I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

Archive for 2011年6月

それでも明日は来る

Posted by Shota Maehara : 6月 29, 2011

私が絶望しないで生きて来ることができたのは、「それでも明日は来る」という希望があったからだ。それがどんな明日であるかわからぬにしても、とにかく神が私に与えてくださる明日なのだ。そう思うと勇気が出た。(三浦綾子 『それでも明日は来る』)

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聖書は現代の唯一の羅針盤である

Posted by Shota Maehara : 6月 27, 2011

混沌とした時代に、進むべき方向を見失うことほど危険なことはない。一歩間違えれば、我々の生涯は限りない時間の浪費になってしまう。それゆえ、我々はいつも自らの考えを、願いを、行動を神の言葉に照らして判断していく必要がある。もし自らのすすむべき道に迷ったら、それが人間の欲望から出た願いなのか、それとも神自身が望まれている願いなのかを聖書の言葉によって判別していく必要がある。聖書は現代の唯一の羅針盤である。

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自らの内なる欲望との闘い

Posted by Shota Maehara : 6月 27, 2011

それぞれの道で闘いがある。自らの内なる欲望との闘い。主よ、私は心から祈ります。いつ、どこで、どんな状況に置かれても、志を失わず、信念をもち、信仰を通して闘い抜くことができますように。主の道を走りきることができますように。愛をもって、祈りをもって、そして感謝をもって。

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スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』をめぐって

Posted by Shota Maehara : 6月 21, 2011

『信じるということ』(“On Belief”)について

 Adam Kotskoの整理によれば、ジジェクは”The Ticklish Subject”でバディウの『聖パウロ』と取り組んだ後、キリスト教への本格的な取り組みを始め、『脆弱なる絶対』『信じるということ』『操り人形と小人』のキリスト教三部作を書くこととなる。この三部作の中で考えてみる時、『信じるということ』で際立っているのは、ユダヤ-キリスト教と精神分析が教えるとされる「人間であることが「他者性」とのトラウマ的な遭遇に緊密に連関していること」が強調されていることである。『信じるということ』では三つの言及がある。二つだけ引用しよう。

 人間にとっては、トラウマ的な遭遇は普遍的な条件で、「人間になる」過程を生じさせるような侵入である。(…)これが精神分析とユダヤ-キリスト教的伝統の教えである。すなわち、人間固有の使命は、人間に内在する可能性の展開(眠っている精神力、あるいは何かの遺伝子的プログラムを覚醒させる)に依存するのではない。それは外在的なトラウマ的遭遇、理解できない<他者>の欲望との遭遇に引き金を引かれるのである。(p47=邦訳p49 改訳)

私たちの主張はこうだ。すなわち、もしハイデガーがこの[『存在と時間』の超越論的]道筋の上にとどまり、それを終着点まで追求したら、彼の理論的構築物のうちで、彼は根本的なユダヤ-キリスト教的経験のための場所、つまり、人間の本質が根源的な<他者性>とのトラウマ的な遭遇に基礎をおいていること、そしてこの神的な<他者性>自身が人間・人間性をその啓示の場所として必要としていること、このことの経験のための場所を開いただろうということである。(p107=邦訳p115 引用者訳)

 人間性は<他者性>とのトラウマ的遭遇によって生じる。しかし、その遭遇とはいかなるものか。ジジェクは第一の引用でヒントを与えている。つまり、それは理解できない<他者>の欲望との遭遇である。人間は<他者>の欲望ないし享楽とのトラウマ的遭遇によって、人間として立ち現われるのである。これはラカン派の基本的な理解であり、実際ジジェクもその線に沿って、”The Ticklish Subject”では主体の基礎的次元として他者の享楽との遭遇を論じている。しかし、そこにいかにもジジェク的なずらしを見てとることができる。

(http://d.hatena.ne.jp/Gespenst177/20110215/1297760111)

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ショックドクトリン―ナオミ・クライン

Posted by Shota Maehara : 6月 2, 2011

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原発批判論―「わかっちゃいるけどやめられない」

Posted by Shota Maehara : 6月 1, 2011

2011年3月11日に発生した東日本大震災に端を発した原発を巡る議論は、今や国論を二分していると言っても過言ではない。政府関係者や大手電力会社は電力不足を理由に原発を推進し、他方において反対派は事故があった時の途方もないコストを理由に、主に人道的見地から反対している。これまでの流れではそれぞれの担い手は前者は右翼、後者は左翼であると一応整理できよう。今回こそ教訓が生かされ、いい方向に現実を変えていくきっかけとなればいいと思う。

しかし、ものを考える人間が行うべきは果してデモ行進だけなのか。これは非常に難しい問題である。これに関して私は2008年のサブプライムショックに対して感じた衝撃を思い出す。確かスラヴォイ・ジジェク氏のインタビューでの発言だと記憶しているが、アメリカのウォール街の金融当事者たちに、もし二年後にサブプライムショックが来ると分かっていたら、どういう行動をとるかと尋ねたとしたら、まったく同じ行動をとると答えるだろうというのだ。

では、なぜ歴史の教訓が学ばれないのか。ここにこそ問題の本質がある。それは彼らの強欲で低劣な人間性に帰されるべきではないことはもちろんだ。むしろ、彼らは親としてや恋人としては心優しい人であることもありうる。だから、我々はマルクスが資本論で商品の価値形態を解明したように考えてみなければならない。

例えばなぜ人は貨幣には内在的な価値がないと知りつつも、実際にはあるかのように振る舞ってしまうのか。同様に、東電の社員も含めて、自分の会社が社会に対して損害を与えていると知りつつも、Noを言うことができないのか。そして、我々もまた、地球環境が危機に瀕していると知りながら、変わらぬ生活を続けてしまうのか。ここからわかるのは単に人間の弱さではなく、今日の文化状況、イデオロギー状況である。

すなわち、我々の社会を取り巻くイデオロギーは「わかっちゃいるけどやめられない」という言葉に要約されるのだ。かつての「知らずに何かをやってしまう」というイデオロギーよりもねじれており、啓蒙することが難しい。それゆえ原発がいかに危険なものであるかを指摘したところで状況は変わらないだろう。きっと彼らの答えは、こうだ。「私たちだって分かっている、でも…。」

私たちは何らかの形で資本主義システムを突破しない限り、永久にこの「でも・・・」につきまとわれるだろう。多くの人は真実が知りたいという。しかし、このシステムの内で生活するかぎり、仮面の下の真実などは存在しない。私たちに必要なのは資本主義に対抗するもう一つの現実を構築することだ。そして、近代の自己中心という認識論的、存在論的布置を打ち破ることである。その意味で、私は今回の出来事が提起している問題は、極めて哲学な問いであるように思うのだ。

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