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Shota Maehara's Blog

Archive for 2009年6月

ポストモダン・ライフスタイル論

Posted by Shota Maehara : 6月 29, 2009

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“すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。”―マタイによる福音書第一一章第二八節

現代人の暗黙のスローガンは、まさに「時は金なり」である。この言葉の意味するところは結構深い。つまり、今や時間に関する考え方と貨幣に関する考え方が人々を縛り付けているということだろう。その結果、誰もが忙しいし、また忙しいふりもする。なぜなら、現代の都市生活では完全に何もすることがないことがあたかも罪悪のように感じられる瞬間があるからだ。また金にならないことに時間を使うのは無駄だと多くの大人は刷り込まれ、また子供にもそうした考えを知らず知らずに伝染させてしまってはいないだろうか。

つい2、3年前私は海外から洋書を注文した際、こんな経験をして驚いた。それは大晦日を家族とともに過ごし、元旦を迎えて朝食をとっていると、ペリカン便の配達夫がやってきて本をお届けにあがりましたという。私はびっくりして代金を支払い、本を受け取った。彼はよくこのエリアを中心に配達してくれている優しい感じの中年のおじさんで、「ありがとうございました」と笑顔で言うとまた配達の車に戻っていった。私は欲しかった本が届いた嬉しさと、彼が家族と元旦を一緒に祝う時間を奪ったことに後ろめたさを同時に感じた。便利の裏側で泣いている人がいるかもしれないと思うようになったのはこのときからだ。

また最近仕事で浦和に出かけていた時、駅前の道路で若い女性がチラシを配っていた。私は歩きながらも、彼女の説明が耳に入ってきた。それは駅前にオープンした足のマッサージのリラクゼーションルームのビラ配りだった。確かに今やこんな情景は珍しくもないが、そのとき私は、「癒し」というやや抽象的なサービスが現代人の間で確実な需要を見込める事業として定着していることを思い知った。癒し系サロンなんて一昔前には考えられもしなかった職業だ。でも、なぜ昔の人はそれがなくても少しも困らなかったのだろうか。私たちはこれを進歩と呼べるのだろうかと、こんなことを取り留めもなく考えながら歩き続けた。

確かに、グローバル競争だ、自己責任だと叫ばれて久しいこの時代において時間を無駄にする人間はそれだけで敗者であるかのように扱われる。書店に行けば無駄なく効率的に勉強する方法や、100億稼ぐ仕事術などが平積みにされている。その一方で、悩む力などという滑稽なタイトルの本が飛ぶように売れているという。

しかし、こうしたアンビバレンスな現象を眺めていると、一体人々はどっちに進みたいのかと世の中につっ込みを入れたくなってくる。だってそうだろう。現代社会の中で、お金を儲けようとすれば時間を節約しなければならず、逆に豊かな人生の時間を過ごしたいとすれば、仕事術なんていう本は脇にどけなければならない。近代資本制経済の段階で両方を同時に手にすることは不可能なのだ。まるで自分で自分の生活を苦しくしているようなものだ。カネもなくゆとりもない生活へ人々はズブズブとはまり込んでいるのではないのか。

みんな自分自身のことに掛かり切りになって、周りを見渡す余裕もないように見える。彼らはみな努力することを知っている。でも彼らが知らないのは、適度にうまく力を抜くコツではないのだろうか。私にはそう思えてならない。そして、何より現代の労働条件の変化によって直接的にもたらされたもの、それは「休息」の意味の変容である。人々はこの変化に薄々気づいているが、どうしようもなく満たされない自分がそこにいる。

実は、彼らが「休息」についてまだはっきりと見抜けていないことがある。すなわち、それが身体的な疲れを癒すことであるだけでなく、むしろ心の重荷を取り去るためのものだということである。では、そうした心の癒しは何処で手に入るのだろうか。私はそれがリラクゼーションルームの個室でないことだけは断言できる。なぜなら、孤独や不安を癒す力は、同じパンを食べるという意味のcom -panyの語源にもあるように、仲間と一緒に食事をしたり、語らったりして共有するひと時のなかにあるからだ。言い換えれば、他者と共有する時間のなかに癒しもまた存在する。哲学者のイバン・イリイチもまた現代の都市生活に欠けたものとして「共同のくつろぎ」(conviviality)の重要性を強調している。

このように考えると我々はある逆説に逢着する。それは自分の余った時間を他人のために使う人間の方が、それを自分のためだけに使う人間よりもかえってくつろぎや充実感を受け取るというパラドックスである。一度それを失った人間の方が後でそれをより多く取り戻すことは聖書が何度も強調している真理でもある。経験則からも分かるように、自分のためだけに生きている人間とは案外脆く、馬力も出ないものである。本当に生きている人とは家族のため恋人のため友人のため神のために働き、そこからかえって充足を得ている。

では、我々はいかにしたらこういう生き方ができるのだろうか。今までと違ったライフスタイルを選びとることは可能なのだろうか。もちろん私は可能だと考える。それは自分中心の生き方から、他者中心の生き方へ転換することだ。それは自分を利するためだけに生きるのではなく、すべての他者を自分よりも優れた者として尊重し、彼らのためになることをしようと考えることである。例えば、困った人や弱い人を見つけたら蹴飛ばすのではなく、背中を押してあげられるようになることである。そのような態度の変化は必ず周囲の人たちを明るくするだろう。そして、人間関係を円滑にしてくれ、いつの間にかあなたの存在が共同のくつろぎで満たされたものになると約束しよう。

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ボンヘッファー―ヒトラー暗殺を企てた神学者

Posted by Shota Maehara : 6月 29, 2009

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 ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer: 1906-1945)。(国際ボンヘッファー協会のサイト。)

 ドイツの神学者。ボンヘッファーは、ヒトラーが政権を取った当初から、ヒトラー批判を公にしていた。キリスト教徒によるナチスに対する抵抗運動「告白教会」に加わった後、亡命のために米国に渡る。しかし間もなく身の安全を省みず、ドイツへときびすを返す。そしてヒトラー暗殺計画に加わった。計画は失敗に終わって、捕えられ、終戦のわずか1月前に処刑された。

 ドイツで「教会アジール(Kirchenasyl)」の調査をしているとき、さまざまなところでこのボンヘッファーの名に接した。礼拝の説教で頻繁に引用される。またある教会に併設された文化センターは「ディートリヒ・ボンヘッファー・ハウス」と名づけられている。別の教会に牧師さんを訪ねると、オフィスの机上にボンヘッファーの本が置かれていた。

 昨年9月にベルリンで滞在したときには、この人についてちゃんと調べてみようと、キリスト教専門書店に行った。するとボンヘッファーのコーナーが設けられていて、たくさんの本が並んでいた。今年で生誕100年だから、それを記念する出版物も出始めていた。今ではもっと増えているだろう。

 ボンヘッファーという人物への関心は、少なくとも僕が知り合ったドイツ人のキリスト教関係者の間では非常に高いようだ。彼らはボンヘッファーに、ナチス以後、もしくはホロコースト以後のドイツで、キリスト者として生きるモデルを求めているのだろう。

 かつてドイツの多くのキリスト教徒はナチスに迎合し、ユダヤ人への暴力に見てみぬ振りをし続けた。そんな中で、ボンヘッファーはヒトラーの危険を当初から見抜き、そのユダヤ人政策を批判し、最後には文字通り命をかけてナチスという「暴走する車を止めようとした」。なぜそれが可能だったのか。そう現代ドイツのキリスト者は真摯に問い、その答えを実践に結び付けようとしている。

 「他者のための教会」が、ボンヘッファーの一つのキーワードだ。調べていくと、ボンヘッファーが「他者」という概念を神学に導入したことは実はすごいことだということが分かってきた。ここで「他者」にはユダヤ人も含まれている。反ユダヤ主義は、ヨーロッパのキリスト教を母胎に育っていった側面がある。ユダヤ人は、ヨーロッパがキリスト教化される中で、神学的にそして社会的に排除の対象とされてきた。だからボンヘッファーのこのテーゼは、キリスト教の世界できわめて異彩を放っているのだ。第二次世界大戦後のキリスト教徒とユダヤ人との和解は、ボンヘッファーのこの立場を一つの基礎に展開したようだ。

 ボンヘッファーの「他者」概念は、真剣に検討する価値がある。バフチン、レヴィナス、サイードらの他者概念と比べてみるとどうだろうか。また文化人類学を「他者」に関する学問と規定するとき、ボンヘッファーから何を学ぶことができるだろうか。

 ボンヘッファーに関する日本語の本として、村上伸氏による伝記『ボンヘッファー』(清水書院)は読み応えがあった。ボンヘッファーは「汝殺すなかれ」を戒めとするキリスト者であり、かつ非暴力主義者ガーンディーの影響も受けていた。それなのになぜ彼は、独裁者ヒトラーとは言え一人の命を奪う計画に参画したのか。村上氏はこの問いと正面から格闘している。その考察を読み進めることは非常にスリリングな体験であった。

 ボンヘッファーの伝記としてスタンダードなものはベートゲ(Eberhard Bethge)による”Dietrich Bonhoeffer: Eine Biographie”(邦訳『ボンヘッファー伝』)だ。このベートゲは、ボンヘッファーの姪の夫であり、戦後、キリスト教神学と反ユダヤ主義との関係を反省する作業を推し進めた人物だ。

 ボンヘッファーのほとんどの著作は邦訳されているようだ。「他者のための教会」というテーゼは、ボンヘッファーが獄中で書いた草案の一部であり、村上伸氏が精魂込めて完成した訳書『ボンヘッファー獄中書簡集「抵抗と服従」増補新版』(新教出版社、1988年)の439ページに収められている。

 日本では、上記の村上伸氏の他に、雨宮栄一氏、森野善右衛門氏、宮本光雄氏らによってボンヘッファー(および「告白教会」とドイツ教会闘争)の研究が進められてきた。僕は不勉強でその多くを読んでいない。わずかに目にしたもののうちでは、雨宮氏の『ユダヤ人虐殺とドイツの教会』(教文館)が印象に残った。何よりこの方のポジショニングに共感を覚えた。現場に立脚しながらの研究なのだ。「あとがき」から引用させていただこう。

 「この書物の執筆は牧会、伝道は当然のことながら、筆者の居住するこの地域の在日外国人の指紋押捺制度撤廃運動、あるいは山谷兄弟の家伝道所の住民支援活動に参加しながらなされた。学者の静かな書斎の産物ではない。この貧しい書物に、もしもかりに誇りうるところがあるとするならば、教会に仕える一人の牧師が、地域の人権問題へのささやかな取りくみから、これが生まれたというところにあるのかも知れない。」(p.274)

(出典:小田博志研究室ウェブエッセイ )

<関連サイト>

ディートリッヒ・ボンヘッファー(ウィキペディア―フリー百科事典)

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謙虚さについて

Posted by Shota Maehara : 6月 21, 2009

私はどんなに自分を見失い、他人に対して高慢になったとしても、せめて神の御前では謙虚であり続けたい。

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革命について

Posted by Shota Maehara : 6月 19, 2009

精神的な「転換=回心」(conversion)なくして、社会的な「転換=回心」(conversion)はあり得ない。

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神の愛について―なぜ人は謙虚であるべきなのか

Posted by Shota Maehara : 6月 19, 2009

washing道徳において、人は謙虚であるべきだと説かれている。謙虚さとは、他人に対して自らへりくだること、すなわち他者を尊重することを意味する。でも、考えてみればこの教えはこのままでは極めて根拠が薄い。そのため、社会では個人の裁量に任されていて、謙虚にする人はするし、そうしない人はしない。だから、現代の人間関係は一向に円滑になっていかない。ここに私たちの社会の混迷の一端があるといっても過言ではない。

では、なぜ現代は心の謙虚さを失ったのだろうか。この問題を私自身の経験を通して考えてみたい。私自身ものを書く必要がら、毎日多くの書物を読み、知識を吸収し、思考する。そして、世の中を批判的に見て、一般的な通念を疑うことを常とする。そのため、だんだん不平家になり、世の中を儚んだりする。酷い場合は、自分だけが真理を手にし、一番偉くなったように思えてくる時すらある。

しかし、これは言うまでもなく大きな間違いである。まさに傲慢という病にかかっている。あなたはジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』という映画をご覧になったことはあるだろうか。その第二作目「帝国の逆襲」で、私のお気に入りの登場人物ジェダイマスター、ヨーダが次のような会話をする重要なシーンがある。

フォースの師であるオビワンを失った主人公ルークは、導かれてこのヨーダのもとに教えを乞うためにやってくる。惑星に降り立ったルークは、彼を探し当てるがはじめはそのみすぼらしさに半信半疑になる。そして、「あなたがあの偉大な戦士マスター・ヨーダですか」と聞くと、ヨーダは次のように答える―「「偉大な戦士」か、でも人は戦いで偉くはならない」。おそらく、ここでヨーダは、強いフォースを持ち、戦士になることは重要だが、まず心を学ばなければ、それを偉大さとはき違え人は傲慢になる。その結果、いつか道を踏み外し、ダークサイド(暗黒の支配)に身を委ねてしまうと言いたかったのだろう。

同様にどんな分野であれ、学びつづけていく人はまず心を学ばなければならない。学んでいけば学んでいくほど傲慢になり、人格を歪めていくくらいなら、はじめから学ばぬ方が良い。なぜなら、知識があって高慢な人と、知識がなくても満たされ心穏やかな人と比べれば、後者の方が人々を元気づけたり、良い感化を与えることによって、世の中を明るくしてくれるからである。私は今の日本が小利口な知識人の悪の支配に染まってしまっているように思えてならない。

それならば、一体我々はどうするべきなのだろうか。私が思うに、他人への批判の背後にあるのは悪意や嫉妬ではないだろうか。裏を返せば、自分が偉くなりたい、中心に居座りたいという虚栄心ではないだろうか。それとは逆に、本当に重要なのはむしろ「誉める」ことではないだろうか。なぜなら、誉めることの背後にあるのは、人に対する温か味であり、愛情だからである。愛なくして、子供や他人の欠点ではなく、長所を認め、伸ばしてあげようという気になるだろうか。

また誉めるという行為が大切なのは、自分が謙虚な姿勢でなければ決してすることができないからである。自分が謙(へりくだ)って、すべての他人を自分より優れたものと見なし得てはじめて人は誉めることができる。誉めることはすなわち愛であり、そして愛とはすなわち謙譲なのである。

このことを教えてくれるのは新約聖書に描かれた神の愛である。神は人間を愛するがゆえに、自分の独り子を地上に遣わした。そのナザレのイエスは、高慢になるどころか、弟子たちの足を自ら洗い、最後には人々の罪を背負って十字架に架けられた。この神の愛、アガペー(無償の愛)を想う時、神ですら人間に対して謙られたのだから、人間が他人に対して謙れない理由が何処にあるだろうか。

最後の晩餐でイエスは弟子たちにこう言い残している。私があなた方を許したように、あなた方も互いに許し合いなさし。そして、私があなた方をこれほどまでに愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい、と。この最後の教えこそは、閉塞感に覆われた世の中で、その雲間を突き抜けて地上に差し込む一条の光ではないだろうか。愛という泉から湧き出るように、謙虚に、許し合い、誉め合う社会へと一人でも多くの人が立ち戻ることを心から祈りたい。

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アナーキズム再び、つながり求め新たな運動(2009年6月11日)

Posted by Shota Maehara : 6月 16, 2009

X アナーキズム(無政府主義)と聞いて何を思い浮かべるだろう。時代遅れの暴力革命家か、それとも未来にユートピアを託す夢想家か。いずれにせよ非現実的な空理空論として、長い間「忘れられた思想」とされてきたアナーキズムをめぐる人文書の刊行が続いている。新しい「つながり」を求める運動として期待されているようだ。

 アナーキズムは19世紀半ばから20世紀前半、マルクス主義と並ぶ社会変革思想の一大潮流だった。個人の自由に立脚しながら、党や国家をはじめあらゆる権威を否定した。この時期の代表的思想家であるプルードンやクロポトキンの著作が今春、相次いで新刊として出版されている。一方で、「新しいアナーキズム」を掲げるものも目立つ。

 その代表が、ロンドン大学のデビッド・グレーバー准教授による『資本主義後の世界のために 新しいアナーキズムの視座』(以文社)だ。5月に開かれた歴史学研究会大会の近代史部会では「帝国秩序とアナーキズムの形成」がテーマとされ、報告者はいずれもグレーバー氏に言及した。人類学者で、反グローバリゼーション活動家でもあるグレーバー氏は、人類の共同体が古くからアナーキズム的な原理を備えていたとして、自身が参加した運動の組織論に、その復活を見いだした。

 99年にシアトルで起きた反WTO(世界貿易機関)デモ以来、世界的に広がった反グローバリゼーション運動は、自律や相互扶助を基本にしていた。それらは、アナーキズムの行動原理であり、既存の労働運動とは別の新しい潮流が生まれた。

 「理論よりも経験や倫理に重点を置くアナーキズムが見直されているのでは」とみるのは、『チョムスキーの「アナキズム論」』(明石書店)を翻訳した木下ちがや氏だ。Y

 かつて日本で資本主義が興りグローバル化の波が押し寄せた明治末から大正にかけ、アナーキズムは一時マルクス主義をしのぐほどの影響力があった。だが、ロシア革命や福祉国家の成立で、国家の存在感が極大化するに従い衰退した。その後、ソ連が消滅し、新自由主義による「小さな政府」が一般化。福祉国家への期待は遠のき、労働運動も停滞した。そんな中で「新たなつながり」の思想として期待されているというのだ。

 アナーキズムは、現実的な選択肢たりうるのか。梅森直之早稲田大学教授(日本政治思想史)は「すぐに実現するということではないが、今の資本主義秩序とは違う人間の働き方がありうるのを示すことに意義がある」という。

 『革命待望!』(芹沢一也氏らとの共著)でアナーキズムの可能性を論じた橋本努北海道大学准教授(社会哲学)も、その意義は近代批判にあるとみる。ただし「新自由主義は生きのびるために、アナーキズムの創造性さえ必要としており、逆説的だが両者が深いところでつながってしまっていることに注意が必要だ」と話す。

◆すでに社会の中にある

 ニューヨーク在住の批評家、高祖岩三郎氏(54)は近刊『新しいアナキズムの系譜学』(河出書房新社)で、アナーキズムの歴史を再解釈しながら、多様な運動の継続的な組織化の必要性を問うている。高祖氏に話を聞いた。

 ――なぜアナーキズムに注目するのか。

 「新左翼の崩壊した原因の一つは、階層序列による組織的な権威主義があったのではないか。新左翼がなぜうまくいかなかったかを考えていた90年代、米国でそれまでとは違う新しい運動が出てきて、若い活動家たちが漠然と自分をアナーキストと呼んでいることに気づいたのです」

 ――従来の運動との違いは。

 「アナーキズムは誰かが発明した思想ではありません。人類がもともと持っていた自律や相互扶助、直接民主主義という簡単な原理をもとにしたもの。この簡単なことが、99年のシアトル以降の反資本主義運動の決定的土台になったのです」

 ――アナーキズムは、資本主義への対抗軸になるか。

 「大きな集団を想定したものではなく、信頼できる友人や仲間との人間関係を築きながら連帯していくという行動様式が基本。そうした関係のネットワークを国家の存在とは別に、二重権力のような形で広げていく。国家を倒して反国家の秩序を打ち立てるとか、西軍と東軍が関ケ原で激突するような図式ではもう考えない。現実化しえない理想かどうかより、すでに社会の中にそれはあるのです」(樋口大二)

(掲載元→ http://book.asahi.com/clip/TKY200906110157.html)

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眠られぬ夜のために

Posted by Shota Maehara : 6月 16, 2009

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである―マタイによる福音書第11章28-30節

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新約聖書のパラドックス―なぜ貧しき人たちは幸いなのか

Posted by Shota Maehara : 6月 13, 2009

img_1092910_56143460_0現代人は老いも若きも、男も女も、豊かで安定した生活を追い求める。無論それ自体は間違っていないし、私とて同様である。ただし、そうした現代の暗黙の価値基準に執着するあまりに、そこから毀れ堕ちた人を蔑む社会になってしまってはいないだろうか。またそのコインの表と裏である同情からもたらされる救済措置に果たしてどんな効果があるのだろうか。私たちが市民として成熟していくためには、もう少し違った考え方が必要とされているように思われるのだ。

私が聖書を読んで間もない頃、最初に興味深いと感じたのは次のような逆説(paradox)だった。すなわち、生活に困窮し打ちひしがれた人々を憐れんではいけない。なぜなら彼らは私たちより優れた宝を一つ持っているから。それは言うなれば、最底辺に立つ者が社会を見上げる時の視線であり、感性の鋭さである。例えば、人が人を踏む時、踏んだ方は痛みを感じない。それを感じるのは踏まれて苦しんでいる者の方である。そこに社会の弱者への偏見や無理解の源泉があると同時に、なぜイエス・キリストはこの貧しき人々にだけ真理を語られたのかの秘密がある。ここで新約聖書「マタイによる福音書」から次の有名な一節を引用しよう。

心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
…。(※)

上記の引用と同様に、聖書の中にある「富んだ者が神の国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」というイエスの言葉は、単に社会的弱者の肩を持っている社会改革者という立場で解釈してはならない。そこには、弱者の繊細な感性のみが知り得る人間と社会の実相があり、それゆえ神の言葉に対して彼らの耳がつねに開かれていることを表現しているのだと見なすべきである。

私自身自らの体験からこのことの恐ろしさをしばしば痛感させられている。それは自分が方向性を見失い、自問自答を繰り返している時には逆に感性も研ぎ澄まされ、あらゆる景色や人の言葉が身にしみて感じられるのに、いったん安定した生活や幸せを手にしてしまうとすっかりそれを忘れ去ってしまい、言葉も心に響かなくなるからだ。

そのことが最も端的に表れるのは私にとって詩を書く瞬間である。以前は、あんなにも深く心に突き刺さってきた風景や言葉たちが、もはや心の網に引っ掛かってこないのである。このときほど私は何かを得たとき、同時に何かを失うということに愕然とする瞬間はない。

かつて腐敗しかかっていたユダヤ人社会の中で、小さく貧しくされた者とともに語らいながら、イエスはかくして宗教改革家であると同時に社会改革家になったのである。この両義性にこそ注目すべきである。そこにはそうでなくてはならない必然性があった。彼は自らも傷ついた者が持つ眼差しと感性を知った上で、真理を語り、社会を改革したのである。だからこそ、彼の言葉は貧困格差や抑圧的な権力社会への痛烈な批判力を永遠に失わない。

まさしく支配者が自らの富と権力を誇った瞬間に、真理は、知らず知らずのうちに被支配者の側に移動してしまうのである。それは別に同情とかヒューマニズムからではなく、哲学における弁証法的な問題としてそうなのである。これは政治や経済や社会に当てはまるばかりでなく、我々個々人のケースにも当てはまるだろう。

このことを踏まえたとき、我々はもっと他者に対して謙虚であらねばならないのではないかと、そう思わずにはいられない。なぜなら私たちが優位だと思っているまさにその瞬間に、その位置が逆転して、本当に大切な幸せの青い鳥を見失ってしまうかもしれないからである。

【注記】

※日本聖書協会『新約聖書』(1965、10頁)―マタイによる福音書、第5節、第3節~10節。

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「愛を読むひと」S・ダルドリー監督、トニー賞も喜び

Posted by Shota Maehara : 6月 11, 2009

愛を読むひと戦犯の過去を背負う女性と、21歳年下の青年の恋を映した「愛を読むひと」の公開(19日)に合わせ、スティーブン・ダルドリー監督が来日し、10日、東京都内で会見した。今年の米アカデミー賞で女優賞を受けた作品で、演出を手がけた舞台「ビリー・エリオット」が米演劇界のトニー賞10冠を得たばかりの“時の人”だ。(アサヒ・コム編集部)

■「罪」抱え、どう生きるか

 原作は、世界の人々の涙を誘った小説「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク著)。「心揺さぶられる魂の旅を描いた小説。映画化権を持っていた友人で製作のアンソニー・ミンゲラを時間をかけて説得した」

 58年、ドイツ。15歳のマイケル(デビッド・クロス)は、発熱して街角で倒れたところを、ハンナ(ケイト・ウィンスレット)に介抱される。以後、2人は逢瀬を重ね、マイケルは字の読めないハンナに本の読み聞かせを続ける。年齢差を超えた恋が芽生えるが、ハンナは姿を消す。8年後、大学の法科の授業で裁判を傍聴していたマイケルは、被告人席にハンナの姿を見つける。彼女はアウシュビッツ収容所でナチス親衛隊の看守として働き、収容者の生死の「選別」に加担した容疑がかけられていた…。

 「原作者シュリンクの世代は、罪の意識で身動きがとれなくなった。彼はこの物語を書くことで、改めて罪に対峙しようとした。戦争中に犯した罪によって愛情の価値が損なわれるのか、どのように未来へ前進し、他者をどう愛すべきか、損なわれた人間関係を変えるべきか、今のままでいいのかと、多くのものを問いかけている」と語る。

■原作者の意図を反映

愛を読むひと3原作者の意図を、きめ細かく反映させたという。「シュリンクは脚本段階から撮影、編集にまで参加した。映画の舞台となったハイデルベルクの街を案内してもらい、(戦争犯罪を問う)倫理的部分の描き方という大きな判断を下す際にも、議論に加わってもらった」

 舞台出身のダルドリー監督の手際も生きた。この映画の演技で米アカデミー賞主演女優賞を受賞した練達のウィンスレットと共演したクロスは現在19歳。撮影前に、長編映画1作しか出演経験がなかったが、今回の熱演はウィンスレットに劣らぬ高評価を得た。

 「私は舞台出身なので、俳優と共に過ごすのが大好きだ。クロスがウィンスレットとのベッドシーンで不安に駆られないよう、即興に任せるのでなく、ウィンスレットと私で細かく打ち合わせた。クロスにとって、この映画が発見の旅、感情の旅であることを理解できるよう導いた」と話す。

 トニー賞を受賞した「ビリー・エリオット」は、監督自身による映画「リトル・ダンサー」(00年)の舞台版。英国の炭坑町に暮らす少年が、ボクシング教室に通ううち、隣でバレエの練習をする女の子を見てバレエに目覚める物語だ。労働争議真っ最中の武骨な父に軟弱だと猛反対されながら、ついに名門ロイヤル・バレエ学校を目指す。

 「(映画以来)10年間時間を共にしている『ビリー・エリオット』の受賞はうれしくて仕方ない。若い俳優を際だたせた作品なので、少年たちの俳優賞受賞が特にうれしい」と述べた。

http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200906100269.html

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ロックン・ロールとは駆け抜ける意志である

Posted by Shota Maehara : 6月 9, 2009

矢沢永吉先日NHKのSongsという番組で、矢沢永吉さんの特集を観る機会がありました。特に印象深かったのは今回娘さんが歌手デビューしたことに関連して次のようにおっしゃっていたことです。

「はじめはやめとけってさんざん言ったよ。でも、それでもどうしてもやりたいって言うから、それなら良し分かったと。でもやるからには腹くくれよって言いました。これは今の若い人すべてに言えると思うんだけど、今の時代何か夢中になれるものをもっているっていうことがとっても重要なんじゃないかな。その大きい小さいは全然関係ないよ。その人にとってそれが本当に大切なものならね。」

やっぱり永ちゃんカッコいいなと思いました。尊敬してしまいます。この自分の信念をまっすぐに貫いていく姿勢(スピリット)にやはり只者ではないオーラを感じます。こういうポジティブな力を持っているからこそいまも多くのファンが彼を愛し、魅せられ、励まされているんですね。彼が30数年間ステージに立ち続けたことがそのままロックスターであり続ける存在証明だと感嘆しました。矢沢永吉よ、永遠なれ!!!

―「駆け抜ける強靭な意志こそがロックン・ロールである」

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