『正統とは何か』の第二章は「脳病院からの出発」と題されているが、チェスタトンが相対主義者のことを狂人とみなしたのは、「何も信じず誰も信じぬこの男が、自分自身の悪夢の中にたった一人で立ちつくす時が来るだろう」とわかっていたからである。
おのれの言動が正義や真理から遠く隔たっているとわかっていても、このおおよそ無限遠にある思想の光源に少しでも近づくべく思想を紡ぐ、そうするのでなければ人は相対主義者となり、相対主義者はいずれおのれ自身を相対化して虚無主義者となり、ついには―自殺するのでないとしたら―狂人になりはてる。この忌むべき相対主義を理性の名において思想の高みに登らせてしまった忌むべき時代、それが近代だとチェスタトンは喝破したのである。
「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」(脳病院からの出発)
(vi)
「宗教が滅べば、理性もまた滅ぶ。どちらも共に、同じ根源の権威に属するものであるからだ。…そして、神によって与えられた権威を破壊することによって、われわれは人間の権威という観念まであらかた破壊してしまったのだ。」(思想の自殺)
この文句の意味は、自己を超越する次元にまで視線を及ぼす精神の力量を持つことこそが自己を権威あらしめる唯一の方途だ、ということである。逆にいうと、自己(人間)を無条件に権威の源泉とした近代のヒューマニズムは、超越(神仏)への思いを非理性的として嘲ってきたため、とうとう自己を無価値なものとして足蹴にする破目になったということだ。
「人間は自分自身を疑って然るべきものだった。しかし真実を疑うべきではないはずだった。」
(viii)
○平衡感覚の保持
「正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。」(キリスト教の逆説)
…一言でいえば、伝統ほどに面白く楽しめるものはまたとない、と察知するのでなければ、またそれゆえに実際に面白い人生を生き、楽しい歴史を展開してみせるのでなければ、とても保守主義者の名に値しない。チェスタトンがみごとであるのは、伝統という変わり映えのしないものを語るその語り口が、荒馬の御者の手綱捌きのように、躍動している点にある。
(X)
○大衆ではなく庶民とともに
「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならないと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」(おとぎの国の倫理学)
「真の民主主義について、他の何物よりも真なることがあるとすれば、それはつまり、真の民主主義は衆愚の支配に断固として反対するという一事である。なんとなれば、真の民主主義の根本は市民の存在ということにかかっているからであって、そして衆愚の最上の定義何かと言えば、その中に一人として市民の存在せぬ群衆であるという以外にはないからである。」
(xiii)
「徹底して現世的な人びとには、現世そのものを理解することさえできぬものだ。」(14頁)
「狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。実際、この意味では、狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」(23頁)
「…実際に狂気を形作っているものは何かを示すことである。さて、では、それはいったい何か。要約してこう言ってよろしかろう。つまり、根なし草の理性、虚空の中で酷使される理性である。正しい第一原理なしに物を考え始めれば、人間はかならず狂気に陥ってしまう。出発点を誤っているからだ。では、正しい出発点とは何なのか。」―神秘主義(39頁)
「人間は自分自身を疑って然るべきものだった。しかし、真実を疑うべきではないはずであった。ところが今や事態はまさに正反対に逆転した。今日、人間が現に主張しているものは、人間が決して主張すべきではないはずのもの―自我である。人間が現に疑っているものは、けっして疑うべきではないはずのもの―神にも似たその理性なのである。」(47頁)
「警察を攻撃するのは理屈にあっている。いや、大いに名誉なことでさえある。だが今日宗教の権威を批判する連中は、強盗のことなど聞いたこともないのに警察を攻撃しているようなものである。しかし人間の魂を襲う危険は現に存在する。強盗と同じくらい現実的な危険が存在している。この危険にたいする防壁として立てられたのが、善悪は今のところ一応別として、宗教的権威というものなのである。そしてこの危険にたいしては、何らかの防壁は是が非でも立てなければならぬのだ。もっとも、人類が滅びてしまってもかまわぬというなら話は別であるが。」(四九頁)
■第三章 思想の自殺
「いつもいつも、理性か信仰か、どちらを取るかなどと言って暮らすのは愚論もいいところであろう。理性そのものが信仰の問題だからである。」(50頁)
「宗教が滅べば、理性もまた滅ぶ。どちらも共に、同じ根源の権威に属するものであるからだ。どちらも共に、それは証明しえない証明の手段である。そして、神によって与えられた権威を破壊することによって、われわれは人間の権威という観念まであらかた破壊してしまったのだ。」(51頁)
「狂気とは、知的無力に帰着する知的活動であると定義することができるだろう。そして現代思想は今まさにその終着駅に到着寸前のところまで来ている。」(67頁)
■第四章 おとぎの国の倫理学
「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならないと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」(七六頁)
「私が今まで何らかの偏向を持ってきたとすれば、それはいつまでも民主主義を支持し、したがって伝統を指示する偏向であった。」(七七頁)
「現代を支配する唯物論は天をも摩する勢いに見えるが、しかしその根拠とするところは、実は結局のところたった一つの前提、しかも誤った前提にすぎない。何かが繰り返して起こるというのは、それが死んでいる証拠、時計仕掛である証拠と考えられている。もし宇宙に生命があり、人格を持つのであれば、宇宙は当然変化するにちがいない、もし太陽が生きているのなら、当然太陽は踊りだすはずだ―人びとはそう決めてかかっているらしい。しかしこれは謬見というも愚かな謬見というしかない。日常身辺の事実に照らしてもそれは明らかだ。人間の生活に何か変化が起れば、それをもたらすのは普通は生命ではなくて、逆に死のなせるわざである。力が衰え、欲望が絶えることこそ変化の原因なのである。」(99頁)
「自然界の繰り返しは、単なる反復とは違うのではあるまいか。実はアンコールではあるまいか。」(100頁)
■第五章 世界の旗
「人びとはローマが偉大であるからローマを愛したのではない。ローマは人びとがローマを愛したから偉大となったのだ。」(一一六頁)
「この解答は白刃の一閃のごときものであった。まさに一刀両断したのである。いかなる意味でも、感傷的にほころびを縫い合わせたのではない。一言で言えば、キリスト教は神と宇宙とを切り離したのである。神は宇宙から絶対的に超絶した別個の存在と考えること―現代のキリスト教徒の中には、この根本の理念をキリスト教から除去しようとする者があるけれども、しかしこれこそ実に、当時の人びとがキリスト教徒になろうとした唯一の理由にほかならなかったのだ。」(一三四頁)
■第六章 キリスト教の逆説
「われわれの住むこの世界で本当に具合の悪いところは何か。それは、この世界が非合理の世界だということではない。合理的な世界だということでさえもない。いちばん具合が悪いのは、この世界がほとんど完全に合理的でありながら、しかも完全に合理的ではないということだ。」(一四二頁)
「異教の哲学は、美徳は平衡にあると主張した。キリスト教は、美徳は対立葛藤にあると主張した。一見相反するように見える二つの情熱の衝突にあると主張した。もちろん、二つの情熱は本当に対立しているのではない。ただ、同時に二つながら抱くことの困難な情熱なのである。」(一六四頁)
「「自分の命を失おうとする者は命を全うするだろう」というマタイ伝の言葉は、聖者や英雄のためだけの神秘な言葉ではない。水夫や登山者のためのごく日常的な忠告にほかならぬ。アルプスの登山ガイドや教練の指導書に印刷してしかるべき言葉なのだ。この逆説こそ勇気というものの本質を言いつくしている。」(一六五頁)
「キリスト教は、まずこの二つの観念を分断し、しかる後にその両方を極端にまで押し進めた。ある意味では、人間はかつてためしのないほど誇りを高く持つべきだった。だがまたある意味では、人間はかつてためしのないほど身を低く持すべきだった。私は、「人間」であるという意味ではあらゆる被造物の長である。だが私は、一人の人間にすぎぬという意味では、あらゆる罪を犯した者の最たるものでもある。」(一六七頁)
「「自己を誇るなかれ。しかしてまた自己を卑下することなかれ」という金言なら誰にも言えたはずである。そしてこの金言は人間を縛るものであったはずである。しかし、「ここでは自己を誇ってよろしい。ここでは自己を卑下してよろしい」と言い切ること―それは人間を解き放つことだったのである。(改行)この新しいバランスの発見こそ、キリスト教倫理の重大事だった。」(一七六頁)
「正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。」(一八〇頁)
■第七章 永遠の革命
「ちなみに言えば、ニーチェの弱点もすべて実はこれにつきる。ニーチェのことを、大胆にして力強い思想家のごとく言う人びとがある。詩的で暗示的な思想家であることは否定できないが、力強いとは義理にも言えぬ。正反対である。大胆などとはとんでもない。アリストテレスにしろカルヴィンにしろ、あるいはカール・マルクスさえ、恐れを知らぬ思想の持主は、自分の主張の意味するところを、比喩の衣をはぎ取った素裸の言葉で定着し、直視した。ところがニーチェにはそれができない。いつでも物理的な比喩に頼って問題を避けて通るのだ。この点では気楽な二流詩人と同じことである。」(一八八頁)
「「進化」か、それとも「進歩」か、などと、単なる言葉の問題でかれこれ言うには及ばない。私自身は、むしろ「改造」(リフォーム)が好ましいと思う。「改造」という以上は、何らかの「構造」(フォーム)を予想しているからである。世界を、何かある特定の形に改めようと努力する意味がふくまれているからだ。つまり、われわれがすでに心の中にはっきりとした形を見ていて、世界をその形に合わせようとするわけである。」(一九〇頁)
「革命的な書物を読みすぎて、結局ただじっと座っている結果になっている。」(一九四頁)
「では、キリスト教の自然観の要点はどうかと言えば、それはつまり、自然はわれらの母ではなくて、自然はわれらの姉妹だということである。」(二〇三頁)
「すでに述べたように、世人が進歩主義者となるべき理由の一つとして挙げているのは、世の中の物事が自然によくなって行く傾向があるということである。だが、進歩主義者となるべき真の理由はただ一つ、世の中の物事は自然に悪くなって行く傾向があるということなのである。いや、物事が堕落して行くということは、単に進歩主義の最大の論拠であるだけではない。保守主義に反対すべき唯一の論拠でもある。」(二〇八頁)
■第八章 正統のロマンス
「現代がいかに喧騒に満ち、奮闘努力を要するかを嘆くのは、今日ではほぼ決まり文句になっている。けれども実は、現代の第一の特徴は底知れぬ怠惰と倦怠にある。事実はむしろ、本当は怠惰であるからこそ見かけの喧騒が生じているのだ。」(二二六頁)
「休日というものは、自由主義と同様ただ人間の自由をを意味するにすぎないが、奇蹟とは、要するに神の自由を意味するにすぎないのである。諸君の良心にかけて、人間の自由も神の自由も、二つながら否定するのは諸君の自由だ。しかしその否定を自由主義の勝利と呼ぶことは自由ではない。カトリシズムによれば、人間も神も、共にある種の精神的自由を持っている。カルヴィニズムは人間から自由を取り上げて、それをもっぱら神に委ねた。ところが科学的物質主義は、天地の創造者自身からさえ自由を奪った。黙示録が悪魔を縛ったように、唯物論は神さえも縛ったのである。宇宙全体の中に、何一つとして自由なものを残さないのだ。しかもこういう行為を助ける人びとが、こともあろうに「自由主義的」神学者と呼ばれているのだからたまらない。」
「奇蹟を懐疑することに、何かしら自由や改革に通じるものがあると考えることは、まさに文字どおり事実の正反対というものだ。奇蹟が信じられぬというのなら、それで万事は終りである。」(二三二頁)
「ここでわれわれはまたしても、キリスト教の本質にまつわるあの倦むことのない性格を発見する。現代の哲学はすべて、人を縛り、手かせ足かせをはめる鎖である。だがキリスト教は剣であって、束縛を断ち切り、解き放つ。宇宙を自己から切り放ち、生きた魂とすることを真に喜ぶ神の観念はキリスト教以外に抱きうるものではない。正統のキリスト教に従えば、この神と人間の分離は聖なるものである。なぜならそれは永遠の分離であるからだ。人間が神を愛しうるためには、人間の愛すべき神が必要であるばかりではなく、神を愛する人間の存在もまた不可欠である。…つまり、神の子が地上に来給うたのは、単に平和をもたらさんがためばかりではなく、人と人とを引き裂かんがためだというあの言葉だ(マタイ伝一〇・三四)。この言葉は、その文字どおりの意味においてもまったく真理の響きを放っている。神の愛を説く者は、必ずや憎しみを生まずにはおかぬという意味である。」(二四一頁)
「われわれが民主主義を尊重し、西欧の自己革新のエネルギーを尊重するとすれば、古い神学にこそこれらを発見できるのであって、現代流の新しい神学に見出すことはまずできない。改革を求めるのなら、正統に固執しなければならない。」(二四四頁)
○三位一体の教義
「…というのも西欧の宗教においては、「人間がただ一人でいることはよろしくない」という観念がいつも鋭く感じられてきたからだ。…三位一体を信じるわれわれにとっては、神ご自身がすでに一つの社会を構成しているのだ。」(二四六頁)
「キリスト教はすべて、岐路に立った人間に集中する。」(二四八頁)
「現代では、キリストの神性をできるだけ小さく見つもろうとしたり、人間的あるいは「科学的」に説明しようとしたりする試みがよく見られるが、この場合にも、今まで述べてきた事実はやはり事実として当てはまる。こういう説明が正しいかどうか、それは後で論ずることにする。だが、もしキリストの神性が事実であるとすれば、この神性が恐ろしく革命的であることもまた事実である。正しい人間が窮地に陥ることもあるということなら、われわれにもことさら珍しいことではない。けれども神が窮地に陥ることがありうるなどということは、どんな反逆者が主張するにしても恐るべき傲慢の言と言うべきだろう。神が単に全能であるだけでは完全ではないと感じた宗教は、地上の宗教多しといえどもキリスト教をおいてほかにはない。神は、完全に神であるためには、王であるばかりでなく反逆者でなければならぬと感じた宗教は、地上のあらゆる宗教のうちキリスト教以外には一つとして見当たらぬ。すべての宗教のうちキリスト教のみが、天地の創造者の徳のうちに勇気をつけ加えたのである。およそ勇気の名に値する勇気とは、魂のまさにくず折れようとする瞬間を経験し、しかもなおくず折れぬことを意味するはずである。」(二五一頁)
■第九章 権威と冒険
「キリスト教とは、一個の超人間的なパラドックスであって、これによって二つの相対立する情熱が、お互いに相並んで燃えさかることのできるものなのだ。福音書の文体を真に説明できる唯一の説明は、これが、何か超自然的な高みから、何かさらに驚倒すべき矛盾の統合を見守っている者の言葉だということ以外にはないのである。」(二六九頁)
「宗教について本当の議論をしようとすれば、それはいつでも、逆様に生れついた人間は、もし正常に帰った時、はたして自分でそれがわかるかどうか、という問題に帰着する。そもそもキリスト教の最大のパラドックスは、人間の尋常の状態が、人間の正気にして正常な状態ではないと主張することだ。正常自体が異常だとすることだ。それこそ原罪ということの真意にほかならぬ。」(二九〇~二九一頁)
「第一の、「お前はいったい何者であるか」という問には、私の考えついた答えはただ、「そんなことは知るものか。神様だけがご存知だ」というのであった。第二の質問―「それでは、人間の堕落とは何を意味するか」にたいしては、私は真から真面目にこう答えたものである―「私がそもそも何者であろうと、私は実は私自身ではない。」これこそわれわれの宗教の最大のパラドックスというものだ。われわれが本当の意味では一度もわからなかったあるものが、単にわれわれ自身以上のものであるばかりではなく、われわれ自身よりもさらにわれわれ自身にとって本然のものですらあるのだから。そして、これが正しいかどうかを決める手がかりは、結局のところ、本書の冒頭で示したあの単純な実験しかない―つまり、気ちがい病院の独房か、それとも開かれた扉を出て行くかという実験しかないのである。私が知的な解放ということを本当に知ったのは、正統の何たるかを知ってからのことだった。」(二九一~二九二頁)