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Shota Maehara's Blog

Archive for 2007年10月

自由政治と民主政治 by Walter Bagehot

Posted by Shota Maehara : 10月 31, 2007

[1]自由政治=他者の優越を認め、優れた他者を尊重する考え→良いものは良いと認めることのできる政治

[2]民主政治=すべての人は平等であるという考え→誰も、自分の意見以上に優れているとは認めない政治

自由政治は自治である。すなわち国民が、国民によって統治することである。この種の政治の中で最良の政治は、国民が最良であると考える政治である。もちろんイギリス人のインド支配に見られる圧制的な政治といえども、善政を行う可能性は大いにある。その政治は、被支配民族よりもいちだんと優秀な民族の考えを表明することもありうる。しかし、それゆえに、それは自由政治ではない。自由政治というものは、国民が自由意志によって選択した政府に服する政治である。ばらばらの民衆が偶然的に集まってつくる自由政治は、たかだか民主的な政治にしかなりえない。他人のことを知らないし、気にかけないし、尊敬もしないという場合には、すべての人間が平等であるにちがいない。その場合、誰の意見も、他の意見より有力であるということはない。しかしすでに明らかにしたように、尊敬心をもった国民は、独自に政治構造をつくっている。そこでは特定の人々が、共通の同意によって他の人々よりも賢明であると考えられている。またその意見は、同意によって計数的価値を越えた大きな価値を認められている。――バジョット『イギリス憲政論』(世界の名著60、中央公論社、p.193-4)

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極端な民主主義の弊害―寅次郎がいなくなった日本

Posted by Shota Maehara : 10月 31, 2007

男はつらいよ 49巻セット+特典ディスク2枚付

男はつらいよ 49巻セット+特典ディスク2枚付

昭和の名作『男はつらいよ寅次郎』(山田洋次監督)シリーズは、描かれざる最終回があったそうである。それは、寅さん役でお馴染みの渥美清さんが亡くなって結局実現しなかったそうだが、子どもたちがはしゃぎ回っている傍で寅さんがベンチで静かに横たわって動かなくなるというラストシーンであったらしい。

これは現代を予兆する象徴的なシーンなのではないか。昭和の時代は、高度経済成長に入っているとはいえ、まだまだ金持ちや貧しい者もいて、それぞれの町での生活の中から喜怒哀楽の物語が生まれた。その中には寅さんのような変わり者もいて、社会はそれでも彼を排除することなく、温かく受け容れていた。

何より寅次郎は、叩き売りの商売人で、町から町へ気ままに旅するさすらい人である。そして、訪れた土地で美人に恋に落ちて、故郷に帰省し、そうして出逢った人たちに喜びや幸福をもたらして終る。決して自分は幸せを手にしないけれど、またあてどもなく旅に出て行く。私は、毎回映画で最後に寅次郎が妹にそっと置手紙などを残して、ふらりと旅に出かけるシーンがとても好きだ。

ここに描かれているのは次のような社会の姿である。たとえはみ出し者や異端児であったとしても、生きていく余地を残しておいてあげる。そこに人間としての寛容さ・あたたかさを感じるのだ。みんなこいつはしょうがない奴だと言いつつも、愛情のある眼差しを注ぐ。たとえば喧嘩でやっつけても、負けたほうもなかなかやるじゃないかといえるような人間の広さ。そういうものを私たちは失ってしまったのではないだろうか。

それは結局、高度経済成長、特にバブル崩壊以降、経済的な豊かさに裏打ちされて、すべては平等であるべきだという極端な民主主義の病である。実はここには他者の優越を認めないという嫉妬(ルサンチマン)が潜んでいることが分かる。すべては平等なんだから、あいつの意見だって所詮自分以上のものではないと心のどこかで思う。世の中にはやっぱり優れた人がいて、それを認めること、褒めることは決して人間として恥ずかしいことではないのに。むしろ美しいことではないか。そうすればきっと優れた人たちが、この国を良くしよう、何か恩返しをしようという好循環も世の中に生まれてくるはずだ。

イギリスの評論家バジョットは、それを「民主政治」と対比して、「自由政治」として区別している。彼によれば、民主政治は、すべての人はあくまで平等という前提に立ち、そこから誰の意見も自分以上は優れているとは認めないという帰結になりうると考える。それに対して、自由政治とは、他者の優越を認め、優れた他者を尊重するという前提に立ち、良いものは素直に良いと認めることのできる政治であると考える。それは争いの火種を作らない寛容性をもった社会でもある。

私もまた『男はつらいよ寅次郎』をもう一度こうした角度から見直してみたい。そして今の多くの日本人の様にひたすら他人の欠点をあげつらうのではなく、良い所や伸びる所を見つけて褒めていける社会。マイナスの力ではなく、プラスの力で前進していけるような社会を創り上げて生きたいと願っている。

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仏教とアソシエーションについての雑感

Posted by Shota Maehara : 10月 27, 2007

jizouin01大衆民主主義社会の到来とは、旧来の知識人層の消滅を意味している。もう少し具体的にいえば、これまで思想や哲学や文学を通して、人々を啓蒙してきた人文主義的なオピニオンリーダーたちがいくなることである。ここ日本でも、60年代にそれまで一部の独占物であった大学や教養が大衆化・一般化し、誰でも新書や文庫を通して教養に触れられるようになった。しかし、誰でもが一定の教養があるかのように振舞える結果、人々は教養そのものを玩具と見なした挙句、今日それに対する興味関心を放棄してしまったように見える。

すべてが平等と見なされる社会において、貴族、政治家、学者も血筋や家柄から出てきたのではなく、自分たちと同じスタートラインから生まれて来た同じ穴のむじなに過ぎないと考え、心の底では軽蔑すらしているのかもしれない。つまり一言で言えば、知識人の「アウラ」(オーラ)の消滅こそが現代のもっとも危険な兆候なのである。「アウラ」(オーラ)の消滅とは、ベンヤミンが述べたように、旧来の仏塔の奥にしまわれた仏像の精神的権威がその唯一性にあったのに対して、複製芸術の時代にはあらゆる芸術が複製可能になり、かつてあった宗教性、聖なる神秘性が失われていく現象を指している。

私は、教養が一般化しても、大学が全入時代を迎えても、本当に学問をしたい人の数はいつの時代も一定であると考えている。だから、現在叫ばれている教養や人文書の危機は必ずどこかでボトムラインに突き当たるだろう。ただし、一定数の学問人を取り巻いていた教養に憧れる人たちの層が贅肉が削げ落ちるようになくなることが社会にいかなる影響をもたらすのだろうか。

民主主義において市民の間での言論・議論・対話の公的空間は命とも言えるものだ。だが、今あるのはメディアがもたらす情報に対しての住民間での水平的だがセンセーショナルな議論か、国家からもたらされる情報に対して受身で答える垂直的な議論しかない。ここには、斜めからメスを入れる知識人の言論が欠落している。モンテスキューやトクヴィルを引くまでもなく、本来、国家―知識人(市民社会)―世論の三者間の「バランス・オブ・パワー」(勢力均衡)以外に民主主義社会を安定させる手立てはない。

ただその点で、大学や民間のシンポジウムで話すような専門的な研究者や学者とは異なる「知識人」が市井に散在し孤立してしまっている現状がある。このことが言論一般の影響力を失わせ、人々をコミュニケーションによる社会的解決よりも、暴力的衝動に向かわせる要因になっているのではないか。その意味で、暴力の時代とは、まさに失語症の時代に他ならないのである。

こう考えたとき、私はふと、法然や親鸞や日蓮などの鎌倉仏教のパイオニアがまさにこのような時代と闘っていたことに思い至った。近代以前の中世において、僧侶という階級は、社会の中で唯一の知識層であり、ある部分法の手が及ばない「アジール」と呼ばれる国家権力の及ばない領域を司っていた。しかし、仏教もまた現代の学問と同じように国家や政府と擦り寄ることで腐敗し易い(末法の世)。だからその中から抜け出して仏の教えを民衆に近づけるべく新しい宗教改革者が現れる。後に堺などの自治都市と結びついて一大勢力をなした浄土真宗や京都の法華宗は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下統一の目的のために滅ぼされてしまうのだが。

かくして徳川政権の檀家制度による民衆支配の伝統が続き、仏教は民衆の側に立った社会運動としてよりも、政府の体制擁護の下部機関と成り下がってしまった。確かに、仏教はこれまで東洋哲学の文脈でその精神性が注目されたことはあった。ただその代表である鈴木大拙や西田幾多郎などの京都学派に近い立場で、西欧の近代を批判しつつ、天皇制を擁護するために観念的かつ政治的に利用された。彼らは一様にヘーゲルやフィヒテなどのドイツロマン主義の哲学のレンズを通して、禅の霊性や無の思想のなかに物質と精神の二元論的矛盾を解消する超越性=天皇を見出したのだ。そこでは仏教徒が一人の知識人として貧しい民衆の中に進みいでいて、手を差し伸べていった社会的な側面は最後まで問われない。言い換えれば仏教はファシズムとの関連でのみ語られ、独立した諸個人の社会的なネットワーク、すなわちアソシエーション運動の一種として論じられることは少なかったように思う。

しかし、彼らがその社会改革(布教伝道)の過程でいかに人々を組織し、経済基盤を確保してきたのかという点は現代の知識人の重要なロールモデルとなり得る。近代以前、ヨーロッパにおいても同様に、封建制のもとで権力が多元的に分散し、その隙間を縫うようにして、自治都市、寺院都市が交易の場として発生した。やはり神官階級はこの時代における伝統的な知識人であった。こうした中世の面影を残し、産業革命を経て、近代の知識人が育っていった。したがって彼らの議論や言葉にはいまも超越的な神に対する「倫理感」や「奉仕精神」が離れがたく結びついている。だからこそ市民も彼らに一定の社会的役割を認め、敬意を払ってきたのである。

我々日本人は言論を再生するために単に知的であるのみならず同時に倫理的なものを志向し、言論に使命感を帯びさせねばならない。その源泉を社会は自らの歴史以外の何処に求め得るはずがあるだろうか。

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 批評精神、平衡感覚、そして民主主義

Posted by Shota Maehara : 10月 26, 2007

批評精神とは――もつともすぐれた批評精神とは――おなじ平面上の他のいかなる個体にもさきだつて、はやくも鋭敏に危機の到来を予知する精神のことであること、いふまでもない。それは公約数的な臨界角度を持たずに、水平面との一度、一分、一秒の斜角をも鋭敏にかぎつける精神でなければならぬ。のみならず、それは文字どほり平地に波乱をさへおこしかねない。もちろん、かれもまた安定と平穏とを愛するであらう。いや、なんぴとにもましてもつとも安定と平穏とを愛するがゆゑに、現実のあらゆる安定と平穏とを拒否するのだ。(1949年・『福田恆存全集』第2巻所収)

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 明六社とブルームズベリー・グループ

Posted by Shota Maehara : 10月 20, 2007

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近年、政治や学問や芸術の凋落が著しい。いま私たちは日本の近代化を支えた「啓蒙主義」とは何かということを改めて真剣に問い直さなくてはならない時期に来ていると思う。その意味で、明治初頭の「明六社」のような例が興味深い。

このような個性際立つ人物たちの緩やかなヨコの連帯は、西欧の文脈ではアソシエーションと呼ばれる。とりわけ、そこでの福沢諭吉の移動と批評に関心がある。

また、このような明六社と似た非政治的な団体がイギリスにある。それは作家ヴァージニア・ウルフ、美術批評家ロジャー・フライ、経済学者ケインズ、そして哲学者バートランド・ラッセルなど錚錚たるメンバーが所属した「ブルームズベリー・グループ」である。彼らは「時間」という共通の概念を軸に各々の領域で独創的な活動を展開し、イギリスのみならず世界の言論に大きな影響を与えた。

いうまでもなく明六社をはじめ明治初頭の代表的知識人の多くもまた英米系の学問を基礎にしていた。すなわち、リベラルかつ個人主義的な伝統である。アソシエーションはこうした土壌なくしては生まれ得ない。

したがって、これら両者の比較は、現代の知識人が二重三重の知的文脈のなかで、自らの思考を鍛え上げ、連携し、世論を動かしていくという貴重なロールモデルを提供してくれるはずである。

■関連

・齋藤孝・梅田望夫対談「大人の作法」

http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/saitou_umeda/index.html

・The Bloomsbury Group: a wide-ranging influence

http://www.periwork.com/peri_db/wr_db/2006_February_18_10_21_43/index.html

・その他

http://bloomsbury.denise-randle.co.uk/intro.htm

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 日本のアソシエーション空間としての「明六社」

Posted by Shota Maehara : 10月 20, 2007

日本にはどうも啓蒙が流行らない。啓蒙主義なんて、知識人の暇つぶしのようにおもわれている向きさえ強い。そればかりか、大学から次々に教養学部や教養過程がなくなりつつあるいまでは、教養という言葉だって流行らない。

日本には啓蒙や教養が根付かないのである。根付かない理由は容易に指摘できる。タテばかりが強い知識人の系譜に対して、知をヨコに組む動きがつくれていないからである。ヨコに組む者たちはたちまち排斥され、横破り呼ばわりされた。だいたい横柄・横行・横着というふうに、ヨコの言葉は悪くうけとられている。

が、ほんとうはそんなことはない。能の声の出し方には「横(おう)の声」というものがあって、ヨコに広がっていく声をいう。タテの声では能にはならない。また幕末維新の志士たちが何をしたかといえば、その動向の本質は「横議横行」をしたことにあった。松陰や龍馬や高杉や中岡がヨコに脱藩をし、ヨコに海外渡航を企てたから、幕末のすべてが動いたのである。

日本に啓蒙と教養が定着するには、ヨコの文化が脈動している必要がある。

慶応元年(1865)のこと、英国船オースタライエン号に一人の青年が乗っていた。薩摩藩の五代才助や松木弘安が画策して、藩士の若者たち19名をイギリスに送りこもうとした計画があったのだが、そこで選ばれた一人だった。もともとは島津久光が藩立の洋学校・開成所がたてた理想にもとづいていた。

この青年が森有礼である。森はイギリスからフランス・ロシアにも足をのばし、慶応3年にはアメリカに渡って、ニューヨーク近郊のハリス農場に入った。ハリスは一種の社会改良派型の啓蒙主義者で、その農場にコロニーをつくっていた。森はこのコロニーに刺激をうけて、アメリカの教育事情に関心をもつ。いったん明治元年に帰国した森は、2年後にふたたびアメリカに渡る。こんどは弁務使としての正式派遣で、そこで英文の『日本の教育』を書く。

本書はこの森有礼が帰国後におこした明六社を通して、これまであまり顧みられなかった近代日本における「ヨコの学社」がどのように生まれていったのか、その経緯を森と福沢諭吉の動きに焦点をおいて詳細に追った一冊である。福沢が重視されているのは著者が慶応義塾大学に深い縁があるせいだろう。それはともかく、「横の声」に関心のあるぼくとしては、いろいろ参考になった。

日本にアメリカで学んだ教育を萌芽させたい森有礼は、最初のころは、まず「ヨコの学社」をつくろうとし、これをソサエチーとよんでいた。そのソサエチーは国民教育そのもののためではなく、国民教育を動かすべきヨコに連なる連中をつくるためである。そこで森は西村茂樹に相談をする。

西村はただちに森の意図を理解して、それなら二つのソサエチーが必要だと言った。ひとつは「学術社中」、もうひとつは「書籍院会社」であった。後者は図書館あるいは独自の図書システムの発動のことをさしている。つまり書物をめぐるヨコのソサエチーが必要だと言ったのだ。

森が、では前者の「学術社中」にはどんな人物がいいかと尋ねると、西村は「都下の名家」たちがいいと言って、福沢諭吉・中村正直・加藤弘之・津田真道・西周・箕作秋坪らの名前をあげた。言わずと知れた明六社のメンバーである。もっともこのメンバーがすべて西村の発案であったかどうかは、わからない。すでに加藤弘之が蕃書調所時代から津田・西・箕作・杉亨二らと濃い交流をしていたという記録もある(加藤弘之日記)。

ともかくも明六社はここからそのまま発足していった。これまた言わずと知れた明治6年のことだ。

明六社の理念は「愚蒙ノ眼ヲ覚シ」「天下ノ模範タラン」というもの、すなわち「啓蒙の主軸」の確立である。それを論議するための例会はたいてい築地精養軒で開かれた。いまの銀座東急ホテルのあたりにあたる。翌年にはユニークな社則ができ、社員・出金(会費)・会日(定例会)・役員・社長などが決まった。初代社長は森有礼。まだ弱冠27歳である。森は福沢諭吉を社長に推したのだが、福沢はこれを固辞した。

明六社は近代日本の最初の知的集団であり、ヨコの知の最初の発露体である。また、会社組織としても、メディア組織としても注目したほうがいい。

発足後、ただちに「明六雑誌」を創刊したのがそのあらわれだった。ほぼB6判、わずか7丁14ページ程度であったが、「啓蒙の意気」と「社中としての組織性」と「横議すべてをメディア化する」という気風が重なって、たちまち世の中に知られていった。そのヨコに向かったアピールの速さは、今日を凌ぐものがある。

本員・定員・格外定員・通信員・客員といったメンバーもあっというまに膨らんだ。定員に世良太一・清水卯三郎・津田仙、格外定員に大槻文彦・田中不二麿・九鬼隆一・前島密など、客員に早矢仕有的・沼間守一・伊達宗城・高橋是清・植木枝盛というふうに、多士済々がヨコ型に出入りし、それらの啓蒙の士がそれぞれ教養メディアたらんとした。

それとともに、福沢諭吉の発案による「スピーチュ」(演舌・演説)の実験、福沢・西村・加藤らによる「自由」をめぐる議論、さまざまな権利論の展開などなど、近代日本の論壇の大半が「明六」を媒介にした。

それならこの勢いはどこまでも拡張していったかというと、それがそうではなかった。一方では、「明六雑誌」はたった2年で終刊しているのでもある。役割をさっさと終えたのか。そのくらい高速に「明六」の啓蒙・教養がまさにヨコに撒種されたのか。そのいずれも当たっているけれど、もう少し別の、決定的で、かつ象徴的な事情があった。

そもそも明治6年という時期が近代日本の最初の大きなターニング・ポイントなのである。明六社誕生もそのターニング・ポイントの一角を担ったのではあるが、それとともにこの年はいわゆる「明治6年の政変」がおこった年でもあった。

征韓論政変ともいわれるこの一大事は、西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣の5人の参議が一斉に辞職するという激変として突発した。この5人はそのまま「留守派」とも「外征派」ともよばれていて、岩倉使節団が欧米を巡回したその留守の初期明治政府をつくった連中であり、これはいちがいにはそう規定することはできないのだが、通説ではすべてが征韓論に加担した5人だった。

これに対して50名をこえる岩倉使節団には、その後の政界を牛耳る岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らを含んでいて、ひとまとめには「洋行派」と、征韓論では「内治派」とよばれた。森有礼は、これら洋行派をアメリカにいて“繋ぎ”の役割を担った人物でもあった。

この留守派が帰国した洋行派に破れた。破れたというよりも、両派が激突し、明治政界を真ッ二つに割った。それが明治6年の政変である。割れた二つの半球は二度とくっつかない。それがそのまま明治10年の西南戦争にまで進む。西郷が死に、翌年にその西郷を死に追いやった大久保も暗殺されて死ぬ。明治維新とはこの二人の死までをさしている。

ということは明治6年とは、明治維新体制の解体をもたらした年だったということになる。ということはまた、明六社の人々とはこの政変の渦中に中央政治の激変をヨコに見て、ヨコに向かって「明治最初の境界知」をつくった人々だったということである。日本のソサエチーは中央からは生まれなかったのだ。

明六社。もっと詳しいことが知りたい結社である。なにしろここには「横」の秘密が隠されている。

謎もある。矛盾もある。たとえば、明六社首謀者が森有礼であったのは、のちに伊藤博文によって森が最初の文部大臣に任命されたことを勘定に入れると、はなはだ皮肉なことでもあった。

福沢諭吉がつねに明六社と一定の距離をおこうとしていたこともいろいろ考えさせられる。それは、明治6年の政変で西郷は鹿児島に帰って私学校をつくって青年たちの指導にあたり、ちょっとした独立国づくりをめざしたのに対して、おなじく下野して土佐に帰った板垣が、立志社をつくってこれを民撰議院設立の建白をへて自由民権運動にもっていった対比に似て、森有礼のやり方と福沢のやり方には、どこか決定的な相違というものがあったからである。

この相違が、その後の長きにわたった日本における啓蒙と教養の定着のゆらぎを、また「横の知」というものの難しさを象徴しているようにもおもわれる。

(松岡正剛、戸沢行夫『明六社の人びと』1991 築地書館)→http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0592.html

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書くということ(to write)

Posted by Shota Maehara : 10月 11, 2007

人は、誰かのためではなく、己のために書くときもっとも真実を語りうる。

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一粒の砂の中に世界を見、一瞬のうちに永遠を掴む

Posted by Shota Maehara : 10月 11, 2007

かつてマックス・ウェバーは、現実とは概念によっては絶対に汲み尽くせない多様性であると述べた。私も、歴史やいま眼の前で起こっている社会の出来事を通して、思考を鍛え、そこにある本質を掴みたいと思っている。その意味で、私は今回のミャンマーの僧侶によるデモから、ポスト近代における国家、市民社会、軍隊の本質、そして世界資本主義の変化の予兆を掴み取りたい。さらに、人間の本質に迫るような無限の意味をそこから引き出したいと願っているのだ。

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 生きる智慧―生き抜くために必要不可欠なものを学ぶ

Posted by Shota Maehara : 10月 8, 2007

自分がこの時代を生き抜いていくためにどうしても必要だと思うものだけを盗る。それ以外について語ることはすべてどこか白々しく、また真実味を持たない。

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なぜ宗教は現代人の心を魅きつけるのか

Posted by Shota Maehara : 10月 3, 2007

ヨブ記なぜ宗教は現代人の心を魅きつけるのか。この難問に対して私は次のように考えている。

例えば、マルクスが『資本論』で示したように、たとえ形式でいくら問い詰めても、「価値」なるものが最後まで残ることは否定できない。同様に、いくら啓蒙しても、「宗教」なるものが最後まで残ることは否定できない。

では我々はこの「価値」、「宗教」なる実体のないものをフェティッシュに愛でるべきなのだろうか。単に「価値」なるものを無視する啓蒙主義者を否定する一方で、マルクスは、その「価値」への信仰(形而上学)がいかにして生まれるかを構造的に説明しようとした。その存在を認めた上で、それを明らかにしていこうとする。このような態度が不可欠だ。

また、フロイトは、「理性と感性」や「善と悪」や「意識と無意識」というロマン主義者ばかりか啓蒙主義者も囚われている図式を疑った。そして、精神病患者(戦争体験者の反復強迫)との対話から、人間の根源には、そうした二元論を超える「死の欲動」と呼ばれる攻撃性が潜むと考えた。そこから、人間の戦争や宗教の起源を探ろうとした。

悲劇的なことに、こうした攻撃性は、理性によって他者を「友と敵」に分けることによって増幅される。だから、理性によっては理性が生み出す暴力や戦争を抑止できない。したがって残念ながら大きな挫折を通してのみ、外に向かっていた攻撃性は自分自身に向かう。このときに初めて戦争の再発を抑止できる「倫理」が生まれるのである。

 

※マルクス:労働価値と価値形態についてのメモ

※フロイト:死の欲動についてのメモ

※カント:啓蒙についてのメモ

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