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Shota Maehara's Blog

Archive for 2008年11月

啓蒙と神話の弁証法―貧しき人々と失われた誇り

Posted by Shota Maehara : 11月 30, 2008

九〇年のバブル崩壊から失われた十年を経ていまや不況は二〇年目に入ろうとしている。現代の日本には、企業の不正、給与のカットや失業、政治の低迷などによってことごとく自尊心を傷つけられた人々がいる。彼らはただもう何かにすがりつこうとして、愛国心や誇りを嘘でもいいから取り戻したがっているように見える。

「恒産なくして、恒心なし」という孟子の言葉にもあるように、絶望した者は失うものがないので、破滅的な行動に向かいやすい。人々は日々の憂さを晴らすためだけに批判する対象を探し回っているようにさえ見える。このまま民主政治は衆愚政治へ移行し、無秩序に至ってしまうのだろうか。

元・外務省主任分析官の佐藤優氏は、国家には事実を超えた「神話」が必要だと主張している。例えば北畠親房の『神皇正統記』の中にある対立した意見を包含する神の国の姿がそれだ。それなくして国を統一することができないという価値観や民族精神が確かに存在する。またそういう言葉は人を死へといざなう抗しがたい魅力をそなえている。

近年の右傾化現象、新しい歴史教科書をつくる会の活動などこの点から理解することができる。その中でも最たる例が元自衛隊航空幕僚長の田母神論文である。さまざまな場で田母神氏は、戦前の日本は素晴らしい国だったと書いたら解任されたと政府を非難している。日本の二一カ条要求や満州事変に対する抗日運動の事実があるにもかかわらず、それはそれとして日本は侵略国ではないと断じている。歴史は史観によっていろいろな見方ができるのだから、言論を封殺するのはファシズムだと憤る。

しかし、「言論の自由」とは何であるか。それは好きなことを言う自由であるのか。もちろんそうではない。自由には責任が伴う。それが言論であるからにはあくまで事実を究明し、それを自ら証明していく義務がある。戦前の日本は良い国であったという一辺倒の価値観によって、事実の方も都合よく塗り替えられてしまうのであればそれこそファシズムである。史観とは研究の最後に出てくるものであって、最初にあるものではない。そうでなければ客観的事実といった考えそのものが、この国から消えていってしまうだろう。

実は田母神氏が欲しているものは「真実」ではない。それは「神話」なのだ。この差異を当人も自覚していないし、メディアも自覚していない。ここに混乱の源がある。ことの本質は、政治と道徳(宗教)が分離されず、住み分けず、再び宗教が政治を侵食し始めたことにある。言いかえれば、事実の領域と、価値観の領域が融合しつつある。かつて戦前天皇制は政治的元首であり宗教的権威でもあった。そのため特に昭和一〇年代になると国家神道に基づく国民教育が徹底化され、戦争と敗戦を経て天皇制への国民の信頼を失わせる結果を招いた。こうした経験に鑑みて、近代社会は政教分離を原則としている。つまり、宗教を世俗に塗れた政治から遠ざけることによって、逆に習俗を支える精神的基盤として残していこうとしたのである。こうした啓蒙主義がいま揺らぎ始めているのかもしれない。

かつて、マルクスは啓蒙主義者を批判してこう述べている―宗教は民衆のアヘンである。それをなくすためには、宗教を必要とする悲惨な現実をなくさねばならない、と。神話もまた民衆のアヘンである、だからそれを必要としている悲惨な現実をまずは解決しなければならない。つまり、貧困格差の問題である。もしかりにこの長期不況があと三年から四年は続くと予想されるならば、その政治的帰結として恐ろしい事件を頻発させてゆくだろう。その対処療法として国家は貧困者へのセーフティネットを確保しなければならない。その上で、最低限の富が社会に還元されていく現代のノーブレス・オブリージュの仕組みを市民が考案していく必要があるだろう。

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平等への愛

Posted by Shota Maehara : 11月 28, 2008

 

モンテスキューが『法の精神』の中で定義したように、民主政治の原理とは、平等への愛である。そこでは諸階層の平等に基づき、個人の利益よりも平等な国民からなる社会全体の利益が優先される。こうした民主政治の原理は個人と社会の利益が調和している狭い共同体においては問題なく機能する。しかし、ひとたび国家単位の広い領域に拡大されると、個人と社会の利益は齟齬を来し、個人の自由や権利は蔑ろにされる危険性がある。かくして民主政治は全体の名の下に、個人を押し潰す。これは平等への愛が生む必然的帰結である。結局ニーチェが予見した通り、現代文明の病は民主主義も社会主義も無政府主義(アナーキズム)も等しく憑かれているこの平等への愛だったのである。その上でニーチェに反して、われわれはニヒリズムや野蛮に陥らず、個人の自由なる空間を社会の中に確保していく文明への道を探究し続けなけれなならない。

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トクヴィルのデモクラシー研究(第二巻)

Posted by Shota Maehara : 11月 28, 2008

アレクシス・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第二巻

一人の人間の知性が他の人間の知性に働きかける作用について言えば、市民がほとんど同じになっても誰もが親しく付き合うような国、争い難い偉大さや優越性を誰にも認めず、真理の最も明白で身近な源泉として絶えず自分自身の理性に立ち返る国にあっては、そのような作用は必然的に強く限定される。このとき、ある特定の人間への信頼が失われるだけでなく、およそ他人の言葉を信用しようという気がなくなる。(段落)誰もがだから固く自分の殻に閉じこもり、そこから世の中を判断しようとする。(同書、第二巻、(上)、一九頁)

アメリカ人はだから彼らの哲学の方法を書物に求める必要がなかった。自分自身の中に発見したのである。ヨーロッパでかつて起こったことについても同じように言えるであろう。(同書、二〇頁)

一八世紀の哲学の方法はだから単にフランス的なものではなく、民主的なものである。これこそ、それがあれほど容易にヨーロッパ全体に受け入れられ、その様相を一変させるのに大きく貢献した理由を説明する。フランス人はその古き信仰を変え、古き習俗を改めることによって、世界を覆したのでは決してない。それは彼らがはじめて、一切の古き事物を攻撃し、あらゆる新しきものへの道を開くのに役立つ一つの哲学の方法を広め、明確に打ち出したからなのである。(同書、二二頁)

平等の世紀に生きる人々に好奇心は多いが、暇は少ない。彼らの生活は実用的で複雑であり、絶えずせかされ活動的である。そのため、ものを考える時間がほとんどない。民主的な世紀の人々が一般観念を好むのは、それが個別の事例を検討する手間を省いてくれるからである。そうした観念は、このように言うことができるとすれば、多くのものごとを一つの小冊子に取り込み、わずかな時間で大きな成果を挙げる。手早くざっと調べるただけで、いくつかの対象の間に共通の関係を認めたと思うと、人々はそれ以上研究を進めず、このさまざまな対象が互いにどう似通い、どう違っているか詳細に検討することなく、急いで全部を同じ定式にくくって、先へ進む。(同書、三九頁)

過去の世紀の土地貴族制は従者を援助しその貧困を和らげる義務を法に負わされており、でなくとも習俗がこれを義務づけていると感じた。だが、今日の工場貴族制は、使用人を貧乏にして、意欲を奪い、その後、恐慌になると、この人々の扶養を公共の慈善に委ねる。これは先に述べたことから当然に生ずる。労働者と雇用主の間に頻繁な関係はあるが、真の結合はない。(同書、二七四頁)

民主的国家における自由を破壊しようとするものはこれを達成するもっとも確実で最短の手段は戦争であると知るべきである。これは学問の第一の公理である。(同書、第二巻、(下)、一八四頁)

民主的世紀の人間は自分と同等の隣人に従うことに極度の嫌悪感を覚えざるを得ない。彼は隣人が自分より優れた知識をもつことを承認しない。隣人の正しさを疑い、その力に猜疑の目を向け、彼を恐れ、かつ蔑む。ことあるごとに、二人とも一人の主人共通に服していることを彼に感じさせようとする。(同書、第二巻、(下)、二二三頁)

ヨーロッパの現代の諸国では、私がこれまで示したすべての原因とは別のある大きな原因が絶えず働いて、主権者の行動範囲を拡大し、その大権を増大している。人はこの点について十分警戒してこなかった。この原因は平等の進展が促す産業の発展である。(同書、二四三頁)

国家は第一の産業家であるだけでなく、ますます、他のすべての産業家の指導者、否、その主人となる傾向がある。(二四六頁)

現代人は二つの相反する情熱に絶えずとらわれている。指導されたいという欲求を感じ、同時に自由のままでありたいという願望ももつ。この相反する衝動のどちらも消すことができないので、彼らは両者を一度に満たそうと努める。単一の、人を後見する全能の権力、ただし市民が選挙で選ぶ権力を想い描くのである。彼らは集権制と人民主権を結びつける。このことは彼らをいくらか安心させる。後見人を自分で選んだことを思って、甘んじて後見を受ける。鎖の端をもつのは一人の人間でも一つの階級でもなく、人民自身であることを見て、誰もが鎖につながれるままになる。(同書、二五八頁)

民主的諸国民にきわめて自然で、非常に危険なもう一つの衝動は彼らを個人の権利の侮蔑と軽視に導く衝動である。(段落)一般に、人々がある権利に執着し、これを尊重する理由は、それが重要であるか、彼らが長くこれを行使してきたことによる。民主的諸国民における個人の自由は通常ほとんど重要ではなく、ごく最近に得られたもので、非常に不安定である。そのため、人はしばしば簡単にこれを犠牲に供し、これを侵害してもほとんどいつも後悔しない。(段落)ところで、この同じ時代、それも人々が個人の権利にある自然な侮蔑意識をもつような国民において、社会の諸権利は自然のうちに広がり、強固なものになることがある。すなわち、私人の諸権利がどんなに僅かでも残る限り、これを保持し擁護することがもっとも必要なその瞬間に、人々はこれへの執着を失ってしまうのである。(段落)それゆえ、われわれが今ある民主的な時代にこそ、自由と人間の偉大さの真の友は、絶えず毅然と立って、社会の権力がその計画を全体として実行するために若干の個人の私権を少しでも侵害することのないよう、備えを怠ってはならない。このような時代にはどれほど無名の市民であっても、その抑圧を放置することは非常に危険であり、どれほど重要性のない個人の権利も権力の恣意に委ねることは許されない。その理由は単純である。個人の私権を侵害しても、この種の権利は重要かつ神聖であるという観念が人間精神に深く浸透している時代ならば、被害をこうむるのはこれを奪われたものだけである。だが、今の時代に、同様の権利を侵害すれば、深く国民の道徳を傷つけ、社会全体を危険にさらす。この種の権利の観念がわれわれの下では不断に変質し、失われつつあるからである。(同書、二七二頁)

今日最大の危険は放縦か暴政か、無政府状態か専制か、これを絶対的一般的な形で言うことはできない。どちらも同じように恐れるべきであり、個人主義の帰結たる一般的アパシーという同じ一つの原因から同じように容易に出てくることがあり得よう。このアパシーあればこそ、執行権がいくらかの力を結集すれば、圧政が可能になり、次の日、一党派が三十人の者を隊列に組むことができれば、この党派もまた圧政を揮うことができるのである。どちらも永続的なものは何一つ築くことはできず、成功に導いた要因が長期の成功を妨げる。それらが立ち上がるのは抵抗するものがないからであり、崩れ落ちるのは支えるものがないからである。(段落)戦うべき重要な相手は、だから無政府主義や専制というより、両者をほとんど差別なく生み出すことのあるアパシーである。(同書、補説、二九三頁)

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トクヴィルのデモクラシー研究(第一巻)

Posted by Shota Maehara : 11月 27, 2008

アレクシス・ド・トクヴィル『アンシャン・レジームとフランス革命』

民主的専制と呼ばれる、中世にはまったく思いも及ばなかったこの特殊な形態の専制のことを、重農主義者たちはすでに心得ている。社会の階層化ととに階級差別が進み、身分が固定化した。しかし、民衆はほとんど類似した、完全に平等な個人からなる。まさにこののっぺらぼうの大衆は、唯一合法的な主権者と認められてはいるが、すべての権利―政府を自ら指導し、監視することさえできるすべての権利―を周到に奪われている。この大衆の上に存在するのは、大衆の名において、大衆にことわりなくすべてを行う責務を負った、ただ一人の受託者である。この受託者を統制するものは、器官なき一般の理性である。阻止するものは、法律ではなく革命である。彼は、法律上は従属的代理人であっても事実上は支配者なのである。(『旧体制と大革命』小山勉訳、三四二~三頁)

重農主義者たちは、この理想に適うようにみえるものをまだ周囲に見出すことができないので、それを極東に探すことになる。彼らの著書のここそこで、中国のことを大仰に賞賛していない者は一人もいない、といっても過言ではないだろう。それを読んで、少なくとも必ず気づくことがある。当時中国はまだまだ未知の国だったので、その国について語られる内容はおおむねつまらない話ばかりである。一握りのヨーロッパ人が意のままに操るあの愚かで暴虐的な政府は、重農主義者たちの目に、世界の全国民が模倣できる最もすぐれたモデルと映ったのである―すべてのフランス人のモデルは、その後イギリス、そして最後にアメリカとなるのであるが。偏見のない絶対君主が、有益な技術を奨励するために自らの手で土地を耕す。こんな国を想像して、重農主義者たちは感動し、まるで有頂天になっているかのようだった。その国では、すべての官職は文官試験〔科挙〕によって取得される。宗教は哲学しかなく、貴族階級はすべてが文人である。(同書、三四三頁)

今日社会主義という名で唱道される破壊的理論は最近のものである、と一般に信じられているが、それは間違っている。この理論は、初期の重農主義と同じくして現れている。初期の重農主義者たちは、自ら夢想した全能の政府を社会形態を変革する際の基準にした。それに対し、その後の重農主義者たちは、社会の土台を破壊するために想像の世界で同じ権力を奪取した。モレリーの著書『自然の法典』を読めば、国家の全能とその無限の権利に関する重農主義者たちのすべての理論とともに、最近フランスを最も震撼させた政治理論、今日初めて登場したかのように思われている政治理論のいくつかを見出すだろう。その理論とは、財産の共有、労働の権利、絶対的平等、全体的画一性、個人の行動の機械的規則性、規則による専制、市民的個性の社会への完全な埋没、などを謳ったものだ。(同書、三四三~四頁)

実は、中央集権と社会主義は同じ土壌の産物である。両者の相互関係は、栽培果実と実生の若木との関係に似て緊密なものだ。(同書、三四四頁)

一般的に言われてきたところによれば、一八世紀の哲学の性格は、ある種の人間理性崇拝―すなわち、思いどおりに法律、制度、習俗を変えることのできる、人間理性の全能を限りなく信頼すること―だった。よく理解しなければならないのは、一部の哲学者が崇拝しているものが、実のところ、人間理性というよりは自分自身の理性だった、という点である。彼らほど、民衆の知識を信頼していない者はなかった。神と同じくらい民衆を軽蔑しているしている者を何人か挙げて、その内実に言及することができるだろう。彼らは神に対しては敵としての、民衆に対しては成り上がった者としての傲慢さを露わにした。多数者の意思に対して心底からの敬意を払って従うこと、それは神の意思への服従と同じく、彼らの与り知らないものだった。以後、革命家たちはほとんどみな、この二つの性格を示していた。イギリス人とアメリカ人が同国の多数者の感情に払ったあの尊敬とは、まさに雲泥の差があった。両国人の場合、理性は誇り高く自信に溢れているが、横柄であることがない。フランス人の理性は新しいかたちの隷従を創出するだけだったのだが、両国人の理性は自由をもたらしたのである。(『旧体制と大革命』小山勉訳、注解六四、五一六頁)

アレクシス・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一巻

デモクラシーを教育し、できうればその信仰を蘇らせ、習俗を純にして、その動態を規制し、実務に知識でデモクラシーの未熟を次第に補い、盲目の本能に代えてその真の利害を知らしめる。さらに、民主政治を時と所に適したものとし、状況と人間に応じて修正を加える。これらが今日、社会を指導する人々に課される第一の義務である。(段落)すべてが新しい世界には新たな政治学が必要である。(『アメリカのデモクラシー』序文、松本礼二訳、第一巻、(上)、一六頁)

ヨーロッパの多くの国では政治の動きは社会の上層部でまず始まり、それが少しずつ、しかもつねに不徹底な仕方で社会全体のさまざまな部分に伝えられてきた。アメリカでは逆に、群(カウンティ)より前に自治体(タウン)が、州より前に群が、そして連邦より前に州が組織されたということができる。〔トクヴィルは、フランスの地方行政単位「市町村」を意味するla communeの語を米国のtown、townshipに当て、また両者を含む一般概念として「地域共同体」の意味でも用いている。本訳書ではフランスについては「市町村」(コミューン)、米国については「タウン」とし、一般的意味の場合は「(地域)共同体」と訳し分ける。なお「タウン」と「タウンシップ」は同義だが、ニュー・イングランドでは一般に「タウン」が用いられる。〕(同書、六五~六頁)

中国は、極度に集権化された行政がこれに服する人民にいかなる種類の安楽を提供することができるか、そのもっとも完璧なシンボルであるように私には思われる。旅行者たちが述べるところでは、中国人の静謐には幸福が欠け、その産業には進歩がなく、安定していても力がなく、物理的秩序は保たれても公共の道義に欠ける。彼らにあって、いつでも社会はそれなりに運営されているが、見事に運営されることは絶えてない。中国がヨーロッパ人に開放されたなら、ヨーロッパ人は世界中に存在する最もすばらしい行政的集権のモデルをそこに見出すであろう、と私は想像する。(同書、第六章原注(五〇)、三四八頁)

私としては、アメリカで見た限り、そのように考えることはできないと言わねばならぬ。合衆国に着くとすぐに、私は被治者の中にすぐれた人はいくらでもいるのに、為政者の側にはそれがどれほど少ないかに驚いたものである。今日、合衆国では、最上の人物が公職に呼び出されることは滅多にない。これは確かな事実であり。しかもデモクラシーがかつてのあらゆる限界を超えるにつれて一層そうなってきたと認めねばならない。アメリカの政治家の質が、この半世紀、著しく低下したことは明らかである。(同書、第一巻、(下)、五三頁)

そのうえ、民主政治に欠けているのはすぐれた人物を選ぶ能力だけではない。ときにはその意志も好みもないことがある。(同書、五四頁)

合衆国では民衆は、社会の高い階級を別に憎んではいない。だがこれにほとんど好意をかんじてはおらず、注意深くこれを権力の外においている。民衆はすぐれた才能を恐れはしないが、好んでもいない。一般に、民衆に支持なしに立つ者がその好意を得ることは困難だといえる。(同書、五五~六頁)

民主政治の自然な本能が民衆をして卓越した人物を権力から排除せしめる一方、これに劣らず強力なある本能によって後者は自ら政治的経歴から離れていく。というのも、すぐれた人物にとってこの世界に留まりながらまったく自分を変えず、堕落せずに進むことは難しいからである。(同書、五六頁)

普通選挙こそよい政治家を選ぶ保証だと考える者が完全な幻想に囚われていることは、私にははっきり証明された。普通選挙には別の利点があるが、この点ではない。(同書、五六頁)

アメリカでは多数者が思想に恐るべき枠をはめている。その限界の内側では作家は自由である。だが一歩その外へ出れば、禍が降りかかる。火刑に処されるのを恐れねばならぬわけではないが、ありとあらゆる嫌悪の対象となり、毎日迫害の憂き目を見る。政治の道は断たれる。その道へ彼を導きうる唯一の力に逆らったからである。何を求めても彼は拒絶され、栄誉も名誉も与えられない。意見を公にする前には支持者があると信じていたのに、天下に見解を明らかにしてみると、支持する者は誰も眼に映らない。彼を非難する者は声高に叫ぶが、彼と同じ考えの者は口にする勇気がなく、沈黙し、遠ざかっていくからである。彼らは譲歩し、やがて日々の圧力に屈し、まるで真実を語ったことを悔いてでもいるかのように、沈黙に返る。(同書、一五四頁)

今日、地球上に、異なる点から出発しながら同じゴールを目指して進んでいるように見える二大国民がある。それはロシア人とイギリス系アメリカ人である。(中略)アメリカ人は自然がおいた障害と闘い、ロシア人は人間と戦う。一方は荒野と野蛮に挑み、他方はあらゆる武器を備えた文明と争う。それゆえ、アメリカ人の征服は農夫の鋤でなされ、ロシア人のそれは兵士の剣で行われる。(段落)目的の達成のために、前者は私人の利益に訴え、個人が力を揮い、理性を働かせるに任せ、指令はしない。(段落)後者は、いわば社会の全権を一人の男に集中させる。(段落)一方の主な行動集団は自由であり、他方のそれは隷従である。(段落)両者の出発点は異なり、たどる道筋も分かれる。にもかかわらず、どちらも神の隠された計画に召されて、いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになるように思われる。(同書、四一八頁)

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古典から読む二つの民主主義―マキアヴェッリ・モンテスキュー・トクヴィル

Posted by Shota Maehara : 11月 24, 2008

イタリアの政治思想家・マキアヴェッリは、かの有名な『君主論』(第四章)の中で、アジア型国家の統治形態と、ヨーロッパ型国家の統治形態を次のように説明している。

まず、トルコの君主国は、一人の支配者に統治され、他の者たちは彼の下僕である。君主は、全国を幾つかの行政区に分け、執政官を任命し派遣するが、彼らはいつでも君主の命令で別の官吏に交代できる。いわば中央集権的な官僚国家を形成している。このようにアジアで権力が一人に集中してる姿は、アジア的な特徴であり、時に東洋的専制主義とも呼ばれる。<アジア―中央集権―東洋的専制主義国家>

それに対し、フランス王国では、君主以外にも多くの貴族や諸侯がそれぞれの領土と領民を治めている。彼らはその領内で臣民に主君と仰がれ、愛されているために、王といえども危険なしに彼らから特権を奪うことができない。いわば、地方分権的な体制を敷いている。このようにヨーロッパで権力が多数に分立している姿は、封建制の特徴である。<ヨーロッパ―地方分権―封建主義国家>

では、この統治形態の差異は、どのような戦略上の帰結を生むのだろうか。アジアの専制国家を侵略する場合、相手は一丸となって抵抗してくるが、一度敵の政治的権力を奪取してしまえば、権力とつながりの薄いその他の臣民はおとなしく従うだろうと予想される。だが、封建的なヨーロッパの場合、権力が一枚岩でないために、国内に攻め込むのは容易いが、たとえ王を倒した後も他の諸侯たちが頑強に抵抗してくるだろうと予想される。

こうした区別をした上で、フランスのモンテスキューやトクヴィルは、アジア型の国家を専制主義と位置づけ、ヨーロッパ型の国家を民主主義のあるべき姿として捉えていたと一応言うことができる。

しかし、フランスはアンシャンレジーム(絶対王制)の下で、急速に政治と行政を王の下に中央集権化し始める。さらに、一七八九年の民主革命によって、フランスは強力な中央集権政府を完成させ、その下で民主主義を実現する。ナポレオンはこの時代の変化を逸早く感じ取り、それまでの騎士道風の個別戦法から、国民皆兵による集団戦法を採用し、近代的な軍隊を創始した。つまり、近代民主主義はその誕生時から、急速にヨーロッパ型からアジア型に姿を変えていったということなのである。

先のマキアヴェッリの記述に従えば、一方のアジア型の民主国家は侵略するのは難しいが、統治するのは容易く、他方のヨーロッパ型の民主国家は侵略するのは容易いが、統治するのは難しい。そうであるならばアジア型に近づいている我々の民主政は政治家や官僚が専制的な権力を振るい易い支配構造になる危険性を孕んでいると言えるのである。だからこそ、トクヴィルはこの強力な中央集権的政府と無力な国民の群れという構図のなかで、権力が介入できないかつての貴族に変わる中間集団の役割に着目したのだ。例えば、それは司法権や教会や大学や市民団体などの存在である。

最後に本論を少し拡張することにもなるが、もし民主政治が未来に崩壊する可能性があるとしたら、一体どんな要因によってであろうかという点について若干触れておきたい。おそらく歴史的にそうした事態が起こり得るのは次の内部要因と外部要因の二つの道からであるだろう。

A. 内部要因:市民が自己の関心に引きこもり、仕事や家庭のこと以外気にかけなくなる。公共の利益のために奉仕する精神が失われ、徐々に中央政府の集権化が進行する。

B.外部要因:民主政治は商業を営み、平和を好む平時のための政治体制であるが、テロや戦争や外交などの安全保障上の問題が起こり、国内で不安に怯える国民の共感に支えられて独裁的な政治家や軍部が権力の中枢を担うようになる。

こうした危機を未然に防ぐ手立てとして、我々は机上の空論や何処にでも通用する魔法の杖を期待すべきではない。むしろ、それぞれの国が持つ歴史の中から、権力を抑止し、市民一人一人に自由な空間を確保する政治的仕組みを取り出していかねばならない。なぜならば日本、イギリス、アメリカ、イタリアさらにはフランスなど諸国には言うまでもなくそれぞれ固有の政治的な伝統が受け継がれているからである。

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ペンと剣

Posted by Shota Maehara : 11月 22, 2008

ペンと剣が交わる場所に私たちの祖国は生まれる―秋月誠仁

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文民統制への懐疑(ルサンチマン)

Posted by Shota Maehara : 11月 22, 2008

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二〇〇八年一〇月三一日に起こった元・自衛隊航空幕僚長、田母神俊雄氏が書いた歴史論文「日本は侵略国家であったのか」をめぐる一連の事件に関して、メディアでは連日大きく採り上げられた。事の発端は、アパグループが主催する「真の近現代史観」というテーマの懸賞論文に彼が応募し、最優秀賞となり、三百万円の賞金が贈られたことである。

これに対して、政府や朝日などのメディア側は、一九九五年の村山談話と呼ばれる政府見解と異なり、中国やアメリカとの戦争は日本の侵略ではなく、騙された被害者なのだと規定したことに猛反発した。他方で、同じ自衛隊関係者や賛同する右翼からは、個人の歴史観の表明は自由であり、それゆえその統制は言論の自由の侵害であると反論された。結局田母神氏は更迭され、定年退官することとなって決着した。

では、本当にこの事件は個人の史観や集団的自衛権の解釈の問題だったのだろうか。私は民主政治を研究するものとして、この問題の本質を剔抉しないわけにはいかない。

まず、この事件は日本が敗戦後平和憲法を掲げ、民主国家として再出発してきた歩みの光と影が凝縮して詰まっていることを認識しなければならない。日本では過去の反省に立って平和憲法の下で交戦権を放棄した。ただ同時に冷戦の影響でアメリカによって自衛隊が創設されたが、この軍隊組織の定義は憲法という立憲主義体制に位置づけられず、外に置かれ、宙に浮いたままになってしまった。したがって、近年自衛隊員は常に過酷な職務にもかかわらず、自らの存在を批判されるというジレンマに立たされてきたことは間違いない。

しかし、このことが今回の事件の核心ではない。我々が直面している危機はより本質的である。すなわち、民主社会における国民と軍隊の相反する地位という問題なのである。そもそも民主政治は、諸階層の平等を原理とし、そこで市民は商工業での経済活動を通して財産を増やし一生を安楽に送ることが幸福である。それゆえ民主政治のなかで一般市民は守るべき地位や財産を持つがゆえに、必然的に安定を好み、平和を希求する傾向がある。

それに対して、民主社会における職業軍人の地位とは如何なるものであろうか。普通エリートは大企業や官僚や政治家などの道を選ぶので、代々軍人であった者か、貧しい下層市民だけが軍隊に入る。自然、彼らの職業は公務員の中の最下級に位置づけられ、尊敬を受けなくなり、理解もされない。兵士自身、自らの地位に劣等感をもち、誇りを傷つけられて、閉じた集団を形成する。そんな中で尚彼らは士気を鼓舞するために熱心に愛国心を説く必要がある。いわば彼らは軍人としての誇りと弱者としての嫉妬が綯交ぜになった不安定な存在なのである。

かつて二〇〇八年五月二十四日に開かれた東大の五月祭で田母神氏が現職自衛官として初めて講演した際、その後開かれたレセプションで学生たちに向かって次のように述べたという―「これから日本の経済はもっと悪くなっていくだろう。ここにいる君たちは食うに困ることはない。しかし、エリートはそれだけではならない。真のエリートは、食うに困っている人をどうやったら食わせていけるかを考えなければならないのである」。ここに幹部自衛官としての矜持と、社会的弱者への共感、そして何よりも今時の東大生の利己主義への嫉視(ルサンチマン)を読みとることは決して難しいことではない。

もしこうした状況で、彼らが国を憂い、政治家への不信を表明し、自虐的な戦後の歴史観を変え、日本人としての誇りを取り戻そうと号令をかければどうなるか。私は多くの若者がこれに共鳴するであろうことを疑わない。かくして自衛官の不幸な地位からくる不満はさらに現代の格差貧困の犠牲者である若者のルサンチマンと合流し、社会に不穏な空気を醸成する。その意味で、まさに今回の事件は、彼らからのSOS信号として受け止めなければならないのである。

「民主政治は軍隊を必要としているが、軍隊を欲してはいない。」―この命題は民主政治が容易に解くことのできないメビウスの輪である。そして、我々は世界中から軍備を撤廃し、世界平和を実現することができるまでは、永遠にこの難問を解く鍵を探しもとめてゆかねばらぬ運命なのである。

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エッセイという表現形式

Posted by Shota Maehara : 11月 18, 2008

The truth is very simple, but I cannot explain it with a few words. So I choose to use a metapher for blurred vision in my mind. Probably “essay” would be the most common form in such a situation.-akizuki seijin

真実はとてもシンプルだ。しかし、私は幾つかの言葉でそれを説明することができない。だから私は心の中の揺らぐ像(イメージ)のために隠喩(メタファー)を使うことを選ぶ。おそらくそうした状況の中で「エッセイ」こそは最も共通した表現形式なのだろう。―秋月誠仁

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夏目漱石をめぐるエッセイ

Posted by Shota Maehara : 11月 17, 2008

明治から大正にかけて数々の名作を残した夏目漱石の作品を読んでいると、ふと疑問に思うことがある。明治や大正といえば世の中は政治の季節である。血生臭い事件が相次ぐ中で、彼の作品の中にはなぜか政治的なテーマは避けられているように見える。帝大卒ゆえ労働者の苦しみを知らなかったと言うのはたやすい。

しかし、彼ほどの知識人が全く社会主義に関心を持たず、ノンポリであったなどということが果たしてあり得るのだろうか。むしろ、漱石は自らの著作に没頭していたという方が正鵠を得ている。彼は、自らのテーマにとり憑かれ、それと必死に格闘し踠いていた。その結果権力や金と無縁な生活に入らせ、時代の制約をも超越させた。だから、私たちは漱石を読んだ時、現代の作家が書いたかのような感動を覚えるのである。

現代人は、何もかも急ぎ過ぎている。何かに役立とうとするに急で、自分自身を見失っている。だが、あらゆる歴史のなかで自分自身を見失った人間が何か偉大な事業を為し得たことはおそらく一度もあるまい。むしろ、改革や革命の情熱に駆られた人間は破壊しかしない。自分自身を見つめることのできる人間こそが建設者である。彼は時代を超越し、そして、普遍的な何かを我々に残すのだ。我々はそういう人間を待ち望んでいる。

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民主政治の防波堤―ラディカルな少数者の意志

Posted by Shota Maehara : 11月 16, 2008

私にとって、自己中心的であるということは一つの美徳である。あらゆる点からみて、私がただ自分自身の満足を求めて生きているときの方が、世間のことをとやかく心配しているときよりも、ずっと役に立つことをしているのである。―ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』

先月、アニメーション監督の宮崎駿氏は作家で友人の堀田善衛を語るシンポジウムで講演を行った。その中で彼は堀田から教わったという「伝道の書」の言葉―「凡て汝の手に堪ることは力をつくしてこれを為せ」(旧約聖書)を引きながら、「これをやったら世の中のためになるとか、意義があると決まっている仕事はない。どんな仕事でも力を尽せば、やってよかったと思う瞬間がある」(読売二〇〇八年、一〇月二一日、朝刊)と述べ、「個性とか生きがいのために生きていくと、足をすくわれる」と警鐘を鳴らしている。一体こうした反語的な言葉を私たちはどのように解すべきなのだろうか―。

現代社会はメディアに採り上げられるような手法をとるかとらないかが物事の価値を決めるすべてである、と言っても過言ではない。言い換えればこれはメディアによって採り上げられるか否かが事実の重み以上に今日においては死活的な意味を持っているということである。これこそ現代社会のα(アルファ)でありΩ(オメガ)である。

ただし、私たちはこれをもっと広い意味に解さなくてはならない。つまり、上記の特徴はあるゆる活動が他人からどう見られているかまたどう映るかをあらかじめ想定してなされなくてはならないということである。例えば経済は需要と供給の法則で動いているので、あらかじめ市場をマーケティング調査して需要が見込めるかどうかを確かめた上で何かを始めるべきだと誰もが口を揃える。

これがいまや経済活動ばかりか、私的な(プライベートな)領域にまでも這入り込んできている。例えば、先の北京オリンピックで水泳の北島選手が金メダルを獲得した瞬間、アナウンサーは彼の健闘を称して、「やぁ、これで北島君のCM契約料はイチローと並んで一億の大台を突破するのは確実ですね」と表現した。またある女性アナウンサーがトーク番組に出演して理想の結婚相手を尋ねられた時、性格や相性よりも先に「年収がいくらあるのかが重要」と露骨に言い放った。さらに近頃の親はテストの成績で子供をはかる。もし良かった時には溺愛するくせに、悪かった時には、「そんな子はうちの子じゃありません」と冷たくあしらう。この社会では恋人や子供すらある一定の条件を満たせば愛しもするが、彼らの存在自体が無償の愛の対象なのではない。だから、結局は金の切れ目が縁の切れ目なのである。

こういった現象を生む背景には一体何が考えられるだろうか。たとえば大衆社会や資本主義の影響がすぐに指摘できる。なぜなら、現代社会は本当に価値のあるものは世間の価値基準を超えてゆく所にあることを薄々知りつつも、すぐに売れるためどうしても流行を追い掛けてしまう。これは価値あるものを認めさせていくにはどうしても時間がかかるから、短期的に利潤を上げる方法を選びたがる資本主義の性(さが)である。そのため誰しもが他人にはっきりと見える物差しを欲しがる。

しかしより純粋に眺めれば、常に他人の評価を気にし、その基準のなかで物事を行おうとするこうした傾向はむしろ民主政治の特徴なのではないか。なぜなら平等を原理とする民主政治では、人々は時として個人的に秀でることよりも他人と同調することに魅かれてしまうからである。トクヴィルは民主社会の特徴として驚くほど現代に酷似している諸現象を挙げている。例えば人々は好奇心が多い割に暇がないために、手っとり早く小冊子に取り込んだ即席の知識を求める。そしてより深刻な問題は供給する側でもこうした現状を是認し疑問に思わなくなってしまうことだ。彼は次のように述べている。

「民主的な世紀の際立った特徴の一つは、そこでは安易な成功、現在の享楽への好みに誰もが染まるということである。この点は他のすべての職業同様、知的な職業にも見られる。平等の時代に生きる人々の多くは激烈にして軟弱な野心に溢れている。彼らは大きな成功を即席に得ようと望むが、努力はあまりしないで済まそうとする。この矛盾した本能が彼らをまっすぐに一般観念の探究に向かわせ、彼らはその力を借りて、広範な対象を簡単に描き、公衆の注目を苦もなく引きつけられると自画自賛する」(『アメリカのデモクラシー』、松本礼二訳、第二巻、(上)、三九~四〇頁)

こうした現象に対して私は次の処方箋を提示したい。すなわち、「エゴイズム」(自己愛)の意味を再吟味することである。とかく現代はエゴイズムというと昨今の利己主義や刹那主義の元凶だと見なして一蹴してしまう。だが、ルソーが示したように自己愛は人間が誰しも持つ素朴な感情である。そうした自分の好きなことに向かう性向はそれ自体は悪ではく公共心とも矛盾しない。むしろ、自分の好きなことに挫折し、他人を羨む「ルサンチマン」(嫉妬心)こそが反社会的な行為へと走らせるのだ。なぜならば自分が好きなことに徹することができずに、常に他人の顔色ばかり窺っている人間は周囲の優れたものを認められず、自分の所まですべてを引き下げてしまうからである。

かくして現代人は無闇に流行を追いかけるばかりで、本当に自分のやりたいことをやり続け、いつかその価値を証明して見せることをしない。絶えず他人の目線ばかり気にして誰もが何でも屋になりたがる。つまり、素朴なエゴイズム(自己愛)を土壌にしつつも、それを反骨の精神へ育んでいくことができない。また社会もすぐに結果だけを求めて見守ろうとしない。では、こうした風潮に対して今何ができるだろうか。それは自分にしかできない領域を創り上げ、同時にその本分を守ってゆく真のプロフェッショナリズムを育てていく以外にないと私は信じている。

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