I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

Archive for 2009年4月

砂漠を旅する人

Posted by Shota Maehara : 4月 29, 2009

05patmos

…彼は光ではなく、ただ光についてあかしをするためにきたのである
―ヨハネによる福音書第1章第8節

         ※

誰もいない地表の上を 
乾いた風に吹かれて、
孤独に彷徨い続ける人がいる

男か女かは定かではない
白人か黒人か黄色人種か、
それさえも見分けられぬ

まっすぐに延びた砂の稜線の上を
ただ一つの点としてゆっくりと進んでいる

すれ違うキャラバンの一隊は、
無関心に、ラクダの背にまたがって
沈みゆく旅人の足元を通り過ぎる

         ※

伴侶もなくこの砂漠を旅する人よ
夢もなく、希望もなく、愛のかけらさえも
掴みとれない無力な存在

だらしなく開かれたままの口元からは、
微かな囁きにも似た短い言葉が漏れる

「心が飢(か)わく」

戦場で片腕を失した兵士が
寝台でそれを思い出す時のような
半身が麻痺するような感覚

たとえ頭が朦朧とし、
喉は乾ききるとも そこにはオアシスがある

しかし、不安で胸を八つ裂きにされ、
十字架に磔にされた者の痛みを癒す術はない

         ※

伴侶もなくこの砂漠を旅する人よ
夢もなく、希望もなく、愛のかけらさえも
掴みとれない憐れな存在

だらしなく開かれたままの口元からは、
微かな囁きにも似た短い言葉が漏れる

「生命(いのち)の泉は何処に」

この無人の砂漠にある荒野の泉 
そこからは永遠の命が湧き出るという

          ※

伴侶もなくこの砂漠を旅する人よ
夢もなく、希望もなく、愛のかけらさえも
掴みとれない惨めな存在

だらしなく開かれたままの口元からは、
微かな囁きにも似た短い言葉が漏れる

「あなたは小さき者の砦」

左手に闇、右手に光
命の天秤は揺らいでいる

左手に罪、右手に救い
信仰の天秤は揺らいでいる

第三の破滅へと向かう世界

せめて僅かな塵と泥でできた人形を
箱舟に乗せ、ふたたび世に命を宿らせたまえ 

          ※

暗い闇夜の中を
旅人はひとり黙々と歩み続ける
祈るように、眠るように、砂の湖を泳ぐ

 

(2009.4.29/ 秋月誠仁)

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忠実なる信者

Posted by Shota Maehara : 4月 24, 2009

絶対的信仰は絶対権力と同様に絶対に腐敗する。(Absolute faith corrupts as absolutely as absolute power.) ―Eric Hoffer (1902 – 1983)

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働くことは人生の目的か?それとも手段か?

Posted by Shota Maehara : 4月 23, 2009

moderntimes11労働は人生の手段? それとも目的?

河合孝昭

市場原理の暴走に対して歯止めが効かなくなりつつある現代日本においては、「生きるために働いている」のか「働くために生きている」のか、その区別がほとんどつかなくなるほど、生活の糧を得るためになさねばならない労働は苛烈になりつつある。年功序列制度の崩壊と軌を一にして「成果主義」が導入され、私たちは「働かざる者は食うべからず」どころか、それを自明のこととしたうえで、さらに「働くことにおいて成果をあげることのできない者は食うべからず」といった苛酷な要求を否応なく受け入れざるをえないところまで追い込まれつつあるといえよう(ここではひとまず、「正社員」という身分で雇用されている人々を念頭においているが、パート労働者やフリーターも成果主義導入の影響を受けていることは言うまでもない)。

このような状況に対して日本の労働者はどのような反応を示しているであろうか。圧倒的多数の労働者は、程度の差こそあれ、このような状況に順応し、「勝ち組」と「負け組」という単純明快なカテゴリーを想定した上で、自分だけは「勝ち組」に残ろうと汲々としているというのが現状である。この意味で、「日本の労働者が求めるのは公正な競争であって、競争そのものの制限や停止ではない」という熊沢誠氏の指摘はひじょうに説得力がある。

もちろん一方では、「ニート」と呼ばれる、学生でも主婦(主夫)でもなく就労活動も求職活動もしていない一群の人々も存在しているが、全体的にみれば少数派だと考えられるだろう。したがって、多くの労働者は好むと好まざるとにかかわらず、この状況を受け入れ、労働に従事しているという事実そのものに価値を認める労働観によりも、「労働」と「成果」(そして「成果」をめぐる「他者との競争」)の本質的結合が所与の前提であるかのような労働観に傾き、それを内面化しつつあると言えよう。

このように資本主義の黎明期(その時代に人々が想像を絶する不条理な労働を強いられていたことは言うまでもない)に「後退」するかのような勢いで暴走する市場原理を、私たちが違和感を持ちながらも「なんとなく」受け入れてしまうのはなぜだろうか。「食べる」ためには労働環境の変化にも順応していかなければならないということを考慮するだけで、この現象を説明するのに十分なのであろうか。そこにはそもそも「労働」(ここでは生活の糧を得るための「労働」に限定する)という営みに対して、私たちが過度にプラスの価値を付与することによる「ゆがみ」が生じてはいないだろうか。

                                     *
                   
「どうせ働くならば、生き甲斐の伴う仕事を選びたい」という願いを持つことはもっともなことではある。自分の職場を全面的に自己実現の場と自覚している人から、それほどではなくとも自分の仕事にそれなりの「充実感」を感じている人にいたるまで、労働に「生き甲斐」が伴うことを求める人は多いはずである。

しかしそのような願望を抱くことによって、人は容易に労働を「生活」の「手段」ではなく「目的」とみなすことへと導かれることもまた事実であろう。賃金労働に割く時間(それは人間の生涯の大きな部分を占めている)が与える「生き甲斐」を、いったん人生の「目的」とみなしてしまえば、労働の「苦しみ」を「生き甲斐」の一部をなすものとみなすことも容易になり、かくして労働は人間の生活そのもの、生の本質の一部と化す。

しかしながら、今村仁司氏の指摘にもあるように、労働を人間の本質とみなす考え方は近代になって成立した歴史的なものである。労働が人間の本質とみなされることによって、労働の「喜び」や「生き甲斐」もまた、労働に内在する本質的な感情と考えられるようになる。そのような労働観の変質によって、労働の苦痛や、労働環境における支配‐隷属関係が隠蔽されるに至ったのである。今村氏は労働観のこのようなイデオロギー性を鮮やかに抉り出している。

今村氏によれば、近代以前の文明の価値基準は余暇におかれていた。十分な余暇を享受できる人間が一部の特権階級であったという事実を考慮するとしても、自由時間を確保できる生活にプラスの価値を置き、労働に追われ多忙を極める生活にマイナスの価値を置くという考え方は、社会階層の上下を問わず広く共有されていたのである。その意味でも、労働を人間の本質とみなし、そこに生き甲斐が伴うことを理想とする、近代の労働観は決して普遍的なものではない。

もちろん労働に生き甲斐を求める考え方は、一概に否定されるべきではない。しかしこのような考え方が、本来日々の糧を得るための営為であった労働を人生の目的とみなす考え方へと連なっていくならば、不条理なサービス残業や成果主義から生まれる苦痛も、「生き甲斐」の裏面という形で回収され、ひいてはそのような不条理が不条理として認識されないところまで常態化してしまうおそれがあることにも目を向けるべきではないだろうか。

                                      *
                    
誤解を招かないよう述べ添えておきたいのだが、私は何も「労働にプラスの価値を置いてはいけない」と言っているのではない。職場を自己実現の場とみなしている人々の労働観を否定するつもりはまったくない。しかし、「労働」にあまりに多くのものを要求することによって、「労働は生命を維持するために強いられる受動的なものでもある」という側面が忘却されることに対しては危惧を抱かずにはいられない。

成果主義に関して言えば、成果(それを判定する基準がきわめて曖昧であることは措くとしても)を挙げた者が報われることによって、成果を挙げられなかった者との差別化がはかられるべきだという考え方は、他者からの承認を求めようとする人間の本性を考えるとき、なるほど単純に否定できない側面をもっている。しかし成果をあげた者も成果をあげられなかった者も、自己の生存を賭して「労働」したのである。その一事をもって、労働という営みに従事した者を同等に評価するという姿勢が、(もちろんそこから生じる不利益も比較考量したうえで)やはり基本にあるべきではないかと私には思われる。

参考文献
今村仁司『近代の労働観』岩波書店1998年
熊沢誠『能力主義と企業社会』岩波書店1997年

(掲載元:早稲田大学交域哲学研究所⇒ http://www.waseda.jp/prj-iip/th01_03.html

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神の愛(アガペー)

Posted by Shota Maehara : 4月 12, 2009

「アガペー」(αγαπη、agapee)は愛を指すギリシア語で、エロース(自然な愛)と区別されている。新約聖書では、アガペーは人類に対する神の無償の愛、また特に教会においてキリスト者相互を結びつける愛を指して用いられる。その古典的表現は、新約聖書、コリントの信徒への手紙一13章に見られ、このような高い次元の愛は、イエス・キリストを通して神が自己啓示されたものだと言われている。

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知識人と言葉

Posted by Shota Maehara : 4月 5, 2009

一個の人生の生きるに値するかどうかは、必ずしもその達成した事業の大きさによらない。ラッセルの場合に、それは大きかった。凡人の場合に、それは大きくない。しかし私は、みずからの情熱を裏切らない人生は、たとえ達成したところがどれほど小さくても、生きるに値すると考えるのである。―加藤周一「文は人なり、または『ラッセル自伝』の事」

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長い20世紀―資本、権力、そして現代の系譜 [著]ジョヴァンニ・アリギ

Posted by Shota Maehara : 4月 5, 2009

[掲載]2009年3月29日 [評者]柄谷行人(評論家)

■米国の衰退、兆候は70年代から

 サブプライムローンの破綻(はたん)をきっかけにしたアメリカの金融危機と世界的不況は、不意打ちであるかのように見えた。人々はにわかに1929年恐慌を想起し、また、アメリカの没落を認めるようになった。しかし、1994年に出版された本書にはすでに、なぜアメリカが金融帝国に向かったか、そして、それがなぜアメリカの衰退の兆候でしかなかったかが告げられている。たんに混乱をあおるだけで何の洞察もない本や雑誌を読みあさるなら、せめて、こういう本に目を通すべきであろう。

 本書は、近代世界システムの変遷を、ヘゲモニー国家の交替(こうたい)という観点から見ている。それは、ジェノヴァ、オランダ、イギリス、アメリカという順におこった。それらを比較考察して、著者はつぎのような法則性を見いだす。初期の段階では、「生産拡大」の傾向があり、末期には「金融拡大」の傾向が見られる。著者はこれを、資本の蓄積システムのサイクルという観点から見る。初期には交易や生産に投資することによって蓄積しようとするために、生産拡大が生じ、末期には、金融だけで蓄積しようとするために、金融拡大が生じる、というのである。

 著者は、アナール学派の歴史家ブローデルを継承しつつ「近代世界システム」を解明してきた、ウォーラーステインの共同研究者であった。ゆえに、類似する点が多いのは当然である。このようなサイクルに関しても、似たようなことが指摘されてきた。コンドラチェフの長期波動(景気循環)や、それよりも長いブローデルの「長期的サイクル」が、その例である。だが、それらは、物価の長期的変動の観察にもとづくものだから、近代資本主義以前にもあてはまる。それでは、資本の蓄積(自己増殖)のシステムに固有の現象をとらえることができない、と著者はいう。

 恐慌(危機)はふつう「過剰生産」という観点からみられる。しかし、マルクスは「過剰資本」の危機をも考察していた。それは、資本が生産や貿易への投資では十分な利潤率を得られないときに生じる。そこから見ると、現在の危機が1970年代からはじまったことがわかる。アメリカは製造業において日本やドイツに追いつめられ、「過剰資本」の処理に苦しんで、世界各地にバブルをおこし、最後の住宅バブルで致命的な破綻にいたったのである。しかし、これは特に新しい出来事ではない。ジェノヴァ、オランダ、イギリスが没落しはじめたときにも、似たような現象があった。

 では、アメリカの没落のあとはどうなるのか。著者は、東アジアの経済にヘゲモニーが移ると予測する。本書では1980年代に構想されたせいで、日本が中心になっているが、「日本語版序文」では、それを修正して、中国を中心にしている。いずれにせよ、東アジアへのヘゲモニーの移動はスムースに起こるわけではない。アメリカやヨーロッパが抵抗するに決まっているからだ。今後に生じるのは、各地の帝国(広域国家)がせめぎあう、いわば、新帝国主義の時代である。

    ◇

 The Long Twentieth Century

 土佐弘之監訳/Giovanni Arrighi 37年イタリア生まれ、米国在住の社会学者。現在はジョン・ホプキンス大教授。世界システム論の代表的論者の一人。

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人類の教訓

Posted by Shota Maehara : 4月 4, 2009

学びとるということが苦難を通じて達成されるというのが、神の法則の一つである。―アイスキュロス

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歴史を見る国民から、歴史を創る国民へ

Posted by Shota Maehara : 4月 4, 2009

vanishingpointa現代の難問である貧困格差・環境破壊・戦争を政府や市場のいずれかによって乗り越えようとする試みは数多い。

経済学で言えばケインズ主義とも呼ばれる財政政策(フィスカル・ポリシー)とフリードマンを中心とする金融政策(マネタリー・ポリシー)の対立である。彼らの理論は極めて精緻で、統計的なデータに基づき、具体的な提言を含んでいる。だから、専門家以外の人にはおよそ近づき難いという印象を与える。まして世界不況の最中で、ますます我々は事態を静視せざるを得なくなっているようにさえ見える。

しかし、この二つの政策に共通して欠けている点は、一体これからどんな国をつくっていくのかというグランドデザインがないことである。これにはもちろん政局の混乱が影を落としていることは間違いないが、いずれにしてもそれを決めるはずの主権者たる国民の議論が全くと言っていいほど不在なのである。

現代文明の挑戦は、民営化という名の市場中心型モデルでもなく、硬直した中央集権的官僚制モデルでもない、第三のオルタナティブを提示できるかにかかっている。それは生活のあらゆる面での消費者の行動、NGO・NPOの活動、そして国際機関の活動など様々な市民の運動からなっている。こうした当事者である国民や市民の主体的な議論や活動によって、はじめて歴史は織り成されていくのである。

ただし、歴史を重視する立場は、古い共同体的生活様式に戻ることでもなければ、保守主義者のいう近代以前の伝統に回帰することでもない。ましてや宗教原理主義に基づいて先進国の消費文化を批判することでもない。

私にとってそれは人類の様々な歴史を多様な迂路を辿りながら「文明化」していく過程として捉えることに他ならない。さらに言えば、テクノロジーの発達や人口の移動による世界交通が拡大するのに伴って、多様な民族や文化が交流・伝播しながら生成し消滅する。そして、その中から幾つかの文明が創造されるという普遍史として考えられた歴史である。いま、日本人は自国がゆるやかに衰退していくのか、それとも新たな文明と呼べるものを築けるのかという岐路に立たされている。

少子高齢化の時代に既得権益層と化した老人に抗して、新しい時代をつくることは確かに容易ではない。だが、プラグマティカルに各々の持ち場で何がいま必要なのかを判断し、世界を1ミリずつ変えていければ、120キロ先へ世界を動かすことができるだろう。それならば、かつての60年代の喧噪と80年代以降の沈黙を抜けて、我々は次のスローガンを唱えなければならない。―「歴史を見る国民から、歴史を創る国民へ」。高度経済成長を終え、日本がアジアに先駆けて成熟した文明を創っていけるかどうかは、この一点にかかっている。

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理論と実践

Posted by Shota Maehara : 4月 4, 2009

私は頭の中から生み出された理論より、実践の中から生み出された理論を愛する。

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「民営化」という神話への挑戦―思考のプラグマティズム

Posted by Shota Maehara : 4月 2, 2009

資本主義が我慢できるものになるには、貧しい人々にとって生活が我慢できるものであるようにしなければならない―ジョン・ケネス・ガルブレイス『実際性の時代』

国家政策の一部を、民間に任せるか、あるいは政府に任せるかという議論がしばしばなされる。それに対して効率性という観点から、多くの経済学者はできるだけ市場に委ねるべきだと発言する。特に1980年代のアメリカ・イギリスにおけるレーガン・サッチャー改革以降、日本では中曽根、小渕、小泉以降この流れが顕著である。この結果金融を中心とする急激な経済発展の裏で、両国でどれだけ多くの労働者が教育や医療といった公共サービスが受けられずに切り捨てられていったか。その悲惨な有様はあまり日本で報道されていない。

しかし、民間や市場が効率的でありかつ透明であるという神話は果たしていつ頃から生まれたのであろうか。いずれにしてもこれが神話であったことは少なくともイギリスで保守党はブレア新労働党に政権の椅子を明け渡し、そしてオバマ大統領就任後のアメリカもとうとう開きすぎた格差の問題に手をつけざるを得なくなった歴史的事実が証明している。

本来医療や介護や環境や教育などは短期的に非効率とされようと長期的には維持されていくべき生命線である。ゆえに効率が悪いからこそ、これらは伝統的に政府が担っていくべき役割だとされてきた。にもかかわらず、これらを民営化してしまえばそれは富裕層にしか手の届かなくなるサービスになる。なぜなら企業は利潤が見込める客層にしか興味を持たないからだ。その結果、残されたのは弱者を食い物にする貧困ビジネスだけだという話になるのは当然の流れだ。民営化という神話は、政府が自らの役割を放棄する口実とも採ることができる。

また現代の社会にはもう一つの経済神話が存在する。すなわち、国際競争力という神話である。企業は国際競争を勝ち抜くために社員の人件費を低く抑える必要があると説く。社員も自分の会社が潰れるのはまずいからその待遇を受け入れざるを得ない。やがて、社員はアウトソーシングされ派遣やアルバイトに置き換えられる。その結果、企業が国際競争に勝ち残ったとき、生き残ったのは経営者と株主だけになる。少なくとも国際競争を勝ち抜いた見返りとしての莫大な利益は社員や派遣には還元されず、彼らのポケットに落ちることになる。

かつての経済学者は、官僚主義的な社会主義でもマネタリスト的な市場原理主義でもなく、政府と市場を組み合わせた混合経済(Mixed Economy)こそが現実的な政策であるというバランスのとれた考え方があった。例えば、60年代に活躍しハーバード大学でも教鞭をとったケネス・ガルブレイスや同じくそこで学んだ都留重人などである。彼らの世代は世界恐慌や第二次大戦の影響もあり、社会主義と同時に資本主義へも等しく批判の目を向けていた。その結果、経済は複雑になるに従って、一貫した合理的基準を持ち出すことは危険であるとみなした。それらはイデオロギーで決められるのではなく、むしろプラグマティカルに個々具体的に決められるべき問題だと。

したがって日本が学ぶべき点は、政府か市場かというゼロサム的な発想ではない。市場に適する部門と政府に適する部門を組み合わせて、トータルで最良な国家づくりを目指すことである。例えば、福祉や教育を充実させる際に、どのくらいの負担なら国民の理解を得られるか、さらにその負担に見合った良質のサービスを公共機関がいかに提供できるかを国民が話し合う、こうした成熟した市民社会をまず作り上げなければならない。そして民主主義的な手続きを通して、何が公的な領域であり、何が私的な領域であるかをその都度判断した上で、それに基づいて政治家や官僚が政策を行う。こうした主体性と責任を国民が養うことが出来てはじめて、先の見えない未来を私たちは手探りで進んでいくことができるのである。

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