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Shota Maehara's Blog

Archive for 2011年12月

アドルノに関するノート7―文化のヤヌス的性格

Posted by Shota Maehara : 12月 15, 2011

快感原則の彼岸

 厳密なセックス理論(精神分析)の商売上手な修正主義者たちはフロイトに温情の欠けていることを指摘するが、フロイトの抑圧的な面はそうしたこととはまったく無関係である。職業上の温情は、金儲けのため、一面識のない間柄でもわけへだてのない親密さを装うことになる。それは被害者たる患者を欺いている。なぜなら、彼の弱点に乗じつつ、彼をそんな人間にした世の動向を是認しているからである。また真理から後退しているその分だけ、患者に不正を働いている。もしこの種の温情に欠けていたとするなら、フロイトはその点においてすくなくとも国民経済学の批判者たちの同類ということになるのであり、タゴールやヴェルフェルの同類より、この方が上等なのである。フロイトにあって致命的なのはむしろ次の点だ。ブルジョア・イデオロギーに反する唯物論的立場から意識的行動を無意識の衝動の根にいたるまで追求しながら、反面では衝動を軽蔑するブルジョアに同調していることで、この軽蔑は彼が分解してみせた合理化の産物に外ならないのである。
 
 彼は「とどのつまり利己的な性目的より、社会目的を高く見る…一般の評価」に従うと、『精神分析入門』のなかではっきり公言している。心理学の専門家たる彼は、社会的と利己的という対立の図式をよく検討もしないでそのまま受け入れているわけだ。つまりこの対立のなかに、抑圧的な社会の仕業や、彼自身が仔細に描き出したまがまがしいからくりの痕跡を認めようとしないのである。というよりこの点において理論をもたぬ彼は、一般の偏見に順応しつつ、衝動の断念を実情にそぐわぬ抑圧と見て否定すべきか、それとも文化を推進する昇華と見なして称揚すべきか、いずれとも決めかねて迷っているのだ。この矛盾のなかには客観的に文化そのもののヤヌス的性格のいくぶんかが反映しているのであり、どんなに健全な官能を礼賛してみても、この矛盾だけは取り除くことができないと言ってよい。

 ただフロイトにあっては、分析目的のための批判的尺度が価値の低下を来たすという結果がそこから生じている。蒙昧のあとをとどめるフロイトの啓蒙はひそかにブルジョアの幻滅に手を貸しているのである。時期おくれに偽善の敵となった彼は、抑圧された人間をおおっぴらに解放しようとする意志と、おおっぴらな抑圧を弁明する立場の、板挟みになっている。理性は彼にとってたんなる上部構造である。もっともその原因は、公式哲学が彼について非難しているように彼の心理主義にあるのではない。彼の心理主義には真理における歴史的契機を探り当てるだけの深みがある。原因はむしろ、手段としての理性がそれによってのみ理性的であることを証拠立てられる意味に疎遠な没理性的な目的を彼が排斥しているところに求められるのであって、その目的とはすなわち快楽である。

 快楽のなかには自然への隷属状態を超える要素が含まれているのだが、その要素を無視して快楽そのものを軽視し、種の保存のトリックのなかに数え入れ、それ自体を一種狡猾な理性に見立てるようになれば、いきおい理性(ラチオ)も合理性(ラチオナリジールング)の次元に成り下がってしまうのだ。そして真理は相対性に委ねられ、人間は権力に委ねられるのである。盲目の肉体的な快楽は、それ自体にはなんの志向もないのに最終的な志向を充足させるものであるが、そうした快楽を手がかりにユートピアを測定できる者だけが確乎たる真理の理念にあずかることができると言ってよい。

 ところでフロイトの仕事のなかでは精神と快楽に対する二重の敵意が心ならずも再生産されているのだが、その共通の根を認識する手段は外ならぬ精神分析によって与えられているのである。わたしたち人間が天使や雀に任せっ放しにしている空について語ったセールスマンの金言の甲羅を経た御老体の賢(さか)しら顔に引用している「幻想の未来」の箇所と、甘い生活を送る有閑階級の倒錯した行状を戦きながら弾劾している『入門』の条(くだ)りとは、一対をなしている。実際、快楽にも天国にも嫌気がさすように仕向けられた連中は治療の対象としてまことにお誂え向きの存在なのである。

 分析の成功した患者にしばしば見受けられる空疎な感じや機械的な様子は、彼らの病気の所為(せい)だけではないのであって、解放しつつ解放したものを傷めつける治療法にも一端の責任があるのだ。有効な治療法として評判の高い転移(Ubertragung)は―その解決が分析作業中の難関になっているのも無理のない話である―かつて献身的な人間が幸福にもわれ知らずに行った自己抹殺を不吉にも本人の意志で行うという理詰めで考え出された情況なのであり、のちに総統に従って徒党を組み、あらゆる精神とともに精神を裏切った分析家たちをも粛清した、一種反射的な行動様式の原型ともなっているのである。

テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』(三光長治訳、法政大学出版、一九七九年、七七~八頁)

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「神」なき時代の神学

Posted by Shota Maehara : 12月 4, 2011

神学はあらゆる時代を超えて生き続ける。いかなる数学的論証がなされようとも、
それによって限界されるようなものではない。なぜならそれは無限であって、同時
に有限であるイエス・キリスト、あるいは人間そのもののもつ超越論的な次元に
かかわるからである。

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