人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが私たちの考えです。―ローマ人への手紙、第三章第二八節
先の第三講話で、生きていくために必死にパンを求めようとする行為が、ときとして本当に大切な「なくてはならぬもの」を見失わせてしまう結果になるという逆説に触れた。言いかえれば、良かれと思ってしている行為が時として最悪の結果をもたらすことになるという皮肉である。今回は、この謎について、もう少し違った角度から掘り下げていきたいと思う。それは、「人間の義」(理性、善意、価値など)の問題と大きくかかわっている。
2012年4月26日に、福井県の大飯原発3・4号機の再稼働をめぐって、おおい町では住民説明会が開かれた。この映像の一部はメディアでも報道された。政府が再稼働に踏み切るに際して、住民に理解を求めたのに対し、多くの住民は安全性や事故の責任を国がどう取ってくれるのかに不信感を示しつつも、意外にも多くの住民が再稼働に賛成されていた。その一番の理由は、やはり金銭の面であった。一例をあげれば、周辺住民が営む民宿や旅館は、ほとんどが原発作業員が利用していたため、原発を停止されると生活が成り立たなくなる恐れがあるそうである。
もちろん、これはきわめて深刻な問題である。なぜなら、決して一個人で容易く変えることのできない、戦後日本社会の構造的な問題であるからだ。唯一の被爆国でありながら、アメリカ(104基)、フランス(58基)に次いで世界第三位の54基の原発を所有するまでの経済大国になり、その上に私も含めた日本人が繁栄を築いて今日まで来た。ともすると電力に過剰に依存した我々の文明はもはや後戻りできないし、またする必要もないと考える人がいたとしてもおかしくはないだろう。
しかし、ここでもう少し冷静に考えてみる必要がある。私はこれに対してどうしても以前教会で敬愛する野町牧師から聞いたある挿話を思い出さざるを得ないのだ。なぜなら、それは今私たちの置かれた現状とあまりに似ていると思われてならないからだ。
18世紀にイギリスは世界中に進出し、広大な植民地を経営し、奴隷貿易が代表するような交易を繰り広げ、大英帝国を建設するに至る。このとき、政治家や商人をはじめとして、英国の人びとは自分たちの繁栄が奴隷の労働力によって成り立っていることにいささかの疑問も感じてはいなかった。
そんな孤立無援の中、イギリスの政治家ウィリアム・ウィルバーフォース は1789年にはじめて議会で、奴隷制反対を訴える最初の演説を行う。そこで彼は、あらゆる人間は平等に創られているという聖書の真理に立って、奴隷貿易は道徳的に避難されるべきであること、また、西アフリカの奴隷船内の過酷な実態を報告した。彼の助言者の一人に、かつて奴隷船の船長であった罪を悔い改め、英国国教会の聖職者となり、のちにアメージング・グレイスの作詞者ともなるジョン・ニュートンがいたといわれている。数々の試練に見舞われながらも、約40年後の1833年、ウィルバーフォースが病に倒れた1ヶ月後に議会は英帝国にいる全ての奴隷に自由を与える奴隷制廃止法を成立させたのだった。
この挿話が意味するものは一体なんだろうか。一つは、人はいかに日々の生活の糧を得るためという理由で、自分たちのしている恐ろしいことが見えなくなってしまうかということ。そして、二つ目は、それでも、奴隷制は廃止されたということである。すなわち、人間は過ちを犯すが、それでも、ときに本当に「なくてはならぬもの」を優先する決断を下しえるということではなかろうか。そして、たとえそれがかすかな希望でしかないとしても、奴隷制=原発に依存しない別の繁栄の道がありえるということではないだろうか。
今回も原発の必要性を様々な理屈で正当化することはできるだろう。いわばかつてイエスを論難したパリサイ派の律法主義、すなわち「人間の義」である。しかし、神の義と人間の義は決して同一平面上には存在しない。たとえ人間の義を無限に延長していったとしても決して普遍的な正しさには至れないのだ。そのままでは人間は滅びていくだけである。それゆえにこそ、神の恵みはこの両者をイエス・キリストという独り子によって、一致させ、彼を信じるその信仰によって生きる者を義と定め給うたのである。