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Shota Maehara's Blog

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チェスタトン『正統とは何か』に関するノート

Posted by Shota Maehara : 7月 29, 2012

相対主義との闘い

『正統とは何か』の第二章は「脳病院からの出発」と題されているが、チェスタトンが相対主義者のことを狂人とみなしたのは、「何も信じず誰も信じぬこの男が、自分自身の悪夢の中にたった一人で立ちつくす時が来るだろう」とわかっていたからである。

おのれの言動が正義や真理から遠く隔たっているとわかっていても、このおおよそ無限遠にある思想の光源に少しでも近づくべく思想を紡ぐ、そうするのでなければ人は相対主義者となり、相対主義者はいずれおのれ自身を相対化して虚無主義者となり、ついには―自殺するのでないとしたら―狂人になりはてる。この忌むべき相対主義を理性の名において思想の高みに登らせてしまった忌むべき時代、それが近代だとチェスタトンは喝破したのである。

「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」(脳病院からの出発)

(vi)

「宗教が滅べば、理性もまた滅ぶ。どちらも共に、同じ根源の権威に属するものであるからだ。…そして、神によって与えられた権威を破壊することによって、われわれは人間の権威という観念まであらかた破壊してしまったのだ。」(思想の自殺)

この文句の意味は、自己を超越する次元にまで視線を及ぼす精神の力量を持つことこそが自己を権威あらしめる唯一の方途だ、ということである。逆にいうと、自己(人間)を無条件に権威の源泉とした近代のヒューマニズムは、超越(神仏)への思いを非理性的として嘲ってきたため、とうとう自己を無価値なものとして足蹴にする破目になったということだ。

「人間は自分自身を疑って然るべきものだった。しかし真実を疑うべきではないはずだった。」

(viii)

平衡感覚の保持

「正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。」(キリスト教の逆説)

…一言でいえば、伝統ほどに面白く楽しめるものはまたとない、と察知するのでなければ、またそれゆえに実際に面白い人生を生き、楽しい歴史を展開してみせるのでなければ、とても保守主義者の名に値しない。チェスタトンがみごとであるのは、伝統という変わり映えのしないものを語るその語り口が、荒馬の御者の手綱捌きのように、躍動している点にある。

(X)

大衆ではなく庶民とともに

「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならないと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」(おとぎの国の倫理学)

「真の民主主義について、他の何物よりも真なることがあるとすれば、それはつまり、真の民主主義は衆愚の支配に断固として反対するという一事である。なんとなれば、真の民主主義の根本は市民の存在ということにかかっているからであって、そして衆愚の最上の定義何かと言えば、その中に一人として市民の存在せぬ群衆であるという以外にはないからである。」

(xiii)

第二章 脳病院からの出発

「徹底して現世的な人びとには、現世そのものを理解することさえできぬものだ。」(14頁)

「狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。実際、この意味では、狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」(23頁)

「…実際に狂気を形作っているものは何かを示すことである。さて、では、それはいったい何か。要約してこう言ってよろしかろう。つまり、根なし草の理性、虚空の中で酷使される理性である。正しい第一原理なしに物を考え始めれば、人間はかならず狂気に陥ってしまう。出発点を誤っているからだ。では、正しい出発点とは何なのか。」―神秘主義(39頁)

「人間は自分自身を疑って然るべきものだった。しかし、真実を疑うべきではないはずであった。ところが今や事態はまさに正反対に逆転した。今日、人間が現に主張しているものは、人間が決して主張すべきではないはずのもの―自我である。人間が現に疑っているものは、けっして疑うべきではないはずのもの―神にも似たその理性なのである。」(47頁)

「警察を攻撃するのは理屈にあっている。いや、大いに名誉なことでさえある。だが今日宗教の権威を批判する連中は、強盗のことなど聞いたこともないのに警察を攻撃しているようなものである。しかし人間の魂を襲う危険は現に存在する。強盗と同じくらい現実的な危険が存在している。この危険にたいする防壁として立てられたのが、善悪は今のところ一応別として、宗教的権威というものなのである。そしてこの危険にたいしては、何らかの防壁は是が非でも立てなければならぬのだ。もっとも、人類が滅びてしまってもかまわぬというなら話は別であるが。」(四九頁)

第三章 思想の自殺

「いつもいつも、理性か信仰か、どちらを取るかなどと言って暮らすのは愚論もいいところであろう。理性そのものが信仰の問題だからである。」(50頁)

「宗教が滅べば、理性もまた滅ぶ。どちらも共に、同じ根源の権威に属するものであるからだ。どちらも共に、それは証明しえない証明の手段である。そして、神によって与えられた権威を破壊することによって、われわれは人間の権威という観念まであらかた破壊してしまったのだ。」(51頁)

「狂気とは、知的無力に帰着する知的活動であると定義することができるだろう。そして現代思想は今まさにその終着駅に到着寸前のところまで来ている。」(67頁)

第四章 おとぎの国の倫理学

「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならないと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」(七六頁)

「私が今まで何らかの偏向を持ってきたとすれば、それはいつまでも民主主義を支持し、したがって伝統を指示する偏向であった。」(七七頁)

「現代を支配する唯物論は天をも摩する勢いに見えるが、しかしその根拠とするところは、実は結局のところたった一つの前提、しかも誤った前提にすぎない。何かが繰り返して起こるというのは、それが死んでいる証拠、時計仕掛である証拠と考えられている。もし宇宙に生命があり、人格を持つのであれば、宇宙は当然変化するにちがいない、もし太陽が生きているのなら、当然太陽は踊りだすはずだ―人びとはそう決めてかかっているらしい。しかしこれは謬見というも愚かな謬見というしかない。日常身辺の事実に照らしてもそれは明らかだ。人間の生活に何か変化が起れば、それをもたらすのは普通は生命ではなくて、逆に死のなせるわざである。力が衰え、欲望が絶えることこそ変化の原因なのである。」(99頁)

「自然界の繰り返しは、単なる反復とは違うのではあるまいか。実はアンコールではあるまいか。」(100頁)

第五章 世界の旗

「人びとはローマが偉大であるからローマを愛したのではない。ローマは人びとがローマを愛したから偉大となったのだ。」(一一六頁)

「この解答は白刃の一閃のごときものであった。まさに一刀両断したのである。いかなる意味でも、感傷的にほころびを縫い合わせたのではない。一言で言えば、キリスト教は神と宇宙とを切り離したのである。神は宇宙から絶対的に超絶した別個の存在と考えること―現代のキリスト教徒の中には、この根本の理念をキリスト教から除去しようとする者があるけれども、しかしこれこそ実に、当時の人びとがキリスト教徒になろうとした唯一の理由にほかならなかったのだ。」(一三四頁)

第六章 キリスト教の逆説

「われわれの住むこの世界で本当に具合の悪いところは何か。それは、この世界が非合理の世界だということではない。合理的な世界だということでさえもない。いちばん具合が悪いのは、この世界がほとんど完全に合理的でありながら、しかも完全に合理的ではないということだ。」(一四二頁)

「異教の哲学は、美徳は平衡にあると主張した。キリスト教は、美徳は対立葛藤にあると主張した。一見相反するように見える二つの情熱の衝突にあると主張した。もちろん、二つの情熱は本当に対立しているのではない。ただ、同時に二つながら抱くことの困難な情熱なのである。」(一六四頁)

「「自分の命を失おうとする者は命を全うするだろう」というマタイ伝の言葉は、聖者や英雄のためだけの神秘な言葉ではない。水夫や登山者のためのごく日常的な忠告にほかならぬ。アルプスの登山ガイドや教練の指導書に印刷してしかるべき言葉なのだ。この逆説こそ勇気というものの本質を言いつくしている。」(一六五頁)

「キリスト教は、まずこの二つの観念を分断し、しかる後にその両方を極端にまで押し進めた。ある意味では、人間はかつてためしのないほど誇りを高く持つべきだった。だがまたある意味では、人間はかつてためしのないほど身を低く持すべきだった。私は、「人間」であるという意味ではあらゆる被造物の長である。だが私は、一人の人間にすぎぬという意味では、あらゆる罪を犯した者の最たるものでもある。」(一六七頁)

「「自己を誇るなかれ。しかしてまた自己を卑下することなかれ」という金言なら誰にも言えたはずである。そしてこの金言は人間を縛るものであったはずである。しかし、「ここでは自己を誇ってよろしい。ここでは自己を卑下してよろしい」と言い切ること―それは人間を解き放つことだったのである。(改行)この新しいバランスの発見こそ、キリスト教倫理の重大事だった。」(一七六頁)

「正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。」(一八〇頁)

第七章 永遠の革命

「ちなみに言えば、ニーチェの弱点もすべて実はこれにつきる。ニーチェのことを、大胆にして力強い思想家のごとく言う人びとがある。詩的で暗示的な思想家であることは否定できないが、力強いとは義理にも言えぬ。正反対である。大胆などとはとんでもない。アリストテレスにしろカルヴィンにしろ、あるいはカール・マルクスさえ、恐れを知らぬ思想の持主は、自分の主張の意味するところを、比喩の衣をはぎ取った素裸の言葉で定着し、直視した。ところがニーチェにはそれができない。いつでも物理的な比喩に頼って問題を避けて通るのだ。この点では気楽な二流詩人と同じことである。」(一八八頁)

「「進化」か、それとも「進歩」か、などと、単なる言葉の問題でかれこれ言うには及ばない。私自身は、むしろ「改造」(リフォーム)が好ましいと思う。「改造」という以上は、何らかの「構造」(フォーム)を予想しているからである。世界を、何かある特定の形に改めようと努力する意味がふくまれているからだ。つまり、われわれがすでに心の中にはっきりとした形を見ていて、世界をその形に合わせようとするわけである。」(一九〇頁)

「革命的な書物を読みすぎて、結局ただじっと座っている結果になっている。」(一九四頁)

「では、キリスト教の自然観の要点はどうかと言えば、それはつまり、自然はわれらの母ではなくて、自然はわれらの姉妹だということである。」(二〇三頁)

「すでに述べたように、世人が進歩主義者となるべき理由の一つとして挙げているのは、世の中の物事が自然によくなって行く傾向があるということである。だが、進歩主義者となるべき真の理由はただ一つ、世の中の物事は自然に悪くなって行く傾向があるということなのである。いや、物事が堕落して行くということは、単に進歩主義の最大の論拠であるだけではない。保守主義に反対すべき唯一の論拠でもある。」(二〇八頁)

第八章 正統のロマンス

「現代がいかに喧騒に満ち、奮闘努力を要するかを嘆くのは、今日ではほぼ決まり文句になっている。けれども実は、現代の第一の特徴は底知れぬ怠惰と倦怠にある。事実はむしろ、本当は怠惰であるからこそ見かけの喧騒が生じているのだ。」(二二六頁)

「休日というものは、自由主義と同様ただ人間の自由をを意味するにすぎないが、奇蹟とは、要するに神の自由を意味するにすぎないのである。諸君の良心にかけて、人間の自由も神の自由も、二つながら否定するのは諸君の自由だ。しかしその否定を自由主義の勝利と呼ぶことは自由ではない。カトリシズムによれば、人間も神も、共にある種の精神的自由を持っている。カルヴィニズムは人間から自由を取り上げて、それをもっぱら神に委ねた。ところが科学的物質主義は、天地の創造者自身からさえ自由を奪った。黙示録が悪魔を縛ったように、唯物論は神さえも縛ったのである。宇宙全体の中に、何一つとして自由なものを残さないのだ。しかもこういう行為を助ける人びとが、こともあろうに「自由主義的」神学者と呼ばれているのだからたまらない。」

「奇蹟を懐疑することに、何かしら自由や改革に通じるものがあると考えることは、まさに文字どおり事実の正反対というものだ。奇蹟が信じられぬというのなら、それで万事は終りである。」(二三二頁)

「ここでわれわれはまたしても、キリスト教の本質にまつわるあの倦むことのない性格を発見する。現代の哲学はすべて、人を縛り、手かせ足かせをはめる鎖である。だがキリスト教は剣であって、束縛を断ち切り、解き放つ。宇宙を自己から切り放ち、生きた魂とすることを真に喜ぶ神の観念はキリスト教以外に抱きうるものではない。正統のキリスト教に従えば、この神と人間の分離は聖なるものである。なぜならそれは永遠の分離であるからだ。人間が神を愛しうるためには、人間の愛すべき神が必要であるばかりではなく、神を愛する人間の存在もまた不可欠である。…つまり、神の子が地上に来給うたのは、単に平和をもたらさんがためばかりではなく、人と人とを引き裂かんがためだというあの言葉だ(マタイ伝一〇・三四)。この言葉は、その文字どおりの意味においてもまったく真理の響きを放っている。神の愛を説く者は、必ずや憎しみを生まずにはおかぬという意味である。」(二四一頁)

「われわれが民主主義を尊重し、西欧の自己革新のエネルギーを尊重するとすれば、古い神学にこそこれらを発見できるのであって、現代流の新しい神学に見出すことはまずできない。改革を求めるのなら、正統に固執しなければならない。」(二四四頁)

三位一体の教義

「…というのも西欧の宗教においては、「人間がただ一人でいることはよろしくない」という観念がいつも鋭く感じられてきたからだ。…三位一体を信じるわれわれにとっては、神ご自身がすでに一つの社会を構成しているのだ。」(二四六頁)

「キリスト教はすべて、岐路に立った人間に集中する。」(二四八頁)

「現代では、キリストの神性をできるだけ小さく見つもろうとしたり、人間的あるいは「科学的」に説明しようとしたりする試みがよく見られるが、この場合にも、今まで述べてきた事実はやはり事実として当てはまる。こういう説明が正しいかどうか、それは後で論ずることにする。だが、もしキリストの神性が事実であるとすれば、この神性が恐ろしく革命的であることもまた事実である。正しい人間が窮地に陥ることもあるということなら、われわれにもことさら珍しいことではない。けれども神が窮地に陥ることがありうるなどということは、どんな反逆者が主張するにしても恐るべき傲慢の言と言うべきだろう。神が単に全能であるだけでは完全ではないと感じた宗教は、地上の宗教多しといえどもキリスト教をおいてほかにはない。神は、完全に神であるためには、王であるばかりでなく反逆者でなければならぬと感じた宗教は、地上のあらゆる宗教のうちキリスト教以外には一つとして見当たらぬ。すべての宗教のうちキリスト教のみが、天地の創造者の徳のうちに勇気をつけ加えたのである。およそ勇気の名に値する勇気とは、魂のまさにくず折れようとする瞬間を経験し、しかもなおくず折れぬことを意味するはずである。」(二五一頁)

第九章 権威と冒険

「キリスト教とは、一個の超人間的なパラドックスであって、これによって二つの相対立する情熱が、お互いに相並んで燃えさかることのできるものなのだ。福音書の文体を真に説明できる唯一の説明は、これが、何か超自然的な高みから、何かさらに驚倒すべき矛盾の統合を見守っている者の言葉だということ以外にはないのである。」(二六九頁)

「宗教について本当の議論をしようとすれば、それはいつでも、逆様に生れついた人間は、もし正常に帰った時、はたして自分でそれがわかるかどうか、という問題に帰着する。そもそもキリスト教の最大のパラドックスは、人間の尋常の状態が、人間の正気にして正常な状態ではないと主張することだ。正常自体が異常だとすることだ。それこそ原罪ということの真意にほかならぬ。」(二九〇~二九一頁)

「第一の、「お前はいったい何者であるか」という問には、私の考えついた答えはただ、「そんなことは知るものか。神様だけがご存知だ」というのであった。第二の質問―「それでは、人間の堕落とは何を意味するか」にたいしては、私は真から真面目にこう答えたものである―「私がそもそも何者であろうと、私は実は私自身ではない。」これこそわれわれの宗教の最大のパラドックスというものだ。われわれが本当の意味では一度もわからなかったあるものが、単にわれわれ自身以上のものであるばかりではなく、われわれ自身よりもさらにわれわれ自身にとって本然のものですらあるのだから。そして、これが正しいかどうかを決める手がかりは、結局のところ、本書の冒頭で示したあの単純な実験しかない―つまり、気ちがい病院の独房か、それとも開かれた扉を出て行くかという実験しかないのである。私が知的な解放ということを本当に知ったのは、正統の何たるかを知ってからのことだった。」(二九一~二九二頁)

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ヘーゲルの哲学を読む―コーヒー・ブレイク!

Posted by Shota Maehara : 1月 2, 2012

そんな或る日、たまたま徳川山のお宅を訪ねたとき、先生は丁度本質論の訳を終えられ、概念論に入るところであった。先生はその日、日頃になく興奮気味で、やはりヘーゲルはすばらしいという話を始められた。話は、ヘーゲルが真理は具体的なものとかトタールなものといっているのをどう理解するか、というようなことであった。先生は立ち上がって原書を広げたまま持って来られ、本質論の最後の節(第一五九節、本書四〇〇頁)を示された。そこは「他者において己自身のもとにある」という表現が、さらに「他のもののなかで自分自身と合致すること」と深められ、その合致をさまざまな視覚から「解放」であり、「自我」であり、「自由な精神」であり、「愛」であり、「浄福」である、と表明しているところである。具体的とかトタールというのはこういうことなのだ。ただ自分が自分自身と合致するというたんなる自己同一では、なんら自我の確立でも自由の実現でもない。ヘーゲルが自分を失う分だけ自分が豊かになるといっている逆説的な意味を正しく理解しなければならない。真理のあるべき姿をこれだけ見事に表明できたのはヘーゲルだけではないか。こういうヘーゲルが、僕はたまらなく好きなのだ。先生はその日珍しく多くを語られた。(略)(ヘーゲル『小論理学』「訳者あとがき」)

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ヘーゲルの哲学を読む4―概念について

Posted by Shota Maehara : 1月 2, 2012

概念というと、普通は抽象的な一般性のことしか思いうかべられず、したがって、概念とは一般的な観念だと定義されるのが普通です。色の概念とか植物の概念とか動物の概念とかいわれるものがそうで、これらの概念は、さまざまな色や植物や動物のあいだに見られる特殊な要素をとりのぞき、すべてに共通するものを確定するすることによって得られます。分析的知性による概念のとらえかたがそれで、そうした概念を見て、無味乾燥で空虚だと感じ、それをたんなる図式ないし影だと思うのは当然のことです。たいして、普遍的な概念というものは、特殊なものをそのままに放置して、共通なものだけをとりだしてきたというものではなく、みずからを特殊化していくものであり、異質なものをとりこみながら濁りのない明晰さのうちにおのれを保つものです。たんなる共通のものと真に普遍的なものとを混同しないことは、認識にとっても実践にとっても、この上なく大切です。思考一般にたいして、とりわけ哲学的思考にたいして、感情の立場からよくもちだされる非難のすべては、そして、しばしばくりかえされる、いわゆる思考の行きすぎの危険性という主張は、右の混同に発するものです。

真なる包括的な意味での普遍性の思考は、それが人類の意識に入ってくるのには何千年の時を必要としたといわねばならないもので、キリスト教を通じてはじめて完全に承認されるようになりました。高度な文明をもつ古代ギリシャでさえ、真に普遍的な神も、真に普遍的な人間も知らなかった。古代ギリシャの神々は精神の特殊な力を体現したものにすぎず、普遍的な民族の神はアテネの人びとにとっていまだ隠されていた。だからこそ、ギリシャ人にとって、自分たちと異国人たちとのあいだには絶対の断絶があり、人間そのものがその無限の価値と無限の権利を承認されることはありませんでした。近代のヨーロッパで奴隷制が消滅したのはなぜか、と問われるとき、この現象を説明するものとしてあれこれの特殊な事情がもちだされます。が、キリスト教ヨーロッパにもはや奴隷が存在しない本当の理由は、キリスト教の原理以外に求めようがない。キリスト教は絶対自由の宗教であって、人間そのものが無限の普遍性をもつと認められるのは、キリスト教以外にはありません。奴隷に欠けているのは、その人格性の承認だが、人格性の原理こそが普遍的です。主人は奴隷を人格として見るのではなく、自己を欠いた物として見るので、奴隷には自我が認められず、主人が奴隷の自我です。

上に述べた、たんに共通なものと真に普遍的なものとのちがいは、ルソーの有名な社会契約論において見事に表現されています。国家の法律は普遍意志(volonté générale)から生じなければならないが、といって、万人の意志(volonté de tous)である必要はない、と。ルソーがこの区別をつねにしっかり見すえていたならば、その国家論はもっと徹底したものになったと思われます。普遍意志こそが意志の概念であり、法律はこの概念に根をおろした、意志の特殊な規定なのです。(ヘーゲル『論理学』三四八~三四九頁)
知性論理学のなかで諸概念の生成と形成にかんして普通、論じられていることにかんしてなお注意されねばならないのは、われわれが諸概念を形成するのでは全然ないということ、またおよそ概念は何か成立してきたものと見なされることはまったくできないということである。もちろん概念はたんに存在とか直接的なものとかにすぎないものではなく、それにはまた媒介も属するのであるが、しかしこの媒介は概念そのもののうちにあるのであって、概念は自己によって、そして自己自身と、媒介されたものである。われわれの諸表象の内容をなす諸対象が初めにあって、そのあとからわれわれの主観的なはたらきがやって来、これが先に述べた、諸対象に共通なものの抽象と総括の作業を通じて諸対象の概念を形成するというふうに考えるのは逆さまである。むしろ概念はほんとうに最初のものなのであって、もろもろの事物が現にあるあり方をしているのは、それらに内在してそれらのうちで己れを顕わにする概念のはたらきによるのである。われわれの宗教的意識においては、このことは、神は世界を無から創造したとか、あるいは換言すれば、世界と有限な諸事物は神の豊かな思想と思召しから出てきたとかいう言い方に見られる。このことは、思想、もっと精確には概念が無限な形式、あるいは自由な、創造的なはたらきであって、このはたらきは己れを現実化するために、己れの外に存在する素材などを必要としないことを認めている。(ヘーゲル『小論理学』四一二~四一三頁、真下信一、宮本十蔵訳)

概念はずばり具体的なものである。なぜなら即自かつ対自的に規定されたあり方は個体性であるが、そのようなあり方としての自己との否定的一体性はそれ自体、概念の自己への関係、普遍性をなすからである。そのかぎり概念の諸契機はばらばらに切り離されることはできない。(同書、四一三頁)

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ヘーゲルの哲学を読む3―思考について

Posted by Shota Maehara : 1月 2, 2012

必然性から自由への移行、あるいは、現実から概念への移行は、難解この上ない。自立した現実とは、他への移行や自分とは別の自立した現実との一体化のなかでのみその実体性をもつのだ、という思想がそこにこめられているのだから。概念がこの上なく難解なのも、概念こそがそうした一体化の運動だからである。一方、現実の実体たる原因は、おのれの自立存在のうちにいかなるものの介入もゆるさないのだから、まさにそれゆえに、他から設定されるものへと移行する必然性(運命)にさらされている。その理路がまた難解この上ない。

ところで、この難解さを解きほぐすには、必然性を思考するのが一番である。思考とは、自己が他者のうちで自己と出会うことであり、抽象化に逃げを打つのではなく、現実が必然性の力によって他の現実と結びつくとき、自分を他者としてではなく、みずから設定したみずからの存在としてとらえるような解放の力なのだから。この解放の力は、自分とむきあう実在としては「自我」であり、全体性へと発展したものとしては「自由な精神」であり、感覚としては「愛」であり、満足の状態としては「至福」である。スピノザの実体には偉大な直観がこめられているが、それは人を有限な自立存在から解き放つ潜在的な力にすぎない。概念そのものこそ必然性の力とむきあい、現実に自由となった運動である。(ヘーゲル『論理学』三三八~三三九頁)

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ヘーゲルの哲学を読む2―「現象」と「現実」の区別について

Posted by Shota Maehara : 1月 2, 2012

他方、同じように重要なことだが、哲学の内容とは生きた精神の領域において根源的に発生し、いまなお発生しつつあるものが、意識内外の充実した世界になったものであること―つづめていえば、現実そのものが哲学の内容をなすこと―、そのことを哲学は理解しなければならない。この内容を直接に意識することが、「経験」と呼ばれるものだ。世界を慎重に考察すれば、内外の広汎な事物について、移ろいゆく意味なき「現象」にすぎないものと、真の意味で「現実」の名に値するものとが区別される。同一の内容について、哲学とその他の意識とを区別するものは形式しかないのだから、哲学と現実の経験との一致がどうしても必要になる。少なくとも、この一致は、哲学の真理を判定する外的な試金石と見なされるので、この一致の認識からさらに進んで、自覚的な理性と存在する理性―との和解をもたらすことを、学問の最高究極の目的と見なさねばならない。

《注解》
わたしの『法哲学要綱』の序文に、

理性的なものは現実的であり、
現実的なものは理性的である、

ということながある。
 
この単純な命題は多くの人びとを驚かせ、敵意を招くことにもなったが、哲学のみならず宗教をも所有していると主張する人びとさえも、敵意を隠さなかった。宗教についていえば、神の世界支配というその教義は右の命題を明々白々に表現したものだから、ここで引きあいに出す必要はあるまい。が、哲学的な意味にかんしていえば、神が現実的な存在であること、もっとも現実的で、真に現実的な唯一の存在であること、のみならず、形式面でいうと。この世にあるものはその一部は「現象」であり、残りの一部だけが現実であること、そうしたことを知るには、それなりの教養を積む必要がある。日常の生活では、ちょっとした思いつきやあやまりやまちがったことやそれに類すること、さらにまた、退化して消えていくような存在までが、なんでも、目につくままに「現実」と名づけられる。しかし、日常の感覚からしても、偶然の存在は、あえて現実的と呼ぶには当たらない。偶然の存在とは、可能な存在という以上の価値をもたず、あってもなくてもよいものなのだ。わたしが「現実」というとき、わたしがどんな意味でそのことばを使っているのか、よく考えてもらいたい。わたしの精細な『論理学』(一八一二~一六)では「現実」という概念もあつかわれていて、「現実」は、存在の一角を占める偶然的なものから区別されるだけでなく、「そこにあるもの」や「げんにあるもの」などからも厳密に区別されている。

理性的なものが現実的だという考えは、理念や理想が幻想にすぎず、哲学はそうした妄想の体系だという考えと対立するだけでなく、逆に、理念や理想は高貴にすぎて現実に降りてこられない、とか、無力にすぎて現実へと至りつけない、といった考えとも、きっぱりと対立する。ところが、おのれの抽象観念の夢を真なるものと見なし、「こうあるべきだ」という発想を、とりわけ政治の分野で振りかざして得意になる分析的知性ときたら、現実と理念とを切り離すことが、とくにお気にいりなのだ。世界が分析的知性に期待しているのは、世界がいかに「あるべきか」を経験することで、いかにあるかの経験ではない、といわんばかりだ。あるべきすがたが現実のものとなったら、こましゃくれた「あるべき」はどうなることか。一定期間、特定の場所で、相対的に重要な意味をもった、些細で、外的で、はかない対象や制度や状態にたいして、「こうあるべきだ」を対置するのは理にかなっているし、その場合には、正当な一般観念に合致しないものが数多く見いだされもしよう。身のまわりを見わたして、あるべきすがたを現実にとっていないものをあれこれ見つけるぐらいの賢さは、誰にでも備わっている。が、そんな対象やそんな「あるべき」が哲学的な関心領域にまで通用すると考えたら、それはとんだお門ちがいというものだ。哲学のあつかう理念は、「あるべき」ものにとどまって現実にあるものとならないような、そんな無力な理念ではないし、哲学のあつかう現実はといえば、永遠の理性につらぬかれた現実である。些細で、外的で、はかない対象や制度や状態と見えるものは、たんなる表面的なありさまにすぎない。(ヘーゲル『論理学』五一~五三頁)

現実と思考ないし理念とを俗っぽく対立させるのは、よくおこなわれるところです。そして、その対立を踏まえて、ある思考が理にかなって正しいことにはなんの異議もないが、ただ、その思考は現実的ではないし、現実に実行できない、といういいかたがよくなされる。が、そんないいかたをする人びとは、自分が思考の本性も現実の本性も的確に把握してはいないことを証明しているだけです。右のいい草では、思考は、主観的な想念、計画、意図などと同義とされ、現実は、外的で感覚的な実在と同義だとされています。カテゴリーの使いかたや表示のしかたがいい加減な日常生活では、まあそれでもよく、たとえば、一定の税制計画、ないし、税制のいわゆる理念が、それ自体ではまったくよくできていて目的にかなっているが、いわゆる現実には合わず、あたえられた状況のもとでは実行できない、ということもあるかもしれない。が、抽象的・分析的な知性が二つの規定をとらえてそのちがいを強調し、現実と思考のあいだにはどうにもならない対立があるから、現実の世界では理念を頭からたたきださねばならない、というとき、その考えは、学問と健全な理性の名において、断固として拒否されねばなりません。まず理念だが、理念はわたしたちの頭のなかに隠れているだけのものではまったくなく、また、それ自体はまったく無力で、それを実現するかどうかはわたしたちの胸先三寸にある、というのでもなく、むしろ、みずから実現へとむかう現実的なものであるし、他方、現実は現実で、思考を欠いた実践家や、思考が苦手で思考は落第の実践家が勝手に想像するような、そんなくだらない非理性的なものではない。たんなる現象とは区別される現実は、内と外の統一体として、理性の反対側にあるようなものではなく、徹底して理性的なものであって、理性的でないものは、もうそれだけで現実的なものとは見なされないのです。その意味で、たとえば、すぐれた理性的な仕事をなしとげられない詩人や政治家を、現実的な詩人ないし政治家とは認めない、といった教養人は、現実という語の用法をよくわきまえているということができます。

ここに述べたような通俗的な現実のとらえかたに加えて、手にとることができ、直接に知覚できるものと現実とが混同されることにもなると、それは、アリストテレス哲学とプラトン哲学との関係についての、広く行きわたった先入見の原因ともなる。その先入見によると、プラトンとアリストテレスのちがいは、前者は理念を、理念のみを真理だと認めるのにたいして、後者は、理念を捨てて現実に即(つ)き、それゆえに、経験主義の創始者ないし唱道者と見なされる、という点にある。その際、注意すべきは、現実がアリストテレス哲学の原理をなすのはたしかだが、その現実は、直接目の前にある卑俗な現実ではなく、理念が現実となったもののことだという点です。アリストテレスがプラトンに異を称えたのは、プラトンの理念(イデア)がたんなるデュナミス(潜在態)でしかないことにたいしてで、二人がともにそれだけが真理だと考える理念は、その本質からして、エネルゲイア(顕在態)―内なるものがそのまま外に出たもの―でなければならず、内と外の統一体でなければならない。それが、アリストテレスのいわんとするところです。わたしたちのいう強い意味での現実とは、アリストテレスのエネルゲイア(顕在態)に相当します。(ヘーゲル『論理学』三一一~三一二頁)

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ヘーゲルの哲学を読む1―精神の弁証法について

Posted by Shota Maehara : 1月 1, 2012

神の永遠の生命は、自己を発見すること、自己を意識すること、自己と一致することに等しい。その過程で自己を疎外し、分裂することも生じるが、自己を発見するために、まず自己を疎外するのは精神の、理念の特質である。この動きこそが自由そのものなのだ。なぜならば、ものごとを外側から見ていてさえ、他人に依存せず、抑圧されず、他人と深い関係にない人間は自由だというではないか。精神は自己に還ることによって自由を達成する―この普遍的動きは実は、精神の一連の形態にほかならない。これを直線的な動きと考えてはならない。自己に還る円なのだ。この円は無数の円に囲まれている。発展(ビルドゥング)とは抽象的無限に向って進むことではなく、自己に還ることである。(ヘーゲル『論理学』)

したがって、精神が自由に向って展開していくという進歩の過程は、自然への隷属から解放されていく過程でもある。(ヘーゲル『歴史哲学講義』)

矛盾はあらゆる運動と生命性の根源である。あらゆるものはそのうちに矛盾をもつかぎりにおいてのみ運動し、そのかぎりにおいてのみ物をつき動かし、また活動しようとする性質をもっている。(ヘーゲル『大論理学』「矛盾」)

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アドルノに関するノート7―文化のヤヌス的性格

Posted by Shota Maehara : 12月 15, 2011

快感原則の彼岸

 厳密なセックス理論(精神分析)の商売上手な修正主義者たちはフロイトに温情の欠けていることを指摘するが、フロイトの抑圧的な面はそうしたこととはまったく無関係である。職業上の温情は、金儲けのため、一面識のない間柄でもわけへだてのない親密さを装うことになる。それは被害者たる患者を欺いている。なぜなら、彼の弱点に乗じつつ、彼をそんな人間にした世の動向を是認しているからである。また真理から後退しているその分だけ、患者に不正を働いている。もしこの種の温情に欠けていたとするなら、フロイトはその点においてすくなくとも国民経済学の批判者たちの同類ということになるのであり、タゴールやヴェルフェルの同類より、この方が上等なのである。フロイトにあって致命的なのはむしろ次の点だ。ブルジョア・イデオロギーに反する唯物論的立場から意識的行動を無意識の衝動の根にいたるまで追求しながら、反面では衝動を軽蔑するブルジョアに同調していることで、この軽蔑は彼が分解してみせた合理化の産物に外ならないのである。
 
 彼は「とどのつまり利己的な性目的より、社会目的を高く見る…一般の評価」に従うと、『精神分析入門』のなかではっきり公言している。心理学の専門家たる彼は、社会的と利己的という対立の図式をよく検討もしないでそのまま受け入れているわけだ。つまりこの対立のなかに、抑圧的な社会の仕業や、彼自身が仔細に描き出したまがまがしいからくりの痕跡を認めようとしないのである。というよりこの点において理論をもたぬ彼は、一般の偏見に順応しつつ、衝動の断念を実情にそぐわぬ抑圧と見て否定すべきか、それとも文化を推進する昇華と見なして称揚すべきか、いずれとも決めかねて迷っているのだ。この矛盾のなかには客観的に文化そのもののヤヌス的性格のいくぶんかが反映しているのであり、どんなに健全な官能を礼賛してみても、この矛盾だけは取り除くことができないと言ってよい。

 ただフロイトにあっては、分析目的のための批判的尺度が価値の低下を来たすという結果がそこから生じている。蒙昧のあとをとどめるフロイトの啓蒙はひそかにブルジョアの幻滅に手を貸しているのである。時期おくれに偽善の敵となった彼は、抑圧された人間をおおっぴらに解放しようとする意志と、おおっぴらな抑圧を弁明する立場の、板挟みになっている。理性は彼にとってたんなる上部構造である。もっともその原因は、公式哲学が彼について非難しているように彼の心理主義にあるのではない。彼の心理主義には真理における歴史的契機を探り当てるだけの深みがある。原因はむしろ、手段としての理性がそれによってのみ理性的であることを証拠立てられる意味に疎遠な没理性的な目的を彼が排斥しているところに求められるのであって、その目的とはすなわち快楽である。

 快楽のなかには自然への隷属状態を超える要素が含まれているのだが、その要素を無視して快楽そのものを軽視し、種の保存のトリックのなかに数え入れ、それ自体を一種狡猾な理性に見立てるようになれば、いきおい理性(ラチオ)も合理性(ラチオナリジールング)の次元に成り下がってしまうのだ。そして真理は相対性に委ねられ、人間は権力に委ねられるのである。盲目の肉体的な快楽は、それ自体にはなんの志向もないのに最終的な志向を充足させるものであるが、そうした快楽を手がかりにユートピアを測定できる者だけが確乎たる真理の理念にあずかることができると言ってよい。

 ところでフロイトの仕事のなかでは精神と快楽に対する二重の敵意が心ならずも再生産されているのだが、その共通の根を認識する手段は外ならぬ精神分析によって与えられているのである。わたしたち人間が天使や雀に任せっ放しにしている空について語ったセールスマンの金言の甲羅を経た御老体の賢(さか)しら顔に引用している「幻想の未来」の箇所と、甘い生活を送る有閑階級の倒錯した行状を戦きながら弾劾している『入門』の条(くだ)りとは、一対をなしている。実際、快楽にも天国にも嫌気がさすように仕向けられた連中は治療の対象としてまことにお誂え向きの存在なのである。

 分析の成功した患者にしばしば見受けられる空疎な感じや機械的な様子は、彼らの病気の所為(せい)だけではないのであって、解放しつつ解放したものを傷めつける治療法にも一端の責任があるのだ。有効な治療法として評判の高い転移(Ubertragung)は―その解決が分析作業中の難関になっているのも無理のない話である―かつて献身的な人間が幸福にもわれ知らずに行った自己抹殺を不吉にも本人の意志で行うという理詰めで考え出された情況なのであり、のちに総統に従って徒党を組み、あらゆる精神とともに精神を裏切った分析家たちをも粛清した、一種反射的な行動様式の原型ともなっているのである。

テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』(三光長治訳、法政大学出版、一九七九年、七七~八頁)

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アドルノに関するノート6―力とは否定的なものに我が身をさらすことである

Posted by Shota Maehara : 9月 25, 2011

「しかし危険は、運動に所属する人びとの中で好奇心を燃やす人の数がわずかでしかないことであり、また彼らが音楽教育的音楽という穴だらけの屋根の下に隠れて安心し切ってしまい、戸外(フライエ)へ出て行こうという欲求―自由(フライ)になろうとする欲求―のあることを自分と他人のどちらにも告白できないことにあるのだ。事態を改善する第一の前提は、同じ考えの仲間たちから意見の一致をあらかじめとりつけたり、不愉快な異論に対しては、そんなこと先刻承知だなどと片づけてしまう代わりに、誤った安穏さから離れ、批判的思考を身に着けることである。力というものは自動的な防衛のかたちではなく、異和感をもたらす相手を真面目にわが身に近づけてみせる能力のかたちで発揮されるのである。」―(Th.W.アドルノ「音楽教育的音楽に対する九つのテーゼ」『不協和音―管理社会における音楽』)

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善悪の彼岸について―畜群道徳への批判と未来の哲学者

Posted by Shota Maehara : 9月 20, 2011

岩波文庫版の帯にはこうある。「ニーチェ(1844‐1900)はキリスト教的道徳のもとに、また民主主義政治のもとに「畜群」として生きつづけようとする人々に鉄槌を下す。彼にとって人間を平等化、矮小化して「畜群人間」に堕せしめるのはこれら既成の秩序や道徳であり、本来の哲学の課題は、まさにこの秩序・道徳に対する反対運動の提起でなければならなかった。 」と。

同様の箇所を、第五章「道徳の自然誌のために」から引用しよう。

「民主主義の運動はキリスト教の運動の遺産なのだ・・・われわれは一つの別の信仰をもっている。―このわれわれにとっては、民主主義の運動は単に政治的機構の一つの頽廃形式と見られるだけでなく、むしろ人間の頽廃形式、すなわち、人間の矮小化の形式と見られ、人間の凡庸化と価値低落と見なされる。われわれはどこへわれわれの希望をつながなくてはならないであろうか。―新しい哲学者だ。」―フリードリッヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』

ここから彼はあらゆる価値の価値転換をこの新しい哲学の使命として提唱していくわけだが、果たして我々はニーチェと同様に、民主主義とキリスト教への批判へと進むべきであろうか。おそらく否である。自らの命をも死の危険にさらす事も含むいわゆる「力への意志」は現代の閉塞状況を突破する一つの解答ではあろうが、それは一つの悪魔を別のもっとたちの悪い悪魔によって追い出すだけにならないとは限らない。それは後のナチス・ドイツの台頭の歴史が証明している。

おそらく本質的な答えは、ニーチェが見ていたところとは別の所にある。ニーチェが批判していたキリスト教とは別の可能性、すなわちイエス・キリストそのもののなかに。なによりも哲学的にキルケゴールが解明しようとしたキリスト教のパラドックス(直接伝達の不可能性、質的飛躍、躓きの可能性)のなかにである。私は信仰者としてこの遺産を受け継ぐ者である。

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ヘーゲルの哲学を読む―失業について(売れ残った労働力商品の絶望)

Posted by Shota Maehara : 9月 15, 2011

「死の観念吹き込むひとを隷属化する恐怖からの解放は、一人の他者に奉仕し、自己を外化し、もろもろの他者と結びつくことによって果されるわけである。他方、労働による教化―形成(※自己陶冶)がないならば、畏怖は心胸の内に留まり、唖であり、意識はみずから自覚的とはならない。実在する客観的な世界を変貌せしめる労働がないならば、人間は現実に自己を変貌せしめることができない。仮に人間が変化するとしても、その変化は「内なる」もの、純粋に主観的なものに留まり、ただ自己だけに開示されるにすぎず、「唖であり」、他者には伝達されない。この「心胸の内」の変化のために、彼は変化しなかった世界及びこの変化しなかった世界と結びついている他者と乖離してしまう。したがって、この変化は人間を狂者、犯罪者へと変貌せしめ、いずれ彼は自然的かつ社会的な客観的現実によって抹殺されてしまう。主観的観念は当初客観的世界を乗り超えて行くのだが、ただ労働だけがこの主観的観念と客観的世界を終局において和解せしめ、その前に不安を覚え、畏怖を感じ、そのため充足されえなかった所与の世界を―畏怖に駆られながら―乗り超えようと試みるすべての人間の態度にまといつく狂気と罪との境地を消し去ることができる。」(アレクサンドル・コジェーヴ 『ヘーゲル読解入門―『精神現象学』を読む』、「第一部 序に代えて」より) ※斜体は筆者による補足

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