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Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘政治’ Category

平等への愛

Posted by Shota Maehara : 11月 28, 2008

 

モンテスキューが『法の精神』の中で定義したように、民主政治の原理とは、平等への愛である。そこでは諸階層の平等に基づき、個人の利益よりも平等な国民からなる社会全体の利益が優先される。こうした民主政治の原理は個人と社会の利益が調和している狭い共同体においては問題なく機能する。しかし、ひとたび国家単位の広い領域に拡大されると、個人と社会の利益は齟齬を来し、個人の自由や権利は蔑ろにされる危険性がある。かくして民主政治は全体の名の下に、個人を押し潰す。これは平等への愛が生む必然的帰結である。結局ニーチェが予見した通り、現代文明の病は民主主義も社会主義も無政府主義(アナーキズム)も等しく憑かれているこの平等への愛だったのである。その上でニーチェに反して、われわれはニヒリズムや野蛮に陥らず、個人の自由なる空間を社会の中に確保していく文明への道を探究し続けなけれなならない。

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古典から読む二つの民主主義―マキアヴェッリ・モンテスキュー・トクヴィル

Posted by Shota Maehara : 11月 24, 2008

イタリアの政治思想家・マキアヴェッリは、かの有名な『君主論』(第四章)の中で、アジア型国家の統治形態と、ヨーロッパ型国家の統治形態を次のように説明している。

まず、トルコの君主国は、一人の支配者に統治され、他の者たちは彼の下僕である。君主は、全国を幾つかの行政区に分け、執政官を任命し派遣するが、彼らはいつでも君主の命令で別の官吏に交代できる。いわば中央集権的な官僚国家を形成している。このようにアジアで権力が一人に集中してる姿は、アジア的な特徴であり、時に東洋的専制主義とも呼ばれる。<アジア―中央集権―東洋的専制主義国家>

それに対し、フランス王国では、君主以外にも多くの貴族や諸侯がそれぞれの領土と領民を治めている。彼らはその領内で臣民に主君と仰がれ、愛されているために、王といえども危険なしに彼らから特権を奪うことができない。いわば、地方分権的な体制を敷いている。このようにヨーロッパで権力が多数に分立している姿は、封建制の特徴である。<ヨーロッパ―地方分権―封建主義国家>

では、この統治形態の差異は、どのような戦略上の帰結を生むのだろうか。アジアの専制国家を侵略する場合、相手は一丸となって抵抗してくるが、一度敵の政治的権力を奪取してしまえば、権力とつながりの薄いその他の臣民はおとなしく従うだろうと予想される。だが、封建的なヨーロッパの場合、権力が一枚岩でないために、国内に攻め込むのは容易いが、たとえ王を倒した後も他の諸侯たちが頑強に抵抗してくるだろうと予想される。

こうした区別をした上で、フランスのモンテスキューやトクヴィルは、アジア型の国家を専制主義と位置づけ、ヨーロッパ型の国家を民主主義のあるべき姿として捉えていたと一応言うことができる。

しかし、フランスはアンシャンレジーム(絶対王制)の下で、急速に政治と行政を王の下に中央集権化し始める。さらに、一七八九年の民主革命によって、フランスは強力な中央集権政府を完成させ、その下で民主主義を実現する。ナポレオンはこの時代の変化を逸早く感じ取り、それまでの騎士道風の個別戦法から、国民皆兵による集団戦法を採用し、近代的な軍隊を創始した。つまり、近代民主主義はその誕生時から、急速にヨーロッパ型からアジア型に姿を変えていったということなのである。

先のマキアヴェッリの記述に従えば、一方のアジア型の民主国家は侵略するのは難しいが、統治するのは容易く、他方のヨーロッパ型の民主国家は侵略するのは容易いが、統治するのは難しい。そうであるならばアジア型に近づいている我々の民主政は政治家や官僚が専制的な権力を振るい易い支配構造になる危険性を孕んでいると言えるのである。だからこそ、トクヴィルはこの強力な中央集権的政府と無力な国民の群れという構図のなかで、権力が介入できないかつての貴族に変わる中間集団の役割に着目したのだ。例えば、それは司法権や教会や大学や市民団体などの存在である。

最後に本論を少し拡張することにもなるが、もし民主政治が未来に崩壊する可能性があるとしたら、一体どんな要因によってであろうかという点について若干触れておきたい。おそらく歴史的にそうした事態が起こり得るのは次の内部要因と外部要因の二つの道からであるだろう。

A. 内部要因:市民が自己の関心に引きこもり、仕事や家庭のこと以外気にかけなくなる。公共の利益のために奉仕する精神が失われ、徐々に中央政府の集権化が進行する。

B.外部要因:民主政治は商業を営み、平和を好む平時のための政治体制であるが、テロや戦争や外交などの安全保障上の問題が起こり、国内で不安に怯える国民の共感に支えられて独裁的な政治家や軍部が権力の中枢を担うようになる。

こうした危機を未然に防ぐ手立てとして、我々は机上の空論や何処にでも通用する魔法の杖を期待すべきではない。むしろ、それぞれの国が持つ歴史の中から、権力を抑止し、市民一人一人に自由な空間を確保する政治的仕組みを取り出していかねばならない。なぜならば日本、イギリス、アメリカ、イタリアさらにはフランスなど諸国には言うまでもなくそれぞれ固有の政治的な伝統が受け継がれているからである。

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自由政治と市民社会の省察

Posted by Shota Maehara : 10月 9, 2008

 1. 一つの組織に我が身を捧げる人々

近年、政治や企業における相次ぐ不祥事が問題となっている。そして、そのたびに私たちは記者会見で国民に頭を下げる責任者の姿を目にする。さらに殺傷事件を起こす子供や若者、そして育児を放棄する親たちの無責任が問題となっている。こうした現象は総じて国民のモラルの低下という道徳的な側面から批判され、その中でも行き過ぎた個人主義の弊害であるという意見が実しやかに囁かれている。

だが、私にはむしろこうした現象は行き過ぎた平等主義の弊害であると考えられる。例えば、政治家や官僚の汚職、企業経営者の不祥事の背景にあるのはむしろ「こんなことは誰でもやっている」という横並び的な意識なのではあるまいか。実は最近の人々のマナーの低下の深層にあるのも自分一人が勝手なことをやりたいという意識ではなく、みんなもやっているから大丈夫だという悪い意味での平等意識である。往々にして自分一人でやることは勇気がいるし、社会的責任も伴うものである。

さらに、私がショックを受けるのは、そこに垣間見える恐ろしいまでの個人の欠如である。例えば、ある企業が汚染された米を新米に混ぜて売ってしまった事件がある。現場では上の命令でやったと主張し、上役は自分が考案したが実行したのは現場の人間だという。この両者に共通しているのは恐るべき自己責任の欠如である。指示した経営者もさることながら、人に害のある米を混ぜろと仕向けられ、それに逆らえないのが会社の社員というものなのであろうか。結局はどちらにしても自己の責任をあまり感じずにいられる。これではまるで戦前の軍隊における「無責任の体系」(丸山真男)という他ない。

確かに人は会社で働くことで成長することができる。だが同時に会社で働くことが人格を歪ませてしまう側面もある。人は組織の一員になると社会的にやって良いことと悪いことの区別に無感覚になってしまう。なぜなら組織の一員と言う意識が私個人の人格を見失わせてしまうからだ。単純にこうした問題の背景にあるのは、企業以外に自分を成長させられる場を持っていないことである。私の経験からも、そうしたタイプは人生の大部分の時間を仕事のみで終える人が多い。仕事に燃えるのは結構だが、会社に身を捧げ過ぎてそれ以外の自分を見出すことができないのである。もしくは組織を出ればただの人になるのが怖いのかもしれない。

 

2. タテ社会とヨコ社会の再検討

人類学者の中根千枝は『タテ社会の人間関係―単一社会の理論』(講談社現代新書、一九六七年)の中で、日本をタテ社会と規定して欧米のヨコ社会と比較している。それらを要約して整理すると次のようになる。

(1)タテ社会(場・人間関係)――――村(ゲマインシャフト)
(2)ヨコ社会(契約・ルール)――――市民社会(ゲゼルシャフト)

中根はタテ社会では、集団内での極端な平等主義により結束が生まれ、その反面自分が所属する唯一の集団の内と外は対立関係にある。それに対し、ヨコ社会では幾つかの契約やルールを共有する者同士でネットワークが生まれ、個人が複数のサークルに同時に所属できる。その上で日本のタテ社会を「単一社会」と呼び、その特徴を人類学的に分析している。

しかし果たしてこれを日本社会だけの特徴と見なして済ますことができるのだろうか。むしろ私は、(1)のタテ社会こそ民主政治の特徴であり、(2)のヨコ社会こそ自由政治の特徴と見なすべきであると考える。自由政治は市民が同時に複数の集団に帰属することによって多様な自己を獲得している社会であるのに対して、アテネの民主制やアメリカのタウンシップを見ても明らかなように、民主政治は狭い共同体の中での成員間の平等(=相互扶助/互酬制)に基づいて営まれてきた。

したがって民主政はその起源から、ヨコ社会=市民社会=自由政治とは異質な原理に基づいている。だからもし、こうした民主政治によって狭い村を越えて国を統治しようとすれば、必然的に国民間の平等が基軸とならざるを得ない。すなわち近代の民主政治そのものが一国単位で単一社会を生み出していく仕組みなのである。これはナショナリズムの問題とも関わっている。

 

3. 近代化と民主化の流れ

そもそも近代化とは、中世の封建社会における国家から相対的に自立していた様々な諸集団を廃し、市民の帰属を国家へ一元化する過程であった。例えば、職人などの職業組合(ギルド)、自治都市や教会の勢力はその代表的なものである。なぜならば、社会における多様な利益集団・信仰集団の存在は、人々を国家の下で国民として組織するために、同質化=平等化するための妨げとなったからである。

こうして、身分秩序の中で異なった生活を送っていた諸階層が、すべて平等な存在として法的に認められることになった。いうなれば、所属している集団や共同体の違いによって様々な顔をもっていた市民を解体し、再び同質的な国民へと再構成するのである。この結果国家と国民は一体であるという表象が生まれ、いわゆる国民国家(ネーション・ステート)が完成する。

歴史的に、こうした近代化の過程は、民主化の運動によって推し進められた。諸個人を所属する集団や地域から引き剥がし、すべてを平等な国民として扱い、全国規模の議会を作った上で、自らの民意を反映させるべく普通選挙を実現させる。それによって、自分や彼らもまた同じ国民なのだという強烈な平等意識、すなわちナショナリズムが形成されてくる。その意味で、ナショナリズムとは民主化運動とその歩みを同じくする。こうして各々の郷土への愛着は、国家への愛国心(ナショナリズム)に置き換わる。かくして近代化の過程とは、国家の上からの政策と、国民の下からの民主化運動とが合流して完成するのである。

日本はこれを明治・大正期に、自由民権運動や大正デモクラシーによって経験する。ただし、日本の家父長主義や寄生地主制や日本的経営などの問題は戦前・戦後を通じて日本の近代化の遅れや不徹底からくると歴史家によって見なされてきた。前記の中根の研究もこの線上にある。そのため、日本はもっと近代化せねばならない、近代民主政治を根付かせねばならないと叫ばれてきた。

 

4. アジアと自由政治の欠如

しかし、これまで記述した近代化の過程を俯瞰するとき、日本は世界でもこれ以上にないほど近代化=民主化した国であるように見える。例えば、高度経済成長期には一億総中流ともいわれ、時には共産主義以上の平等な社会を実現したとまで評価されたからである。それならば、日本は封建的遺制を残しているというよりは、完全に払拭してしまったというべきなのではないか。しかしまた同時に、日本特有の「世間」という考え方や、集団意識の強さ、個人の欠如はなにゆえ散見されるのか。

それに対して、私は次のように考える。すなわち、自由民権運動の過程で、個人の「自由」に立脚した上での自由民権ではなく、逆に狭い村落共同体における「平等」という意識の延長戦上に自由民権という考え方を打ち立てたからではないか。その意味で自由主義の観点から見て、自由民権運動には二つの問題点があったと言える。第一に、上記の帰結として、徒党を組むだけでそこに個人がないこと。そして第二に、個人は何か主張すべきことがあるからこそ、言論の自由を求めるのに、日本ではむしろ自分自身の主張や意見もないのに、ただ言論の自由や参政権を要求したことである。

確かに、民主政治は共同体内の平等を実現する。しかしその裏側で自分たちに同調しない者を排除=差別する。それは同じ民族(えた・ひにん)である場合もあり、異人種(ユダヤ人・黒人)である場合もある。さらにこの民主政治の排外性はナショナリズムによって強化される。だから人々はこうした自分の帰属する唯一の共同体から切り離されることを極度に恐れるのである。いずれにせよこうした民主化=平等化の問題は、アジアなどの共同体が強い地域ではさらに深刻である。政治学者の石井知章は、アジアの民主政治について次のように述べている。

これに対して、ヨーロッパにおいて市民的な自由の対立物として扱われてきた専制概念は、中国では必ずしも無条件に自由の概念と対立するものと理解されてきたわけではなかった。というのも、もともと中国における個の概念とは、私=エゴイズムと密接に結び付けられてきたがゆえに一旦は否定されるべき対象であり、国家を私する皇帝の専制に対抗すべき民権とは、「個々の民の私権いわゆる市民的権利ではなく、国民ないし民族全体の公権」(溝口雄三)だったからである。したがって、例えば陳天華が反専制の向こう側に自由を求めたとしても、それはヨーロッパ的な「個人の自由」とは厳密に区別された総体の自由としての「民族の自由」に他ならなかった。つまり、「アジア的」なリベラル・デモクラシーとの関連でいえば、「進歩と専制」という座標軸の中でデスポティズムの問題が語られるとき、そこで優先的かつポジティブに評価されたのは、専制に対するデモクラシーであっても自由そのものではなかったのである。(第三章「東洋的専制主義の位相」/『K・A・ウィットフォーゲルの東洋的社会論』、社会評論社、二〇〇八年、p.148)

このように石井は共同体の規制が強いアジアでは、「デモクラシー」(民主政治)は生まれても、「リベラリズム」(自由政治)は育ちにくいと述べている。その意味では、民主化はアジア社会と親和的であるとすら言えよう。そして彼の主張を敷衍すればアジアの民主政治と東洋的専制主義は必ずしも相互に排他的なものではないとを示唆しているようにも見える。なぜならこうした農村共同体を基盤とする限り、国家は民衆を保護する家父長的な守護者としてつねに立ち現れてくるからである。たとえそれが民主政治と呼ばれようともである。

 

5. 西欧と自由政治の衰退

 だが同時に西欧先進国の民主政治の動向が懸念される。歴史的に、ナポレオン三世やヒットラーの台頭に見られるように、ファシズムは近代民主政治を基盤にしてこそ生まれるといえる。彼らは国民の眼に時代の不況や不安を一気に解消してくれる絶大な守護者として表象されるからである。こうして自由政治の理念が忘れ去られた近代民主政治の下では、政府はつねに人民の名のもとに、権力を拡大する。なぜなら経済にせよ教育にせよ、個人が解決できないなら国家権力が代わりに解決しようと言うことは一見もっともだからである。

確かにマルクスが指摘するように資本制経済や市民社会には様々な矛盾に満ちている。例えば、貧困格差・環境破壊そして戦争などである。そのため市民社会への批判は絶えない。だが、一度も市民社会が存在したことがない国でその衰退を叫ぶことは何を意味するだろうか。それは文明を放棄して野蛮へ向かう道であろう。それを乗り越えるのは過去に起こった出来事のように、多様な価値観を包含した市民社会や自由政治を放棄することであってはならない。互いの差異を認め合った個人の存在なき運動や政治はいかに崇高な理想からなされたものでも、専制下での平等=隷従へと至る。かつてファシズムやボルシェビズムに反対して自由主義や擁護したハイエクは述べている。

人びとを平等に取扱うことは自由な社会の条件であるのに対して、人びとを平等たらしめようとすることは、ド・トクヴィルが述べたように、「隷従の新しい形態」を意味する。(「真の個人主義と偽の個人主義」/『市場・知識・自由―自由主義の経済思想』、ミネルヴァ書房、一九八六年、p.19)

西洋の伝統の中で生まれ、ふたたび見直されるべきは民主政治ではなく、自由政治である。民主政治はアジアにも見出し得るが、自由政治は西欧にしか見出せない。自由政治の理念は、人間の複数性を認め、他者や異論を尊重することである。こうした市民社会の多様性こそが、ナショナリズムや世論に見られる一枚岩的な議論や政策に対する防波堤なのである。その上で絶えず次のことを思い出すべきだろう。「他人は欺く。ならば、自らの頭で考え行動せよ。最後は自分自身だけが頼りなのだ。」―これが自由政治の出発点だからである。そして、こうした自らを律することのできる諸個人が一人でも多く存在する市民社会の誕生こそが次なるリベラルな社会正義を実現していく段階に至るための前提条件なのである。

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民主政治の根源にあるもの

Posted by Shota Maehara : 10月 5, 2008

1.

一八三一年アメリカに旅行したアレクシス・ド・トクヴィルは、その社会をつぶさに観察した。そして、その詳細な記録を後に『アメリカにおけるデモクラシー』として出版する。この著書は『ザ・フェデラリスト』とともに世界の民主政治の見方に多大な影響を及ぼした。この冒頭は次の有名な書き出しで始まる。

「アメリカ合衆国に滞在中、新奇なことは多々あったが、諸階層の平等ほど私の注意をひいたものはない。この基本的事実が社会の進展に及ぼす影響は、すぐにわかった。世論にある方向を、法制にある傾向を与え、為政者には新しい紀律を、被治者には独自の習性をもたらしているのである。」(岩永健吉郎訳)

トクヴィルはまさにこの書き出しの通り、「諸階層の平等」を民主政治の要諦として捉えた。そして今やヨーロッパをも巻き込む、「偉大な民主的な革命がわれわれの間で進行している」と述べたのである。ただし、旧世界の貴族出身である彼は、新大陸アメリカの人民の国を称賛しながら、その危険性をも察知していた。それは彼がヨーロッパとアメリカ、古い貴族社会と新しい平民の社会を比較して、その長所と短所を見極めようとしていたからである。

それから一七七年の歳月が経った今、こうしたトクヴィルの予言がいかに正しかったかが証明された。そして、州単位で営まれていた初期の民主政治が、一国そして、グローバルへと拡大するに従って、その矛盾もまた深刻なものになったようである。現代は共同体が揺らぎ、諸個人が孤立し、メディアや教育は同質的な価値観を助長する。そして人為的に世論が形成され、学問や政治が時の動向に大きく左右されている。

2.

現代の深刻な問題を解決する糸口は、民主政治の原初にまで遡らねばならない。アメリカの民主政治の原型であるタウンシップは、個人が個人となることなく狭い共同体の中で一緒に自給自足の生活をすることにある。さらに民主政治の祖ともいえるジャンジャック・ルソーは自伝的作品『告白』のなかで、小さな故郷ジュネーブ共和国へ思いを馳せつつ、そこで実現し得る人民にとって最良の政体とは何かという問題が彼の直接民主論の動機であったと語っている。なぜなら、この「孤独な散歩者」は、自然を愛し、顔の見える付き合いを楽しみ、人と人とを疎外する組織や制度そして貨幣を極端に嫌悪したからである。やがて、それは素朴な人民を抑圧する支配者への憎悪にまで発展する。その点でエンゲルスら社会主義者がルソーを社会主義者の祖と見なすことも強ち間違いではない。

しかし、国家を否定し、狭い共同体の中で人は真に人間らしく生きられるという反文明的な立場は、ボルシェヴィズムのそれではない。むしろ、トルストイやクロポトキンなどの農村共同体に依拠した無政府主義(アナキズム)に近いといえよう。日本でも大正時代に白樺派と呼ばれる芸術家や無政府主義者そして農本主義者の間で、平等と相互扶助に根ざす村の生活は、権力の階層秩序(ハイアラーキー)を産まない理想社会であると主張された。

例えば、日本の無政府主義者である伊藤野枝は「無政府の事実」の中で次のように述べている。日本の村ではいわゆる「互酬」の拘束力によって、相互扶助を可能ならしめると同時に、村から犯罪人を出さないための制裁の仕組みとして「村八分」などの掟がつくられた。 一般に「村八分」とは、日本の前近代性や村社会の後進性を示すものとしてよく言及される。

だが、伊藤によれば、それは村が組合の下で自治を営むために考え出された仕組みである。つまり、もし村に犯罪人が出ても、排除したり役人や警察に引き渡さずに、共同生活から離れて生きることができない事実を踏まえて、再発を防止し未然に防ぐために考え出された村人の知恵なのである。もちろん村によって違いはあるだろうが、彼女の村では実際に村八分まで至った人はほとんど見たことがないという。このように互酬制による拘束力は人々の間で相互扶助を実現すると同時に犯罪の発生を抑止する二つの機能を持つ自治の仕組みである。 

3.

さらに、実はルソーが理想としていた古代の民主政(ポリス)も同じように、国家というよりは、共同体内での平等と相互扶助(互酬)に支えられた部族内での政治なのである。日本の思想家柄谷行人は、アテネの民主制について次のように述べている。

「特にアテネの民主主義は、西洋に固有の原理として、見習うべき規範として称賛されています。しかし、これは近代国家の代議制民主主義とは根本的に異質です。そもそも、アテネの民主主義は支配者共同体(=市民)の原理です。それは非市民の奴隷を支配する共同体です。また、商業にもとづくにもかかわらず、それを非市民である外国人や居留外国人に任せる共同体でした。
 近代国家がアテネの民主主義を模範として見習おうとしたことは確かですが、そこに一つの決定的な誤解がある。モンテスキューはそのことに気づいていました。彼の考えでは、代議制は貴族的であり、くじ引きこそ民主的である(『法の精神』)。」(『世界共和国へ』岩波新書、二〇〇六年、p.54)

さらに続けて互酬制と民主主義のかかわりについてこう述べている。

「アテネの民主主義には、部族的共同体の平等主義が貫かれています。そこでは、だれかが、特権的な地位を占めることを避けようとする。ギリシア人の中には、ヘロドトスのように、彼らの在り方が、ペルシャのような「東洋的専制国家」と異なること、そしてそれが文化的な優越であることを主張した人がいます。そして、それが近代ヨーロッパにおいて強調されたわけです。しかし、ここに「東洋」に対して進んだ「西洋」の個人主義的原理を見るのはおかしい。アテネの民主主義は共同体の互酬制にもとづくものであり、たとえば、北アメリカ先住民のイロコイ族にもそのような直接民主主義が見出されます。実際、彼らの民主的統治原理が、アメリカ合衆国の創設において模範にされたといわれています。」(同書、p.55)

このように民主政はその起源から反中央集権的、反議会主義、反個人主義な志向性を持っている。それゆえ、互酬制に基づく民衆の自治が比較的小さな集落では実現するとしても、それが共同体と共同体の間、さらには国家単位で実現するかがのちに大きな問題となる。それが劇的あらわれたのが、アメリカの「共和主義」と「連邦主義」の対立である。それまで十三の州にわかれていた自治権を廃して、一つの強力な連邦政府を創ろうとした際、次の対立が生じた。つまり、民主政が不可能になるという「共和主義」派と強力な政府こそ真の民主政を実現できるという「連邦主義」派がいた。これがアメリカ史上有名な一七八七年に憲法制定をめぐってフェデラリストたちが行った議論である。いまやこの矛盾はあまり言及されることもない。

4.

しかし、諸階層の平等にもとづく民主政治の原理は、個人の自由に立脚する自由政治の原理とは根本的に異なる。この区別を誤解もしくは忘却するならば我々はテロやファシズムへと道を開いてしまうだろう。なぜならば、平等を重んじるということは、その裏側で何者かを排除することを意味する。国民の悪しき平等の結果排除される対象は劣った人であることも(蔑み)、逆に優れた人である(妬み)可能性もある。その上で、国家レベルでの民主政治=平等政治を推し進めれば、すべての人を共同体や社会から引きはがし、同質化し、孤立化させることに終わる。既得権の名のもとに、利益団体や組織は解体され、その他の市民団体も国家の公認や監視を受けなければならない。

こうした全体主義に対抗できるのは、民主政治であるという議論が実しやかに囁かれている。だがこうした見方は幻想にしか過ぎない。自由は多様な意見を包含するが、平等はこれらを排除する。これが政治哲学が歴史から学んだ教訓である。ファシズムはこうした排除としての平等を利用して独裁制を敷いたのである。それは現代の議会制民主政治が、民主政治と自由政治の混淆である。ゆえに、より民主政に近づけるためには、自由政治を否定しなければならないという口実の下にである。ファシズムの理論家カール・シュミットは、「ボルシェビズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし、必ずしも反民主主義的であるわけではない。」と述べている。その理由を彼はこう説明する。

「人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置によってよりも喝采(acclamatio)によって、すなわち反論を許さない自明のものによる方が、むしろいっそうよく民主主義的に表現され得るのである。民主主義的な感情の力が強ければ強いほど、民主主義は秘密投票の計算組織とは違った何ものかである、という認識がますます深くなって行くのである。技術的な意味にとどまらず、また本質的な意味においても直接的な民主主義の前には、自由主義的思想の脈絡から発生した議会は、人工的な機会として表れるのに反して、独裁的およびシーザー主義的方法は、人民の喝采によって支持されるのみならず、民主主義的実質および力の直接的表現であり得るのである。」(『現代議会主義の精神的地位』みすず書房、二〇〇〇年、稲葉素之訳、p.25)

シュミットは民主政治と自由政治が違う原理に基いていることを見抜いていた。そして大衆民主主義の時代に、自由政治の根幹である議会制は危機に陥っていると分析する。これほどまで多くの大衆の民意を政治に反映させるためには、有権者と繋がりの薄い選挙で選ばれた代議士では不可能であると。議会制や自由主義ではこの問題を解決することはできないのだと彼は述べる。確かにファシズムやボルシェビキが失敗したとしても、それが議会政治の喉に刺さった棘を抜いたことにはならないという指摘は当たっている。だが、また彼のいう民意や世論というものが自然発生的に下から発生したものなのかどうか実際政治の上では疑わしい。むしろ、世論はつねに上からある意図をもって人為的に形成されるのではないのか。彼はおそらくそうした実利的な見方を軽蔑するだろうが、議論の論理的整合性において彼は今も最大の自由主義の論敵である。自由主義の限界を乗り越えることはすなわちシュミットを乗り越えることである。

5.

何れにしても人間の歴史は重層的な構造をなしている。ヨーロッパの中世で、国家から相対的に自立した職人や商人が市民の担い手となり、それが国民に発展していったように、自由政治の伝統の上に民主政治が接木されなければならない。それは自由民権運動やリベラルな啓蒙主義者の後に、社会主義運動が生まれた如くである。おそらく今後どの国家でもこの歴史のとび越えは不可能だろう。人間は愛情だけで育てば動物と変わらない。いつか他人に対して敬するということを学ぶ。本来それは父母の共同作業だが、そうでなければどちらかが両方の役目しなければならない。同様に、アジアは市民社会を築きつつ、同時に批判を行わねばならない。確かにそれは困難な道のりである。だが、行き過ぎた個人主義への反発から、再び共同体へ戻ることはアジアにとって反動であるばかりか、まさしく悲劇であろう。

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民主革命の光と影―『革命児サパタ』

Posted by Shota Maehara : 10月 4, 2008

1.

民主政治とは何かを考える上で、一九五二年に公開されたエリア・カザン監督の『革命児サパタ』は、極めて興味深い作品である。この作品は、一九一〇年に始まったメキシコ革命を舞台にして活躍した農民の指導者エミリアーノ・サパタの半生を描いたものである。

 

2.

メキシコは三四年間独裁者ディアスの圧政に苦しんでいた。ある日、先祖代々受け継いできた土地をの大農園主によって囲い込まれた農民たちは大統領に直訴に行く。裁判に訴えれば済むという大統領に対し、裁判で農民が勝ったためしはないとサパタは詰め寄る。彼らは自分達の土地であることを証明する境界石を見つけるよう言われるが、中へ入る許可は下りない。仕方なく、彼らは無断で中に忍び込むが、私兵に銃で追い払われ、サパタらは山に隠れる。

こうした折、アメリカのテキサスに逃れていた革命家マデーロは、武力蜂起を計画する。そしてサパタに南部戦線での協力を求める。やがて、革命は成功し、サパタは新政権の下で将軍に任命される。そして思いを寄せていた豪商の娘ホセファと結婚するのだった。幸せの絶頂にあるはずのサパタだったが、なぜか表情が晴れない。その理由を聞くホセファに、明日マデーロと会見するが、自分は文盲だから不安なのだと答える。そしてサパタは彼女から聖書で読み方を教わるのだった。

やがて、サパタはマデーロと会見する。そこで農民の土地を返還する約束を迫るが、マデーロは慎重な態度を崩さない。いらだつサパタは、農民の兵隊を連れて村へ帰ってしまう。革命政権は発足したものの官僚や軍部は、以前のまま残った。こうしたなかで、将軍ウエルタは反革命を目論み、密かにマデーロを殺害し、サパタに狙いをつける。ここには民主化を求めながらも、知識階級出身のマデロと農民出身のサパタとが何が民衆のためになるかに関して微妙に交錯する姿がリアルに描かれている。

ついに困難の末、農民兵を組織したサパタはウエルタ将軍を倒し、大統領に就任する。戦いに明け暮れる日々から解放され、慣れない公務をこなす。そこへある日農民たちが訴えに訪れる。驚くべきことに、一緒に戦った兄ユーフェミオが農民の土地や妻を奪い屋敷を占拠しているという。信じられないサパタは、いづれ何とかすると答える。だが、収穫は待ってはくれない、今すぐでなくてはと青年が詰め寄る。怒ったサパタはすぐさま彼の名前を紙に書き付けようとした途端、それがかつてここに訴えに来た自分と大統領の姿に重なる。民主革命を成就した自分が、かつての独裁者そのままになっていた現実を目の当たりにし、村へ還ることを決意する。

兄はまるで別人のように荒んだ生活を送っていた。お前が戦功の見返りに土地も金も求めないために、自分は惨めな暮らしを強いられている。なぜ手柄を立てたものが褒美を取って悪いのか。だから自分は奪ったまでだ。こうした兄の言葉にサパタはうな垂れてしまう。人間はかくも権力に弱い生き物なのか。次の引用はこの時、うな垂れたサパタが自分に語りかけるように農民に語る印象的なセリフである。

この土地は君たちのものだ。君たちで守らなきゃダメだ。守らなきゃ奪い取られる。自分や子供の命を懸けてでも守れ。敵はまた戻ってくる。甘く見たらダメだ。家を焼かれたらまた立て直すんだ。作物は植え直せ。子供が死んだらまた産め。谷を追われたら山に住むんだ。指導者に頼るな。ガッカリするだけだ。完ぺきな指導者などいないし、人間は変わるものだ。見捨てることも、死ぬこともある。頼れるのは自分だけなんだ。強い人間は最後まであきらめない。

自分は理想を掲げ、民衆と共に革命をおこした。その結果圧政から解放されたはずが、支配者と被支配者の関係はいまだ残り続けている。武を持って武を制しただけでは何も変わらない。本当の敵は自分自身の中にいるが、また同時に本当の味方は自分自身だけなのだ。そう彼は語りかけているように見える。このシーンの直後、兄ユーフェミオは銃で撃たれ息絶える。そしてサパタもまた敵の罠にかかって命を落とす。それでもサパタがいつか戻ってくると人々は信じつつ映画は幕を閉じる。

 

3.

さて、この映画は一見すると民衆が指導者に頼らず、自分達で自分達の土地を治めていかなければならない。それが民主政治の理念であると訴えたいかのように見える。つまり、民衆による自治こそ民主政治の根本であると。こうした考えは古くから存在してきた。極めて古典的な民主政治観であると言っていい。

例えば、アメリカの言語学者にして反戦運動家のノーム・チョムスキーは、彼の著書『メディア・コントロール』のなかで民主主義社会に対する典型的な二つの見方を取り上げている。一つは民衆が自分で国を治めるべきだという意味での〈参加型民主主義〉。そして、統治はエリートの仕事であり、民衆は彼らを選挙で選びさえすれば良いという意味での〈観客型民主主義〉である。いうまでもなくチョムスキーは、前者に依って後者を批判している。

しかし、このような民主政治の単純化は果たして真実であろうか。またそれはチョムスキーの政治的立場を正しく要約しているだろうか。私は敢えてこのような民主政治観は全体主義やファシズムへと道を開くものであると指摘する。国家官僚やエリートに対して、民衆の万能や無謬を主張する立場も等しくロマン主義的である。これはまさに主人と奴隷が入れ変わるだけの弁証法的な転倒に過ぎない。この先人々にどんなに多くの情報や知識を与えたとしても、我々はすべての国民を啓蒙することなどできはしない。むしろそのような国民が国政を担えば、政治が立ちいかずに必ずや独裁に道を譲るだろう。

さらにルソーの民主論やアメリカのやタウンシップを見れば明らかなように、その農本主義的性格は明らかである。つまり、個人が個人とならずに狭い共同体の中で自給自足の生活を営むのを良しとする考えである。これは無政府主義者の考えとも近いものがある。いずれにしても民衆の力への全幅の信頼は、個々人の努力や能力による差と言うものを認めない。誰でもそうなれるというなら、優れた人などは本来あり得ないと言うに等しい。平等を主張するあまり、優越した個人の存在を無視してしまっているのだ。その意味で、民主主義者も社会主義者も人民の名の下に、個人の自由を抑圧してしまう危険性を持っている。

この『革命児サパタ』という映画が真に感動的なのは、単に指導者に振り回されず自分達で土地を治めるのが民主主義だと言っているからではない。むしろこれまで述べてきたようにそのような見方は有り触れている。そうではなく、実は武器の力に訴えたサパタが、文盲であり、それゆえの自分の無知を恥じているからだ。言うまでもなく恥じることは知性の証しである。サパタは身を守るために武力は必要不可欠と考えつつも、善なる政治を行うためには、他人に頼らずに、自ら学び、自ら考える個人が一人でも多く現れることなくしては不可能であると考えている。

こうした彼の認識は、カントの自由主義の思想に通じている。特に彼の『啓蒙とはなにか』を想起させる。カントはこの著作の中で啓蒙とは究極的に他人への啓蒙ではなくて、自分自身への啓蒙であると述べている。そして、もし人間は<政治的な動物である>というアリストテレスの言葉が今日も真実ならば、この自己啓蒙こそは人間が人間であるために不可欠の条件なのである。

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英語と自由政治の誕生

Posted by Shota Maehara : 10月 2, 2008

1.

私は、あまり人に媚びず、自分のポリシーを持っている人が好きであった。そんな潔く凛としていながら、同時に粘り強さを持っている人をイギリス人の中に多く見出した。今でも、国民による王室批判は当たり前、BBCは、あからさまに政治家を挑発するようなからかうような記事を放送する。つい二、三年前にもイギリス出身のギタリスト、エリック・クラプトンがナイトの称号を授与された時、彼は記者の前でこう言い放った。

「いや、実はそんなに欲しくはなかったんだけども、貰ってくれというから貰ってやったんだ」

これを傲岸不遜と取る人も日本には多いかもしれないが、彼は彼流に立派な愛国者なのだ。ただ、国家に媚び諂うことなどはしない。たとえ相手が公職者や地位のあるものであろうが、人間としては対等であるという考えがそこにはある。彼らイギリス人は別に自由主義政治思想などを特別に勉強したわけではない。それはイギリスという社会・文化そのものの精神的風土なのだ。

これを別の視点に立って考えてみると興味深い。つまり、私はなぜ今のような思想を持つにいたったのかと問われた場合、何か特別に自由主義や個人主義の思想書を紐解いたからというよりは、若いころから英語を通して自己形成してきたからと言うほかない。いうなれば言語とは、他の国の文化・伝統のDNAを運ぶ遺伝子のようなものなのだ。

英語を独学で学び始めた頃、私は、まず英語といっても、少なくともイギリスの英語、アメリカの英語、カナダの英語に少なからざる差異があることに気づいた。それは文法・語法云々ではなく、もっと本質的な何かである。例えば、私の受けた印象でいえば、アメリカの英語は一番読み安いが、中身は薄っぺらい。そして、イギリスの英語は硬質であるが、極めて格調高くそして歴史的な事例を通して語りかける。さらに、カナダの英語は、文体は極めて堅いが内容は濃く、しかも哲学的である。全体的に、英・加両国の言語からは、ヨーロッパの思想・哲学の伝統が入り込んできている故に、とても深みがある。

私は、意識的にアメリカの原書よりもイギリスの原書を通して学んでいった。それは私の哲学的な志向からすれば当然の選択だった。哲学の存在しないアメリカに魅力はなく、イギリスを通してヨーロッパの哲学の伝統に触れようとしていたからだ。その結果、聖書をはじめドイツやフランス、イタリアの書籍をも英訳で読み進めていった。まさに人間が持っている思想と言語の間とには密接なつながりがある。

 

2.

かつて近代日本の明治において、一時英米系の自由主義思想が華開いた時期があった。夏目漱石や内村鑑三や福沢諭吉をはじめ多くの知識人は、この国に真のリベラルな市民社会を創ろうと懸命に海外に渡って学んだ。いうまでもなく彼らは文明を英語という窓を通して摂取した。特に、明治十年代に活躍した彼らが、ほぼ在野の知識人であったことは注目に値する。

やがて、日露戦争も終わるとドイツの影響によって国家主導で、産業を興し、軍備を増強する帝国主義的政策が開始された。それに伴って、ドイツ語を学ぶ知識人の間で国家こそが最高の理念であるというという幻想が生まれた。その反動としてドイツ語やとりわけロシア語を学ぶ知識人が民衆の立場から社会主義を奉じ、革命を唱え始めた。だが、この両者はいずれも滅びの道でしかなかったことを歴史は教えている。彼らは国家や主義のために、自分に従わない他人の存在を暴力によって抹消しようとしたからである。

 

3.

今、日本は世界でも稀な、学生の街頭デモもなく、人々が自分で未来を切り開くという希望が持てない民主政治になり果ててしまった。なぜこうなったのか。私はその深い原因は、戦後のアメリカと強い同盟関係にあったためにその煽りをもろに受けて、消費社会の高まりとともに民主的な平等こそが最上の価値であるかのように見なされてきてしまったからではないのかと考えている。そして国や公共心の名の下に、個人を抑圧し、みんなと同じ考えを持たせ、偽りの平等を押しつけているからだと思えてならない。同質性を重んじ、そこから逸れるものを仲間から排除していく。それを後から支持し、世論を形成しているのは実は国民ではなく商業主義一辺倒に偏ったメディアではないのか。

英語は多様だが、我々はアメリカだけを見ている。そのアメリカも戦後に「自由主義」から「民主主義」へ大きく舵を切った。しかし、トクヴィルが述べるように、近代デモクラシーは、人びとの平等化を推し進める過程で、価値観を同質化させることによって、専制への道を敷いた。それを防ぐ方法は、そうした国家か人民かの二元論を超えて、その両者に楔を打ち込める自由な個人の存在を社会が抱えておくことなのである。異論を排除しないこと。これこそイギリスの伝統から我々が学ぶべきエッセンスなのである。

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音楽演奏とアソシエーション

Posted by Shota Maehara : 10月 1, 2008

1.

日本では聖徳太子以来、「和をもって尊しとなす。さからうこと無きをむねとせよ。」という精神が重視されている。これは「和の精神」とも呼ばれ、原典である十七条の憲法から離れて独り歩きしている。この部分だけが広まったことは、逆説的に、日本人の心の奥深くの機微に触れているからだと見ることができる。

例えば、会社で会議の時に、全会一致を重んじるのが日本の通例だ。そのため、会議までに各部署の意見を集約しておくべきだとされる。会議の時間の効率化を図るためだということが表向きの理由だが、そんなことでいちいち意見が割れるようでは会社が一つにまとまっているとは言えないという本音が裏にある。

こうした日本人の心にすとんと落ちてくる「和の精神」に対して、論語にはそれとは異質な次のような言葉がある―「君子は和して同せず、小人は同じて和せず」。この「和して同せず」の精神は、個人が全体のなかに埋没することなくいかにして一致協力していくかという孔子の精神を見事にとらえたものである。

例えば、アメリカの会社では、会議が始まって誰も異論を出さない時は、会議を一時中断させて仕切り直す所もあるという。なぜなら全会一致は、事業が成功するか否かが検証し尽くされていない表微(しるし)だと考えるからだ。アメリカ人が必ずしもそうとは言えないが、個人を基本とし、互いに異論をたたかわせることで本当の答えがでてくるという対話の理念を尊重しているからだ。

 

2.

こうしてみると集団主義か、個人主義かという従来の問いは偽の問いであることがわかる。日本人は同じ考えの人とでなければチームは組めないという村的な考えに陥りがちである。だが、他者を尊重するリベラルな個人は「和して同ぜず」の精神を持って、連帯していくことができる。

実は、その最たる例は、ポップ、ロック、ジャズなど音楽のバンドである。音楽活動の経験のある人には自明なように、音楽の演奏はリーダーの命令に、部下が手足となって働くのではない。また、話し合いの席で、一人の人の意見が絶対であとはその人の話をうんうんと頷いていればいいのとも異なる。むしろ、みんなが同じ能力や才能を持っていては駄目で、それそれがヴォーカル、ギター、ベース、ドラムス、キーボードなどでそれぞれの個性を発揮する。そして一つの音楽を創り上げる。

確かに、ここまでなら日本の組織やチームもさして違わないという反論があり得るだろう。つまり、ピラミッド型の権力構造から、水平的なネットワーク構造に移行しつつあると。しかし、音楽で最も重要なのは各メンバーの楽器の音を一定時に同期(シンクロ)させることにある。いわゆる「リズム、メロディー、コンセプト」が音楽の三大要素ともいわれるが、全メンバーが通奏低音のように一つのリズムを体感し、それにワン、ツー、スリー、で合わせる。各自は自分のプレーに集中しつつも、リズムやグルーブを感じていなければならない。そしてライブでは即興演奏も行われる。

 

3.

組織論は構造論に終始するものではない。いかに水平的なネットワークにしてみたところで、同じ顔が横に並んでいるだけでは意味がない。ここに個人の自由というものを軽視して和を重視する日本の組織の根本的な欠陥がある。それに代って私が提唱する「和して同ぜず」の精神は、お互いが能力や個性の差異を認め合って、自分と仲間の間を横断する。それはあたかも酔いつつ醒める、醒めつつ酔うという名人芸の如くである。こうした社会形態こそ自由主義者によるアソシエーションと呼ぶに相応しいものである。

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日本における自由政治評論の試み

Posted by Shota Maehara : 9月 29, 2008

1.

私は大学時代ある教師から掛けられた思いがけない一言を今も忘れることができない。いわゆる不真面目な学生であった私にとって大学の単位を終了する最大の鬼門は、何といっても語学のカリキュラムの多さであった。第一外国語である英語はもとより、第二外国語を習得しなくてはならない。それがほぼ毎日続くわけだが、大学の語学はなぜか朝一の授業がきわめて多い。

大学入学以来不健全な生活にかけては学内でも一、二を争う私は当然、朝の時間には間に合わず試験を受けるどころか、出席数が足らずにあえなく毎年落とされていた。そして、今年こそはと決意した四年の春、二年生に交じってあたかも同級生である顔をして授業を受け始めた。それは女子学生が大半を占めるフランス語の授業でのことであった。

当初ドイツ語の固い雰囲気になじめなかった私は、途中からフランス語に変更して授業を受けていた。それでも二回も単位を落としていたため、試験間近になると胃がきりきりしてきた。フランス語の授業は私にとって一種のトラウマになっていた。それでも三度目の一夜漬けで、何とか順調にパスし続け、いよいよ最後のリーディングの試験へ臨んだ。

しかし、このリーディングの試験こそは最後の難関であった。なぜなら、この科目の女性講師が出席を取らないのを良いことに、私は授業を休みがちだった。そのため学習した内容に所々空白があった。そんな時、天の助けとも言うべきか、他の女子学生の懇願が聞き届けられ、試験には辞書とノートの持ち込みが許されることになった。実際私は、ノートなどまともに取っていなかったが、前日に試験に出そうな所を片っ端から調べつくしてノートに書き込んでおいた。

いざ、試験が始まるとそれまで心配は杞憂であることがすぐに分かった。試験はかなりリラックスした雰囲気で始められ、二、三枚の簡単な問題用紙が配られた。試験は無事一件落着し、ほっと安堵の溜息をついていると試験問題を回収しながら先生は、私たちにこう言われた。

「どう、みんなできましたか?」

「試験なんて大したものじゃないでしょ。もっと気楽に構えなさい。」

「人生はね、適当に生きるくらいが良いんですから。」

2.

何度か授業に出て知っていたことだが、先生は日本の大学を出て、ソルボンヌに留学された。そしてフランスが好きで、そこに居つきとうとう十年位の時を過ごした。彼女はそこで見聞きしたソルボンヌの学生の話を合間に挟んだ。フランスでは学生はかなり優遇されている上、寮などが完備されているので古いながらも安く生活できる。だから彼らの中には結婚して、子供までいるのに学生の身分のままでいたりする。随分のんびりした生活だなと思うと同時に、そこには学問や芸術を生み出す自由な余地が社会に残されているなと強く感じたものだ。彼女もそういう自由な雰囲気に強く惹かれたのだと思う。

「人生は適当に生きたらいい」という言葉の重みを本当に理解できる日本人が一体どれほどいるだろうか。個人の自由や言論の自由が自分勝手なものと同一視されている日本社会にとって、「自由」とは何を意味するだろうか。人間は、一人で考え、判断し、それに基づいて行動するからこそ、その結果については誰にも責任転嫁できない。だから、実は個人として考え生きることは時としてとてもつらく、責任が重い。その孤独と責任に個人は耐えていかなければならない。翻って、みんが言っていることを自分も一緒になって言っていれば、楽であるし、心の安らぎが得られる。万が一その意見が間違っていた時も、自分が責任を負わなくても済む。どうせみんなが間違っていたのだからと。これでは自己責任とは無縁である。

だから今の日本に足りないのは、公共心という言葉の下にみんなに合わせて生きるという楽な道ではなく、、逆に個人の自由を確立するという厳しい試練を自らに課すことなのである。西欧は二百年の伝統によって、こうした考えを自らの頭と体に血肉化してきた。実は私は、アメリカ社会をはじめ、アジア社会の民主政治の混迷や不安定の根源には、こうした個人の確立に基づいた自由政治が衰退もしくは不在であることに起因すると考えている。

3.

では民主政治と自由政治の違いとはなにか。イギリスの政治評論家ウォルター・バジョットは、その違いを次のように説明している。

自由政治は自治である。すなわち国民が、国民によって統治することである。この種の政治の中で最良の政治は、国民が最良であると考える政治である。もちろんイギリス人のインド支配に見られる圧制的な政治といえども、善政を行う可能性は大いにある。その政治は、被支配民族よりもいちだんと優秀な民族の考えを表明することもありうる。しかし、それゆえに、それは自由政治ではない。自由政治というものは、国民が自由意志によって選択した政府に服する政治である。ばらばらの民衆が偶然的に集まってつくる自由政治は、たかだか民主的な政治にしかなりえない。他人のことを知らないし、気にかけないし、尊敬もしないという場合には、すべての人間が平等であるにちがいない。その場合、誰の意見も、他の意見より有力であるということはない。しかしすでに明らかにしたように、尊敬心をもった国民は、独自に政治構造をつくっている。そこでは特定の人々が、共通の同意によって他の人々よりも賢明であると考えられている。またその意見は、同意によって計数的価値を越えた大きな価値を認められている。――バジョット『イギリス憲政論』(世界の名著60、中央公論社、p.193-4)

 

上記のバジョットの指摘を簡単にまとめると次のようになるだろう。

[1]自由政治=他者の優越を認め、優れた他者を尊重する考え→良いものは良いと認めることのできる政治

[2]民主政治=すべての人は平等であるという考え→誰も、自分の意見以上に優れているとは認めない政治

 

バジョットは他者に対する「尊敬心」を欠けば、民主政治は必ず堕落すると警告する。なぜならば人を尊敬する心がなければ、我々を導く指導者もまた尊敬心を欠いた人気取りとなる恐れがあるからだ。たしかにバジョットはあくまで保守主義的な立場から発言している。それゆえ、彼は民主政治よりも貴族政治を追慕している。しかしそれ以上に重要なのは、彼が世界で最も個人の自由が確立した国イギリスの自由主義(リベラリズム)の伝統に立っていることである。

他者に対する尊敬心は、自由主義のアルファでありオメガである。なぜならば、個人の自由を誰よりも重んじる人間は、他者の自由を踏みにじり、彼の人生に介入することはしてはならない越権行為だと考えるからである。本人の人生である以上最後に決めるのはその本人自身である。したがって、相手がいかに自分と異なる思想や信条を抱いていようとそれを認めた上で議論し合うことができる。これこそが議会政治の根本を支えている自由主義の思想なのである。

4.

いま、日本だけでなく世界の民主政治は危機を迎えている。あらゆる国家は、その採用している政治形態にかかわりなく、ファシズムや独裁へとすべり落ちる危険性を抱えている。これはナチスドイツやソ連のスターリニズム、そして日本の天皇制軍国主義、そしてイスラムの原理主義やアメリカの超大国化を見ても明らかである。この根幹には権力や暴力によって他者の存在を抹殺しようとする反自由主義的な考え方が潜んでいる。私のこの評論は、自由主義の立場から論陣を張り、揺らぎつつある市民社会の根幹である個人の自由を日本に再導入しようとする試みの一つに他ならない。

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東洋的専制と民主主義の起源―モンテスキューについて

Posted by Shota Maehara : 9月 21, 2007

18世紀フランスの啓蒙思想家・モンテスキューは、民主主義の理論家として知られている。それは彼が『法の精神』の中で、アジアの政治体制を特徴付けるいわゆる「東洋的専制主義」(オリエンタル・デスポティズム)をはじめて政治学の俎上に載せ、それを通して「専制」という統治形態を激しく糾弾したからである。

しかし、そこで見逃されてはならないのは、彼がそのとき対岸の火事としてアジアの「専制」を批判していた訳ではないということである。いままさにそれを模倣するかのようにして専制的かつ中央集権的な官僚国家を作り上げつつあるフランスの絶対王政に対していかに対抗すべきかを模索していたからである。

絶対王政は、プラトンからデカルトに至る理性を持った哲学者=王が国を統治する理想の実現であった。事実、プラトンはまさにエジプトの専制官僚国家を羨望し、それをギリシャでも模倣したいと望んでいたのである。近代に入って啓蒙的理性はこの実現に手を貸し、人々を様々な血縁や地縁やギルドといった所属から剥ぎ取り、自由を与えながらも、それを国家のもとにまとめていく重要な役割を果たした。

こうした状況の中で、皮肉にも遠いアジア的専制国家がヨーロッパの啓蒙主義に支えられた近代国家の姿に重なっていく。モンテスキューはまさしくこうした二つの流れを見据えて、『法の精神」を書き上げたのである。アジアの問題は西欧の問題でもあることを知らしめ、警鐘を鳴らすために。M.ヴェーバーが『支配と権力』の中で明らかにしたように、依然今日においても啓蒙主義による「理性」の支配権の確立と、「国家」(官僚)による支配権の確立とは歩を一にして進んでいる。

身分制度や職能団体などあらゆる属性が剥ぎ取られ、孤立化され、平等化された社会にはいつの時代にも専制にとって最も都合の良い環境である。なぜなら原子化した抽象的な個人は、流されやすく容易に一つにまとめられてしまうからである。それはアジアであれヨーロッパであれ変わりはない。

これを防ぐためにモンテスキューは当時の貴族的諸制度の中に国家と大衆の間を緩衝する「中間権力」の存在を見出した。これによって、権力者の動きをコントロールし、バランスを社会の中に取り戻すべきであると考えた。そして、ここから司法権(当時の高等法院)の独立に重きを置いたかの有名な「三権分立」の思想が生み出されることとなるのである。

モンテスキューが成し遂げようとしたことはその後見失われたが、いままたカントとともに彼の残したメッセージは二一世紀に甦ろうとしている。それはアジアやイスラムやヨーロッパという多系的な文明間の相互作用として世界史を捉えなおすことである。そしてすべての統治体制に潜む穴、すなわち「専制」への転落を防ぐためにあらたに「歴史」(=権力分立)という錘(おもり)を政治に再導入することである。その上で彼は世界をあたかも一つの共和国として愛し、平等を希求する永遠の啓蒙運動への道が可能であると説くのである。

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第5部 二一世紀のアジア・デモクラシーへ

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2007

確かに、これまで見てきたように韓国と日本の市民が直面している課題は異なっている。いまだ中央と地方との葛藤や差別に悩む韓国の市民は、すべての市民が豊かさを享受できるような「平等」な社会を目指さなければならない。それに対して、中央と地方との葛藤や差別が一応解消され、一定の豊かさを享受しうるようになった日本では、諸個人の「自由」に立脚した社会を築いていかねばならない。

しかし異なるからこそ私たちは互いの経験から学び合い、交差させ、新しい異種混交的なデモクラシーを創造していくことができる。それを私は個人の自由に立脚したリベラルな社会主義の実践であると見なす。こうした二一世紀のアジア発のデモクラシーこそポスト近代を象徴する民族や宗教の対立を乗り越える人類の文明化への第一歩なのである。

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