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Shota Maehara's Blog

Archive for 2009年8月

サイード―「晩年のスタイル」

Posted by Shota Maehara : 8月 23, 2009

これこそが晩年のスタイルの特権ともいえるものだ。それは幻滅と喜びを、その両者の間の矛盾を解決することなく提示できるのだ。両者を、反対の方向へと引き裂かれているふたつの等しい力として緊張関係のなかにつなぎとめているもの、それこそが芸術家の成熟した主体のなせるわざである。芸術家は、もはや傲慢さとも尊大さとも縁を切り、そのあやまちを恥ずることもなく、いわんや老齢と故郷喪失の身の帰結として得られた控えめな確信めいたものを恥ずることもないのである。―サイード「晩年のスタイル瞥見」(p.237)

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アドルノ―芸術と批評

Posted by Shota Maehara : 8月 23, 2009

「芸術作品の社会に対する関係は、パイプニッツのモナドになぞらえることができよう。つまり芸術作品、特に概念に縁遠い音楽の作品が、窓をもたないのに―つまり社会を意識していないのに、また、いずれにせよそうした意識を必然的にともなっているとは限らないのに―社会を表現するのである。音楽はそれが社会に秋波を送ることが少なければ少ないだけに、かえって社会をいっそう深く表現するものだ、とさえ考えたくなるくらいである。」―マーティン・ジェイ『アドルノ』(p.213)

「音楽は、おのれの形態によってそうした矛盾の威力と、その社会的克服の必然性とを奥深く表現できればできるほど、また、それがおのれ自身の形式言語のアンチノミーを通して社会状態の窮状を率直に語り出し、苦悩の暗号文字を用いて、率直に変革を呼びかけることができればできるほど、それだけいっそう良くなることであろう。」マーティン・ジェイ『アドルノ』(p.218)

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イヴァン・イリイチの思想

Posted by Shota Maehara : 8月 23, 2009

イリイチ本来、「非対称的なものや関係」(ジェンダー、差異、他者性、多様性など)を押しつぶし、システムや合理性によってそれらを画一化してしまう「公正」や「基準」への批判こそ、イリイチの思想の眼目である。

確かにイリイチの思想は一見すると単なる共同体主義に堕する恐れがある。しかし、イリイチ思想の現実批判の鋭さはキリスト教的な背景から由来している。彼は制度化した西欧文化の根底にあるキリスト教の伝統を「最善の堕落は最悪であるCorruptio optimi quae est pessima」と批判しつつ、そのエッセンスを換骨奪胎する。すなわち、すべてが有用性という観点から眺められる社会において、今や人間の生活は過去・現在・未来という途切れない鎖の一部と化している。人間はいかにそうした鎖を断ち切って「今・ここ」を回復できるのか。そこで彼は社会に何の見返りを求めない領域、「無償の愛」(アガペー)を再導入すべきではないかと訴える。

私はこの主張を必ずしも全面的に支持するわけではない。しかし、キリスト教の教えに基づいて、かつて賀川豊彦や今釜ヶ崎で活動する神父の本田哲郎氏などの幾つかのボランティア・NGO・NPO団体を見ると、イリイチの思想から何らかの力を引き出し得るとしたら、脱学校論者や共同体主義者の側面ではなく、彼のキリスト教思想家としての側面なのではないかと思わずにはいられない。今後イリイチ研究はこの方向に光を当ててゆく必要があるのではないだろうか。

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ゲッセマネの園の祈り

Posted by Shota Maehara : 8月 23, 2009

私たち肉体を持つ者は、人間の限界の中に生きている。いかに心は思っていても、肉体が疲労困憊すれば、心について行くことはできない。「げに心は熱すれども、肉体は弱し」と言われたイエスの言葉が、私の胸にあたたかく呼びかけるのを、今日まで私は幾度か体験してきた。なんと、深い人間洞察の言葉であろうか。―三浦綾子『イエス・キリストの生涯』

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合理主義的精神―バートランド・ラッセル

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2009

合理主義者
(From: Sceptical Essays, 1928, chap. 4 & 9.)

 

 私は、自分を合理主義者だと考えるくせがあるが、近頃’合理性(合理主義)’はひどく攻撃を受けている。
 ‘合理性’の定義には、「’合理的’意見とは何か」の理論的定義と、「’合理的’行為とは何か」の実践的定義との二面がある。
 プラグマティズムは「意見は不合理である」とし、また、精神分析学は、「行為は不合理である」と強調する。これらから出る結論は、公平な局外者の仲裁を無駄とみる心情を人に与える。このような見方は甚だ危険で、結局は、文明の命取りになる。そこで、合理的な理想が命取りの思想に影響されないためには、考え方と生き方の指針として、昔からの考え方が重要性を失っていないという証明が必要になる。

 プラグマティズムの哲学者は、意見とは生存競争の武器(道具)に過ぎず、生存の助けになる意見が真理だ、と言う。精神分析学者は、多くの人々の日常抱く確信が異常かつ気違い(気狂い)染みた(無意識の)起源をもつことから、われわれの信念は合理的ではありえないことを証明できると考えている。
 合理主義の理論的部分の役割は、われわれの信念を、希望・偏見・伝統よりも、むしろ証拠に基づかせることにあり、事柄いかんでは、合理的な人は科学的な人や批判的な人と同じになる。精神分析は自分で自分を客観化して見る技術を教えてくれ、科学的な見方の訓練と共に、事実に関する信念や計画した行動が起す結果についての信念に対して、昔以上に人々を合理的にする。不一致を穏やかに調整できる。(松下注:イラストは、B. Russell’s The Good Citizen’s Alphabet, 1953 より)
 次に、合理主義の実際的部分については、論争者の(1)欲望の相違と、(2)欲望達成手段の評価の相違、との二つの源から見解の相違が生れるのでむずかしいが、後者の問題は理論的ではあるが、理論から派生的な実際的問題になるだけである。
 ある人がカッとなって、腹立ちまぎれに自分に損な事をすれば、その人は不合理だと言われる。その時彼は、極めて強く感じた欲望に甘えているのだ。冷静に見れば、遙かに重要な他の欲望を犠牲にしているので、不合理になるのだ。人々が合理的なら、己の利益についても、現在よりもさらに正しい考え方をするだろう。万人が合理的に‘啓発された利己主義’によって行動すれば、世界は現状よりも楽園になろう。‘啓発された利己主義’を最高の道徳だなどと私は言わないが、それがあたりまえになれば世界は住み良くなる。実際問題に対する合理性とは、その時の偶然に一番強い欲望にだけ左右されるのではなく、「関係するすべての欲望を思い出す習慣だ」と定義される。
 世界の真実の進歩は、すべて、実際と理論の両面における合理性の増加で成り立つ、と思う。私は、やはり‘悔い改めない合理主義者’である。

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組織における「アウトサイダー」の役割

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2009

pilgrims%5B1%5D2009年7月7日読売新聞朝刊が報じたように、大学共同利用機関「統計数理研究所」の全国調査でイライラする若者が増えているという。同研究所は「バブル崩壊後に続く景気低迷の影響」がその原因とみている。その結果、職場の人間関係を見直したり、家族を大切にしたりする人々が増え、閉塞感を覚えつつ、心のよりどころを模索する国民の姿を浮かび上がる。また特に注視すべきなのは「あの世を信じる」は第2回調査(58年)の2倍近い38%だったという今回の調査結果である。

このような状況下で、今やさまざまな新興宗教に入信する人々が増えているのではないかと考えることは決して杞憂ではないだろう。例えば、キリスト教に関しても「エホバの証人」や「統一教会」の活発な勧誘活動、そしてそれ以外でも「幸福の科学」が選挙に向けて政党を立ち上げたことは記憶に新しい。確かにこうした新興宗教は現世来世に関する独自の教義によって人々をひきつけるがゆえに、その他の組織とはやや異色である。だが、そうした極端なものからこそ、我々の社会におけるあらゆる組織の論理に潜む落とし穴を拡大してみることができるのではないだろうか。ここで広く一般の教会も含めたカルト化という現象を手掛かりに、我々の社会のより深い問題に光を当ててみたいと考える。

まず私が主張したいのは、この教会のカルト化という現象が日常の至る所で見られるということである。例えば私が以前通っていた大学院でこんなことがあった。そこではゼミの先生を中心にして、そこに信者のような学生が群がり独自の集団形成をしていた。そこでは教授の意見は絶対で、反論することはあり得ない。時に私のような部外者がそんなのおかしいんじゃないなどと言おうものなら、感情的になってくる。ここで興味深いのは、ここでは決して秘教的なテーマが扱われているわけではなく、ただの近代文学についての世俗的なゼミであるという点である。

人は自らが正しいと信じたことを否定されることに嫌悪を感じる生きものである。ましてや、若者はまだまだ視野が狭く、あらゆる知識を相対化する柔軟な姿勢を身につけていない。すると、自分が心酔した人物の意見が絶対で、それに歯向かう者に敵意を持つ。ヘーゲルは『精神現象学』の中で、自らを否定してくるのもに対して眼をそむけず、直視しろと述べたが、実際はそうなっていない。そうなると人はどうなるだろうか。私の経験では彼らは一種のノイローゼ状態になるのである。精神の成長の階段をのぼっていくことを拒み、間違いを間違いと認めることを拒否した結果、精神が奇形化し、いつしか健全な精神を養えなくなるのである。大学という場がこのような危険性を孕んでいるということはもっと認識されていい。

これに対する一つの処方箋は閉じた集団やグループの中に外の風を入れる通気口を備えつけておくことである。組織といものは極めて不思議だ。なぜなら、必ずそこでは御山の大将のようなリーダー格がいて組織内での序列が出来上がってしまっている。面白いのは、そこで大きな顔をしている人に限って、決まって井の中の蛙だということである。大海に出ることをせず、小さな組織の中で幅をきかすことに喜びを見出しているからかもしれない。そこに外部者が現れるとこの組織は忽ち混乱する。今までのルールから外れた見方や思考をする人間はいなかったからだ。本当はそこで対話や議論という営みが始まるというのに。

経営学者のドラッカー曰く、こうした組織におけるアウトサイダーの存在は企業経営にとっても重要であるという。例えば企業では全会一致では本当にあらゆる可能性を検証しきれていないのではないかというしるしであり、またそれが市場で失敗したときの別の選択肢を誰も考えられないと言うことになる。こうした組織は一見強固に見えるけれども、実は振動に弱くすぐに瓦解する。そのことを熟知しているがゆえに、彼は組織における違う意見を持つ人、いわゆる「アウトサイダー」の存在を重視したのである。

また、彼は教会や学校やボランティア団体の経営のアドヴァイザーとして長年活躍してきた経験から、そうした市場の審判を受けにくい任意団体(ボランタリー・アソシエーション)こそ、つねに組織の外部=社会性に開かれている必要があると強調する。なぜなら、自分たちは利益ではなく善きことのために働いているんだという意識のメンバーが集まっているだけに、かえって「ガバナンス」(経営管理)が見過ごされ、自分達の活動は「社会にどれだけ貢献しているのか」という指標を軽視し、フィードバックがなされないからである。

こうした組織に共通した問題を打ち破るのは、「外部」である。それは、「社会性」と言い換えても良い。つまり、自分達の活動が社会にどれだけ貢献しているのか役立っているのかという声を真摯に聴く機会を少しでも多く持つことである。あらゆる組織は社会性を必要とする。それは「教会のカルト化」を防ぐためばかりでなく、「日本のカルト化」を防ぐためにも重要なのではないだろうか。

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「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せ」(新約聖書)

Posted by Shota Maehara : 8月 2, 2009

サマリア先日、電車に乗っていた時、就職説明会に向かうための高校生の集団にホームで出くわした。彼らは表面的には幸せそうであるが、話している内容は実に深刻であった。それはこの不況下で求人がないため、学校の先生や親に自衛隊に入るように勧められているというのである。その横で定年退職した高齢者たちの旅行に向かう団体の談笑する姿が誠に対照的で、現代日本の光と影をそこに見る思いがした。

聖書を読み始めてまだ間もない時、私が一番最初に感じたことは、一人の偉大な教師イエス・キリストの生涯を通して語られる人間の愚かさ・弱さであった。もし仮にこれほどの深い教えを含んだ新約聖書の物語がすべて作り話で、イエスも実在していなかったとしても、人間は傲慢であるがゆえに、無実な人を罪に陥れて殺すことをしかねないと。例えば、聖書にはそれ以外にもさまざまの預言者の話が出てくるが、「ノアの箱舟」で知られる預言者はこの地上に洪水が来ると警告する。その時も人々は彼を嘲笑し、唾すら履きかねないありさまであった。

「自己責任論」がまかり通るこの世の中で、人は自分さえよければ他人は関係ないという誘惑に知らず識らず陥ってしまう。また自分の才覚だけで勝ち抜かなければならないと思いがちにもなる。そのためだんだん自分が傲慢になり他人の不幸に対して無感覚になっていく。他者とのつながりが希薄になていく。それによって自分の豊かな人間関係もいつしか痩せ細ったものになっていく。そういう人生を私たちはもしかすると歩み始めているのかもしれない。そうした心の隙間を欲望産業が入り込む。昨今流行りの「婚活」(コンカツ)もその一種である。

だが、いつの世も人は決して自分一人では生きていくことができないことは紛れもない事実である。それならば、このような現代社会の流行や自己中心的な人間性に触れるとき、私には「自分さえ良ければという人間の心の弱さといかに対峙していくのか」というテーマこそが現代社会が直面すべき真に重要な問いであると思えてくる。

ではどうやったら人間は自分のことだけでなく、各々他人の幸福をも考えることができるのだろうか。クリスチャンは神というものがあるが、神を失った現代人は何をもって自らの間違いを正す鏡とするのか。まずは自らの弱さを直視しなくてはならない。そこから謙虚さが生まれる。そこではじめて同情を乗り越えた共感に基づいた新しい共同体を築いていくことができるのだ。

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弟子の足を洗うキリスト

Posted by Shota Maehara : 8月 2, 2009

異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中で一番偉い人が一番若い者のように、指導する者は仕える者のようになるべきである。―新約聖書

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