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Shota Maehara's Blog

Archive for 2010年10月

日米比較文化論―褒めることと貶すこと

Posted by Shota Maehara : 10月 28, 2010

1998年に日本でも公開されたアメリカの映画『グッド・ウィル・ハンティング』を見返した。非常に面白かった。とくに虐待された過去ゆえに苦悩する天才的な頭脳を持つ青年(マット・デーモン)と最愛の妻を失った悲しみから癒えずにいる心理学者(ロビン・ウィリアムス)との心の交流がこの映画の最大のテーマとなっている。

今回、見返してみて、一人の人間が立ち直るために、こんなにも多くの仲間や、恋人、そして恩師が彼を応援し、支え、導いていくのだと思った。ここにあるのは人々の愛であった。やはり人間が自立し、独立して行くためには愛に裏打ちされた厳しさが必要なのではないだろうか。人は見かけほど強くない。誰もが心の中に弱さを隠している。それを受け止めてくれる愛があればこそ人は、大人へと成長し、旅立っていけるのだ。

これに限らず少し古いアメリカの映画を見ていると、西欧のリベラルな個人は、このようにして他人の人格、たとえそれが子どもであっても、を尊重することから生まれてくるのだとしばしば思う。

しかるに、日本の現状はどうだろうか。私は、どうも現代の我々は他人を貶すことばかり覚えて褒めることを忘れてしまったのではないかと思えてくる。日本人は同質的な集団の中で暮らしてきた時代が長いからか、どうも自分たちと異質なものを排除しようとする性質が強い。それは日常の対人関係においては、他人の長所よりも短所に注目し、批判するという態度に表れている。さらに建前上は平等を謳う近代民主主義の理念がそれに拍車をかけている。

例えばマス・メディアが政治家や芸能人を取り上げる姿勢を考えてみよう。彼らはライブドアの堀江貴文やボクシングの亀田兄弟を最初は好意的に取り上げ、自分たちの意に沿わなくなると一斉に袋叩きにする。内閣の支持率も最初は大きな期待を受けてスタートしたとしても、連日連夜のメディアの批判でめまぐるしく上下する。

いったいこんな状況でまともな人間が育つのだろうか。なぜなら人間は生きていれば失敗もする。ゆえにそれを許してくれるわまりの環境や社会があればこそ人はどうにかこうにか育っていけるのではないだろうか。人間は成長するために自分を受け入れてくれる場所が必要だ。今の日本には家庭を含めてこうした無条件の愛を与えられる場所が幾つあるのだろうか。

「日本人は子どもばかりで大人がいない」と批判する言説自体が、日本を駄目にしていることに早く気付くべきだ。

では、何が日米のこうした違いを生んだ要因なのだろうか。私は、どうもそれはキリスト教の伝統の有無にあるという印象を持っている。キリスト教は何千年もかけて西洋の精神風土を形成してきた。イエスの残した最後の言葉(「互いに愛し合いなさい」)は、彼らの人間関係を無意識のところで規定している。それに対する反発も含めて、倫理こそはユダヤ‐キリスト教が人類もたらした最大の財産である。

こうした視点に立つと、確かに日本人は、かつて「道徳的な国民」と言われたが、いまだ倫理を持つには至らなかったのではないだろうか。なぜなら倫理は「絶対というもの」(超越論的)を軸に考えた時、初めて生まれてくるからだ。それは人間が自分達の都合で簡単に変更したりすることのできるものではない。

他人を貶すのではなく、他人を心から褒めること。これは非常に勇気のいる行為ともいえる。なぜなら、そのとき自分が相手に対して謙った関係に立たなくてはならないからだ。各自が自己の能力を頼み、他人の足を引っ張ろうと待ち構えている人々の中でそれをやるのは非常に難しい。極端に言えば、自分を無に等しいものとみなしていなくてはならない。だからこそ、今、未伝道の地とされる日本でキリストの教えが実践される必要があるのではないだろうか。

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人間の罪とはなにか―二つの物差し

Posted by Shota Maehara : 10月 28, 2010

私はよく言うのだが、人間は自分を測る物差と、他人を測る物差を持っている。つまり、自分の過失は実に小さくしか感じない。たとえば、大切にしている花瓶を他の人が壊したとする。相手が我が子でも、かなり厳しく責めることであろう。

が、もし自分自身で壊したとする。「壊した」という行為は、誰が壊しても同じ行為である。だから自分が壊しても、同じ厳しさをもって自分を責めれば、これは公平なのだが、誰しも自分のした悪は小さくしか感じない。反対に、自分のした善は大きく感じ、他人のした善は小さくしか感じない。こんな不公平なことがあろうか。

これが差別の源であり、また罪の源でもある。―三浦綾子『聖書に見る人間の罪』

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人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる

Posted by Shota Maehara : 10月 28, 2010

旭川に五十嵐広三という市長がいた。氏は昭和三十八年から十一年市長を務め、歩行者天国を日本で初めて実施した市長として有名である。むろん、その他ユニークな市政を次々に遂行した人物でもある。沖縄返還の頃のこと、アメリカのジョンソン大使が旭川を訪れた。歓迎会の席上で、ジョンソン大使が言った。

「沖縄では、みんな返還を喜んでいますが、主食が今までの二倍の値段になるのですがね」まわりに追従の笑いが起きた。が、五十嵐市長は笑わなかった。彼はこの歓迎会の主催者である。黙ってうなずいていれば、それでよいかもしれなかった。が、彼はこの時、
(一言なるべからず)
と思ったという。そして言った。
「しかし、人間にはパンよりも大事なものがありますからね」

アメリカの大使ジョンソンを相手に、氏ははっきりと言った。その日、歓迎会を終えたあと、彼の家にジョンソン大使からウィスキーが届けられた。そしてそれには、ジョンソン氏の言葉を書いたカードが添えられていた。
「本日は実に愉快でありました」

さすがジョンソンは一流の大使である。
「人間にはパンよりも大事なものがあります」
と言い切った五十嵐氏の率直さと識見に、大使は尊敬の念を抱いたのであろう。

私はこの話を聞いた時、深い感動を覚えた。政治は、教育問題をはじめ多くの分野に亘る仕事であるが、主としてパンの問題を扱う仕事と言える。そうした政治の世界に身を置きながら、「人間にはパンよりも大事なものがある」と明言した彼の人間観は、実に讃嘆に値する。本当の政治というものは、この人間観の上に立ってなされるべきものなのだ。私たちが人間として生きるということは、パン以上に大事な人間の自由、人権があることを知ることなのだ。もし、この人間観が私たちの中に確立しているならば、金で大切な一票を売ったり、心にもない人事をしたり、不正に入学させたりすることなどは、決してあり得ないであろう。

―三浦綾子『聖書に見る人間の罪』

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人間は身体的欠如を過剰に取り戻す生き物である

Posted by Shota Maehara : 10月 21, 2010

この受苦的であるがゆえに情熱的である、あるいは、受動的であるために主体的能動的であるというマルクスの存在論把握を一貫して追求してきたのは田中吉六である。人間がもつ欠如あるいは欲求が人間的なものとなる、あるいは文化的なものとなる所以はどこにあるのか。田中吉六が注目したのは、マルクスがそれを人間の「身体的組織」に求めていることである。(「マルクス、再出発」)

 すべての人間史の第一の前提はもちろん生きた人間個体の生存である。したがって確認される第一の事態はこれら個人の身体的組織と、そしてこの身体的組織によってあたえられる、その他の自然への彼らの関係とである。われわれは、もちろんここでは人間の肉体の特性とか人間が直面する自然諸条件、地質学的、山水誌的、風土的その他の諸関係に立ちいることはできない。すべての歴史記述は、この自然的諸基礎および歴史過程内での人間の行為によるそれら諸基礎の変形から出発しなければならない。
 人々は動物から人間を意識、宗教その他お望みのもので区別することができる。人間自身は彼らが生活手段を生産しはじめるやいなや、すなわちかれらの身体的組織によって義務づけられている処置を講じめるやいなや、みずからを動物から区別しはじめる。人間はかれらの生活手段を生産することによって、間接的にかれらの物質的生活そのものを生産する。(「ドイツ・イデオロギー」)

 田中吉六はたとえば無毛という「身体的組織」の条件を指摘している。しかし、それを具体的にいおうとするなら「裸のサル」(デズモンド・モリス)としての人間の条件を一般的に検討しなければならないはずである。

 つまり一般的にいえば、人間の身体的組織の特徴は本能をもたないこと、つまり外的環境に自動的に適合しうるメカニズムをもたないということになるであろう。特殊人間的な受苦性とは一つの遅延化によってもたらされている。それを生物学的にいえば、たとえば人間が異常に長い幼年期をもたねばならないということである。フロイトは、まさにそこに、世代(親と子の関係)が制度(非自然)として生じるゆえんをみいだしたといえる。だから、彼は本能と衝動を区別している。衝動とは、〝欠如〟からくるものであり、それはすでに表象であり、「意味するもの」なのである。意味作用の根源は、「衝動」にある。むろんわれわれは、マルクスのいう〝情熱的存在〟を、この意味における「衝動」だと理解してもよい。

 マルクスが「身体的組織と、この身体的組織によって与えられる自然との関係」を、歴史の第一前提とするとき、注目すべきは、この「関係」という概念である。つまり、「人間と自然との関係」は、ある欠如=遅延化によって生じるような「関係」なのであり、実はそれだけが「関係」なのである。マルクスは、言語についてのべたあと、つぎのようにいっている。

 一つの関係が存在するばあいには、それは私にとって存在する。動物はなにものにも「関係する」ことなく、また一般に関係しない。動物にとっては他のものへのその関係は、関係として存在しない。したがって意識ははじめからすでに一つの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(「ドイツ・イデオロギー」)

 ふつうのいい方では、動物も対象をもつし、対象と関係する。だが、彼らが環界と一体である以上、対象も関係もありえない。対象や関係は、遅延化(差異化)のなかではじめて存在するようになる。つまり、対象物は、欠如―表象(意味作用)のなかで形成される。
 
 たとえば、スザンヌ・ランガーは動物と人間を区別するものを、各々の伝達形式の差異にみいだしている。動物は一対一の応答関係すなわちサインしかもたないのに対して、人間は多様な応答関係すなわちシンボルをもつ。だが、マルクスのいうように、「一対一の応答関係」は「関係」ではない。「関係」はすでに多重的なものである。シンボルは、遅延化をこうむった「身体的組織」から考察されるべきである。
                             
                             ◎

 マルクス、ニーチェ、フロイトは、いずれも「身体的組織」における欠如・無力性から出発し、そこに、表象・欲望・言語の発生をみいだすことにおいて、共通している。だが、そのような発生論的な視点ではなく、逆に現象学的な遡行をもってしても、われわれは、同じ地点に到達するだろう。(略)

 だが、何がそのような差異化・遅延化をもたらすのかを問うことはできない。もし問うならば、神または自然が「主体」として「原因」として表象されるだろう。しかし、それらは「意味」なのであり、根源的な意味作用の原因ではなく、結果なのである。重要なのは、そのような「起源」への問い―それ自体が形而上学に導く―ではなく、マルクスがここにおいて、人間の意識または「意味」がアプリオリに存するのではなく、感性的な受苦性(受動性)においてはじめて存するという考えをつらぬいていることである。(略)

 もちろん、マルクスが「誤解」をおそれたように、マルクス主義は人間の目的的意識や主体性を第一においてしまう。だが、マルクスにおいて、「目的」とは、欠如をとりかえすことであり、しかも過剰にとりかえすことである。だから、「目的」とはつねに遅延性の逆転にほかならない。たとえば、眼は見るためにあるというとき、それは一つの目的論的思考である。この「ありふれた思惟形態」が、形而上学とつながっているのだ。ニーチェはそれを認識における遠近法(パースペクティヴ)の倒錯とよんだが、目的論一般がそこに成り立つのである。
 
 マルクスは、人間の労働について、つぎのようにいっている。

 …われわれの前提する労働は、人間にのみ属するような形の労働である。蜘蛛は織匠の作業に似た作業をするし、蜜蜂は蠟房の構造によってよく多くの人間の大工を顔色なからしめる。だが、元来、最低の大工でも、最良の蜜蜂にまさっているゆえんは、大工のほうは蜜房を、蠟でつくるより前に、頭のなかでつくっていることだ。労働過程のはじめにすでに労働者の頭のなかに、したがってすでに観念的に存在していたものが、労働過程の終りに結果として出てくるのだ。
 労働者は、自然を変形させるだけではない。同時に、自然のうちに自分の目的を実現させるのだ。その目的は彼の知っているものであり、彼の行動を律し、さらに、彼の意識をそれに従わせねばならないものである。しかも意志を従わせるだけで終わるのではない。労働する器官の緊張のほかに、注意力としてあらわれる合目的意志が、労働の全継続期間にわたって必要なのだ。(「資本論」)

 たしかに、マルクスは、人間の生涯がつねに目的的であり、表象によってなされることを強調しているようにみえる。だが、人間がそのような「能力」をもつということは、逆にいえば、蜘蛛や蜜蜂のような能力を欠くということの結果なのだ。《人間が歴史をもつのは、かれらがかれらの生活を生産しなければならないから、しかも一定の様式でそうしなければならないからである。このことはかれらの身体的組織によってあたえられねばならない》(「ドイツ・イデオロギー」)。「表象」や「目的」は、人間にとってアプリオリにあるのではない。それらは、欠如や遅延によって存するのである。(略)

マルクスは、「問題」を自発的にて提起することが根本的には受動的なものであることを強調したのである。《人間は解決可能な問題だけを提起する》。しかし、それは、構造主義者のように、人間がある構造に強いられているということを強調することではない。なぜなら、「構造」とは、家の構造であれ、言語の構造であれ、それ自体目的論的にのみつかまれるものであって、われわれはいまそれを問題にしているからである。そこには微妙なちがいがある。
 
 目的意識性それ自体が、遅延化にもとづく受苦性に発している。人間の「意識」は自発性・主体性としてあるとき、そのことに気づかない。しかし、「意識しないがそう行う」のであり、人間は「考えている」のとはちがったことをやってしまうのだ。革命とは、新しいものを創出することではない。それはそでにおこっている「変化」に追いつくことである。人間は目的的にたちむかうとき、実は「遅れ」を過剰にとりもどそうとしているのである。
 
 しかし、この受苦性を、けっしてキリスト教的な概念ととりちがえてはならない。むしろ、それはギリシャ悲劇的な概念である。「苦」はとりのぞかるべきものでもなければ、原罪でもない。なぜならば、それは、根源的な「偏差」であり「たわむれ」以外の何ものでもないからである。―柄谷行人『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫、一九九〇年、一二三~一三五頁)

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政治の特質

Posted by Shota Maehara : 10月 21, 2010

「人間はつねに集団をなして生活してきた。その集団の最小のものである家族が、種の維持のために必要であるのは言うまでもない。しかし、知られているかぎりで、人びとは最も原初の時から単一の家族よりも大きい半恒久的な集団をつねに形成してきた。その集団が果たした機能の一つは、構成者の間の諸関係を調整することである。このように組織された恒久的・半恒久的集団における人びとの行動にかかわり対処するのが政治である。孤立している人間を想定して、その行動から社会の特質を演繹しようとする試みはすべて、純粋に理論的なことにとどまる。そのような人間がかつて実存し生存したと推測できる根拠はないからである。アリストテレスは、人間はその本性から政治的動物であると論じて、政治について筋の通った思考の基盤を設定した。」E・H・カー『危機の二十年』(岩波文庫、一九九六年、一八六頁)

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トクヴィルの民主政治論―「多数の専制」について

Posted by Shota Maehara : 10月 21, 2010

「・・・そして、民衆の政治の場への進出に伴う問題点について、民主主義の本質および傾向との関連において、十九世紀中葉に早くも、深い洞察を示していたのが、先に第12、13章で取り上げているトクヴィルであった。

 彼は、その著書『アメリカにおけるデモクラシー』において、十九世紀中葉のヨーロッパに、アメリカで先駆的に展開されていた民主主義を、やがてはヨーロッパの各国も直面しなければならない必然的事態として紹介し、そこに含まれる問題点を批判的に論じたのであったが、そこから得られる教訓を、ニ十世紀のファシズムと独裁が登場してきた時期に改めて取り上げて、トクヴィルを「大衆時代の予言者」として評価したのは、ドイツ出身の政治学者J・P・メイヤーであった。そして、今日、トクヴィルは、欧米のみならず日本や韓国においても、広く関心を持たれている思想家となっている。

彼によれば、民主社会の様相は次のようであった。

平等が行きわたった社会において、各個人は独立的で、進取の気風ををもち、自発的に結社を作って共同の事業をなしてゆこうとする傾向を示すが、このことは、他面において、彼らが一人一人としては弱小で、相互の絆が失われれば、ばらばらで、それぞれが自分だけの目先の利益だけを追い求める人間になってしまう危険性を孕んでいることをも意味する。こうなると、平等的社会の個々人は、巨大な中央権力が社会全体の事柄を取り仕切ってくれることをむしろ望ましいと考えるようになる。しかし、この社会には、人民主権の原理が建前として確立されているので、個々人は、自分たちの代表や首長を選挙する機会を与えられていることに満足を見出すことができ、またそれで十分であると考えて、それらの代表者にすべてを委ねた上で、「鎖の先端を握っているのは自分たちだという思いをもちつつ」、安んじてその鎖に縛られたままになるのである。

トクヴィルは、この文脈の中ではっきりと「政治的無関心(アパシー)」という悪弊の拡がりを見通していた。そして、この一般的関心がある緊迫した状況の中で、刺激的な争点によって方向づけられると、もっとも民衆扇動的な指導者をも政治の頂点に押し上げる力に転化してしまう。ニ十世紀中葉におけるファシズム状況の中で、独裁的指導者が登場してきた過程は、一つの面では確かにこのような説明によって、その政治的意味づけを与えられることができる。」―田中治男『西欧政治思想―改訂版』(放送大学教育振興会一九九三年、一四八頁)

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近代民主政治の病理―個人主義の「アパシー」(無感動)

Posted by Shota Maehara : 10月 17, 2010

「今日最大の危険は放縦か暴政か、無政府状態か専制か、これを絶対的一般的な形で言うことはできない。どちらも同じように恐れるべきであり、個人主義の帰結たる一般的アパシーという同じ一つの原因から同じように容易に出てくることがあり得よう。このアパシーあればこそ、執行権がいくらかの力を結集すれば、圧政が可能になり、次の日、一党派が三十人の者を隊列に組むことができれば、この党派もまた圧政を揮うことができるのである。どちらも永続的なものは何一つ築くことはできず、成功に導いた要因が長期の成功を妨げる。それらが立ち上がるのは抵抗するものがないからであり、崩れ落ちるのは支えるものがないからである。(段落)戦うべき重要な相手は、だから無政府主義や専制というより、両者をほとんど差別なく生み出すことのあるアパシーである。」(トクヴィル『アメリカにおける民主主義』、補説、二九三頁)

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なぜ現代人は生きる力を失ってしまったのか

Posted by Shota Maehara : 10月 14, 2010

なぜ現代人は無気力なのか。言いかえれば、なぜ今人々は「生きる力」を失っているのか。これは一見するよりも非常に重要な問いかけであるように思う。なぜなら、そこから現代の日本人のライフスタイルにおける陥穽が浮かび上がってくるからだ。

私たち労働者は自分自身以外頼みとすることのできるものをもっていない。例えば会社でもつねに自分が有能であることを周囲にアピールし、認めてもらわなければならない。いつでも気の休まる時がない。そんな中で、対人関係においても、ストレスをため、命をすり減らしている。これが嘘偽らざる私たちの日常ではないか。

誰でも心に「不安」はもっている。ただ私たちのそれは埋めようとしても決して埋まることのない心の穴だ。渇くことのない心の渇きとも呼べる。その結果、買い物をしたり、飲みに行ったり、物質的な欲望でその渇きをいやそうとする。かつてこの時代ほど自己の欲望に忠実に生きることのできる豊かな時代はなかったのではないか。

例えば、近年、ワーキングプアの問題や派遣労働の問題が社会問題化する中で、彼らに対するいわゆる「自己責任論」が持ち上がったことは記憶に新しい。彼らは、まじめに努力せず、貯蓄もしないのだから切り捨てられても仕方がないという主張だ。私はこのことが全面的に間違っていると反論するつもりはない。事実、怠惰はそれほど人間にとって根深いものだからだ。

しかし、そう主張する人々の方がかえって「生きる力」を半ば失っていることを自ら証明しているのではないかと私は危惧している。なぜなら他人の生き死にに関心を持たなくなるということがすなわち、「アパシー」(無気力、無感動、無関心)ということの根源なのだから。他人に関心を持たず、自分にだけ関心を持つこと。これは一見は当り前のように見えるが、それはすでにアパシーという病理の初期症状なのである。

わたしたちはもうそろそろ気づき始めている。つまり、「我執」(ego)こそが私たちの生を閉じ込めてしまっている病原だということに。

では、私たちはどうしたらこの病理から癒されることができるのか。私はおそらく「他者」を取り戻すこと以外に道はないと考える。なぜなら他人との交わりの中に真の人間性はあり、生きる喜びもまたあるからである。「生きる力」とは決して自分の内側からは湧いてこない。それはつねに、外からくるのだ。考えてみて欲しい、自分の欲しか考えていない人が本当に生き生きと暮らせるだろうかと。

イギリスの作家ディケンズは『クリスマス・キャロル』という有名な小説でこのテーマを分かりやすく教えてくれている。金貸しのスクルージは一人でクリスマス(聖夜)を過ごす。それは金銭欲と物欲の塊となった彼のライフスタイル自体が他人との交わりを遠ざけ、どんどん孤独になってしまったからである。その彼の生き方を象徴しているのが「くだらん」(humbug)という口癖である。

しかし、ある夜、死んだかつての共同経営者マーレーが亡霊となって現れ、お前も地獄に落ちるのだと告げられる。そして、マーレイの亡霊は、金銭欲や物欲に取り付かれた人間がいかに悲惨な運命となるか、自分自身を例としてスクルージにさとし、スクルージが悲惨な結末を回避し、新しい人生へと生き方を変えるため、三人の精霊がこれから彼の前に出現すると伝えるのだった。そして、生き方を180度転換したスクルージは人々から愛され、生きる喜びに満ちあふれた人物となる。

この物語が教えてくれることはシンプルだ。私たちは生きるために自分以外の友人、家族、またこう言ってよければ神の愛を必要とする。時に自分を犠牲にしてでも守りたいものがある人こそ本当の意味で生きる力にあふれていると言えるのではないだろうか。

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主よ、私の生涯をあなたの御手にゆだねます

Posted by Shota Maehara : 10月 10, 2010

「初めに、神が天と地を創造した」(創世記第一章第一節)

“世界は私たちにとって大きくもなければ、小さくもない。それは人間のために主がお創りになった聖なる住処。そして、私たちもまた神にデザインされた最高傑作。たしかに、私たちはいつも一人で歩くように見える。でも、いつも主が共にいてくださる。倒れても、また、ふたたび立ち上がれるまで後ろで見守っていてくださる。愛が私たちの道を掃き清める。もし私たちが偉大な仕事を成し遂げたなら、主に感謝せよ。私たちのすべては主の御手の中にある。人間である私たちの名ではなく、私たちと世界をお創りになった主の御名があがめられますように。いつまでも永遠に命の糧を与え続けてくださる方。主に感謝せよ。―愛するイエス・キリストの御名において アーメン”

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ノーベル平和賞、中国で服役中の劉暁波氏に

Posted by Shota Maehara : 10月 9, 2010

【オスロ=大内佐紀】ノルウェーのノーベル賞委員会は8日、2010年のノーベル平和賞を、「中国における人権のため、長年にわたり非暴力的闘争を行っている功績」があったとして、中国で服役中の民主活動家・劉暁波(りゅうぎょうは)氏(54)に授与すると発表した。

 1989年の天安門事件後、中国国内で共産党一党独裁を批判し、民主化を要求し続けてきた同氏への授与は、同委として、中国に対し、政治改革を強く求めたことを意味する。国際社会では劉氏釈放を求める声が高まっている。

 同委のトールビョルン・ヤーグラン委員長は記者会見で、「中国は新しい地位に見合った責任を果たさねばならない」と、「責任ある大国」としての行動を促した上で、「中国は多くの国際協定や政治の自由を認めた自国の憲法にさえ違反している」と言論や集会の自由を認めた中国憲法第35条を引き合いに出した。

 一方、中国政府から、劉氏に授与しないよう事前に圧力をかけられたことを確認し、不快感を表明した。

 委員長は、劉氏を「中国内外における、人権への闘争のシンボル」とたたえた。

 同委は、共産党政権が民主化運動を武力弾圧した天安門事件が起きた89年には、チベット仏教最高指導者で、インドに亡命中のダライ・ラマ14世に同賞を授与した。

 文学者で詩人でもある劉氏は、同事件当時の民主化運動に身を投じた後、繰り返し投獄された。北京五輪が開かれた2008年、インターネットを通じて世界に大きな反響を呼んだ「08憲章」の起草で中心的な役割を果たした。

 「社会主義制度の打倒を企てた」などとして、09年に逮捕され、今年2月に国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決が確定、現在、東北部・遼寧省内の刑務所で服役している。

 劉氏の妻、劉霞さん(49)は受賞決定に先立つ6日、自宅のある北京で、本紙などに対し、「中国政府は夫のペンの力を恐れ、自分たちが権力を失うことを怖がっている」と述べた。

 授賞式はノーベルの命日にあたる12月10日にオスロ市庁舎で開かれる。委員長によると、劉氏はおろか妻の霞さんにも連絡が取れない状況になっている。劉氏は自らの受賞を知らされていないとみられる。賞金は1000万スウェーデン・クローナ(約1億2400万円)。

(2010年10月9日01時42分  読売新聞)

【北京=伊藤正】ノルウェー・ノーベル賞委員会が、中国の反体制作家、劉暁波氏にノーベル平和賞授与を決めた背景には、中国が経済発展の陰で、国民の民主的権利を抑圧しているとの国際的批判の高まりがある。中国政府は「内政干渉」と反発するだろうが、国内でも政治改革への圧力が強まる中、中国指導部は劉氏受賞への対応に苦慮しているとみられる。

 劉暁波氏が平和賞の有力候補と伝わった後、ある中国の知識人は「もし受賞すれば、共産党のおかげだな」と話した。劉氏に対する懲役11年の判決には、世界各国から批判と抗議の声が上がり、劉氏は一党独裁体制の犠牲者、民主化運動の殉教者として同情と共感を集めたからだ。

 1970年代末に改革・開放に転じて以来、中国は経済発展のために、対外開放路線を取り、国際化を進める一方、党に対抗する言論や活動は弾圧し続けた。改革・開放開始直後の79年、一党独裁を批判した魏京生氏を懲役15年に処したのに始まり、89年には、民主化運動を武力鎮圧した天安門事件が起こった。

 魏氏に適用された「反革命宣伝扇動罪」は、97年の刑法改正で国家政権転覆扇動罪と名称を変え、今回の劉暁波氏の罪名になったが、党批判を封じ込める本質は不変だ。弾圧は、言論にとどまらず、党の意に沿わない宗教活動や人権擁護運動にまで及んだ。

中国の民主的権利や人権の抑圧には、欧米諸国、特に米国が批判し、改善を要求してきた。中国は、公式には「内政問題」として突っぱねる一方、天安門事件の政治犯を「病気治療」の名目で出国させるなど圧力を交わす取引に応じた。

 しかし中国が経済大国化し、発言力を増した近年は、欧米の対中圧力は著しく弱まった。昨年春以降、訪中した米国のペロシ下院議長やクリントン国務長官は人権問題に触れず、中国の知識人層を失望させた。11月に訪中したオバマ大統領も同様で、その翌月、劉暁波氏に重刑判決が出た。

 劉氏へのノーベル賞授与が、中国の民主化や人権問題への国際的関心を高めるのは間違いない。それは中国が軍事拡張を続け、北朝鮮やミャンマーなどの独裁政権と親密な関係を築いていることへの懸念も背景になっている。

 中国は天安門事件後、一党独裁下で、経済は急成長したが、同時にさまざまな矛盾が噴出、社会には不満が充満している。市場経済化に見合った政治改革が停滞し、少数の特権階層が果実を独占する腐敗構造が形成された結果である。

 中国指導部は社会各層から政治改革の圧力を受けており、「08憲章」で一つの方向を示した劉暁波氏の影響力を恐れたのが重刑を科した理由だった。その劉氏の受賞が国内に与える影響は、徐々に大きくなっていく可能性が高い。

 1984年のロサンゼルス五輪で中国選手が金メダル1号を獲得したとき「ゼロの突破」と国中がわいた。ノーベル賞も中国の悲願だが、今回の「ゼロの突破」は国内報道も規制されるだろう。

 経済はじめ多くの分野で国際標準化しながら、普遍的価値観を拒絶する中国を「異形の大国」と表現したのは、ある改革派の知識人だ。劉氏の受賞にどう対応するかは、内政問題も絡み中国指導部の試練になりつつある。(産経新聞)

http://sankei.jp.msn.com/world/china/101008/chn1010081824003-n1.htm

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