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Shota Maehara's Blog

Archive for 2011年9月

人間とその精神について―セーレン・キルケゴール

Posted by Shota Maehara : 9月 27, 2011

「精神生活にあってはすべてが弁証法的である。」(『死にいたる病』、一六八頁、欄外の注)

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アドルノに関するノート6―力とは否定的なものに我が身をさらすことである

Posted by Shota Maehara : 9月 25, 2011

「しかし危険は、運動に所属する人びとの中で好奇心を燃やす人の数がわずかでしかないことであり、また彼らが音楽教育的音楽という穴だらけの屋根の下に隠れて安心し切ってしまい、戸外(フライエ)へ出て行こうという欲求―自由(フライ)になろうとする欲求―のあることを自分と他人のどちらにも告白できないことにあるのだ。事態を改善する第一の前提は、同じ考えの仲間たちから意見の一致をあらかじめとりつけたり、不愉快な異論に対しては、そんなこと先刻承知だなどと片づけてしまう代わりに、誤った安穏さから離れ、批判的思考を身に着けることである。力というものは自動的な防衛のかたちではなく、異和感をもたらす相手を真面目にわが身に近づけてみせる能力のかたちで発揮されるのである。」―(Th.W.アドルノ「音楽教育的音楽に対する九つのテーゼ」『不協和音―管理社会における音楽』)

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放蕩息子のたとえ(The Prodigal Son)

Posted by Shota Maehara : 9月 23, 2011

放蕩息子のたとえ(The Prodigal Son)

ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。

それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩(ほうとう)に身を持ちくずして財産を使い果たした。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。

そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

そこで彼は本心に立ちかえって言った、「父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」。

そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻(せっぷん)した。むすこは父に言った、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」。

しかし父は僕(しもべ)たちに言いつけた。「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのにみつかったのだから」。

ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、ひとりの僕(しもべ)を呼んで、「いったい、これは何事なのか」と尋ねた。僕は答えた、「あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです」。

兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」。

すると父は言った、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」。

―ルカによる福音書第十五章第十一節から第三十二節

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生まれつきの盲人を癒すイエス・キリスト

Posted by Shota Maehara : 9月 23, 2011

The Man Born Blind

As he passed by, he saw a man blind from his birth. And his disciples asked him, “Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?” Jesus answered, “It was not that this man sinned, or his parents, but that the works of God might be made manifest in him. “-John 9:1-3

イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それとも両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現われるためである。―ヨハネによる福音書第九章第一節から第三節

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善悪の彼岸について―畜群道徳への批判と未来の哲学者

Posted by Shota Maehara : 9月 20, 2011

岩波文庫版の帯にはこうある。「ニーチェ(1844‐1900)はキリスト教的道徳のもとに、また民主主義政治のもとに「畜群」として生きつづけようとする人々に鉄槌を下す。彼にとって人間を平等化、矮小化して「畜群人間」に堕せしめるのはこれら既成の秩序や道徳であり、本来の哲学の課題は、まさにこの秩序・道徳に対する反対運動の提起でなければならなかった。 」と。

同様の箇所を、第五章「道徳の自然誌のために」から引用しよう。

「民主主義の運動はキリスト教の運動の遺産なのだ・・・われわれは一つの別の信仰をもっている。―このわれわれにとっては、民主主義の運動は単に政治的機構の一つの頽廃形式と見られるだけでなく、むしろ人間の頽廃形式、すなわち、人間の矮小化の形式と見られ、人間の凡庸化と価値低落と見なされる。われわれはどこへわれわれの希望をつながなくてはならないであろうか。―新しい哲学者だ。」―フリードリッヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』

ここから彼はあらゆる価値の価値転換をこの新しい哲学の使命として提唱していくわけだが、果たして我々はニーチェと同様に、民主主義とキリスト教への批判へと進むべきであろうか。おそらく否である。自らの命をも死の危険にさらす事も含むいわゆる「力への意志」は現代の閉塞状況を突破する一つの解答ではあろうが、それは一つの悪魔を別のもっとたちの悪い悪魔によって追い出すだけにならないとは限らない。それは後のナチス・ドイツの台頭の歴史が証明している。

おそらく本質的な答えは、ニーチェが見ていたところとは別の所にある。ニーチェが批判していたキリスト教とは別の可能性、すなわちイエス・キリストそのもののなかに。なによりも哲学的にキルケゴールが解明しようとしたキリスト教のパラドックス(直接伝達の不可能性、質的飛躍、躓きの可能性)のなかにである。私は信仰者としてこの遺産を受け継ぐ者である。

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Patty Griffin – Rain

Posted by Shota Maehara : 9月 16, 2011

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ヘーゲルの哲学を読む―失業について(売れ残った労働力商品の絶望)

Posted by Shota Maehara : 9月 15, 2011

「死の観念吹き込むひとを隷属化する恐怖からの解放は、一人の他者に奉仕し、自己を外化し、もろもろの他者と結びつくことによって果されるわけである。他方、労働による教化―形成(※自己陶冶)がないならば、畏怖は心胸の内に留まり、唖であり、意識はみずから自覚的とはならない。実在する客観的な世界を変貌せしめる労働がないならば、人間は現実に自己を変貌せしめることができない。仮に人間が変化するとしても、その変化は「内なる」もの、純粋に主観的なものに留まり、ただ自己だけに開示されるにすぎず、「唖であり」、他者には伝達されない。この「心胸の内」の変化のために、彼は変化しなかった世界及びこの変化しなかった世界と結びついている他者と乖離してしまう。したがって、この変化は人間を狂者、犯罪者へと変貌せしめ、いずれ彼は自然的かつ社会的な客観的現実によって抹殺されてしまう。主観的観念は当初客観的世界を乗り超えて行くのだが、ただ労働だけがこの主観的観念と客観的世界を終局において和解せしめ、その前に不安を覚え、畏怖を感じ、そのため充足されえなかった所与の世界を―畏怖に駆られながら―乗り超えようと試みるすべての人間の態度にまといつく狂気と罪との境地を消し去ることができる。」(アレクサンドル・コジェーヴ 『ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む』、「第一部 序に代えて」より) ※斜体は筆者による補足

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自分の頭で考え、自分の言葉で表現すること

Posted by Shota Maehara : 9月 15, 2011

それがたとえどんなに稚拙であったとしても、他人の受け売りではなく、自分の頭で考え、自分の言葉で表現することを始めない限り私たち日本人はここから先一歩も前へ進むことはできないであろう。

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フリードリッヒ・ニーチェ―近代における最後の道化役者

Posted by Shota Maehara : 9月 13, 2011

“ニーチェは世界に絶望していたのではない。ただ自分自身に絶望していたのだ。そして、罪とは絶望のことである”

ポストモダンの予言者・ニーチェは、近代をこう規定している。すなわち、キリスト教や民主主義によって代表される大衆という弱者のルサンチマン、あるいは奴隷道徳が支配力をもつ過程であったと。そして、ニーチェは「神は死んだ」と宣告することによって、大いなるニヒリズムの時代が到来することを予言した。

確かに、ニーチェの指摘の正しさは、今日のポストモダンの「最後の人間」を連想させる刹那的なライフスタイルによって裏書きされているように見える。すなわち、アレクサンドル・コジェーブ流にいうところの、「実質を抜き取られた形式」と定式化できるような現象である。

例えば、資本主義の商品を眺めれば枚挙にいとまがない。伝えるべき内容をもたず、技巧的に洗練された小説群(村上春樹、よしもとばなな)。さらに、コーク抜きのコーラ、ノンアルコールのビールなど。そしてこのことは労働力商品である人間にも当てはまる。生きる目的をもたずただ美しく健康に生きることだけを願うわがポストモダニストたちにおいて。

しかし、自身が著作のなかで認めている以上に、ニーチェ自身こそこうしたニヒリストの哀しむべき例ではないのだろうか。彼の著作は、哲学ではなく、文学であり、今までの病者の思想に対して健康者の思想を提唱する一方で、彼は従軍した後、細菌に感染しベッドの上で介護されて過ごした。そして、精神にも異常をきたし最後は発狂して死んだのだから。彼こそが弱者であったと言えなくもないだろう。

セーレン・キルケゴールは『死にいたる病』の中でこう述べている。絶望している人間は、世界に対して絶望しているのではなく、本当は自分自身に絶望しているのであると。まさにこのことがニーチェにも当てはまるのではないか。ニーチェは弱者の道徳に絶望していたのではなく、弱者としての自分自身にこそ絶望していたのだと言えるのではないか。

もちろん、ニーチェは絶望にとどまってはいなかった。そこから、永遠回帰や超人の思想を生み出す強靱な精神力をもっていた。そこに彼の魅力や影響力があることは認めなければならない。しかし、その思想がナチズムと親和的であったことを考え合わせると、人生を真に肯定的に生きる思想とは言えないのではないか。

我々の時代には、根本的な治療が必要である。そして、それは、人を愛し、生かすものでなければならず、アイロニカルな文学的な比喩(メタファー)ではなく、きちんとした理論や認識としてとして示されなくてはならない。絶望している人間に、世の中を治療することはできない。ニーチェはその意味では、近代の墓標である。我々はその墓標につまずかないように注意しなければならないのだ。

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神なき時代の信仰をめぐって―ポストモダンのニヒリズムからの決別

Posted by Shota Maehara : 9月 12, 2011

信仰は危機意識から生まれる。すなわち時代に対する危機への予兆を感じ取ると同時に、理性自身の批判的な眼差しによって、自らの認識の限界に身をさらし続けること。他者からの声を待ち続けること。それが信仰である。

そこには恐ろしいまでの謙遜さが要求される。なぜならば、人間の義はつねに偽りであり、神の義こそが正しいものであるからだ。しかし、神の義に立つことは、この世的な人間にとって不可能だ。我々に唯一可能なのは、偽りの人間の義を否定すること、そしてその瞬間に立ち昇る神の義の破片を集めることだけである。

我々は今日のニヒリズムの危機において、もう一度神に従うか、人に従うかの二者択一に直面するだろう。ここに「あれもこれも」(ヘーゲル)という選択肢はありえない。ただ、「あれかこれか」(キルケゴール)があるのみである。今や我々は信仰だけでなく、人生を肯定的に生きるための信念までも失ってしまったように見える。しかし神の導きによって、自ら世界を変えることは可能なのである。そう信じて、一歩先へ歩め出さなければならない。

魯迅が言ったように、希望とは道のようなものである。それはあるとも言えぬし、ないとも言えない。ただ、そこを歩く人が多くなればそれが道になるのである。信仰もまた然りである。物質主義的な時代に染まった感性には見えにくくなっている、精神や観念の力をもう一度認識する必要がある。

ドイツの哲学者カール・マルクスは有名なフォイエルバッハ・テーゼの中で、つぎのような言葉を残している。「哲学者は世界をさまざまに解釈してきた。しかし、大事なことは世界を変えることである。」この言葉は実に多くの誤解を生んできた。大事なのは考えることではなく、行動することであるなどと。

しかしこの言葉は、思考におけるダイナミズム(運動性)を表現したものとして受け止められなければならない。例えばハイデッガーは動物は環境しか持たない。人間だけが意味に満ちた世界をもっていると述べている。その意味で我々が見ている世界は、機械のレンズを通したモノクロではない。また同一で単調の映像ではない。網膜に映じた無限の風景は、言葉を通して表象される。それが私たちの生き方を大きく規定している限り、それを精神や認識の力において変えていくことは、すなわち世界を変えることなのだ。

かくて我々現代人が欠けているものは、こういった目に見えない「信念」(精神、悟性、理性、信用、信仰、愛、希望、ユーモア)の力ではないだろうか。この終局の時代に抗して、次の世紀を生き延び得るのかは、この信念の力を取り戻すこと、この一点にかかっていると私には思われるのである。

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