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Shota Maehara's Blog

Archive for 2008年4月

 絶海の孤島としての文明

Posted by Shota Maehara : 4月 26, 2008

近代市民社会は虚構(フィクション)であり、しかるに自然(ネイチャー)に帰ろうという心根には頽廃が潜んでいる。自然とは単に安らぎだけを与えてくれる慈母のような存在ではなく、恐ろしい災害や天変地異によって人間を飲み込んでしまう畏怖すべき存在だ。だから近代社会はそれを少しでもコントロールしようと自然を模倣し、そっくりの人工楽園=都市文明を築き上げた。確かに19世紀以来産業文明は自然に対する畏怖を忘れ、傲慢になり、すべてをコントロールできると勘違いしてきた。しかしこれは、文明そのものを放棄することを意味しない。我々は文明の中だけでしか生きていけないか弱い存在だからだ。要は文明と自然とのバランス=調和を取り戻すこと。つまり、人間の理性に基づく「自制心」(吾唯足知)によって戦争や消費への欲望を抑制できるかにかかっている。ヴォルテール『カンディード』を参照せよ。

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現代人は「赦す」ことができるのか―山口県光市の母子殺害事件の少年に死刑判決

Posted by Shota Maehara : 4月 24, 2008

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歴史を学ぶに際して重要なことは、結果から断罪するのではなく、今まさに自分の目の前で起こりつつある状況として深く考えてみることです。こうした「歴史」の見方は、日々のニュースに私たちが接するときにも当てはまります。

たとえば、こいつは何て酷いことをしたのかということばかり目が行きがちです。しかし、立ち止まってなぜ事件の当事者はこのような犯行に及んだのかと見ていくことがとても大切です。なぜなら、歴史にしても、事件にしても、部外者の立場からはなんとでも言えてしまいますから、気付かないうちに私たちはとても傲慢になってしまう恐れがあります。

少なくとも事件を審理する法廷ではそうであってはなりません。結果に対して単に犯人の責任を追及し処罰するのが目的でなく、審理の過程でその背景を十分に明らかにし、事件の全容を解明していくことが近代司法制度の存在理由(レーゾン・デートル)なのです。それを裁判を迅速化するために早く審理を切り上げて済まそうとするならばただの仇打ちです。いわば文明から野蛮への退行現象にほかなりません。

だからこそ、裁判制度はつねに被告からも原告からも独立しているべきなのですが、近年悲しいかな世論やマスコミに引きずられ気味です。特に、少年犯罪の場合、個人の責任だけでなく、その犯行まで至らしめた社会の構造や生い立ちが無視できません。この社会の側の責任を棚上げにしてただ被告に死刑を求刑するだけでは済まされません。むろん被害者の家族が犯人を殺してやりたいと思うほど憎むのは仕方ないことでしょう。だからこそ我々は一緒になって殺せなどと叫ぶべきではない。犯行に至った動機や背景をできるだけ突き詰め、原告・被告ができるだけ納得して刑に処せられるようにする義務が裁判所には課せられているのです。もしそうしなければ今度は逆に被告人の遺族の悲しみと恨みが残り続けるかもしれません。

もちろん、こうして犯行に至るまでの被告の精神状態の不安定さや生い立ちの酷さを知ったとしても、被害者の遺族が刑に服す被告の少年を許すまでには途方もない年月と努力が必要でしょう。しかし、こうした一八歳の少年を犯罪に追いやる原因を探り、社会がそれを一つ一つ取り除いていくのでない限り、こうした少年事件の再発を防ぐ手立てはありえないのです。

一八歳で母子の命を奪い、自らも残りのわずかな人生を牢獄で過ごし、やがて死刑台で終える人生とは一体何なのでしょうか。事件の根源は単に個人の心の闇だけにあるのではありません。むしろより深刻なのは社会の闇なのです。神戸の少年Aの事件をはじめ、この種の少年事件には、競争社会から脱落した人間にも受け皿になる会社や地域そして何より家族が近年急速に崩壊している社会的背景があります。そして希望や安らぎを失った人々はもはや自らの中にある嫉妬や暴力を抑える術が見つからないのです。こうした現状を解決することなく、裁判の迅速化と処罰の強化を推し進めることはむしろ国民が自らの首を絞める結果に繋がりかねません。

いずれにしても、裁判は目的ではなく手段なのです。要はできるだけ犯罪者を社会のなかで抑制していく仕組みをつくるべきであって、何でもかんでも行政や司法の手に委ねればいいいと言うものではない。それは市民のための社会ではなくて、国家のための社会を生む危険があります。だから、たとえ「罪を憎んで、人を憎まず」の言葉通りにはいかなくても、過ちを犯した人間に憐れみをかける人間的な感情だけは失いたくないものです。

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宮部みゆき『蒲生邸事件』―「まがい物の神」から「当たり前の人間」へ

Posted by Shota Maehara : 4月 24, 2008

蒲生邸事件 (文春文庫)

蒲生邸事件 (文春文庫)

今日は朝から雨が降り続いている。それでももう春だと感じさせる日も多くなってきたこの頃である。さて、今からちょうど七二年前、しんしんと雪が降り積もる一九三六年二月二十六日の帝都・東京では、日本が太平洋戦争へ転げ落ちる転換点ともなった陸軍の青年将校らによるクーデター・暗殺事件、いわゆる「二・二六事件」が始まろうとしていた。この小説の中心舞台はその現場からほど近い退役した陸軍大将・蒲生憲之の邸宅である。ここで、宮部は歴史的想像力を駆使しながら、タイムスリップした予備校受験生・尾崎孝史を登場させ、彼の肉眼から歴史をたんに結果から見るのではない彼女自身のユニークな視点をそっとさしだしてみせる。

一九九四年二月二五日、平凡な一八歳の青年である孝史は、親の期待を背負いながらも受験に失敗し、そのため予備校の試験を受けるべく再び上京する。宿泊先は、かつてと同じくホテルの墓場ともいうべき平河町一丁目のおんぼろホテル。そこはかつて旧蒲生邸の跡地であった。そのホテルの壁にはレンガ造りの洋館とその主人であった元陸軍大将・蒲生憲之の写真が飾られてあった。わきには、五八年前の明けがたに起こった二・二六事件と重なるようにして蒲生憲之が自決し、残された遺書には軍部への批判と未来の日本が辿る悲劇が先見の明をもって描かれていたとする説明書きが添えられていた。

だが、その夜、ホテルは原因不明の火事に見舞われる。もうだめかと思われた瞬間、孝史の前に現れたのは、その日同じホテルの客として宿泊していた謎めいた男「平田次郎」であった。燃え盛る火の手から逃れるため、彼らは異次元を抜け、帝都・東京にある蒲生邸の庭に降り立つ。そう平田は、時間旅行の特殊能力によって現代から二・二六事件前夜の旧蒲生邸へ孝史を救いだしたのだった。降りしきる雪の中を銃をもった兵士がザックザックと行進してゆく。やがて孝史はただならぬ事態に自分が巻き込まれつつあることに気づき始めるのだった…。

この四日間の陸軍将校の決起とその鎮圧の歴史的ドラマを背景として、異能力者であるがゆえの平田とその叔母の苦悩、蒲生邸での一族の確執、そこで働く女中・向田ふきへの孝史の淡い恋、それらが二六日に自決した蒲生憲之が使用したはずの銃が忽然と部屋から消えた出来事をきっかけにして微妙に交錯していく。歴史を変えることに絶望する平田、そして愛するふきの最後を知りその運命から彼女を救おうとする孝史、そして軍部独裁による日本の無残な敗戦の事実をあらかじめ父から知らされて生きる長男・蒲生貴之。

平田は自らをこう呼ぶ―オレは「まがい物の神」だと。なぜなら、時間旅行者は個々の歴史的事実を変え得たとしても、全体の歴史の流れは変えることはできない。なにより、あらかじめ結果を知った立場から、同時代の人々の愚かな生き方を批判する自分はたんに「抜け駆け」をしているにすぎないのだから。

ではなぜ平田はここに来たのか。安穏とした現代からこの危険極まりない戦時下へ。かつてあった日本人のぬくもりを求めてか。いや違う。平田はある一つの答えに辿りついたのだ。すなわち、この時代で生き続けること。歴史を高みから見おろすまがい物の神の立場ではなく、同時代の当り前の人間として手探りでこの時代を生き抜くこと。その時、歴史を知るがゆえに変わらないと知りつつ努力し批判もする叔母や蒲生憲之の態度を許し、同じく高みから歴史を見ることを余儀なくされた自分自身をも赦せるようになるかもしれないと平田は孝史に語る。

かくして、まがい物の神は、当たり前の人間となり、そして「赦し」に辿りつく。この宮部の視点こそ彼女自身の作品を照らすカギともいえる歴史の光学である。「まがい物の神」→「当たり前の人間」→「赦し」というこの移動は、新約聖書におけるイエス・キリストの物語を想起させる。イエスは神のひとりごとして、地上に降り立ち、人々と苦しみを分かち、その愚かさを身に受ける。最後には十字架にかけられながらも、すべてをお赦しになる。

後世のわれわれは歴史を結果から断罪する。しかしその時われわれもまた「まがい物の神」なのだ。そこで自分の傲慢さに恥じ入り、過去の歴史をもう一度「当たり前の人間」として生きてみよう。神としてではなく、一人の人間として同時代を生きてみてはじめて、その時代に生きた人たちの様々な善行や過ちも含めて、きっと赦せるときが来るのではないか。何よりも自分自身に対してもきっと赦せるときが来るだろう。歴史とは、どこまでも当たり前の人間として生きるほかない、そういうものだから。不思議なことに、そこにわれわれの未来への希望もまた生まれ得るのだ。

〝時は過ぎ去るとき、その痕跡を残す〟―――タルコフスキー 『サクリファイス』

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タルコフスキー『サクリファイス』―核戦争の黙示録

Posted by Shota Maehara : 4月 24, 2008

サクリファイス

サクリファイス

ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキー監督が、1986年にスウェーデンで撮りあげた遺作。1932年生まれの監督は、この年12月28日にパリで亡くなった。死因は肺ガン。享年54歳だった。タイトルの『サクリファイス』とは、「神への生け贄」や「犠牲」という意味だ。映画の冒頭にダ・ヴィンチの「東方の三賢者の礼拝」が登場し、バッハの「マタイ受難曲」が流れ、物語の導入部に「はじめに言葉ありき」というヨハネによる福音書の冒頭部分が引用されていることからもわかるとおり、この『サクリファイス』の中にはキリストの受難というエピソードが地下水のように流れている。物語はキリスト受難劇を正確になぞるわけではないが、ひとりの男が世界を救うために我が身を犠牲にするという筋立ては同じだ。だがキリストと異なり、この男の犠牲は感謝も評価もされぬまま、精神病の発作として処理されてしまう。

海沿いの小さな家に暮らすアレクサンデルという初老の男が、この映画の主人公だ。高名な役者としての人生を捨て、今は評論家や大学教授として暮らしている無神論者。そんな夫に妻は不満を感じている。夫婦仲はあまりよくない。アレクサンデルの愛情は、つい最近のどの手術をしたばかりの幼い息子だけだ。言葉を発することができない息子に向かい、アレクサンデルは自分の思いを語り続ける。大小の不満はあるが、まずまず穏やかで平和な暮らしだ。だがその日々は、激しい轟音と床に飛び散ったミルクによって寸断される。ミサイル戦争が勃発したのだ。やがて世界は滅びるだろう。電話も電気も不通になる。死の恐怖におびえる家族や友人たち。アレクサンデルは家族を救うため、信じていなかったはずの神にある願い事をするのだが……。

この映画のラストは、少々意地悪だ。アレクサンデルが神に祈り、その願いが聞き入れられたため、彼は約束どおり自分自身を犠牲にする。ところが映画を観ていると、世界破滅というエピソードがはたして現実だったのか、それともアレクサンデルの見た幻影、あるいは夢だったのかが判然としない。滅びてゆく世界はそれまでの映像と異なり、極度に色を制限して描かれ、最後には完全なモノクロームの世界になってしまう。これは映画を観る者に「現実とは違う別の世界」を感じさせる。もしこれが夢だったとしたら、夢の中での出来事の結果として、アレクサンデルは取り返しのつかない犠牲を支払ったことになる。まさに狂気の沙汰だ。彼ははたして救世主なのか?

それともただの狂人なのか? その境界線は曖昧であり、混沌としている。

しかしこの曖昧さや混沌こそが、この映画で描きたかったことなのだろう。そもそもキリストが十字架の死によって全人類の罪を贖ったという信仰だって、信者以外の人間にとっては与太話にすぎない。偉大な行いは、常に狂気すれすれのところにある。

(原題:Offret / Sacrifiacatio)

(転載→ http://www.eiga-kawaraban.com/02/02091003.html)

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仏教界の変化を読む―教えを説く仏教から行動する仏教へ

Posted by Shota Maehara : 4月 19, 2008

3月21付産経新聞で、同紙のモスクワ駐在・遠藤良介記者が、面白い短信を紹介している。

遠藤記者が紹介しているのは、国営ロシア通信が3月17日に配信した、チベット騒乱に関する、同社のコスイレフ評論員の論評である。以下にその1部を引用する。

「死傷者の半数以上は中国政府の関与しない放火事件で出た。騒乱が発生した場合、まず最も厳格な手段で、人々の生命と財産を守り、無秩序に歯止めをかけるのがあらゆる政府の義務だ」

と、国営ロシア通信はまずは中国政府にエールを送る。とまあ、これは同様の問題を抱えているロシアのメディアとしては、別にどうということはない。

耳目をひくのはこの後の部分。

「世界的な規模で攻撃的な、少なくとも政治的に活発な仏教が現れてる」とロシア通信(写真はイメージ、ロイター) 「注目に値するのは、世界的な規模で攻撃的な、少なくとも政治的に活発な仏教が現れてることだ。チベット情勢との関連は不明だが、昨年のミャンマー反政府デモでも僧侶が中心的役割を果たした」と、仏教徒を引き合いに出したことである。これはある意味、衝撃だ。

仏教、あるいは仏教徒というのは、記者の認識では、3大宗教の中では、最も他者に対し寛容的である。ほかの2大宗教が「唯一神教」であるのに対し、仏教は宇宙の万物(さらには過去も未来も)すべてを包含する。

世界史的に見ても(日本では一向宗のような例外はあるものの)、総じて、暴力を使うような過激な行動は少ない、という印象である。仏教はむしろイスラム教あたりから攻められ、侵され、偶像を否定するイスラム教徒によって仏像を破壊されるという受難の歴史の方が印象的だ。現に、近年に入っても、アフガニスタンのバーミヤン大仏が(すでに信仰の対象ではなく文化的遺産ではあるが)、タリバンによって破壊された、という事例もある。

ロシアの通信社が、チベット問題、あるいはミャンマー問題を、「政治的に活発」「世界的な規模で攻撃的」という表現で、「仏教」批判というかたちで切り込む論評を配信した。

要するに、チベットの問題も、ミャンマーの問題も、本質は「人権」問題でもなく、「自由化・民主化」問題でもなく、また「独立・自立」問題でもない、宗教問題だ、と提起しているのだ。

(以下省略)

(仏教徒は過激派たりうるか―チベット問題を仏教問題として捉えるロシア通信の論評斉喜 広一(2008-03-31 13:30)/http://www.ohmynews.co.jp/news/20080330/22794)

■関連

阿満 利麿「仏教と社会運動―エンゲイジド・ブッディズムとは」http://www.sousei.gr.jp/kouhou/sousei/130/130_4.html

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汝の敵を愛しなさい―マタイ福音書第5章44節

Posted by Shota Maehara : 4月 12, 2008

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かつて私の大学の英語の講義で、クリスチャンのことに話が及んだ。その時担当講師はふと教材から顔をあげて、「私は、クリスチャンではありませんが、時として出会うクリスチャンの中には人格的に想像もできないくらいに素晴らしい人がいるものです。」とつぶやいた。その時の表情は印象的だった。

今はもう彼の名前は忘れてしまったし、とりたてて彼の講義が素晴らしかったわけでもない。しかし、この場面だけは鮮明に記憶に焼き付いていて、何年もたった今でも、彼が出会ったこのクリスチャンがどんな人物だったのかと羨ましく感じながら想像の羽を広げてみることがある。

先日2005年に亡くなった教皇ヨハネ・パウロ2世がはやくも聖人として認められる可能性が出てきたとニュースで報じられていた。初のスラブ出身の法王として、彼は民族と宗教の和解のために過去にキリスト教が犯した歴史的な過ちを謝罪して回る旅に出た。そして、彼は人々から「空飛ぶ教皇」と呼ばれるまでになる。彼の巡礼の旅のルーツは、彼の幼少時代、第二次世界大戦においてナチスドイツによって、多くのユダヤ人の友人たちを亡くした体験であった。

恥ずかしながら私の認識はこの程度であった。しかし、教皇が1981年サンピエトロ広場にてファティマの聖母マリア記念日の行事に出席した際、トルコ人メフメト・アリ・アジャに狙撃され死の淵をさまよった。やがて手術が成功し、一命を取り留めた彼は、自らを撃ったこの犯人のいる留置場に面会に訪れたという。そして、数分の面会を終え法王はこう述べたと伝えられている―「私たちが話したものは、彼と私の間の秘密のままでなければならないでしょう。私は彼を許し、完全に信頼できる兄弟として話しました」。私は生れてはじめて新約聖書のマタイ福音書にある「汝の敵を愛せよ」という場面を目撃したような気がして強烈なショックを受けた。

確かに宗教は人を救いもするが、人を狂わせもする。だから宗教なんていらなくたっていい。もしかすると私の大学時代の英語講師はそう思っていたのかもしれない。だが、何かを回想するようにして、彼の口から出てきたのは先の冒頭の言葉だった。つまり、我々のように神の前で人格を高めようと努力することなく生きている人間ごときが一体何を言えるというのか。こうした恥ずかしさにも似た気持ちが彼のこころに一瞬沸き起こったのではないだろうか。たぶん私がこのニュースに接して身内にわき起こった感覚もそういうものだったに違いないからである。

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民衆芸術について

Posted by Shota Maehara : 4月 10, 2008

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芸術や思想は、民衆の生活の喜怒哀楽の中から生まれる。生活を営む民衆はそれ自体一種の知識人なのであり、他方で知識人もまた民衆なのである。やがて、その中から民衆の娯楽を「芸」にまで磨きあげ、それを生業とする独自の技能者が生まれてくる。これを「民衆的知識人」と呼ぶことができるだろう。

特に日本では、ヨーロッパや中国や韓国とも違い民衆と知識人が切り離されることなく、独自の共通した文化を形成してきた。たとえば歌舞伎、落語、相撲、華道、茶道、俳諧、戯画(漫画)などである。今日でも、欧米の知識人は、サッカーや野球やまして漫才の話をしないが、日本人ならばほぼ誰でもその話題で談笑できる。このことが日本の文化を語る上で大きな特徴となっている。

これは誠に驚くべきことであるが、こうした分厚い民衆文化が存在していることが日本文化の豊かさを証明する一因ではないだろうか。今後、西欧や中国の大陸における知識人偏重の思想・芸術をこうした周縁的な視点から問い直す必要が出てくるだろう。

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 人を感動させることこそ芸術だ

Posted by Shota Maehara : 4月 10, 2008

映画は、ひたすらそれを見る人の幸せを願ってつくられねばならない。―山田洋次『映画をつくる』

芸術とは人を楽しませることだ。―柳田国男

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 北一輝再考―社会の亀裂と皇国的社会主義への道

Posted by Shota Maehara : 4月 3, 2008

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1. グローバリゼーションと民衆の運動 

近年、グローバリゼーションに対抗する地方分権・デモクラシーの新たな可能性を政治と経済の両面から理論化する仕事を続けてきた。その考えは、ようやく「想像の共和国」としてまとまりつつある。本質的に国家理性の画一化・合理化に抗する民衆の運動は、ポリフォニック(多声的)であり、それゆえ政治経済の面では反国家産業主義的である。

また、本質的に歴史の多様性を重んじるという点において、それは反マルクス主義的である。なぜならば、マルクス主義運動は、現実から理論を検証し作り上げるのではなく、理論によって現実を裁断してきたからである。それゆえこの運動はあたかも国家官僚の如く、上からの指令によって思想や実践を統制するという愚を犯し、それぞれの土地に暮らす人々が何を望み、また日々の生活にいかにあえいでいるのかという基本的な事実から目をそらしてきた。

ただここで私自身考えておかなければならない点がまだ残されている。それは現下の教育・医療・福祉など生命の根幹領域への商品経済の侵食を防ぎ、民衆の自治を実現するためのヴィジョンを提示する一方で、もし万が一、私たちの社会が陥るかもしれない最悪の事態を想定して、これに備えておかなければ片手落ちになるということである。

では社会が陥る最悪の事態とは何なのか。その手掛かりとなるのは、イヴァン・イリイチの次の言葉である――「最善の堕落は最悪である」。この言葉を糸口にして、私は自分の描いた代替案の中から生まれ得る最悪のシナリオとは何であろうかと考え始めた。

2.ナショナリズムと社会主義の結婚

私の念頭を離れなかった懸念は、たんに国粋主義的な右翼でもなく、まして国家に反対する社会主義的な左翼でもない。むしろ格差や戦争を早期に終わらせるべくクーデターと結びついた愛国的な社会主義者の存在である。このナショナリズムと社会主義の結婚こそが脅威であり、その代表的な論客が昭和の二・二六事件を引き起こした北一輝である。

私は、最悪のシナリオとしてこれ以外の可能性を排除するつもりはない。しかし、もし私が考える道がいま現在提示し得る民主主義への最良の道であると自ら信じるならば、最悪のシナリオはこれを反転させたものとして徹底的に検証されるべきであろう。そして何よりの証拠に私自身が彼の思想にいわく言いがたい魅力を覚えてしまうのである。なぜなら彼の思想は左翼ならではの具体的な社会改良案と右翼ならではの暗殺という即時実行手段とを共に備えているからである。

3. 国家とテロの弁証法

歴史的に、明治維新は幕末の尊王論・尊王攘夷運動の強い牽引力によって生み出される。一方で為政者達はその力を利用して幕府を転覆させ、他方でその暴走を一定限度に食い止め、また表面上は排除することで、近代国民国家としての体裁を整えることに成功した。ある意味で、あらゆる国家は暴力によって生まれるが、成長の過程でその暴力からの出自を隠し通さなければならない。

しかし、自らの国家に運動体としての生命力を与えたものが自民族中心的且つ異民族排他的な皇国思想であり、それに突き動かされた人々の力であった以上それを完全に排除し去ることなどは不可能である。実際に、この思想的潮流は明治に社会主義者の幸徳秋水らに流れ込みそれを政府は大逆事件で処刑するも、昭和になって再び北一輝や大川周明の思想を生みだし、それに共鳴した陸軍将校のクーデターによる「昭和維新」(天皇の御親政)に結実するのである。かくして近代国民国家を生みだしたエネルギーは、それ自身を食い破るエネルギーにもなる。これら二つは同根なのであり、互いが互いを強化する関係ともなっている。

4.吾、皇国を憂うるがゆえに革命を欲す

さらに、ここには深刻な問題が横たわっている。それは、国体(=天皇制国家)を守り強化することで、グローバリゼーションがもたらす政治経済問題(人口、領土、食糧、エネルギー)に対処しようとして力をふるった人々が生粋の右翼ではなく、その多くが左翼からの転向者であったという逆説である。たとえば、北一輝はかつては幸徳秋水と交流のある社会主義者であったが、のちに急速に右傾化(転向?)して天皇の下で社会改造を目指すべく『日本改造法案大綱』を著した人物だと言われている。

歴史が証明してきたように、本当に現実を捉え得た思想は最良のものにも逆に最悪のものにもなりうる。つまり、それはもろ刃の剣であって、民衆の自治と生命の根幹を守ろうとする「想像の共和国」の構想もその道を一歩誤れば、北一輝の皇国の社会主義革命の出現を防ぐことはできない。実際問題として今後もし格差やテロや戦争の脅威が深刻さを増してくれば、世論はより民族主義的な立場から国家の教育・医療・福祉・軍事における機能不全を糾弾しようとする危険性は十分にある。そして次に現れるのはかつてとは違う衣装を纏った「国家社会主義」(=ファシズム)であろう。

そうした事態を食い止め、未来へ向かう希望はまだ残されているのかは私には分からない。ただもしこの事態を防ぎたいと思うならば、まずはこのいばらの道を誰よりも熟知することから始めねばなるまい。なぜなら、「天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知すること」(マキアヴェリ)に他ならないからである。

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 「間違い主義」について

Posted by Shota Maehara : 4月 2, 2008

わたしの場合、人間の究極の問題として、自分がまちがっているという可能性は、科学的に考えて排除することはできないというのが、基本的な考えかたです。―鶴見俊輔

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