I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

Archive for 2010年8月

現代文明の「無感動」(アパシー)の根源にあるもの

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2010

日本では、失業やそれに伴う精神的ストレスなどが蔓延し、毎年三万人以上の自殺者が出ている(朝日新聞二〇一〇年五月一三日)。また私の身の回りでも、親戚の十代、二十代の若者が、何がやりたいということもなく、人生の目的もないまま無気力に生きているという話を聞く。人ともうまく付き合えない我が子を親はもう心配でならないという。

もちろん、こうしたアパシー・シンドローム(無感動症候群)に対しては、さまざまな解釈がなされている。例えば時代区分としてとして、近代からポスト近代へ移行したことが大きい。とりわけそれは自由や平等を求める民主化闘争や社会革命、つまり社会的な対立や矛盾の終りを意味している。これをかつてアメリカの国際政治学者、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」と呼び、フランスの哲学者、リオタールは「大きな物語の終焉」と呼んだ。先進国の若者は政治的理念や経済的豊かさを追い求めるでもなく、ただ満ち足りた現在の豊かさの中で消費に喜びを覚える。

私はこうした解釈はあながち間違っていないとも思うが、同時に不満も覚える。なぜなら、終わったといわれる「近代」そのものがすでにそれまでの「感動」を原理とする「情熱の時代」から、無感動でしかも「嫉妬」を原理とする「水平化の時代」への移行であったというデンマークの思想家、セイレン・キルケゴールの歴史的な洞察が私の頭をよぎるからである。次の引用は、彼の『現代の批判』の有名な冒頭部分である。

現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代で、たまに感激に燃えたつことがあっても、如才なく、すぐにもとの無感動におちついてしまう。―『現代の批判』(飯島宗亨訳、一九一頁、白水社)

このように現代を規定したうえで、キルケゴールはかくして反省が優勢となり無感動を展開させるようになれば、それにつれて嫉妬はますます危険なものになるという。なぜなら、≪その嫉妬は嫉妬の本来の意義を自覚するだけの主義(キャラクター)をもっておらず、それは主義なきままに、ぬらりくらり、きょそきょそあたりをうかがいながら忍びあるいて、同じ一つのことばを情勢に応じてさまざまなふうに説明し変えるからである≫と。さらにこうした≪無主義の嫉妬は、優秀なものが優秀なものであるということを理解しない。また、それを消極的に承認することさえ承知しない。むしろ、引きずりおろして優秀なものを卑小化してしまい、それが実際にもはや優秀なものでないようにしてしまおうとする。こうして、いまやこの嫉妬は、現に存在する優秀なものに、また来らんとする優秀なものに敵対するのである≫からと述べている。

このようにみずからを確立する嫉妬は、水平化するはたらきである。情熱的な時代が疾駆し、あるいは興し、あるいは亡ぼし、あるいは建て、あるいは毀つのに対して、反省的で情熱のない時代はその反対のことをする。すなわち、それは窒息させ、妨害し―それは水平化する。水平化することは、いっさいの上がり下がりの動き(アウフヘーベン)をまぬがれる、静止した、数学的な、抽象的な営みである。―同書、(二一七頁)

ここでキルケゴールが当時のデンマークの民主主義的な風潮とその頽廃ぶり、とりわけ風刺新聞「コルサル」の執拗な攻撃に直面していたことを思い合わせるべきである。つまり、私がここから言いたいのは、今日私たちが直面している問題の多くは、ゲーム世代の若者のコミュニケーション不足が原因ではないことはいうまでもなく、それをポスト近代、ポストモダンを迎えた先進国病と認識すべきですらないということだ。むしろ、私たちが真に目を向けるべきは、近代のフランス革命以来続く抽象的に捉えられた「平等」を目指す民主主義の論理的帰結として今日の事態が起こっているのではないかということだ。

確かに、民主主義は権力を分散させることで、権力がある特定集団に独占されることを防ぐ有効な政治制度であろう。その点で、それはベター(better)な政治制度であろう。私もこうしたラッセルの見解に同意する。しかし、それはそのままでベスト(best)な政治制度を意味しないことは言うまでもない。そこには、私の見る限り、民主主義の暴走に対する留め金となるリベラルな個人を生み出すための教育がない。つまり、他者を尊重するための教育がない。またメディアから離れて、自分の頭で問いを立てていく哲学的思考がない。そして何よりも、人間の理性でとらえきれないものへの畏怖がない。

かつては哲学や宗教があった。しかし、こうしたものは功利主義的計算にかき消されていまや見る影もない。こうしたものを単純に復活できないとしても、何らかの重しが民主主義社会に存在しないければ、個人や家庭や地域や国の精神や秩序を安定させてゆくことはできない。この問題は民主主義と聖書を軸に、深く考えていく必要があると思われる。ただし、手始めに暗記偏重の教育に対して哲学的な教育を中等教育(リセ)に導入することを考え始めるべきなのではないだろうか。

広告

Posted in コラム | Leave a Comment »

三浦綾子『塩狩峠』におけるキリスト教の核心

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2010

三浦綾子『塩狩峠』

ある日、父はいつものように夕食をおえると、ソファーにもたれかかりながら今読んでいる本について語り始めた。定年で退職して以来、海外の古典文学を読みふけっている父が今読んでいる作品は三浦綾子の『塩狩峠』であった。父は自分の感動した箇所をひと通り説明し終わると、早速私に意見を求めてきた。私は父の話に共感しながらも、一つだけ不満を口にした。それは、小説を自分自身の問題にひきつけて読んでいないという点であった。なぜなら読書の醍醐味は、対岸の火事として話を読むのではなく、この話はまさに「お前のことだ」と言われているかのような姿勢で読むことにあるからだ。

キリスト教の核心

さらに重要なことに、こうした読書に向かう姿勢は、キリスト教における核心へと私たちを導く。私もまたそのことをこの作品から知らされた一人だった。とりわけ彼女自身の信仰告白との呼べるシーンが強く印象に残っている。そもそもこの作品は北海道の塩狩峠が舞台で駅員で敬虔なクリスチャンである永野信夫が自らの命を犠牲にして、乗客の命を救った実話をもとにしている。このシーンはまだ信仰に入る前の信夫がある伝道師から初めてキリストの教えの核心を突き付けられる場面である。

私:「主人公信夫はキリスト教伝道師伊木一馬を自宅に呼んで、イエスこそ人格を超えた神格を備えた存在であることを信じると告白する。無実でありながら十字架に架けられ、しかも自分を殺そうとする人たちのために《父よ、彼らを許し給え、その為す所を知らざればなり》と祈ることができる。この人こそ神の子であると深く感動したんだ。」

父:「それでキリスト教信者になったの?」

私:「いや、まだ。彼は伊木伝道師にこう問われるんだ―《しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか》。それに対して信夫はこの世の罪を背負うためにと答える。そして伊木はこう告げる―《そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか》と。」

ここで父はコーヒーを入れるために少し休憩をとった。やがて、キッチンから彼が戻ってきて、チョコレートと一緒にブラック・コーヒーを運んできた。それを飲みながら、父は満足そうにして、やがて私の方に向き直った。

父:「それでどうなったの?」

私:「信夫ははじめどうしてもそれが信じられないんだよ。自分はそんなことした覚えはないと言ったら、それじゃあなたはキリストとは何の縁もない人間ですって、ばっさり切り捨てられちゃって。この重要な対話部分を読み上げてみるね―《先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか》、《そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ(略)》。」

なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか

父:「信夫は自分自身をさほど罪深いとは思っていなかったわけだね。」

私:「そう、でもここからが大切なんだ。キリストの処刑を自らの犯した罪と受け止めることによって、人は時代と空間を超えて、古代のイェルサレムでのイエスの死に立ち合うんだ。そうすることによって、キリストの存在は彼らにとって遠く離れた昔の出来事ではなくて、今・ここで起こっている出来事に変わるんだ。こうして人々がこの出来事に自ら罪びととしての意識を持って同時代性を感じ続けるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に生き生きとし、人々に読み継がれていくんだ。」

二人の話はとうとう佳境に差し掛かりつつあった。父もだいぶ疲れ始めているので、私はこれまでの話をここでまとめて切り上げようと思った。実際彼の瞼はもう閉じそうになっていて、まるでゾンビと深夜二人で話しているような孤独な心境だった。

私:「キリスト教は、この罪という概念によって、同時代性=永遠性を獲得したんだ。時空間を超えて、読み手がこの出来事を自分自身の問題として受け止めるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に古びることがない。この内(この世)と外(あの世)とを繋ぐ回転扉のような聖書という不思議な書物は後にも先にも現れないだろうな。これこそ人類史上普遍の傑作であり、後のダンテやゲーテ、そしてドストエフスキーに至るまで今日の文学はこの形式を反復しているに過ぎないと言うこともできるからね。」

父:「(半分眠りながら)なんか難しくなってきたね。つまりどういうこと?」

私:「まあ要するにいつも言っていることだよ。つまり、文学であれ歴史であれ本を読むときには、それを単にストーリーや内容を追うものとしてではなく、自分自身だったらどうするかという主体性が大切なんだよ。だってあらゆる偉大な書物はこれはお前のことだよって挑発しているんだからね。その挑戦にどう応答するかが読書の醍醐味じゃないのかな。」

Posted in 文芸, 書評 | Leave a Comment »

聖なる日々よ

Posted by Shota Maehara : 8月 1, 2010

紫に染まった夕焼け空
一日の幕が静かに閉じる
熱風と陽射しに焼けた街並みが
熱を帯びて佇んでいる

長かった夏の一日が 少年の頭の中で
思い出に変わる
褐色の肌に 鮮やかな浴衣を身に纏って
少女たちは街を泳ぐ
彼らとすれ違う私の胸に 
置き去りにしてきた記憶の手触り
が蘇る 

あの頃、
眼の前の空は無限だった
広がる大地も無限だった
一日の時間も無限だった
それでいてそのすべてが
小さなポケットに収まってしまった

聖なる日々よ、もう一度

(2010.8.1/Akizukiseijin)

Posted in | 1 Comment »