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Shota Maehara's Blog

Archive for 2010年5月

ニーチェ―「弱者」と「超人」

Posted by Shota Maehara : 5月 19, 2010

–ニーチェ–
(Friedrich Wilhelm Nietzsche フリードリヒ=ウィルヘルム―)ドイツの哲学者。実存哲学の先駆者。キリスト教的・民主主義的倫理を弱者の奴隷道徳とみなし、強者の自律的道徳すなわち君主道徳を説き、その具現者を「超人」とする思想に達した。機械時代・大衆支配時代に対する批判は、一面ファシズムの支柱ともなった。著「ツァラトゥストラはかく語りき」「善悪の彼岸」「道徳の系譜学」「権力への意志」など。(一八四四~一九〇〇)

「なんらかの形式で権力への意志が衰退するところには、そのつど生理学的退化、デカダンスもまたある。デカダンスの神性が、最も男性的な徳や衝動を切除されて、いまや必然的に、生理学的に退行した者の、弱者の神となる。彼らはおのれ自身を弱者とは呼ばない、彼らは「善人」と自称する…(略)。」(「反キリスト」)

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アドルノに関するノート5―「啓蒙の弁証法」から「否定弁証法」へ

Posted by Shota Maehara : 5月 6, 2010

―「しかし、権力とは人間たちによって代弁されるものなんだ。」と一面的理性は、さらに囁く。「権力の蔽いを剥ぐことで、君は人間たちを標的にしている。しかも、そういう人間たちの後にはもっと悪いやから現れてくるだろう。」

この嘘は真実を語っている。たしかに、すでにファシストの人殺しどもが出番を待っているなら、弱体の政府に民衆をけしかけるべきではないだろう。けれども、それほど暴虐ではない権力と同盟を結ぶとしても、そこから引き出される正しい結論は、忌まわしい所業についてだんまりをきめこむ、ということにはならない。悪魔から人を守っている[権力の]不正を告発することによって、善事が傷つくおそれは、不正の告発を悪魔に委ねることによって、悪魔が手にする利得よりは、まだまだ小さいのが常だった。勢いのおもむくところ、社会は行く所まで行きついて、そこにわずかに悪党だけが真理を語り、ゲッべルスは、嬉々として続けたリンチの想い出を反芻している。

善ではなくて、悪こそが理論の対象なのだ。理論は、その時々で特定の形をとる生の再生産を前提している。理論のエレメントは自由であり、そのテーマは抑圧である。言語が弁護論調になるとき、言語はすでに腐敗している。その本質からして、言語は中立的でも実用的でもありえない。

―「君はいい側面を述べて、際限ない辛辣さの代わりに愛情を原理として告知することはできないのか!」

真理のための表現はたった一つしかない。すなわち、不正を否定する思想である。いい面への固執が、否定的な全体の中で止揚されないならば、それはその面とは逆のもの、つまり暴力を美化してしまう。

私は言葉でもって陰謀を企て、プロパガンダを行い、人を暗示にかけることができる。これが、現実におけるあらゆる行為と同様に、今日、言葉がそれにからめとられている動向であり、この動向こそ、嘘が唯一理解するところのものである。現状に異議を唱えることさえ、ようやく本性を現しつつある暴力や抗争し合う官僚や権力者たちの役に立つことになるのだぞ、と嘘は中傷する。名状しがたい不安に駆られて、嘘は自分自身のことしか、目に入らないし、またそれしか見ようとしない。暗闇の中では、さまざまの物の区別がつかないように、嘘の媒体、つまり単なる道具としての言葉の中に入りこんだものは、嘘と同じになる。

しかしながら、結局、嘘によって利用されない言葉などないのだ、ということがどれほど正しいとしても、嘘によってでなく、唯一つ、権力に逆らう思想の厳しさのうちでのみ、権力の持つ善い側面も明るみに出されるのである。最後の被造物たる人間に加えられたテロに対する妥協することなき憎しみは、幸いに命拾いをした者の正当な感謝の念である。太陽を拝むのは偶像崇拝である。灼熱の陽光に枯れ果てた樹を目にして、はじめて、世界を照らしつつも焦がすことなき日の尊厳への予感が、息づき始める。

―アドルノ「ヴォルテールのために」(『啓蒙の弁証法』手記と草案より)

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“The Second Coming” by W.B. Yeats

Posted by Shota Maehara : 5月 5, 2010

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W.B.イェイツ―「再臨」(Second Comming)

Posted by Shota Maehara : 5月 5, 2010

<再臨>

しだいに広がりゆく渦に乗って鷹は
旋回を繰り返す。鷹匠の声はもう届かない。
全てが解体し、中心は自らを保つことができず、
全くの無秩序が解き放たれて世界を襲う。
血に混濁した潮(うしお)が解き放たれ、いたるところで
無垢の典礼が水に呑まれる。
最良の者たちがあらゆる信念を見失い、最悪の者らは
強烈な情熱に満ち満ちている。

たしかに何かの啓示が迫っている。
たしかに<再臨>が近づいている。
<再臨>!その言葉が口を洩れるや
≪世界霊魂≫から出現した強大な像が
私の視界を掻き乱す。どこかの砂漠の砂の中で
ライオンの胴体と、人間の頭と、
空ろな、太陽のように無慈悲な目をしたものが
のっそりと太腿を動かしている。まわりに
怒り狂う沙漠の鳥どものかげがよろめく。
ふたたび暗黒がすべてを閉ざす。だが、今、私は知った、
二千年つづいた石の眠りが
揺り籠にゆすられて眠りを乱され、悪夢にうなされたのを。
やっとおのれの生まれるべき時が来て、ベツレヘムへ向い
のっそりと歩みはじめたのはどんな野獣だ?

ウィリアム・バトラー・イェイツ

The Second Coming

Turning and turning in the widening gyre
The falcon cannot hear the falconer;
Things fall apart; the centre cannot hold;
Mere anarchy is loosed upon the world,
The blood-dimmed tide is loosed, and everywhere
The ceremony of innocence is drowned;
The best lack all conviction, while the worst
Are full of passionate intensity.

Surely some revelation is at hand;
Surely the Second Coming is at hand.
The Second Coming! Hardly are those words out
When a vast image out of Spiritus Mundi
Troubles my sight: somewhere in sands of the desert
A shape with lion body and the head of a man,
A gaze blank and pitiless as the sun,
Is moving its slow thighs, while all about it
Reel shadows of the indignant desert birds.
The darkness drops again; but now I know
That twenty centuries of stony sleep
Were vexed to nightmare by a rocking cradle,
And what rough beast, its hour come round at last,
Slouches towards Bethlehem to be born?

William Butler Yeats

1920年11月The Dial誌初出。詩集Michael Robartes and the Dancer(Dublin 1921)に収録。最後の審判の日にキリストがふたたびこの世を訪れて(再臨して)、信者を蘇らせ、永遠の国へ導くという説に対して、イェイツは二千年を周期とする循環歴史説を信ずる。キリスト教文明が終わると、幼児キリストではなくスフィンクスに似た野獣が生まれ、新しい野蛮な文明がはじまり、成熟して衰頽し、終り、更に別な文明が生まれる。これが永遠に繰り返される。1 gyre「渦巻」。イェイツの好む表象。円錐形に広がる渦巻と逆円錐形に広がる渦巻が組み合わされて文明の生成と衰退を表す。12 Spiritus Mundi「何かの個人ないし霊の所有物であることを止めたイメージ群を貯蔵する倉庫」(イェイツ自注)「世界の魂」(AnimaMundi)と同義に用いているらしい。(『イェイツ詩集』より、高松雄一訳 岩波文庫)

この作品はイェイツが当時の第一次世界大戦、ロシア革命など西洋文明の没落を告知する出来事に震撼して書かれたものである。一つの文明が野蛮へと落ち込み、また新しい文明が起こりまた崩壊していく。この詩は「啓蒙の弁証法」(アドルノ/ホルクハイマー)の詩化と呼べるかもしれない。またこの歴史の螺旋階段はヴィーコを連想させる。共著者ホルクハイマーはヴィーコの『新しい学』の影響を受けていた。(秋月)

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「ユダヤ教」をめぐって―知性を尽くして神を愛する

Posted by Shota Maehara : 5月 4, 2010

ある日私が教会で礼拝に参加させていただいているとき、なぜユダヤ人はこれほどまで迫害されるのかということに話が及んだ。その時、それは彼らが「選びの民」だからであると牧師様がおっしゃったのを私は印象深く覚えている。確かに神に選ばれるということ、信仰をもって生きるということは幸いだけでなく、苦難もまた共にすることだとするなら、この言葉の持つ味は限りなく深い。

しかし、我々はどれだけ「ユダヤ」というものを知っているか。さらに言えば、「キリスト教」(新約)から解釈された「ユダヤ教」(旧約)ではなく、真のユダヤ教を。例えば、旧約聖書には「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という有名がくだりがある。ここでとりわけなぜ「知性を尽くして」と書かれているのかを考えてみたい。

かつてリトアニア生まれのユダヤ系哲学者エマニュエル・レヴィナスは『困難な自由―ユダヤ教についての試論』(国文社)の中で、ひとは本能的にユダヤ教徒であることはできないと述べている。その理由を彼はこう説明する。

「ユダヤ教徒であるためには、善をその心の底から願わなければならないし、同時に、単に心の一時の高揚に任せて善を望んではならない。心の高揚を維持しつつ、抑制すること、ユダヤ的典礼とはまさにこのことである!感情(passion)がその情緒の過剰(pathos)に身を委ねることなく、「意識」の覚醒へと変成すること、これである!ユダヤ教への帰依は典礼と学知を前提とする。正義は無知なるものには不可能だからである。ユダヤ教とは極限的な意識の覚醒のことなのである」。

では律法が目指す「正義」とは何か。なぜ、正義に学知が必要とされるのか。こうした疑問にレヴィナスは別の個所でこう答えている。

「ユダヤの叡智はこう教えています。天地を創造され、それを支えられているお方であっても、人間が人間に対して犯した罪を赦すことはできない」

なぜならそれは「神に対して犯された過ちは神の赦しに属する。だが、人間を傷つけた過ちは神の所有に属さない」からだ。ただし、「ユダヤ教は「善」にいついての意識と律法だけに基づいて、それ以外にいかなる超―人間的な要素の介入もなしに、人間が再生すると信じています。」と付け加えている。

レヴィナスによれば、ユダヤ教には宗教的「熱狂」や「霊」も必要ではない。むしろ、近年の宗教=霊であるかのような神秘主義的風潮に警鐘を鳴らしている。それらは結局「無知」によってかたちづくられるものだからだ。それゆえユダヤ教に聖テレジアは不要だと語る。むしろユダヤ教は地上での人間の在り方にだけ自らを局限し、自らの罪を引き受けながら、独自な内在的(=地上的な)「倫理」(善、正義)を追求することに向かう。

「正統的ユダヤ教は道徳的内在性の用語をもって思考されるのであって、教条的な外面性の用語をもって思考されるのではない。超自然的なものは正統的ユダヤ教にとってはなんの強迫観念でもない。ユダヤ教における神性とのかかわり方は倫理の厳密な展開によって規定されるのである。」

その結果ユダヤ教はキリスト教における神の犠牲による人間の罪の赦し、また、信仰のみによる罪からの救済の教義のいづれをも斥ける。もちろん私はこれがユダヤ教のすべてであり、「ユダヤ的」なるものがこの言葉に尽くされているなどと言うつもりはない。当然ショーレムなどの他の文献を深く調べてみなくてはならない。

ただし、ユダヤ教の本質は、正義のための学知であり、熱狂でなく「意識」の覚醒だと述べるレヴィナスの言葉はどこまでも厳しく、美しい。そしてどこまでもこの地上での人間関係=倫理=神性という聖なる方程式を解こうとする姿勢に一神教の一神教たる所以を垣間見るような思いがするのは私だけであろうか。我々は知性を尽くして神を愛することを彼らから学べるし、また学ぶべきなのではないだろうか。

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近代の労働観について

Posted by Shota Maehara : 5月 4, 2010

現代人のほとんどが、仕事か無為かという選択肢の中で、仕事以外に人生の意義を見出し得ないのだとしたら、それは悲劇である。なんとなれば、本来人間の生活は、もっと多面的な要素からなっているはずだからである。たとえば、趣味や、ささやかな夢、子育ての喜び、恋愛、結婚、仲間との語らい、大切な人の死を看取ること。こうした様々なことによって生活は豊かに織り上げられる。それがもし労働という一色の糸で織り上げられねばならないとしたら、退屈である。しかも、それで人生の大半を終えた後、あなたに何が残るというのだろうか。事実、あなたのポストを違う人間が埋めるだけである。我々は人間であるがゆえに動物以下の労働に甘んじなくてはならないのだろうか。(2009.4.1)

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アドルノに関するノート4―「大衆音楽」(popular music)について

Posted by Shota Maehara : 5月 2, 2010

実際、政治的な抗議を「大衆音楽」(ポピュラー・ミュージック)、すなわち「娯楽音楽」と結び付けようとする試みはこれから述べる理由によって、初めから失敗を運命づけられていると私は考えている。

大衆音楽のすべての領域は、たとえそれがモダニズムの装いを纏っていたとしても、ある程度まで、消費やエンターテイメントとの酔っぱらった結合と分かち難い。つまり、それに新しい機能(役割)を与えようとする試みは全く表層的なままなのである。

だから私はこう言わなくてはならない。誰かがたとえどのような理由であれ、感傷的な音楽をベトナム戦争の何らかのことに結び付けて歌うならば、耐えがたい…。私にとって、実際、この歌は耐えがたい。それが恐ろしい出来事を取り上げ、それをともかくも消費できるものに仕上げるという点で。それは結局のところ恐ろしい出来事から消費向けの性質のようなものを絞り出すだけに終わるのだ。(前原将太訳)

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アドルノに関するノート3―「限定された否定」について

Posted by Shota Maehara : 5月 2, 2010

「限定された否定」(die bestimmte Negation)

「アドルノの否定の弁証法(die Nedative Dialektik)の中心概念。形式主義的な抽象的否定が一般的な懐疑主義に陥るに対して、ヘーゲルでは個々の限定された否定の積み重ねとしての弁証法的な運動は、内容的な発展の媒介をなすと考えられる。ただヘーゲルでは、結局「否定の否定は肯定である」という形で、否定は肯定のうちに止揚(吸収)されてしまう。それに対してアドルノは、一方ではたんなる抽象的否定を斥けると同時に、他方では、早まった肯定(矛盾の止揚、総合)を斥け、あくまで矛盾の中に踏み止まり、内在的にその克服をはかろうとする。そういう内在的批判の具体的作業が、ヘーゲルのタームを借りて、「限定された否定」と呼ばれている。それは非真理としての現実と、非現実としての真理との緊張関係の唯中で具体的な批判作業に課題を見出すアドルノの方法的原理であり、アドルノの全哲学は、この「限定された否定」と、絶対者を描いてはならないという「図像化禁止(Bilderverbot)要求」との照応関係の中を動いていると言っていいであろう。」(『啓蒙の弁証法』、徳永洵訳注、九七頁)

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Adorno about Popular Music

Posted by Shota Maehara : 5月 2, 2010

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アドルノに関するノート2―『啓蒙の弁証法』

Posted by Shota Maehara : 5月 2, 2010

神話と啓蒙

「以下の断片的考察のうちでわれわれが期するところは、このような理論的知性への寄与であり、次のことを眼目とする。すなわち啓蒙が神話へと逆行していく原因は、ことさら逆行することを目的として考え出された、国家主義的、異教的等々の近代的神話のもとに求められるべきではなく、むしろ真理に直面する恐怖に立ちすくんでいる啓蒙そのもののうちにもとめられなければならない、ということである。」(『啓蒙の弁証法』序文)

「大まかに言えば、第一論文(「啓蒙の概念」)の批判的部分は次の二つのテーゼに要約されよう。(一)すでに神話が啓蒙である。(ニ)啓蒙は神話に退化する。」(同書、序文)

「さまざまの神話がすでに啓蒙を行うように、啓蒙の一歩一歩は、ますます深く神話論と絡まり合う。啓蒙は神話を破壊するために、あらゆる素材を神話から受け取る。そして神話を裁く者でありながら神話の勢力圏内に落ち込んで行く。」(同書、第一章、三六~七頁)

「啓蒙はラディカルになった神話的不安である」(同書、第一章、四三頁)

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