コリント人への手紙第二4章7節です。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」。そう書かれています。私たちには何もありません。しかし、私たちのつまらぬ「土の器」の中に「神のかたち」「いのちの息」そして「神の栄光を知る知識」と「御霊」を宿しているということです。(78頁)
さらには、イエスさまも、こう語ります。「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7・11)…どんな状況の中でも、どのような境遇に置かれていようと、神はどこまでも私たちを愛し、私たちに良いものをお与えになろうとしておられます。エデンの園は神の人に対する愛情の表現であり、人をかこって、その恵みの中にいつまでも憩わせようとなさった神の御思いの表れでした。(81頁)
ともかく、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(17節)と神は命じられました。たった一本の木、その木において、神は人間に選択という自由を与えられたのです。自分で神のみこころを求めてそれを選び取る自由を与えられました。自分で神を愛することも、神を愛さないこともできるのです。ですからここには宿命論も決定論もありません。その上で神は人間の愛の応答を求められたのです。そこにこそ人間の尊厳があり、神の人間に対する尊重の姿を見ることができるのです。(84頁)
ところで、「善悪の知識の木」という言葉には、どんな意味があるのでしょうか。それは確かに、もう一本の「いのちの木」とともに極めて象徴的な意味合いを含んでいます。これにはいろいろな説がありますが、おそらく一番適切と思われる見解は、良し悪しを判断する「自律性」に関する知識ないしその権利を意味しているというものです。
これを食べるとき、神のように、自分の感情や周囲からの判断に基づいて、神に依存することなく、またそのみこころに求めることもなく、自律的に、ものの良し悪しを決めるようになる、ということです。ある注解者は、「子が親の監督を嫌って、自分で判断するようになる」というような説明の仕方をしていました。
そのような木から取って食べるならば、神のように完全ではないので、人間は自分の判断に基づいて自滅する以外にないのです。そればかりか、これは園を管理させようとされた主なる神の契約であって、約束に対する違反行為は、契約の破棄を意味しています。ですから、この実を取って食べることは、その実が持つ効力の問題以上に、また園での働きを剥奪される以上に、もっと致命的な状況を生み出すことになります。
「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」
神から失われ、交わりを断たれ、祝福から遠ざけられたのです。これが現代の私たちの状態です。(86頁)
神は愛です。愛するお方はその愛の対象を求められます。とすれば、人が創造されることは神にとって必然でもあったと考えられます。そしてそのような意味において、私たちは「神のかたちとして」造られました。私たちに「神のかたち」を認めることができるのです。「神のかたち」というとき、1章26節によれば、それは「われわれに似せて」という言葉と対応していますから、神に似るものとして、という意味です。(87頁)
互いが互いの分身であることを忘れて、二人で一つであるという意味での自分の欠けを認めず、互いに自律的な方向へと向かって、結果的に性の違いとそれから生じる互いの本質的な役割をことごとく否定することになるのです。私たちは、「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と語られた主の御思いに目を留めなければなりません。(95頁)
「サタンに欺かれるならば、誰ひとりこの誘惑に打ち勝つことができません。それほどに、サタンは強力な存在なのです。だから、たといサタンが背後で関わっていたにせよ、アダムとエバの責任ということに焦点を当てようとしているということでしょうか。ここでは、霊的な目に見えない神秘的存在が関わったというよりも、見える現実において、被造物の一つである蛇が関係し、その蛇に惑わされつつも、人自ら罪を犯したという客観的な事実が述べられていると考えるべきだと思います。そして、そのことゆえに彼ら自身が責められなければならないのです。(100頁)
人が自律的になって、善悪を自分で判断し、もはや神を必要としなくなっていくことを選ぶのではなく、どこまでも神との交わりを求めて、神にあらゆる判断をゆだねて依存する存在として生き続けることを求められたのです。このことこそ人をこよなく愛する神の思いでなくして何でしょうか。(105頁)
神の愛が見えにくくなると同時に、神の裁きについても割り引くようになります。神の愛を一方で強調しながら、結局その深い意味と手ごたえを得られず、同時に神の裁きを直視できなくなっていくのです。(108頁)
蛇はその木の実の魅力について語り、神との約束を破るという恐るべき課題から意識をそらさせます。神のようになれるという謳い文句は常に人間を魅了してきているのです。神を必要とせず、自分で、自律して生きることができ、事の良し悪しを自分で判断する自由を得るのです。自分が支配し、自分がそこに君臨し、すべてが思いどおりになるのです。目が開き、これまで見えなかったものを見通すことができるようになるということなのです。(109頁)
善悪の知識の木それ自体に問題はありません。ただ人間には重すぎるのです。あらゆることで自律を求められます。あらゆる倫理的な判断を自分でしなければなりません。結局人間は、これによって二つの問題を抱えることになったのです。契約を破ったことと、善悪の知識を得たこと、これに伴って、一つは契約違反の罪の問題とその罪責感を、そして自律を求めた結果がもたらす得体の知れない不安感や無防備なゆえの他者への不信感を持つようになるということです。(111頁)
そして何よりも、神が私たちに対してどんなときにも愛であり、徹底して誠実なお方であることを疑うことのないようにしたいと思います。エレミヤは、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31・3)という主の言葉を書き留めています。誠実を尽くし続ける神を決して忘れてはなりません。そして救いの恵みにあずかる者でありたいと願います。(112頁)
しかも結果的には、妻ばかりか神まで問題視するのです。彼は、「あなたが私のそばに置かれたこの女」と言っています。つまり、ついには、主がこの女を置かれたことに問題がある、と言っているのです。神に問題があるとまで言ってしまいます。神が人のところにその女性を連れてこられたとき、彼は何と言ったでしょうか。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」。彼はそう言って歓喜し、感謝しました。ところが、今は、それを問題とするようになりました。その恵みを否定しています。(120頁)-人間による神をも畏れぬ「責任転嫁」を見よ!
あらためて創世記1章から3章を見るとき、神の愛がこれら全章を貫いて、満ち溢れていることに気づかされる。天地創造のすべてが、人に対する神の愛の表現である。すべてが人のために造られた。神が愛であるから、その愛は、愛の対象を求めていた。(あとがき)