨区の少年による連続殺人事件などを深く掘り下げながら、人間の攻撃性はどんなに平和的な教育をしても完全になくならないと主張しています。

もちろん哲学は理性によって、その対立や暴力を緩和するために歴史的に国家を作り、あるいは貨幣を作りました。また国連を創設するなどこうした国家と国家の暴力性を抑止するための方法を考えてきました。

しかし、そのどれも今日のグローバルな規模での格差や民族主義あるいはイスラム教徒などの宗教対立の前に無力となってきています。そして人間の暴力性を抑制するために文明が考え出した「教育」というシステムも日本において崩壊しつつあります。

では、この危機の時代に、キリスト教の聖書や神学を学んでいる私たちはどう応答して言ったらいいのでしょうか?福音は、主イエス・キリストこそがこのような人間の罪による無限の対立に終止符を打つべく地上に来て、救いの道を備えてくださったのだと私たちに示しておられるように思います。その上で、各自がなすべきことを実践していくことが今、求められているのではないでしょうか。

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ふたたび和解と希望について―脱原発デモの終焉

Posted by Shota Maehara : 1月 21, 2013

反原発デモ首相官邸などの脱原発デモ関係者の間では無力感が広がっているそうです。自分たちの考えとは逆の方向に日本が進んでしまったことからくる挫折感のようです。もしこれを悪しき前例としてデモのない国に戻るとしたら問題です。大切なのは経験であってデモだけでは不十分であるということを学ぶことです。

またキリスト者は粛々と社会に倫理的な議論ができる土台作りを続けていくべきであると思います。人間の基準はかならず時とともに変化しますが、神の基準は変わることがありません。聖書に示された神の義に照らして、私はこの原発の問題に反対をし続けていくつもりでおります。

しかし、脱原発デモが終焉した今、私が左翼の理論家やキリスト教関係者に愛をもって問いかけたいのは、人間や社会を一足飛びに理想主義的に描かないで欲しいということです。例えば、即全原発廃炉、世界平和などは一度でも社会に出て働いた経験があれば無理だと容易に分かるでしょう。

だから、左翼は現実主義を共に持ち合わせ、キリスト者は人間の攻撃性や原罪の根深さをも直視すべきだと思うのです。その長い過程を経て、理想や福音を語ることができるならばその教えは「力」を持ち、人々の心に強い影響を与えることができるでしょう。

レ・ミゼラブル1例えば、「レ・ミゼラブル」が文学作品として、ローマ書7章の惨めな罪の意識で苦しみ、辛うじて光が差してくるところで終わって、8章以降の福音の圧倒的な喜びが語られていないことは欠点ではなく、むしろ優れた文学作品であることの証しです。

なぜなら、そこにいつの時代も大半の人々が陥っている救われない現実があるからです。その逆境の中で、キリスト者がいかに福音の力を現代に蘇らせることができるのかが問われているのだと思います。

主よ、福音は心の貧しきものに宣べ伝えられると教えてくださいました。それは奇跡にも思われました。しかし、確かに私たちは救われここに立っております。どうかキリストに召し出された者として、世の光として、この世界に生きる私たちを御光によって輝かせてください。アーメン。

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祈り

Posted by Shota Maehara : 1月 21, 2013

主よ、自分たちでは罪の沼から這い上がる力のない私たち人間を憐れんでください。そして、顔を上げ、あなたの愛の御姿を仰ぎ見ることができますように。あなたは功績のゆえに愛したまわず、先んじて私どもを愛したもうたからです。あなたの愛を信じ、あなたのもとにとどまらせてください。アーメン。

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信仰という旅路について

Posted by Shota Maehara : 1月 21, 2013

私は兄弟姉妹との交わりの中で、「信仰」とはひとつの道を行く旅のようなものではないかと気づかされました。つまり、「主われを愛す」という確信に気づくことから始まり、あらゆる苦難を超えて、さらに強い「主われを愛す」という確信に立って人生の最後を迎える長い旅なのではないでしょうか。感謝。

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「主、われを愛す」―カール・バルト

Posted by Shota Maehara : 1月 21, 2013

現代神学に大きな影響を与えたスイスの神学者カール・バルトは、戦後ある人に生涯聖書を研究して、あなたは何を学びましたかと聞かれた時、バルトはこう答えたそうです―「主、われを愛す」と。聖書はこの唯一つのメッセージを私たちに伝えようとしていることは何と素晴らしいことでしょうか。

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