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Shota Maehara's Blog

Archive for 2008年9月

日本における自由政治評論の試み

Posted by Shota Maehara : 9月 29, 2008

1.

私は大学時代ある教師から掛けられた思いがけない一言を今も忘れることができない。いわゆる不真面目な学生であった私にとって大学の単位を終了する最大の鬼門は、何といっても語学のカリキュラムの多さであった。第一外国語である英語はもとより、第二外国語を習得しなくてはならない。それがほぼ毎日続くわけだが、大学の語学はなぜか朝一の授業がきわめて多い。

大学入学以来不健全な生活にかけては学内でも一、二を争う私は当然、朝の時間には間に合わず試験を受けるどころか、出席数が足らずにあえなく毎年落とされていた。そして、今年こそはと決意した四年の春、二年生に交じってあたかも同級生である顔をして授業を受け始めた。それは女子学生が大半を占めるフランス語の授業でのことであった。

当初ドイツ語の固い雰囲気になじめなかった私は、途中からフランス語に変更して授業を受けていた。それでも二回も単位を落としていたため、試験間近になると胃がきりきりしてきた。フランス語の授業は私にとって一種のトラウマになっていた。それでも三度目の一夜漬けで、何とか順調にパスし続け、いよいよ最後のリーディングの試験へ臨んだ。

しかし、このリーディングの試験こそは最後の難関であった。なぜなら、この科目の女性講師が出席を取らないのを良いことに、私は授業を休みがちだった。そのため学習した内容に所々空白があった。そんな時、天の助けとも言うべきか、他の女子学生の懇願が聞き届けられ、試験には辞書とノートの持ち込みが許されることになった。実際私は、ノートなどまともに取っていなかったが、前日に試験に出そうな所を片っ端から調べつくしてノートに書き込んでおいた。

いざ、試験が始まるとそれまで心配は杞憂であることがすぐに分かった。試験はかなりリラックスした雰囲気で始められ、二、三枚の簡単な問題用紙が配られた。試験は無事一件落着し、ほっと安堵の溜息をついていると試験問題を回収しながら先生は、私たちにこう言われた。

「どう、みんなできましたか?」

「試験なんて大したものじゃないでしょ。もっと気楽に構えなさい。」

「人生はね、適当に生きるくらいが良いんですから。」

2.

何度か授業に出て知っていたことだが、先生は日本の大学を出て、ソルボンヌに留学された。そしてフランスが好きで、そこに居つきとうとう十年位の時を過ごした。彼女はそこで見聞きしたソルボンヌの学生の話を合間に挟んだ。フランスでは学生はかなり優遇されている上、寮などが完備されているので古いながらも安く生活できる。だから彼らの中には結婚して、子供までいるのに学生の身分のままでいたりする。随分のんびりした生活だなと思うと同時に、そこには学問や芸術を生み出す自由な余地が社会に残されているなと強く感じたものだ。彼女もそういう自由な雰囲気に強く惹かれたのだと思う。

「人生は適当に生きたらいい」という言葉の重みを本当に理解できる日本人が一体どれほどいるだろうか。個人の自由や言論の自由が自分勝手なものと同一視されている日本社会にとって、「自由」とは何を意味するだろうか。人間は、一人で考え、判断し、それに基づいて行動するからこそ、その結果については誰にも責任転嫁できない。だから、実は個人として考え生きることは時としてとてもつらく、責任が重い。その孤独と責任に個人は耐えていかなければならない。翻って、みんが言っていることを自分も一緒になって言っていれば、楽であるし、心の安らぎが得られる。万が一その意見が間違っていた時も、自分が責任を負わなくても済む。どうせみんなが間違っていたのだからと。これでは自己責任とは無縁である。

だから今の日本に足りないのは、公共心という言葉の下にみんなに合わせて生きるという楽な道ではなく、、逆に個人の自由を確立するという厳しい試練を自らに課すことなのである。西欧は二百年の伝統によって、こうした考えを自らの頭と体に血肉化してきた。実は私は、アメリカ社会をはじめ、アジア社会の民主政治の混迷や不安定の根源には、こうした個人の確立に基づいた自由政治が衰退もしくは不在であることに起因すると考えている。

3.

では民主政治と自由政治の違いとはなにか。イギリスの政治評論家ウォルター・バジョットは、その違いを次のように説明している。

自由政治は自治である。すなわち国民が、国民によって統治することである。この種の政治の中で最良の政治は、国民が最良であると考える政治である。もちろんイギリス人のインド支配に見られる圧制的な政治といえども、善政を行う可能性は大いにある。その政治は、被支配民族よりもいちだんと優秀な民族の考えを表明することもありうる。しかし、それゆえに、それは自由政治ではない。自由政治というものは、国民が自由意志によって選択した政府に服する政治である。ばらばらの民衆が偶然的に集まってつくる自由政治は、たかだか民主的な政治にしかなりえない。他人のことを知らないし、気にかけないし、尊敬もしないという場合には、すべての人間が平等であるにちがいない。その場合、誰の意見も、他の意見より有力であるということはない。しかしすでに明らかにしたように、尊敬心をもった国民は、独自に政治構造をつくっている。そこでは特定の人々が、共通の同意によって他の人々よりも賢明であると考えられている。またその意見は、同意によって計数的価値を越えた大きな価値を認められている。――バジョット『イギリス憲政論』(世界の名著60、中央公論社、p.193-4)

 

上記のバジョットの指摘を簡単にまとめると次のようになるだろう。

[1]自由政治=他者の優越を認め、優れた他者を尊重する考え→良いものは良いと認めることのできる政治

[2]民主政治=すべての人は平等であるという考え→誰も、自分の意見以上に優れているとは認めない政治

 

バジョットは他者に対する「尊敬心」を欠けば、民主政治は必ず堕落すると警告する。なぜならば人を尊敬する心がなければ、我々を導く指導者もまた尊敬心を欠いた人気取りとなる恐れがあるからだ。たしかにバジョットはあくまで保守主義的な立場から発言している。それゆえ、彼は民主政治よりも貴族政治を追慕している。しかしそれ以上に重要なのは、彼が世界で最も個人の自由が確立した国イギリスの自由主義(リベラリズム)の伝統に立っていることである。

他者に対する尊敬心は、自由主義のアルファでありオメガである。なぜならば、個人の自由を誰よりも重んじる人間は、他者の自由を踏みにじり、彼の人生に介入することはしてはならない越権行為だと考えるからである。本人の人生である以上最後に決めるのはその本人自身である。したがって、相手がいかに自分と異なる思想や信条を抱いていようとそれを認めた上で議論し合うことができる。これこそが議会政治の根本を支えている自由主義の思想なのである。

4.

いま、日本だけでなく世界の民主政治は危機を迎えている。あらゆる国家は、その採用している政治形態にかかわりなく、ファシズムや独裁へとすべり落ちる危険性を抱えている。これはナチスドイツやソ連のスターリニズム、そして日本の天皇制軍国主義、そしてイスラムの原理主義やアメリカの超大国化を見ても明らかである。この根幹には権力や暴力によって他者の存在を抹殺しようとする反自由主義的な考え方が潜んでいる。私のこの評論は、自由主義の立場から論陣を張り、揺らぎつつある市民社会の根幹である個人の自由を日本に再導入しようとする試みの一つに他ならない。

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「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始め也」「身を立て道を行い、名を後世に挙げ、以て父母を顕すは孝の終り也」(孔子)

Posted by Shota Maehara : 9月 26, 2008

「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕はすは、孝の終りなり。それ孝は親に事(つか)ふるに始まり、君に事(つか)ふるに中し、身を立つるに終る。」(孝経)

(現代語訳)わが身体は両手・両足から毛髪・皮膚の末々に至るまで、すべて父母から頂戴したものである。それを大切に守っていわれもなくいたみ傷つけないようにする。それが孝行の始めなのだ。立派な人物になり、正しい道を実践し、名を後の世までも高く掲げて、それで[あれは誰の子よと]父母の名を世に広くかがやかせる。それが孝行の終わりなのだ。いったい、孝行ということは、家にいて親に事えることが始まりで、家を出て君に事えるのがその中間で、[孝と忠とを全うして]立派な人間になるのが終わりなのだ。 )

この言葉で孔子が言わんとしたことは、フロイトが言った「死の欲動」と呼ばれる人間の「攻撃性」にかかわっている。

人間の攻撃性は、外へ向かえば他人への暴力になるが、それが自己に向かうとき責めさいなまれるような自責の念になる。これは一種の強迫神経症である。

例えば、親への反発から現代の若者が自分の体に刺青やタトゥーを入れたり、リストカットしたりするケースを見ればよくわかる。

これに対して孔子はこの自分の身を傷つけるという生物学的エネルギーを、身を立て、名をあげることによって社会学的なエネルギーに昇華(負のエネルギーを正のエネルギーに転化)させるべきだと考えた。これは基本的に20世紀のフロイトの精神分析の処方と異なるものではない。こうした孔子の洞察力にあらためて驚嘆せざるを得ない。

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白鳥

Posted by Shota Maehara : 9月 25, 2008

 

 

一篇の詩ができるためには、空気の無い、それゆえ、無音の空間を横切らねばならない。

 

あたかも神聖な祭壇を前にした時のように、暗闇の中にこうべを垂れる。

幽かな風のざわめき、蟲の鳴き声、物の擦れ合う音が支配する夜の闇。

全身が耳となり、なにものをも聞き漏らすまいとするかのように沈黙する。

 

失われた神聖な古代語でささやかれる夜の闇の言葉は、その意味は取れても、

言語に翻訳することはできない。

だがやがて途方もない時間をかけて、一つの形象が、比喩が、詩句が結晶する。

暗闇の中から頭を抜き去り、溜息をつくと、そこに詩がある。

何行かの美しい文句からなる断章。

 

詩人は帰還する。あたかも長い航海の船旅を終えた旅人が、故郷で乞われるままに、

何を見てきたかを人々に語り始めるように、詩もまた語られ始める。

 

一篇の詩は、いつか生まれた場所へ向けて、小舟に乗せ、海へ還されるだろう。

だがそのときまで、詩は万人のものであり、それゆえ私のものなのだ。

私のものであるがゆえに、万人のものであるのではなく。

 

世界には、飢えや戦争や祭りがあり、すべてが私の心の耳に雪崩れ込む。

それらが一つの比喩となるまでに、一体どれほどの言葉が費やされねばならないのか。

歓待してくれた土地を名残惜しむ旅人のように、後ろ髪を引かれる思いで、言葉にならないimageを

幾つ置き去りにしてきただろう。

 

詩の誓いは二つに割れる。

一つを私が取り、もう片方を白い鳥に結えてあなたの待つ岸辺へ。

 

 

(2008.9.26 秋月誠仁)

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スキャンダルと現代生活の関係

Posted by Shota Maehara : 9月 25, 2008

dbadminさんのブログのエントリーにあるように、TVメディアの取り上げる話題には概して暗いものが多く、またそれをネットでブログなどに取り上げて再生産する。おっしゃる通りで、これが偽らざる日本の言論空間の現状なようです。

新聞の三面記事は、遠い場所で起こった殺人事件や誘拐事件や不倫スキャンダルで埋め尽くされてきました。それは日常の退屈な生活に刺激を与える麻薬のような効果を持ったからです。

生きている実感がわかないとよく言われますが、これに対処する方法は2つあります。ひとつは、気晴らしを見つける。もうひとつは、日常性を超えた「崇高な」体験や刺激に触れることです。 いずれにしてもこのことは私達が昔から変わらず「宗教的な存在」であることの証しです。

かつて宗教が果たしたこの聖なる麻薬の役割を、現代はショービジネスの華やかな架空の世界やコスプレ、果ては管理された戦争や殺人事件に至るまでもが果たし、毎日お茶の間で消費されていますね。

知識人の仕事は常に宗教批判であると言ったのはカール・マルクスですが、同時にそのことの困難を誰よりも知っていたのも彼です。現代社会でもそのことはいささかも変わりがないというべきなのでしょう。

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詩とはなにか

Posted by Shota Maehara : 9月 25, 2008

詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩は本当は経験なのだ。―ライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』

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通俗作家サマセット・モームの謎

Posted by Shota Maehara : 9月 15, 2008

 

 サマセット・モームは通俗的な作家だというのがもっぱら人口に膾炙した見方である。これは確かだとしても、「通俗」とはいかなる意味であるか、という問いを発したものは少ない。そもそも文化や芸術批評において通俗性という入口で思考が止まってしまっている分析が数多い。
 だが、サマセット・モームの作品の通俗性は、そのストリーテラーの才もさることながら、物語の中に意図的にブラック・ボックスを作り出す手法にあるといえる。いったい彼の作品は完全に解りきるということがなく、必ず物語の中に余白と呼べるような、読者の想像に任せる隙間を巧妙に拵えておく。このブラックボックスが物語の構造を支える架空の一点になっている。
 例えば、彼の代表的短編「雨」は、雨の多い熱帯地方パゴパゴに医師のマクフェイル博士夫妻と宣教師デイヴィッドソンらが乗る船が麻疹患者がでたために停泊するシーンから始まる。この土地に一軒しかない商人の貸室には彼らと一緒に下船した娼婦らしい女トムソンがいた。階下で蓄音器を鳴らしてパーティーをする彼女の淫蕩ぶりに対し、悔い改めろと迫ったデイヴィッドソンは侮辱されて追い返される。
 その後、島の提督へ働きかけ、この女を強制送還させるよう画策する。するととうとう音をあげた女は、泣きながら宣教師に許しを乞う。デイヴィッドソンは悔い改めた女を前にして、神の御業に恍惚となる。そして本当に生まれ変わるためにむしろ女が自ら罰を受け入れるべきと諭す。この土地の雨と罪の自覚のために徐々に精神の均衡を崩していく娼婦トムソンだった。
 しかし、物語は急転直下、宣教師デイヴィッドソンの突然の自殺によって幕を閉じる。その時、マクフェイル博士が目撃したものは、以前と同じ姿を取り戻したトムソンと、彼女の次の嘲りの言葉だった。

「男、男がなんだ。豚だ!けがらわしい豚!みんな同じ穴のむじなだよ、おまえさんたちは。豚!豚!」(中野好夫訳)

 実は、私自身最初にこの短編を読んだとき、結末の真意が完全に掴めなかった。一体娼婦が宣教師を誘惑して一夜を共にしたのか、逆に宣教師が彼女を求めたのか、もしくはたんに彼女が実は悔い改めていないことを悟って宣教師は死を選んだのか。熱帯に降り続く雨はどちらの理性をも狂わさずにはおかなかったともいえる。
 しかし、いずれにせよ著者はこの部分をあえてブラックボックスのままにしたのだという方が正鵠を得ている。なぜならこの謎は作品に不明瞭な死角を残すことで、平板なストーリーに、立体的な奥行きを生み出しているからである。かくしてサマセット・モームはこの手法を駆使することによって、いわゆる時代の中で消えてしまう通俗作家と異なり、時代が変わっても読み継がれる通俗作家という特異な位置を獲得し得たのである。

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霊と肉

Posted by Shota Maehara : 9月 14, 2008

 

 

 対話篇

 

―ねえ、きみ、ひとつ尋ねたいことがあるんだ。

一体、霊と肉とは、果たして神の救いによって一つになり得るんだろうか?

私にはなにか、むしろ汚れた肉の中にこそ神聖なものが宿っているという転倒も、いささか信じられないんだ。

それこそ俗悪なロマン主義なんじゃないかな。

まるで都市という人工の楽園を捨てて、自然へ還れというかの如くじゃないか。むかしヴォルテールはルソーに、あなたの本を読んでいると、四足で歩きたくなると言ったそうだ。

そりゃ、私だって自然を愛している。燦燦と降り注ぐ太陽の光を浴びると、身も心も清められそうだからね。

でもこの文明の時代に本当に手つかずの自然なんて残されているのだろうか。自然は比類なく美しくもあるが、時として病気や飢饉によって害をなすこともある。そもそも薬を必要としない体なんてあるんだろうか。

でも不思議だね。人間だってこの大きな自然の一部なのに、いまさら自然に還れだなんて。

 

―ねえ、きみ、ひとつ訊きたいんだ。

人間は自然へ向かおうとする抑えがたい本能があるけど、そのとき人は破滅と死に魅了されてもいる気がするんだ。すべての生きとし生けるものの根源に溯れば、それは死だ。それを無と呼ぼうが、無意識(エス)と呼ぼうが変わりない。

ゴーギャンは、フランスという文明の重しに耐えきれず、自由を求めてタヒチへ向かった。でも、彼は果たして自由を得ただろうか。人間から遠く隔たった未開の地で客死したその時に。「私たちは何処から来たか、私たちとはなにか、私たちは何処へいくか」という彼の最後の作品を眺めていると、ふとそんなことを考えてしまう。

 

―ねえ、きみ、ずいぶん話がまわり道して悪かったね。

つまり、霊性の欺瞞は、肉体によって食い破られるとしても、やがて肉体は眼の前のすべてのもの、いや自らをも焼き尽すだろう。その先にあるのは唯、破滅と死しかない。

私はなぜか満面の水に湛えられた海や川に見入ってしまうことがある。なぜって、そこには抑制された知性を感じるから。荒々しいまでの力を身内に秘めていながら、ただ静かにそこに横たわる海や川には、自然の抑制された知性と呼べるようななにかが存在する様な気がしてならない。

私は人間と契約を交わした神の摂理はどうも作り話めいて信じれないが、カントやヴィーコが歴史の上に見出した自然の摂理ならばきっとあるような気がする。

 

―ねえ、きみ、本当に訊いてもらいたいんだ。

一度大きな失敗をするとね、人は何年たってもそれを忘れないものだ。たとえ無意識に同じ過ちを繰り返しそうになっても、体が憶えていたりする。友人や恋人を傷つけた何気ない言葉は、いつまでも消えない痛みを体に刻みこむんだね。平和だって、敗戦の経験があるから、もう二度と繰り返してはいけないと体でわかる。

決して頭だけで論理的に考えたくない。ただ、論理を超えるものを論理的にとらえたいと思うだけだ。例えば、職人が知性と同時に歴史と経験を重視し、永遠に未完成なものを追い続けるように。

かくして、霊と肉の相克は、本当の解決の道へ向かってにじり寄れる。自然こそ最良の知性だといったらきみは笑うだろうか。

 

ゲーテはこう言っている―「人間は行きたい方へゆくがいい。人間はしたいことをするがいい。しかし人間は、自然がつくった道へ、必ず戻ってくるにちがいない」。

 

―ねえ、イエス、きみに最後に訊きたいことがあるんだ。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)と叫んだ時、果たして霊と肉は神によって本当に一つになり得たのかを。

 

(2008.9.14 秋月誠仁)

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ファシズムに変容する民主主義

Posted by Shota Maehara : 9月 13, 2008

「ある種のファシズムが我々の民主主義に置き換わりつつある」―シェルダン S. ウォリン

 

二〇〇一年九月一一日の出来事は、自分たちの国の姿をどう理解するかという点で、重大な変化を加速化させた。「アメリカ帝国」について話し、アメリカ合衆国を「世界で唯一の超大国」と見なすことはありふれたものとなった。

そのような規定の代わりに、「超大国民主主義」とか「帝国的民主主義」などと言うものを思い描くとすれば、アメリカ人は彼らの政治システムを保持し、その中で自分自身を位置づけるという基本的な前提と矛盾するだけでなく対立するように見える。確かに、我々の政治システムは憲法によって制限された権力からなる政府であり、そこでは等しく市民が権力に参入することができる。しかし、帝国が民主主義的な参加手続きの上でもやっていけると見なしたと信じず、超大国は法的な制限を待ち望んでいるのだと考えることはもはや誰にとっても不可能である。

「テロとの戦争」や「悪の枢軸」などというあいまいに定義された企てのために強大な権力を主張したことはブッシュ政権以前にはなかった。ましてや、もし達成したとしてもそれが分かりづらい目標のためにかくも膨大な国の資源を費やし始めた政権もなかった。

以前の全体主義の形と同じように、アメリカ合衆国は、自分達が命じた条件で、疑問の余地なく援助を要求でき、条約や国際法を思いのままに無視し、踏みにじり、怒りを買うことなく他国に侵略でき、犯罪者として裁くのでも、弁護士に相談させるでもなく、無制限に誰でも投獄できるという、向こう見ずな単独行動主義をブッシュ政権は誇っている。

全体権力へ駆り立てる力は、ムッソリーニのイタリアや、ナチス・ドイツ、スターリンのソビエトが主張したものとは異なる形を取り得る。

アメリカのシステムはそれ独自の形を発展させている。すなわち、「裏返された全体主義」である。これは人種主義や絶滅収容所といった公式の教義(ドクトリン)は持たないが、上に述べたように、制限というものを同じく侮蔑するのだ。

それはまた逆さまの特徴をもっている。例えば、ナチスは社会の流動化と結合に焦点を当て、恒常的な総動員体制を維持し、大衆からの熱狂的な参加を要求した。反対に、裏返された全体主義は政治的無関心を利用し、不和・分裂を奨励する。ナチの国民投票は典型的に90%かそれ以上の投票率だったのに対して、アメリカ合衆国は選挙の年、良い時でも参加率は50%位である。

もう一つ別の例:ナチスは議会制度を廃止し、一党独裁制を敷き、あらゆる大衆のコミュニケーションの形を統制した。しかしながら、抑圧のように見えることをしなくとも同程度の結果に至ることは可能なのだ。選挙による立法制度は維持されるが、堕落した制度(ロビイスト、キャンペーン活動、有力者への裏金)によって投票者とその代表者の結びつきが妨げられる。その制度は第一に企業利益を優先する。投票者はシニカルになり、諦める。そして、反対することは無意味に見えてくる。

ナチスはメディアを管理することによって、唯一の公式見解を伝達していたが、一部の資本家がメディアを独占することを奨励し、それによって意見の選択肢を狭めることによっても同様の結果に近づくことができる。

これは「本土の安全」と言う考え方を全土に押し広げ、規制の網で覆うことや、そして経済的不確実性を背景にして、失業、基本的なサービスの縮小などに対しての周期的な警戒によって一般の人々の間に恐怖を浸透させていくことでも、さらに効果を加えていくことができる。

さらに、一党以外のあるゆる政党を禁止する代わりに、二大政党制を変容させる。それは一方の共和党のアイデンティティを根本的に変化させるのだ。

すなわち、穏健的な保守政党から、急進的な保守へ。

孤立主義で、海外への冒険に懐疑的な、露骨に赤字支出に反対する政党から、外国との戦争に熱狂的な政党へ。

イデオロギーや知識人と言うものに懐疑的な政党から、自前の知識人を養い、民主党を右派の陣営へ近づけ反論を封じつつ、国論を穏健なリベラルから圧倒的な保守へと変えるためのネットワークを支持するイデオロギー主導の政党へ。

ビジネスと政府の間に一定の距離をとる政党から、政府と企業の力を結び付け、科学の発展や技術革新による潜在的な力を活用する政党へ。(これはかつて大企業を一党の指導のもとに服せしめた、ナチスの福祉組織とは形態を異にする)。

 この結果、イラクに対して発揮されたテクノロジーの分野や予想通り戦後のイラク復興のための協約に狂喜乱舞した企業においてダイナミックな力はめざましく解放された。

「テロとの戦争」を制度化した時、ブッシュ政権は権力を拡大し、国内のアジェンダをさらに遠くまで推し進める絶好の原理を手に入れた。国内の資源を終わりなき戦争に振り向ける一方、ホワイトハウスは景気後退の中で減税を推進し、国内のプログラムには資源を不足がちにしたままにして置く。この効果は、市民層をますます政府に依存させるようにし、万が一改革を訴える政権が権力の座についた時のために金庫を空っぽにしておくことである。

アメリカ人は今容易な解決のない深刻な状況に直面している。おそらく今まさに独立記念はわれわれに次のことを思い出させるかもしれない―「あらゆる形態の政府は破壊的になったならばいつでも・・・」、異議申し立てをされなければならない。

 

(訳者:秋月誠仁)

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Fascism Is Replacing Our Democracy

Posted by Shota Maehara : 9月 13, 2008

Published on Friday, July 18, 2003 by Long Island NY Newsday 
A Kind of Fascism Is Replacing Our Democracy 
by Sheldon S. Wolin
 
Sept. 11, 2001, hastened a significant shift in our nation’s self-understanding. It became commonplace to refer to an “American empire” and to the United States as “the world’s only superpower.”

Instead of those formulations, try to conceive of ones like “superpower democracy” or “imperial democracy,” and they seem not only contradictory but opposed to basic assumptions that Americans hold about their political system and their place within it. Supposedly ours is a government of constitutionally limited powers in which equal citizens can take part in power. But one can no more assume that a superpower welcomes legal limits than believe that an empire finds democratic participation congenial.

No administration before George W. Bush’s ever claimed such sweeping powers for an enterprise as vaguely defined as the “war against terrorism” and the “axis of evil.” Nor has one begun to consume such an enormous amount of the nation’s resources for a mission whose end would be difficult to recognize even if achieved.

Like previous forms of totalitarianism, the Bush administration boasts a reckless unilateralism that believes the United States can demand unquestioning support, on terms it dictates; ignores treaties and violates international law at will; invades other countries without provocation; and incarcerates persons indefinitely without charging them with a crime or allowing access to counsel.

The drive toward total power can take different forms, as Mussolini’s Italy, Hitler’s Germany and Stalin’s Soviet Union suggest.

The American system is evolving its own form: “inverted totalitarianism.” This has no official doctrine of racism or extermination camps but, as described above, it displays similar contempt for restraints.

It also has an upside-down character. For instance, the Nazis focused upon mobilizing and unifying the society, maintaining a continuous state of war preparations and demanding enthusiastic participation from the populace. In contrast, inverted totalitarianism exploits political apathy and encourages divisiveness. The turnout for a Nazi plebiscite was typically 90 percent or higher; in a good election year in the United States, participation is about 50 percent.

Another example: The Nazis abolished the parliamentary system, instituted single-party rule and controlled all forms of public communication. It is possible, however, to reach a similar result without seeming to suppress. An elected legislature is retained but a system of corruption (lobbyists, campaign contributions, payoffs to powerful interests) short-circuits the connection between voters and their representatives. The system responds primarily to corporate interests; voters become cynical, resigned; and opposition seems futile.

While Nazi control of the media meant that only the “official story” was communicated, that result is approximated by encouraging concentrated ownership of the media and thereby narrowing the range of permissible opinions.

This can be augmented by having “homeland security” envelop the entire nation with a maze of restrictions and by instilling fear among the general population by periodic alerts raised against a background of economic uncertainty, unemployment, downsizing and cutbacks in basic services.

Further, instead of outlawing all but one party, transform the two-party system. Have one, the Republican, radically change its identity:

From a moderately conservative party to a radically conservative one.

From a party of isolationism, skeptical of foreign adventures and viscerally opposed to deficit spending, to a party zealous for foreign wars.

From a party skeptical of ideologies and eggheads into an ideologically driven party nurturing its own intellectuals and supporting a network that transforms the national ideology from mildly liberal to predominantly conservative, while forcing the Democrats to the right and and enfeebling opposition.

From one that maintains space between business and government to one that merges governmental and corporate power and exploits the power-potential of scientific advances and technological innovation. (This would differ from the Nazi warfare organization, which subordinated “big business” to party leadership.)

The resulting dynamic unfolded spectacularly in the technology unleashed against Iraq and predictably in the corporate feeding frenzy over postwar contracts for Iraq’s reconstruction.

In institutionalizing the “war on terrorism” the Bush administration acquired a rationale for expanding its powers and furthering its domestic agenda. While the nation’s resources are directed toward endless war, the White House promoted tax cuts in the midst of recession, leaving scant resources available for domestic programs. The effect is to render the citizenry more dependent on government, and to empty the cash-box in case a reformist administration comes to power.

Americans are now facing a grim situation with no easy solution. Perhaps the just-passed anniversary of the Declaration of Independence might remind us that “whenever any form of Government becomes destructive …” it must be challenged.

Sheldon S. Wolin is emeritus professor of politics at Princeton University and the author of “Politics and Vision: The Presence of the Past” and “Alexis de Tocqueville: Between Two Worlds.”

Copyright © 2003, Newsday, Inc.

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光明

Posted by Shota Maehara : 9月 7, 2008

 

心の闇は、私にだけでなく、この世界にも見出される

蒼白い光が一隅を照らし出し、やがて寂滅してゆく世界

薄靄のかかった崖の上で、虐げられた人々の叫喚が木霊する

 

生とはなにか

生とは、すなわち、煤で汚れた赤い掌で、白い壁に手形を残してゆくことだ

 

死とはなにか

黄昏が迫る頃、一匹の赤いトンボが眼と鼻の先を三度旋回する

彼岸から死者/使者は、生者/聖者をそのような形で迎えに来る

 

心の病いは、私にだけでなく、この時代にも見出される

蒼白い光が一隅を照らし出し、やがて寂滅してゆく時代

 

光、光、光り、真実の心よ

 

 

(2008.9.8 秋月誠仁)

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