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Shota Maehara's Blog

Archive for 2012年5月

原発と神の義 最終講話―日ごとの糧をお与えください

Posted by Shota Maehara : 5月 5, 2012

先の第六講話で、私たちは人間の180度的な転換を図り、謙遜さを取り戻し、他者の声に耳を傾けるべきこと、そうして健全な対話をもった民主政治を日本社会に根付かせることによって、成熟した文化的な国家として新たなスタートを切るべきではないかということについて触れた。こうして、かつての謙遜さを取り戻すこと以外には、原発なき社会の構想を練ること自体無意味になる可能性があるように思われてならない。

今回の最終講話は、主の祈りの一節である、「日ごとの糧をお与えください」という主題をとりあげる。これは一見すると、最初の講話で、「人はパンのみで生きるにあらず、神のことばによって生きるのである」をとりあげ、「人は生きるためにパンを必要とはしない」と述べたことと矛盾するような印象を与えるかもしれない。

だが、そこでともに考えたかったのは、人は神がパンを備えてくださることのみを強調しすぎるあまり、いつしかキリスト者でさえ神のことばを何よりも優先し、そのためにはときにパンを捨てる覚悟すら持たねはならないという真理が見失われてしまうという危険性であった。したがって、神のことばについて語ってきた後に、はじめて「私たちの日ごとの糧をお与えください」と祈ることは正しい優先順位であるといえるだろう。

奇しくもこの2012年5月5日、北海道電力泊原発3号機(北海道泊村)が定期検査のため運転を停止し、国内の原発50基全てが止まることとなった。全基停止は、商業用原発が2基しかなかった70年以来42年ぶりのことだという。もちろんこの「原発稼働ゼロ」がいつまで続くのかは予断を許さない。そして、製造業界が夏に向けての電力供給の対応に苦慮しているとも聞く。だが同時に、地熱発電などの環境負荷の低い再生可能エネルギーへのパラダイム・シフトがおこるきっかけとなってくれることにも希望を持っている。

この3・11の福島第一原子力発電所の事故をめぐる、原子力政策の問題は現代日本のあらゆる問題の縮図であると私は考えている。ここには原発事故で命を亡くされた方々をはじめ、その親族、企業関係者、作業員、周辺住民の方々、日本の市民、メディア、そして政策担当者や有識者の方々など様々な人々の願いや思惑や利害がかかわり錯綜している。そのどれもが彼らの生活を支えていくために尊いものだ。したがって、私は自分自身を努めて、責任の及ばない彼岸にいるのではなく、ともに罪を犯した人間として、いや最大の罪人として見なしてきたつもりである。なぜなら、私は今回の事故が起こるまで、自分たちが享受している文明がいかなる代償を払って手に入れられたものかということに無自覚に過ごしてきたからである。

しかし、日々聖書を読むなかで、次のような声が聴こえたかのような気がしたのだ。すなわち、神の義に照らして、原発は人の義であり、いかなる人間的理屈を用いたとしても、決して肯定されるものではないと。かつて、1960年安保闘争で学生運動が起り、それが1970年代に過激化し、最終的に内ゲバという形で終息して以来、日本にデモによる異議申し立て運動と呼べるものはほとんど存在しなかった。その日本で今回、インターネットなどを介して、これだけデモが市民の中から巻き起こったという事実自体が、神の義の在り処を証し立てている。

では、神の義は私たち人間にいかなる道を進めと教えているのであろうか。その手がかりは聖書の中にある。それは、何千年も人びとを導いてきた「主の祈り」である。イエス・キリストは、弟子たちに、祈るときに、言葉を多く重ねることをたしなめられ、父なる神は、すでにあなたがたに何が必要かを知っておられるとおっしゃられる。そして、次のように祈りなさいと弟子たちに告げる。

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。(マタイの福音書、第6章第9~13節)

ドイツの神学者ティーリケは、これを「世界を包む祈り」と呼んでいる。これは誕生や死の床だけでなく、毎日の食卓などおよそありとあらゆる場面で唱えることができる。その意味で、とてつもない広がりをもった祈りなのである。その中で、主イエスは、神を、私ではなく、私たちの父よと共に呼びかけ、祈り終わった後に、こう嘆願する―「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」。

ここでも「私たちの」という表現によって、あらゆる時代を超えて地上のすべての人びとを家族の一員として含められている。そして、日ごと(今日一日分)の糧(食べ物)をお与えくださいと祈られるのだ。それにしても、なぜ一生分ではないのか。それは、誘惑を避け、人間が一日一日を誠実に謙遜に生きるためである。自らの限界を自覚し、謙って、神の御ことばに耳を澄まして生きる人間には、多様な才能を与えられた隣人との助けあいの中で、必ずや日々の糧が与えられるのである。

(参照/「希望と和解―3・11と福島原発をめぐって」

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空はまるで/MONKEY MAJIK

Posted by Shota Maehara : 5月 5, 2012

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原発と神の義 第六講話―力は弱さの中にあってはたらく

Posted by Shota Maehara : 5月 4, 2012

先の講話では、人々と連帯を取り戻すには、まず自らの「自我」(ego)を打ち破るべきこと、また、そのきっかけは単なる同情を超えて、傷ついた他者を目の前にしたときにはらわたをつき動かされて無意識に手を差し出す、まさにそのような瞬間にあることに触れた。その上で、今回の講話では、単独者ではなく、国家戦略として、これまで話されてきた講話にどんな意味があるのかを掘り下げていきたい。

現在、経済産業省では総合資源エネルギー調査会基本問題委員会を開き、2030年の原子力発電や再生可能エネルギーの比率目標­を議論している。その際、原発反対派と原発推進派の不毛な対立は避けつつも、再生エネルギーなどによる完全な代替は不可能であると訴える委員からは、自らの計算の内訳を、安全性を確保した上で、原子炉の耐久年数を40年ではなく、60年にした場合という意見が出されている。その一方で、今回の福島第一発電所の事故の原因も究明されていないまま、原発を使い続けるならこの程度のコストで賄えますという議論自体がどうなのかという意見もあった。

この議論は、政策担当者や有識者が、日立、東芝、GE、三菱電機、富士電機などの原発メーカーや東京電力、関西電力をはじめとする電力会社への配慮もさることながら、日本経済全体の発展や安全保障、すなわち国益の観点から意見を出されているのだと感じている。なぜなら、このまま少子化が進み、経済構造の転換がはかられないままなら、かつて世界第二位とまで言われた経済大国の地位を致命的に失いかねないという懸念があるからだろう。それはまさしくその通りであろうと思う。

しかし、ここには決定的に欠落している視点がある。それは、福島のような事故がふたたびこの国に起きてしまえば、コスト計算を超えた「人のいのち」が失われるだろうということだ。さらに豊かな国土がまたもや放射能によって荒廃してしまうだろうということだ。おそらく彼らは現実にそんな甚大な被害はありえないし、もし関東や関西や四国で同じ事故が起これば違う土地に移り住めばいいと言うかもしれないが、その場合政府や企業に対してナショナリズム(民族主義)が再燃してしまうことは火をみるよりも明らかである。

よく思い出してほしい。かつて世界に覇権を誇ったローマ帝国も外から侵攻してくるゴート族によって滅びたのではなく、人心の崩壊によって、すでに内側から腐りかけていたのである。共和国の理念は廃れ、共同の福利に対して、人々は欲に溺れ、関心を失っていく。そしてついに、帝国は自壊するのである。すなわち、強者の論理は、「人がパン(物質)のみではなく、神のことば(精神)によって生きる」という神の真理を踏みにじるものでしかなく、パンのみを求める物質主義に市民もまた少しづつ染められていってしまったのである。

では、我々はどうすればいいのだろうか。どうしたら健全な民主政治がこの国に根付いてゆくことができるのだろうか。私は、むしろ、国民が強さを誇ることではなく、「弱さを自覚する」ことが鍵ではないかと思っている。

ふつう弱さとはネガティブ(否定的)なものだと捉えられている。だが、キリスト教では、弱さの中にあってはたらく力こそが人を滅びの道から救い出すという信仰の逆説を教えている。パウロはダマスコの途上でキリストと出会い、異邦人(非キリスト教徒)への使徒に召されて以来、数々の苦難に遭遇してきた。その彼が新約聖書コリント人への手紙第二で次のようわたしたちに語っている。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙 第二第12章第9~10節)

このパウロの書簡は、我々に何を伝えようとしているのか。それは順風満帆に思える時、強さを誇ることが、「自己」を中心にものごとを考え、自分の思考や心の中から、「神」(本当に大切なもの)を排除してしまうということである。それは、友人や恋人や家族かもしれないし、掛け替えのない隣人の命そのものかもしれない。そして、傲慢になった結果足元が見えず、過ちを犯すのである。

それに対し、何か危機に直面して、自らの弱さを自覚させられた人間は、自分ではなく「神」を心の中心に迎え入れる。すべてを空け渡し、謙遜に生きる。そして、自分以外のものの大切さを悟り、それらをまず第一に優先して生きる決断をする。そして、心から謙って、人から教えを乞い、危機を乗り越えようと努力する。強さは滅びに向い、弱さは救いに至るのという聖書の真理はこのことを示している。

したがって、戦後日本人はいまこそ自らの弱さをはっきりと自覚し、謙遜に、知恵を出し合うことによって、原発のない新しい社会のモデルやライフスタイルを模索するべきである。それはいまこの瞬間をおいてほかにない。そのためには、経済的な繁栄や軍事力の強さをではなく、文化的な成熟をこそ求めてゆくべきだと私は考える。この国にきちんとした民主政治が根付き、学問や芸術や科学を高いレベルで維持していくことができれば、経済水準はやや下がったとしても今後もイギリスのように世界で発言力をもつことができるであろう。

(祈り:主よ、自らの過ちを心から悔いたことで滅びをまぬかれたニネベの人々のように、原発問題を通して、いまこそ日本が正しい道に立ち戻ることができますように助け導きください。)

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原発と神の義 第五講話―善きサマリア人のたとえ

Posted by Shota Maehara : 5月 2, 2012

先の第四講話では、人間にとって正しいと思えることと本当に正しいこととは必ずしもイコールにはならないということについて触れた。いわば「人間の義」(理性、善意など)の限界についてともに考えてきた。そして、私たちには信仰という形でこの閉塞状況からの脱出口が与えられたことも示唆した。それは、現時点でキリスト教徒であろうとなかろうと、イエス・キリストを通して啓示された神の愛と恵みに無関係な人など地上には存在しないという聖書の解釈に基づいている。

ここで私は最初の「人はパンのみで生きるのではなく、同時に神のことばによって生きる」という主題に戻って、後者ではなく前者を必死に求めようとする私たちの行為がどういった帰結をもたらすのかについて考えてみたい。

2011年3月11日に発生した福島原発事故とそれが周辺住民にもたらした放射能汚染、そして日本に五〇数基ある残りの原発をどうしていくかは、決して日本国民全体に無関係な問題ではない。この問題を解決しなくては日本経済も立ち行かなくなるだけでなく、日本国民の生活も維持していけなくなる。これは自明の事柄である。

しかしながら、新聞やテレビなどの報道によれば、五月の長期連休を迎えて、多くの日本人が海外へ旅行する予定だという。私はこれを聴いた時、日本社会が抱えている課題の大きさと日本人の低い意識の落差にあらためて驚かされた。プレートの活断層以上に、我かんせずというような断層線がこの国には走っているような気がしてくる。ここから見えてくるのは、原発関係者や周辺住民だけでなく、今や多くの日本人が同胞の痛みを感じ取り、共感する力を失ってしまったということではないだろうか。

では、なぜこうした感覚の喪失が近年急速に生じたのだろうか。その問題の根源には、現代の日本人がパンのみを求める生活をひたすら優先してきたことと大きなかかわりがあると私は考える。

人間は精神であるがゆえに、動物と異なり、単なる物質的な糧に加えて、精神的な糧を必要としている。そのゆえに、神学では、神のことばを聴くことは神の食物を食すことを意味する。

実際、私たち自身も日々パンのほかに、友人や先輩などから様々な助言や励ましの言葉をもらうことによって、前向きに生きていく力をもらったような気がした経験が一度ならずあったはずだ。それに対して、日々のパンのみを求める人は、他人に関心を持たず、また、誰からも関心を持たれない。言い換えれば、パンのみを求める人は、利己主義に陥り、他者の痛みに共感する力を失ってしまう。

その最良の例をルカの福音書から引用しよう。当時最高の学者であるパリサイ派の律法学者(ユダヤの知識人)は、イエスを罠に陥れようとして、「何をしたら永遠の命が得られますか」と試問する。するとイエスは逆に律法にはどう書いてありますかと問われる。すると、律法学者は「『汝の神である主を愛せよ』そして『汝の如く隣人を愛せよ』とあります」と答える。それを聴いて、「その通りです。それを実行しなさい。」とイエスは告げられる。

ここで律法学者は、単なる聖書の知識や一般論を問うのではなく、自分自身の立場が問題とされていることに気づいて、たじろぐ。そして自分の責任を逃れるために、では、(自分の)「隣人」とはだれかと律法学者は反論する。それに対してイエスが「善きサマリヤ人のたとえ」によって語られる場面である。

「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」。彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です」。するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカの福音書、第10章第25~37節、新改訳)

この話の核心は、ユダヤ人の司祭やユダヤ教の教師(レビ)が同じユダヤ人が倒れているのを素通りしていったのに対して、むしろ民族的に敵対する関係にあったサマリヤ人が、臓腑(splagchnon)が痛むほどの憐れみを感じて、救いの手を差し伸べたことである。そして、イエスが引き出した結論は、「行ってあなたがたもそうしなさい」ということであった。すなわち、「隣人」とは<誰か>という問いではなくて、自分が目の前の傷ついている人の「隣人」に<なる>ということ、つまり、「隣人」とは他の誰かではなく、「あなた」なのだという点にある。

しかし、同時に、私は自分を省みて次のことを思わざるを得ない。自分を何よりも優先する人は、先の律法の二つの教えを裏返した形「神ではなく自分を愛す」、また「自分自身のようには隣人を愛さない」という結果に帰着せざるを得ないということである。言い換えれば、神ではなく、自分を神の如く愛している人は、隣人をも愛することはできないということである。まず自分を超えた存在を予感し、畏敬の念をもつからこそ、そこから共に生きる人々への愛も流れだすのだということをしっかりと心に刻んでおかなくてはならない。

ここで、私たちはこの講話の最後の段階に近づいた。社会に生きようとするとき、私たちがまず疑ってかからなければならないのは、他者ではなく、自らの心の王座に座った「自我」(ego)なのではないかということ、そして、それは時として他者へのはらわたのふるえるような思いによって、取り除くことが可能になるということである。それこそが、神の愛であり、無償の愛(agapee)にほかならないのだ。

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