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Shota Maehara's Blog

Archive for 2011年10月

ボンヘッファー「安価な恵みと高価な恵み」について

Posted by Shota Maehara : 10月 10, 2011

ベルゼブル論争
2009年9月27日
ヨナ書3章1~10節、ルカによる福音書11章14~36節
松本雅弘牧師

1.イエスに対する2つの批判
 ある時、イエス様は、口を利けなくする悪霊を、ある人から追い出されました。その出来事を見た群衆の中に2つの反応が起こりました。反応の1つは、悪霊の頭ベルゼブルの力によって、手下の悪霊どもを追い出したのだと言って、イエスこそが悪霊の頭だとする非難です。もう1つの反応は、イエス様がキリストであることを決定付ける確かな「しるし」を求める要求でした。

2.ベルゼブル論争
 第1の非難に対してイエス様は、「内輪もめ」する国は滅びるのだから、たとえ悪魔の国であっても、頭と手下どもで争いを起こすはずがないのだ、とお答えになりました。

 また、この時代には、宗教家たちの中に、悪霊を追い出す働きをしていた人々がおりましたから、同じことをしている彼ら宗教家たちに対しても、自分に向けたと同様に「ベルゼブルによって悪霊を追い出しているではないか」と、批判しなければならないのではないか、とも反論されました。 そうした上で、イエス様が「神の指」で悪霊を追放しているという現実を「強い人が武装して屋敷を守っている状況」にたとえながら、悪霊たちよりももっと強い者であるイエス様が来られた今、サタンの支配に、ほころびが生じているのだ、とお語りになったのです。

3.天からのしるし
 2番目の「もっと決定的な天からのしるしを示して欲しい」という投げかけに対するイエス様の答えはどうでしょう。

 この聖書の箇所を詳しく見てみると、この答えは2種類の人々に向けて語られていることに気づきます。1つは、群衆の中に混じってイエス様を非難する敵対者たちに向けての言葉。もう1つは、イエス様の弟子に対して語られている言葉です。

 ここで主イエス様は、「ソロモンにまさるもの」、「ヨナにまさるもの」と言っておられます。平仮名で「もの」と書かれています。これは、原文のギリシャ語でも中性形で書かれているのです。つまりイエス様が、「ソロモン、ヨナにまさるもの」という言葉を使って表したかったことは、「ソロモン、ヨナにまさる者」という人物ではなく、神様の指によって神の国がすでに来たという事実そのものだったのです。

 イエス様は、このように歴然とした神の国の「しるし」が、すでに与えられているというのに、なお悔い改めようとしない敵対者たち、いや、悔い改めない悪い時代には、イエス様の働き自体が、彼らを「罪に定める」という、裁きしかもたらさないだろうと言われたのです。

 次に、光と闇の概念を用いて、弟子たちにも教えておられます。その中心は、神の国のメッセージを注意深く聴くように、また、それを現して生きるようにということでした。

 イエス様の時代に、自らを「光の子」と呼び、隠遁生活をするグループがありました。また自分たちは「見える」のだと、全く安心しきっているユダヤ教徒たちもいたのです。

 しかし、ここでイエス様は、そうした「光の子」を自称する宗教グループや、当時のユダヤ教徒たちだけにではなく、すでに、光に照らされて光の子とされた弟子たちに対して語っているのです。

 
 それは、弟子たちには、まだ光なるキリストに出会っていない人々に対して証し人となる使命があるのだと説き、さらには、光と出会った後にも、信仰を棄て、堕落に陥るような危険があるのだという警告を語っておられるのです。最後に、それらを総括するように、「全身が明るく」なること、「全身が輝いている」こと、つまり、光に照らされて、光のうちを歩むようにと勧めているのです。

4.安価な恵みと高価な恵み―決断を迫るイエス様
今日与えられた聖書箇所から学んできました。この一連の教えの中心は何でしょう。

 それは、イエス様がメシアとして来られたことによる、神の国の到来という恵みの現実の前で、今こそ決断の時なのだ、とイエス様ご自身が問うておられるのだということです。ひと言で言えば、評論家のようなところに立って、どっちつかずの傍観者の態度は許されない、ということでしょう。

 
 主イエス様は、今、目の前で教えを聞いている人々に向かって、行き場がなくなった汚れた霊が戻って住み着く、空き家同然の人としてではなく、全身を神様の指に向けて明け渡すようにと、鋭く、迫っておられるのです。

 私たちは、こうした主の御言葉の前で、もう一度、自己吟味をさせていただきたいと思うのです。私は、つい最近、ナチドイツに対する抵抗運動で殉教した神学者ボンヘッファーの言葉が心に浮かぶ経験をしました。

 彼の著作の中に、『キリストに従う(服従)』という本があります。その中で「安価な恵みと高価な恵み」ということを対比しながら、聖書の教える本当の恵みついて、次のように述べている「くだり」があります。

「安価な恵みは、われわれの教会にとって許すべからざる宿敵である。われわれの戦いは、今日、高価な恵みをめぐって、くり広げられている。安価な恵みとは、投げ売り品のような恵みである。投げ売りされた赦し、投げ売りされた慰め、投げ売りされた聖礼典のことである。それはまた、教会の尽きることのない貯蔵庫のようなものである。恵みが手軽にはばかるところなく、際限もなく、ぶちまけられる。それは、とりも直さず、代価のいらない、コストのかからぬ恵みのことである。・・・安価な恵みとは、教理としての恵み、原理としての恵み、体系としての恵みのことである。・・・この世は、みずからの罪を悔いることもなく、ましてや罪から解放されたいと願うのでもないのに、この[恵みの教理をもつ]教会の中に、彼らの罪の安価な隠蔽を見出すのである。・・・安価な恵みは罪の義認であって、罪人の義認のことではない。じっさい、恵みがいっさいのことをひとりでやってくれるから、いっさいは依然として旧態のままにとどまることができるのである。・・・安価な恵みとは、われわれが自分自身で手に入れた恵みである。・・安価な恵みとは、主に従うことなき恵みであり、十字架なき恵みであり、生けるイエス・キリストなき恵みである。

 高価な恵みは、[福音書のイエスのたとえのように]畑に隠された宝である。そのためには、人間は出かけて行って自分の持ち物を全部喜んで売り払うのである。それは、値段の張る真珠であって、その支払いのために商人は自分の全財産を犠牲にする。・・・さらにそれは、イエス・キリストの招きであって、それを聞いたとき、弟子たちは網を捨てて従うのである。高価な恵みは、繰り返し求められねばならない福音である。それは、祈り求められねばならない賜物であり、叩かれねばならない扉である。それは、服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。それは、人間の生命をかける値打ちがあるゆえに高価であり、またそうすることによって人間に初めて生命を贈り物としてあたえるゆえに恵みである。」(『ボンヘッファーを読む-反ナチ抵抗者の生涯と思想』、宮田光雄著)

 ここでボンヘッファーが「安価な恵み」と「高価な恵み」という2つの言葉を使いながら、聖書の恵みの意味を説き明かしています。その対称の中で示されているのは、神様の恵みに対する私たちの服従の有無、服従があるかないかということです。

 ボンヘッファーは、服従のない恵みは安価な恵みであり、聖書の福音ではない、と語ります。私は、この言葉を読み返して、今日、示されたキリストの言葉と響き合うように思ったのです。

 聖書に戻ります。27節には、人々に向かって語っておられるイエス様に感動したある女性が、声高らかに、「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」と言ったことが記されています。これほどの力を帯びた息子を持つ母親マリアは何と幸いな人でしょう、と言いたかったのだと思います。私たちも、表現は違いますが、そのような幸いを求めているのではないでしょうか。出来のよい息子を持つことは母親の誇りでしょう。そして、それは素晴らしいことです。しかし、それらを追い求めて生きる私たちに対して、キリストは服従することこそ、本当の幸いなのだと、26節で「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われました。

 自分自身、御言葉を聞き、それを守る人であるかどうかを、もっと基本的なこととして、私はキリストの弟子として、御言葉を聞く生活にあるかどうかを、もう一度、自己吟味し、26節で語られるイエス様の言葉に込められた、クリスチャンとしての本当の幸いにあずかる私たちでありたいと願います。お祈りします。

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The man who Planted trees / Frédéric Back

Posted by Shota Maehara : 10月 10, 2011

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一八四八年の同時代性―カール・マルクスとセーレン・キルケゴール、そしてふたたびカントへ

Posted by Shota Maehara : 10月 5, 2011

一九世紀における時代閉塞の現状に対して、共産主義者のマルクスとキリスト教者のキルケゴールは別様の答えを出したように見える。前者はプロレタリアートの団結を呼びかけ、他方、後者は真に神の前で一人の個人になりきる決断を説いたからである。しかし、哲学的にとらえれば、両者の「プロレタリアート」と「キリスト者」の位置づけは非常に近いことに気づく。いずれも、逆説的に、社会の中から完全に排除され、残余でしかなくなった者だからこそ、はじめて普遍的な立場に立てるのだという理論構成になっている。

これはカントを通して見ると分かりやすい。カントは理性の私的使用と公的使用の意味を通常とは逆転して用いている。例えば、普通は一国の国務大臣は公人と呼ばれ、対して民間人は私人と呼ばれる。しかし、理性の使用という観点から見れば、いささか事情が違ってくる。なぜなら、一国の国務大臣はあくまで自国の国益を優先して考え行動するという意味で私的であるのに対して、一個人は自らの理性を世俗的なしがらみを断って普遍的な世界市民的な観点から使用できるという意味で公的であるからだ。

こうした見方からすれば、社会のあらゆる紐帯から絶縁された(uncoupling)者こそ、まさしく、プロレタリアでありキリスト者であり、残余である彼ら、この地球上のエイリアン(異邦人・寄留者)であるような存在の彼らだからこそ真に普遍的に思考し、普遍的な利益のために行動することができるのである。

※一応ここまでの意見ならば認めてもよい。ただし、教育もない者が果たして理性を正しく使用できるのかは未知数であるし、真に神の前で単独者として立ち、神の声を聴く事ができるものが何人いるかもわからない。むしろ、いかにそれができるのかこそわれわれが考えなければならない探求の場であると思われる。

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ウォール街デモ 約500人拘束

Posted by Shota Maehara : 10月 2, 2011

アメリカの金融の中心地、ニューヨークのウォール街で、失業率の高さや政府の経済政策に抗議するデモが広がっており、1日、デモ隊が近くの橋の車道を占拠し、およそ500人が拘束されたほか、橋の一部が数時間にわたって閉鎖される事態になりました。

ウォール街では、2週間前から失業率の高さや政府の経済政策に抗議するデモが広がっており、1日は若者や労働組合のメンバーなど1500人ほどが参加しました。デモ隊の一部は、マンハッタンからブルックリン地区にかかる「ブルックリン橋」に向かい、歩道から車道に出て行進したり占拠したりして、ニューヨーク市警察によりますと、道路の交通を妨害したなどとして、およそ500人が拘束されました。この混乱で、橋の一部が数時間にわたって封鎖されましたが、現地時間の午後8時すぎ(日本時間の2日午前9時すぎ)に通行止めが解除されました。デモ隊の拠点となっている公園には、貧困問題や銃規制などアメリカ社会の問題をテーマに映画を製作してきた映画監督のマイケル・ムーアさんも激励に訪れるなど、ニューヨーク、ウォール街のデモに全米の注目が集まっています。(NHK

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