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Shota Maehara's Blog

Archive for 2013年2月

キリスト者とは誰か

Posted by Shota Maehara : 2月 28, 2013

img_1493959_52831216_0 「キリスト者とは誰か」――改めてこの問い掛けを自分に向けてみると、その答えは単純でありながらも深いものであることに気づかされます。「キリスト者」とは、「キリストに属する者」あるいは「キリストに従う者」でしょうか。この名称は、最初は外部から与えられたものであって、イエス・キリストの道を歩む者たちが自分たち自身を指すために使い始めたものではありません。しかもそれは蔑称的なものであったようですが、後に、彼らはむしろそう呼ばれることを誇りに思い、自分たちの方から用いるようになったようです。それ以前、キリスト教は「この道」(使徒言行録9・2)と呼ばれ、それゆえ、紀元43年ごろ、シリアのアンティオキアで、イエスの道に従う人々が「キリスト者」と呼ばれるようになったと言われます(同11・26)。

一人の人間がどのようにしてキリスト者となるのか――聖書はそのことについて、さまざまな召し出しの場面を描いています。例えば、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1・17)――そう言ってイエスは、湖で網を打っていたシモンとその兄弟アンデレを招きました。パウロの召命は劇的です(使徒言行録9・1-19、22・6-16、26・12-18)。「わたしが選んだ器」(使徒言行録9・15)として、イエスは自分を迫害していたパウロを有無を言わせず捉えます。その他にも、たとえ聖書には記されてはいなくても、多くの人びとがそれぞれのイエスとの出会いを体験したことでしょう。

イエスと弟子との関係は、極めてユニークなものでした。まず、弟子が師を選ぶのではなく、師が弟子を選びます。弟子となる者は、「一切を捨てること」(ルカ14・33)、すなわち、凛とした覚悟が求められます。その意味で、キリスト者となることは、確かに「狭い門」(マタイ7・13)であり、自分を捨て、日々、自分の十字架を担いながらイエスに従うことが求められます(ルカ9・23)。しかし同時にまた、イエスと労苦を共にする者は、その喜びにも与ります(二コリント7・4参照)。
真のキリスト者となること、それは決して、一時的な感情の高まりや無分別な判断によるものではありません。ある種の落ち着きが必要です。単純で素朴な心でイエスのことばを聴いて悟り(マルコ7・14)、腰を据えて(ルカ14・28、31)、彼の招きに応えることが大切です。しかしそれは、私たちのうちに常に揺ぎない確信があるというわけではありません。私たちは弱く不確かな存在であり、たとえ誠実であろうとしても過ちを犯し得る存在です(ローマ7・15参照)。しかしそれでも、イエスの真心に自らを託したい、その心に偽りはありません。パウロが語るように、神は「世の無力な者」(一コリント1・27)を選ばれます(申命記7・7参照)。自分の弱さ、あるいは自分が取るに足りない者であることを謙虚な心で認めるとき、私たちは真のキリスト者となる一歩を踏み出すことができるのではないか、そう思います。

http://seseragi.jesuits.or.jp/sasage/0710-1.htm

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FOOTPRINTS(あしあと)

Posted by Shota Maehara : 2月 12, 2013

FOOTPRINTS

One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
“Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I’m aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don’t understand why, when I needed You most,
You leave me.”

He whispered, “My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you.”

copyright(C)1964 by Margaret Fishback Powers

footprints

あしあと
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワーズ
translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association

 

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いつくしみ深き(賛美歌312番)ーWHAT A FRIEND WE HAVE IN JESUS

Posted by Shota Maehara : 2月 11, 2013

WHAT A FRIEND WE HAVE IN JESUS

作詞: Joseph Scriven (1820-1886)
作曲: Charles Converse (1834-1918)
What a friend we have in Jesus, all our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry everything to God in prayer!
O what peace we often forfeit, O what needless pain we bear,
All because we do not carry everything to God in prayer.

Have we trials and temptations? Is there trouble anywhere?
We should never be discouraged; take it to the Lord in prayer.
Can we find a friend so faithful who will all our sorrows share?
Jesus knows our every weakness; take it to the Lord in prayer.

Are we weak and heavy laden, cumbered with a load of care?
Precious Savior, still our refuge, take it to the Lord in prayer.
Do your friends despise, forsake you? Take it to the Lord in prayer!
In His arms He’ll take and shield you; you will find a solace there.

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて
などかはおろさぬ 負える重荷を。

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ。
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん。

いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて いたわりたまわん。

「日本基督教団讃美歌委員会著作権使用許諾第2414号」

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「時」と「心の傷」が他人の苦しみを癒す-『東京家族』から『東京物語』へ

Posted by Shota Maehara : 2月 5, 2013

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昨日私は山田洋次監督の『東京家族』を観に行きました。なぜなら、お世話になっている方々から是非観た方が良いと薦められたからです。私は大の小津安二郎ファンでしたので傑作『東京物語』の現代版リメイクということで期待と不安をもって出かけました。結果から申し上げますと駄作でしたが、それにも一定の効果があるものです。つまり、原作の素晴しさがコントラストの中でなお一層浮き立つということです。それによって、私は小津安二郎の『東京物語』こそ今も現代人の胸を打つ傑作だと考えるようになりました。ではそれはなぜでしょうか。それをこれから両者の比較も織り交ぜながら説明していきたいと思います。

まず、私が原作『東京物語』に感動し、筆をとるのはこれで三度目です。私はこれまで「時間」というテーマでこの作品の素晴らしさについて書いてきました。この作品にあるのは二つの時間の流れです。一つは尾道という田舎の時間。そして、もう一つは、東京という都会の時間です。言うまでもなく、前者はゆっくりとした時間の流れであり、後者はせわしない時間の流れです。尾道から両親が東京にいる大人になった子供たちに会いに来る出来事によって、この二つの時間が交差します。その結果、息子たちは皆仕事で両親の相手をしてやることができないのです。両親は何となく疎外感を感じますが、そんな彼らを東京見物に連れて行ってくれるのが戦争で死んだ長男と結婚した義理の娘・紀子です。両親は奇妙なことに実の子供たちよりも元は他人であるこの義理の娘の親切な行為から、いたわりや愛情を感じます。

34dfdd6bced36a877a52c7dac5c8475f戦争未亡人の紀子はいわば過去の時間に属する人です。なぜなら、大切な夫が戦争で死んでしまった日から時間が静止しているからです。だからこそ、戦後の高度経済成長を迎えているテンポの速い東京で、唯一尾道から来た両親と時間を共にすることができたのです。彼女にとって両親は無情に過ぎていく時間の中で自分の夫を思い出させてくれるいわば過去に属する存在だったのかもしれません。このことが奇跡的にも心の交流を東京の中で可能にさせたのです。私はかつて聖書的な観点から、お金ではなく、自分にとってかけがえのないもの、つまり人生の時間を犠牲にして、他人と一緒に時を過ごし、話に耳を傾けるということこそが愛(アガペー)であると主張しました。言い換えれば、他者と時間を共有することの中に愛(アガペー)があり、それがこの映画のテーマだと主張しました。ただし、『東京物語』の本当の魅力は語り尽くせていないとも考えていました。

しかし、ふと山田洋次監督の『東京家族』を観ていた時、その語り尽くせていない大事なテーマが分かったような気がしました。山田洋次監督の現代版では、戦争未亡人の紀子の代わりに、フリーターの次男昌次と震災のボランティアで知り合った紀子を登場させていますが、観ているとどうもちぐはぐな印象を受けます。なぜなら、なぜ彼らだけが両親と心の交流が生まれ得たのかという決定的な根拠が時間以外に見当たらないからです。

確かに山田洋次監督は、フリーターの昌次に将来への不安を語らせ、紀子という支えによって自立していこうとする若者の姿を温かい眼差しで描いています。昌次は彼女を仲立として、母親と心の交流を深め、やがて長年わだかまりのあった父親とも和解するという形でドラマは終わります。ここに山田洋次監督が一貫して描いてきた社会から疎外されてきた存在に大切な役割を与えるというモティーフを垣間見ることができます。おそらく、実家から上京してきて居場所がないと感じる老いた両親と家族や社会から居場所が無いと感じているフリーターの青年を向かい合わせることで山田監督は両者の心の交流を可能にしようとしたのでしょう。

東京物語それにもかかわらず、原作である小津安二郎の『東京物語』と比べ、作品の深さというものがあまり感じられません。まるでテレビで放送されている連続ドラマを見終わったような浅い感動しか呼び起こしません。では、それはなぜなのでしょうか。

私はここに小津安二郎監督の『東京物語』のもうひとつのテーマが浮かび上がってくるように感じます。つまり、原作で妻に先立たれ故郷にひとり残された父親の心の痛みに義理の娘・紀子だけが時間をとって寄り添えるのは、彼女もまた愛する夫を失ったという「心の傷」があるからなのです。一見すると実に不思議なことですが、私たちは自分の強さや成功を分かち合うよりも、自分の弱さや失敗を分かち合い、深い同情を寄せることによって、相手を真に癒すことができるのです。これは一種の「逆説」(パラドックス)だと言っていいでしょう。新約聖書は次のように私たちに教えています。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」-コリント人への手紙 第二 1:4

もちろん比較することは不毛かもしれませんが、私は原作で紀子が戦争で心の傷を抱えていたからこそ、逆説的に妻を失った義理の父と真にいたわりのこもった心の交流ができたのだと思うのです。この映画が持つ深い感動の奥底に何か観ている私たちをを癒すような力があるように感じるのはそのためなのではないでしょうか。

■参照

現代人にとって愛とはなにか―『東京物語』(小津安二郎)が語るメッセージ

『東京物語』試論―「時間」の共有をめぐって

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