I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

遠藤嘉信『初めに、神が-創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』(二〇〇七年、いのちのことば社)

Posted by Shota Maehara : 3月 10, 2013

初めにコリント人への手紙第二4章7節です。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」。そう書かれています。私たちには何もありません。しかし、私たちのつまらぬ「土の器」の中に「神のかたち」「いのちの息」そして「神の栄光を知る知識」と「御霊」を宿しているということです。(78頁)

さらには、イエスさまも、こう語ります。「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7・11)…どんな状況の中でも、どのような境遇に置かれていようと、神はどこまでも私たちを愛し、私たちに良いものをお与えになろうとしておられます。エデンの園は神の人に対する愛情の表現であり、人をかこって、その恵みの中にいつまでも憩わせようとなさった神の御思いの表れでした。(81頁)

ともかく、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(17節)と神は命じられました。たった一本の木、その木において、神は人間に選択という自由を与えられたのです。自分で神のみこころを求めてそれを選び取る自由を与えられました。自分で神を愛することも、神を愛さないこともできるのです。ですからここには宿命論も決定論もありません。その上で神は人間の愛の応答を求められたのです。そこにこそ人間の尊厳があり、神の人間に対する尊重の姿を見ることができるのです。(84頁)

ところで、「善悪の知識の木」という言葉には、どんな意味があるのでしょうか。それは確かに、もう一本の「いのちの木」とともに極めて象徴的な意味合いを含んでいます。これにはいろいろな説がありますが、おそらく一番適切と思われる見解は、良し悪しを判断する「自律性」に関する知識ないしその権利を意味しているというものです。

これを食べるとき、神のように、自分の感情や周囲からの判断に基づいて、神に依存することなく、またそのみこころに求めることもなく、自律的に、ものの良し悪しを決めるようになる、ということです。ある注解者は、「子が親の監督を嫌って、自分で判断するようになる」というような説明の仕方をしていました。

そのような木から取って食べるならば、神のように完全ではないので、人間は自分の判断に基づいて自滅する以外にないのです。そればかりか、これは園を管理させようとされた主なる神の契約であって、約束に対する違反行為は、契約の破棄を意味しています。ですから、この実を取って食べることは、その実が持つ効力の問題以上に、また園での働きを剥奪される以上に、もっと致命的な状況を生み出すことになります。

「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」

神から失われ、交わりを断たれ、祝福から遠ざけられたのです。これが現代の私たちの状態です。(86頁)

神は愛です。愛するお方はその愛の対象を求められます。とすれば、人が創造されることは神にとって必然でもあったと考えられます。そしてそのような意味において、私たちは「神のかたちとして」造られました。私たちに「神のかたち」を認めることができるのです。「神のかたち」というとき、1章26節によれば、それは「われわれに似せて」という言葉と対応していますから、神に似るものとして、という意味です。(87頁)

互いが互いの分身であることを忘れて、二人で一つであるという意味での自分の欠けを認めず、互いに自律的な方向へと向かって、結果的に性の違いとそれから生じる互いの本質的な役割をことごとく否定することになるのです。私たちは、「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と語られた主の御思いに目を留めなければなりません。(95頁)

「サタンに欺かれるならば、誰ひとりこの誘惑に打ち勝つことができません。それほどに、サタンは強力な存在なのです。だから、たといサタンが背後で関わっていたにせよ、アダムとエバの責任ということに焦点を当てようとしているということでしょうか。ここでは、霊的な目に見えない神秘的存在が関わったというよりも、見える現実において、被造物の一つである蛇が関係し、その蛇に惑わされつつも、人自ら罪を犯したという客観的な事実が述べられていると考えるべきだと思います。そして、そのことゆえに彼ら自身が責められなければならないのです。(100頁)

人が自律的になって、善悪を自分で判断し、もはや神を必要としなくなっていくことを選ぶのではなく、どこまでも神との交わりを求めて、神にあらゆる判断をゆだねて依存する存在として生き続けることを求められたのです。このことこそ人をこよなく愛する神の思いでなくして何でしょうか。(105頁)

神の愛が見えにくくなると同時に、神の裁きについても割り引くようになります。神の愛を一方で強調しながら、結局その深い意味と手ごたえを得られず、同時に神の裁きを直視できなくなっていくのです。(108頁)

蛇はその木の実の魅力について語り、神との約束を破るという恐るべき課題から意識をそらさせます。神のようになれるという謳い文句は常に人間を魅了してきているのです。神を必要とせず、自分で、自律して生きることができ、事の良し悪しを自分で判断する自由を得るのです。自分が支配し、自分がそこに君臨し、すべてが思いどおりになるのです。目が開き、これまで見えなかったものを見通すことができるようになるということなのです。(109頁)

善悪の知識の木それ自体に問題はありません。ただ人間には重すぎるのです。あらゆることで自律を求められます。あらゆる倫理的な判断を自分でしなければなりません。結局人間は、これによって二つの問題を抱えることになったのです。契約を破ったことと、善悪の知識を得たこと、これに伴って、一つは契約違反の罪の問題とその罪責感を、そして自律を求めた結果がもたらす得体の知れない不安感や無防備なゆえの他者への不信感を持つようになるということです。(111頁)

そして何よりも、神が私たちに対してどんなときにも愛であり、徹底して誠実なお方であることを疑うことのないようにしたいと思います。エレミヤは、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31・3)という主の言葉を書き留めています。誠実を尽くし続ける神を決して忘れてはなりません。そして救いの恵みにあずかる者でありたいと願います。(112頁)

しかも結果的には、妻ばかりか神まで問題視するのです。彼は、「あなたが私のそばに置かれたこの女」と言っています。つまり、ついには、主がこの女を置かれたことに問題がある、と言っているのです。神に問題があるとまで言ってしまいます。神が人のところにその女性を連れてこられたとき、彼は何と言ったでしょうか。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」。彼はそう言って歓喜し、感謝しました。ところが、今は、それを問題とするようになりました。その恵みを否定しています。(120頁)-人間による神をも畏れぬ「責任転嫁」を見よ!

あらためて創世記1章から3章を見るとき、神の愛がこれら全章を貫いて、満ち溢れていることに気づかされる。天地創造のすべてが、人に対する神の愛の表現である。すべてが人のために造られた。神が愛であるから、その愛は、愛の対象を求めていた。(あとがき)

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罪の意識がないという罪

Posted by Shota Maehara : 3月 6, 2013

三浦綾子え三浦綾子さんの本に次のような言葉があります。

「もしかしたら、私には罪の意識というものが、欠けているのではないだろうか。罪の意識がないということほど、人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしても何ら良心の呵責がない。それと同様に、私もまた、人の心を傷つける ことをしても胸が痛まないのだ。こう思ったとき、私は、『罪の意識のないのが、最大の罪ではないだろうか』と思った。そして、その時、イエス・キリストの十字架の意義が私なりにわかったような気がした。」

確かに法律的には、犯罪を犯すわけではないが、人を見下し、人を傷つけていて、罪の意識が皆無の人がいます。

この罪の意識がない、人の心を傷つけても胸の痛みがないというのが問題です。罪の意識がないと、イエス・キリストの十字架の意義がわからないのです。

罪の意識が芽生えてくると、神様に近づけます。罪の意識があると、和解が生まれてきます。

クリスチャンは人間であり、罪人です。ですから争い、いさかい、人間関係のこじれが生じます。

しかし嬉しいことに、その人間関係のこじれが、和解したという話もよく聞きます。その時に何があったかというと、当事者同士が、自分の罪と悪に気がつき、お互いに相手に赦しを求めて、涙の和解となるようです。そして当事者の両方が、自分の罪のほうが、相手の罪よりも大きいと感じているのです。

自分の罪を知ること、そして自分では罪の問題を解決できないこと、そしてその罪の罰を、すべてイエス・キリストが十字架に身代わりに受けてくださったことを知るときに、自分の罪の大きさを自覚するのです。ですから争いがあっても、いさかいがあっても、罪の自覚のある人同士であれば、イエス様を見て和解できるのです。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(新約聖書エペソ人への手紙4章32節)

キリストの十字架によって、自分が赦されたということを知るときに、人間は他の人を赦すことができるのです。

しかし罪の自覚がない人、三浦綾子さんの言葉によると、最大の罪を持っている人は、和解できないのです。常に自分は正しくて、問題の原因は相手にあると考えて、 さばき、高ぶってしまうのです。

罪の自覚は、実は、神様のあわれみによるものであって、自分から出たものではないのです。自分が罪人であることがわかるということは、 神様の子として生きることの出発点になるのです。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:738BpPdmZBAJ:heartland.geocities.jp/seishonomegumi/column8.htm&hl=ja&gl=jp&strip=1

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赦されること・愛すること(ルカの福音書7:36ー50)

Posted by Shota Maehara : 3月 6, 2013

ルカの福音書36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、

38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。

40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。

41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。

42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」

43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。

44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。

45 あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。

46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。

48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。

49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

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キリスト者とは誰か

Posted by Shota Maehara : 2月 28, 2013

img_1493959_52831216_0 「キリスト者とは誰か」――改めてこの問い掛けを自分に向けてみると、その答えは単純でありながらも深いものであることに気づかされます。「キリスト者」とは、「キリストに属する者」あるいは「キリストに従う者」でしょうか。この名称は、最初は外部から与えられたものであって、イエス・キリストの道を歩む者たちが自分たち自身を指すために使い始めたものではありません。しかもそれは蔑称的なものであったようですが、後に、彼らはむしろそう呼ばれることを誇りに思い、自分たちの方から用いるようになったようです。それ以前、キリスト教は「この道」(使徒言行録9・2)と呼ばれ、それゆえ、紀元43年ごろ、シリアのアンティオキアで、イエスの道に従う人々が「キリスト者」と呼ばれるようになったと言われます(同11・26)。

一人の人間がどのようにしてキリスト者となるのか――聖書はそのことについて、さまざまな召し出しの場面を描いています。例えば、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1・17)――そう言ってイエスは、湖で網を打っていたシモンとその兄弟アンデレを招きました。パウロの召命は劇的です(使徒言行録9・1-19、22・6-16、26・12-18)。「わたしが選んだ器」(使徒言行録9・15)として、イエスは自分を迫害していたパウロを有無を言わせず捉えます。その他にも、たとえ聖書には記されてはいなくても、多くの人びとがそれぞれのイエスとの出会いを体験したことでしょう。

イエスと弟子との関係は、極めてユニークなものでした。まず、弟子が師を選ぶのではなく、師が弟子を選びます。弟子となる者は、「一切を捨てること」(ルカ14・33)、すなわち、凛とした覚悟が求められます。その意味で、キリスト者となることは、確かに「狭い門」(マタイ7・13)であり、自分を捨て、日々、自分の十字架を担いながらイエスに従うことが求められます(ルカ9・23)。しかし同時にまた、イエスと労苦を共にする者は、その喜びにも与ります(二コリント7・4参照)。
真のキリスト者となること、それは決して、一時的な感情の高まりや無分別な判断によるものではありません。ある種の落ち着きが必要です。単純で素朴な心でイエスのことばを聴いて悟り(マルコ7・14)、腰を据えて(ルカ14・28、31)、彼の招きに応えることが大切です。しかしそれは、私たちのうちに常に揺ぎない確信があるというわけではありません。私たちは弱く不確かな存在であり、たとえ誠実であろうとしても過ちを犯し得る存在です(ローマ7・15参照)。しかしそれでも、イエスの真心に自らを託したい、その心に偽りはありません。パウロが語るように、神は「世の無力な者」(一コリント1・27)を選ばれます(申命記7・7参照)。自分の弱さ、あるいは自分が取るに足りない者であることを謙虚な心で認めるとき、私たちは真のキリスト者となる一歩を踏み出すことができるのではないか、そう思います。

http://seseragi.jesuits.or.jp/sasage/0710-1.htm

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FOOTPRINTS(あしあと)

Posted by Shota Maehara : 2月 12, 2013

FOOTPRINTS

One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
“Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I’m aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don’t understand why, when I needed You most,
You leave me.”

He whispered, “My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you.”

copyright(C)1964 by Margaret Fishback Powers

footprints

あしあと
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワーズ
translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association

 

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いつくしみ深き(賛美歌312番)ーWHAT A FRIEND WE HAVE IN JESUS

Posted by Shota Maehara : 2月 11, 2013

WHAT A FRIEND WE HAVE IN JESUS

作詞: Joseph Scriven (1820-1886)
作曲: Charles Converse (1834-1918)
What a friend we have in Jesus, all our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry everything to God in prayer!
O what peace we often forfeit, O what needless pain we bear,
All because we do not carry everything to God in prayer.

Have we trials and temptations? Is there trouble anywhere?
We should never be discouraged; take it to the Lord in prayer.
Can we find a friend so faithful who will all our sorrows share?
Jesus knows our every weakness; take it to the Lord in prayer.

Are we weak and heavy laden, cumbered with a load of care?
Precious Savior, still our refuge, take it to the Lord in prayer.
Do your friends despise, forsake you? Take it to the Lord in prayer!
In His arms He’ll take and shield you; you will find a solace there.

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて
などかはおろさぬ 負える重荷を。

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ。
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん。

いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて いたわりたまわん。

「日本基督教団讃美歌委員会著作権使用許諾第2414号」

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「時」と「心の傷」が他人の苦しみを癒す-『東京家族』から『東京物語』へ

Posted by Shota Maehara : 2月 5, 2013

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昨日私は山田洋次監督の『東京家族』を観に行きました。なぜなら、お世話になっている方々から是非観た方が良いと薦められたからです。私は大の小津安二郎ファンでしたので傑作『東京物語』の現代版リメイクということで期待と不安をもって出かけました。結果から申し上げますと駄作でしたが、それにも一定の効果があるものです。つまり、原作の素晴しさがコントラストの中でなお一層浮き立つということです。それによって、私は小津安二郎の『東京物語』こそ今も現代人の胸を打つ傑作だと考えるようになりました。ではそれはなぜでしょうか。それをこれから両者の比較も織り交ぜながら説明していきたいと思います。

まず、私が原作『東京物語』に感動し、筆をとるのはこれで三度目です。私はこれまで「時間」というテーマでこの作品の素晴らしさについて書いてきました。この作品にあるのは二つの時間の流れです。一つは尾道という田舎の時間。そして、もう一つは、東京という都会の時間です。言うまでもなく、前者はゆっくりとした時間の流れであり、後者はせわしない時間の流れです。尾道から両親が東京にいる大人になった子供たちに会いに来る出来事によって、この二つの時間が交差します。その結果、息子たちは皆仕事で両親の相手をしてやることができないのです。両親は何となく疎外感を感じますが、そんな彼らを東京見物に連れて行ってくれるのが戦争で死んだ長男と結婚した義理の娘・紀子です。両親は奇妙なことに実の子供たちよりも元は他人であるこの義理の娘の親切な行為から、いたわりや愛情を感じます。

34dfdd6bced36a877a52c7dac5c8475f戦争未亡人の紀子はいわば過去の時間に属する人です。なぜなら、大切な夫が戦争で死んでしまった日から時間が静止しているからです。だからこそ、戦後の高度経済成長を迎えているテンポの速い東京で、唯一尾道から来た両親と時間を共にすることができたのです。彼女にとって両親は無情に過ぎていく時間の中で自分の夫を思い出させてくれるいわば過去に属する存在だったのかもしれません。このことが奇跡的にも心の交流を東京の中で可能にさせたのです。私はかつて聖書的な観点から、お金ではなく、自分にとってかけがえのないもの、つまり人生の時間を犠牲にして、他人と一緒に時を過ごし、話に耳を傾けるということこそが愛(アガペー)であると主張しました。言い換えれば、他者と時間を共有することの中に愛(アガペー)があり、それがこの映画のテーマだと主張しました。ただし、『東京物語』の本当の魅力は語り尽くせていないとも考えていました。

しかし、ふと山田洋次監督の『東京家族』を観ていた時、その語り尽くせていない大事なテーマが分かったような気がしました。山田洋次監督の現代版では、戦争未亡人の紀子の代わりに、フリーターの次男昌次と震災のボランティアで知り合った紀子を登場させていますが、観ているとどうもちぐはぐな印象を受けます。なぜなら、なぜ彼らだけが両親と心の交流が生まれ得たのかという決定的な根拠が時間以外に見当たらないからです。

確かに山田洋次監督は、フリーターの昌次に将来への不安を語らせ、紀子という支えによって自立していこうとする若者の姿を温かい眼差しで描いています。昌次は彼女を仲立として、母親と心の交流を深め、やがて長年わだかまりのあった父親とも和解するという形でドラマは終わります。ここに山田洋次監督が一貫して描いてきた社会から疎外されてきた存在に大切な役割を与えるというモティーフを垣間見ることができます。おそらく、実家から上京してきて居場所がないと感じる老いた両親と家族や社会から居場所が無いと感じているフリーターの青年を向かい合わせることで山田監督は両者の心の交流を可能にしようとしたのでしょう。

東京物語それにもかかわらず、原作である小津安二郎の『東京物語』と比べ、作品の深さというものがあまり感じられません。まるでテレビで放送されている連続ドラマを見終わったような浅い感動しか呼び起こしません。では、それはなぜなのでしょうか。

私はここに小津安二郎監督の『東京物語』のもうひとつのテーマが浮かび上がってくるように感じます。つまり、原作で妻に先立たれ故郷にひとり残された父親の心の痛みに義理の娘・紀子だけが時間をとって寄り添えるのは、彼女もまた愛する夫を失ったという「心の傷」があるからなのです。一見すると実に不思議なことですが、私たちは自分の強さや成功を分かち合うよりも、自分の弱さや失敗を分かち合い、深い同情を寄せることによって、相手を真に癒すことができるのです。これは一種の「逆説」(パラドックス)だと言っていいでしょう。新約聖書は次のように私たちに教えています。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」-コリント人への手紙 第二 1:4

もちろん比較することは不毛かもしれませんが、私は原作で紀子が戦争で心の傷を抱えていたからこそ、逆説的に妻を失った義理の父と真にいたわりのこもった心の交流ができたのだと思うのです。この映画が持つ深い感動の奥底に何か観ている私たちをを癒すような力があるように感じるのはそのためなのではないでしょうか。

■参照

現代人にとって愛とはなにか―『東京物語』(小津安二郎)が語るメッセージ

『東京物語』試論―「時間」の共有をめぐって

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教会における若い信徒へー「きちんと悩もう。そこに主は寄り添ってくれるのだ。」

Posted by Shota Maehara : 1月 26, 2013

asking_for_help_from_christ教会における若い求道者や受洗者が霊的に成長していくために、周囲の大人がどう向き合っていったらよいかを祈り考えていたところ、その祈りに対して主が答えを示されたように感じた。私がふいに思い出したのは、昨年行われた日本同盟基督教団の宣教121周年記念大会でKGKキリスト者学生会主事の大嶋重徳さんがしてくれたスピーチであった。大切な内容であるので分かち合うために私がここに要約してまとめることにする。

話に先立って大嶋主事は、今の時代がすべてが相対的な価値しか持たない「ポストモダン社会」であるという点を強調された。その上で、まず聖書に見る若者の特徴、長所として「きよさ、力強さ、将来性、希望」を挙げ、また短所として「葛藤、混乱、未完成性、途上性」を挙げられた。そして、青年期特有の課題と若者を取り巻く現状を次のように分析する。

1.<青年期特有の課題>
①本当の自分とは何かというアイデンティティの問題
②愛するとはどういうことかという問題
③どこに進むべきか、何をやるべきかという進路の問題

2.<若者を取り巻く現状>
①家庭の複雑さ
②性的な倫理観の変化(特に女性)
③優しすぎる学生(KYなど)
④判断基準がフィーリング(心が合えばO.K.)

これらのどれもが若者と日々接していて頷けるものばかりだが、最近の若者の傾向としては、その多くが心に安らぎを求めて教会に来るが、神様を感じたいという理屈抜きのスピリチュアルな人が多く、信仰もまた相対化で押し付けられるのを嫌い、だんだん聖書を読まなくなっているという。

多くの教会の大人の信徒たちはこうした若者に対して、奉仕の失敗を責めたり、自分たちの立派な信仰を語ろうとしてしまう。そして、最後は若者の成長のなさに失望してしまうかもしれない。

しかし、教会に求められるのは次のようなものであると大嶋主事は語る。すなわち若者に届く説教、聖書の学び、特に「失敗に付き合う大人達」である。言い換えれば聖霊が教会に寄り添うように「若者のそばにいて励ます大人の存在」だ。その際には立派な信仰や成功談よりも、失敗や挫折の共有が大切であると語る。

次に、教会と若者の関係について重要だと思う指摘を以下に引用する。

3.<教会と若者の関係>

①「キリストのからだなる教会は、成長し続ける有機体であり、地上では終末の完成を夢見る存在。決して完成しない「途上性」と「未完成性」を持った存在」

②「教会は、歴史の中で絶えずその傍らで教会の成長を忍耐とうめきを持って執り成してこられた聖霊なる神の存在によって成長してきた。」

③「若者の側で執り成し、祈り、失敗に付き合い、諦めずに祈り続ける存在は、キリストのリアリティーを差し出すことのできる教会へと成長させる。」

④「教会は、自らと同じく未完成で途上にある若者と共に生きることによって、健全な自己認識をなし、聖霊論的な教会形成をなすことができる。」

⑤「若者宣教は、教会が伝統と呼んでいたものの本質を問い、我々の受け継いできた信仰の告白を再点検される営み。」

⑥「教会が若者と生きることは、自らが真の教会として生きる出来事である。」

では、そのような教会の役割に目覚めた大人達は、具体的に若者に対してどう接していったらいいのだろうか。それは、何よりも若者に寄り添って「忍耐を持って祈る」ことだと大嶋主事は言う。さらにこの点もまとめておこう。

4.<忍耐を持って祈る>
①時間をかける。
②一般的な若者などどこにもいない、目の前にいる若者こそ、若者伝道の出発点。
③同労者としての尊敬を持って、人格的に交わる。

最後にKGKの大嶋主事のメッセージとして私が強く心に残った言葉をここに書き記しておきたい。それは若者と長く向き合ってきたからこそ言える本当に彼らの心を知っている人の言葉だ。すなわち、「きちんと悩もう。そこに主は寄り添ってくれるのだ。」

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「死線を越えて―賀川豊彦物語―」

Posted by Shota Maehara : 1月 26, 2013

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日々雑感ー山室軍平と新島八重について

Posted by Shota Maehara : 1月 26, 2013

山室軍平1ここ数ヶ月日本の優れたキリスト教徒の著作や説教を読んでいます。その中で、山室軍平という方がおります。日本救世軍の創設者の一人で、キリスト教社会事業家として知られている方です。

日本救世軍の創設者の一人で、キリスト教社会事業家として知られている方です。また新島襄の同志社大学の出身で、「平民の福音」という優れた本を残しています。

その繋がりで新島襄の妻、新島八重の葬儀の際には彼女の遺言により説教を行いました。

明治から昭和にかけて、日本には優れた信仰者であり、知識人でもある方が日本に大きな影響を与えていたのだと思わされる日々です。その中には私と同じ大学出身賀川豊彦という方もあり、自分のことを省みています。

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