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Shota Maehara's Blog

Archive for 2012年4月

原発と神の義 第四講話―信仰によって義とされる

Posted by Shota Maehara : 4月 30, 2012

人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが私たちの考えです。―ローマ人への手紙、第三章第二八節

先の第三講話で、生きていくために必死にパンを求めようとする行為が、ときとして本当に大切な「なくてはならぬもの」を見失わせてしまう結果になるという逆説に触れた。言いかえれば、良かれと思ってしている行為が時として最悪の結果をもたらすことになるという皮肉である。今回は、この謎について、もう少し違った角度から掘り下げていきたいと思う。それは、「人間の義」(理性、善意、価値など)の問題と大きくかかわっている。

2012年4月26日に、福井県の大飯原発3・4号機の再稼働をめぐって、おおい町では住民説明会が開かれた。この映像の一部はメディアでも報道された。政府が再稼働に踏み切るに際して、住民に理解を求めたのに対し、多くの住民は安全性や事故の責任を国がどう取ってくれるのかに不信感を示しつつも、意外にも多くの住民が再稼働に賛成されていた。その一番の理由は、やはり金銭の面であった。一例をあげれば、周辺住民が営む民宿や旅館は、ほとんどが原発作業員が利用していたため、原発を停止されると生活が成り立たなくなる恐れがあるそうである。

もちろん、これはきわめて深刻な問題である。なぜなら、決して一個人で容易く変えることのできない、戦後日本社会の構造的な問題であるからだ。唯一の被爆国でありながら、アメリカ(104基)、フランス(58基)に次いで世界第三位の54基の原発を所有するまでの経済大国になり、その上に私も含めた日本人が繁栄を築いて今日まで来た。ともすると電力に過剰に依存した我々の文明はもはや後戻りできないし、またする必要もないと考える人がいたとしてもおかしくはないだろう。

しかし、ここでもう少し冷静に考えてみる必要がある。私はこれに対してどうしても以前教会で敬愛する野町牧師から聞いたある挿話を思い出さざるを得ないのだ。なぜなら、それは今私たちの置かれた現状とあまりに似ていると思われてならないからだ。

18世紀にイギリスは世界中に進出し、広大な植民地を経営し、奴隷貿易が代表するような交易を繰り広げ、大英帝国を建設するに至る。このとき、政治家や商人をはじめとして、英国の人びとは自分たちの繁栄が奴隷の労働力によって成り立っていることにいささかの疑問も感じてはいなかった。

そんな孤立無援の中、イギリスの政治家ウィリアム・ウィルバーフォース は1789年にはじめて議会で、奴隷制反対を訴える最初の演説を行う。そこで彼は、あらゆる人間は平等に創られているという聖書の真理に立って、奴隷貿易は道徳的に避難されるべきであること、また、西アフリカの奴隷船内の過酷な実態を報告した。彼の助言者の一人に、かつて奴隷船の船長であった罪を悔い改め、英国国教会の聖職者となり、のちにアメージング・グレイスの作詞者ともなるジョン・ニュートンがいたといわれている。数々の試練に見舞われながらも、約40年後の1833年、ウィルバーフォースが病に倒れた1ヶ月後に議会は英帝国にいる全ての奴隷に自由を与える奴隷制廃止法を成立させたのだった。

この挿話が意味するものは一体なんだろうか。一つは、人はいかに日々の生活の糧を得るためという理由で、自分たちのしている恐ろしいことが見えなくなってしまうかということ。そして、二つ目は、それでも、奴隷制は廃止されたということである。すなわち、人間は過ちを犯すが、それでも、ときに本当に「なくてはならぬもの」を優先する決断を下しえるということではなかろうか。そして、たとえそれがかすかな希望でしかないとしても、奴隷制=原発に依存しない別の繁栄の道がありえるということではないだろうか。

今回も原発の必要性を様々な理屈で正当化することはできるだろう。いわばかつてイエスを論難したパリサイ派の律法主義、すなわち「人間の義」である。しかし、神の義と人間の義は決して同一平面上には存在しない。たとえ人間の義を無限に延長していったとしても決して普遍的な正しさには至れないのだ。そのままでは人間は滅びていくだけである。それゆえにこそ、神の恵みはこの両者をイエス・キリストという独り子によって、一致させ、彼を信じるその信仰によって生きる者を義と定め給うたのである。

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原発と神の義 第三講話―なくてはならぬもの

Posted by Shota Maehara : 4月 29, 2012

先の講話を受けて、この第三講話では、人はなぜ神のことばよりも日々のパンのほうを求めてしまうのかという問題について、その原因を少しずつ慎重に掘り下げていきたい。なぜならば、この問題は、単に人間の自己中心や欲望などという言葉では片付けられない根本的な主題を孕んでいるように思われるからだ。

まず、2011年の3月11日に東日本大震災が発生し、、その後に津波等の影響も加わって福島第一原子力発電所の事故が起こり、、その後の政府や東電の対応、さらに復興もままならない時期に再び原発を再稼働させようという動きがある。ここに我々は何をみるべきなのだろうか。

一部では原子力政策を推し進めて政府関係者や御用学者の悪知恵や悪意だけが強調されている。しかし、私はむしろここに政府の方々や現場で処理にあたっておられる方々の理性や善意を見る。たとえば、先日たまたま手にした経済誌「エコノミスト」の記事の中で、3・11後の世界の原発政策を冷静に扱っているレポートには次のように書かれている。

確かに福島第一原発事故は大きな衝撃を与えたが、ほとんどの国で原子力は依然として電力源の選択肢として残され、エネルギー安全保障や発電コスト、再生可能エネルギーの可能性、温暖化対策など様々な要因によって、万が一のための切り札として原発の開発計画だけは準備しておこうと多くの国では考えられているのだと。

ここからも読みとれるのは、我々は誰しも自分や家族の暮らし、あるいは企業や国家を維持していくために、善意から知恵を振り絞って日々を生き抜こうとしているということだ。個人は自分の生活や家族を養うため、企業は競争に勝ち残るため、国家は広い意味での国民の安全を確保するために行動している。これらはすべてエゴかというとそう言いきれない。なぜなら、かつてもいまも日本人が馬車馬のように我武者羅に働くのは、究極的に自分以外の「誰か」、「何か」のためであることが多いからだ。

しかし、ここに現代の逆説が存在する。人間が善意で行動すればするほど、それが悪なる結果をもたらすという逆説である。相手のことを家族のことを思ってやることがかえって自分の足かせになってしまうことがある。ではなぜこのようなことが起るのだろうか。人間は善意で行動してはいけないというのだろうか。これを解く鍵は新約聖書のルカ福音書に収められている「マルタの物語」にあると私は信じる。

さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。(ルカの福音書、第10章第38~42節)

マルタは決して悪なるひとではない。自分なりに主をもてなそうと思って働いたのである。そして自分がこんなに頑張っているのに何ひとつやっていないマリヤに目をとめ、心がいらいらし、とうとう不満をぶちまけたのである。これは私たちの職場でもよく見かける光景ではないだろうか。

ここにあるのは人間的な理性や尺度(人間の義)で行動すればするほど、神の義からは遠ざかっているという逆説である。確かにマルタは一生懸命働いているが、主イエスが自分の家に滞在する時間はごくわずかである、いや今晩だけであろう。それなのに、彼女は主の言葉を聞くまたとない機会を逃してしまうかもしれないのである。なぜなら、それは彼女が雑事に煩わされて、一番大切なものを優先すべきことを忘れてしまっていたからである。そして、これはまた福島原発を巡る今日の私たちの姿とも重なる。

この話の教訓は人間の義によってパンを求めて行動することが神に敵対するような結果をもたらしかねないこと、すなわち神の義によって人間の義は絶えず否定されること、その断絶である。そしてなによりも、本当の意味で「なくてはならぬもの」(友人や家族、故郷や祖国、そして神の言葉)を第一にして、そこから生活を組み立てることの必要性を聖書は私たちに語りかけている。

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原発と神の義 第二講話―神の国とその義を第一に求めなさい

Posted by Shota Maehara : 4月 22, 2012

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章31~33節)

先に私は、キリスト教の聖書の中でも非常によく知られた次の言葉、「人はパンのみで生きるにあらず、神のことばによって生きるのである」を取り上げた。

一般にこの言葉は、キリスト者をも含めて、「人は生きていくためにパンと同時に神のことばを必要としている」という意味に誤解されている。つまり、「神は我々に生きるパンが必要なこともよくわかって備えてくださる、神は決して神のことばだけのことを言っているのではない、ありがたいことですね」、という風に解釈されているのだ。

しかし、このようにこの聖句を解釈していると、人はいつしか現実のパンを手に入れることを最優先し、神のことばを実践することを半永久的に後回しにする傾向があるのではないかと私は自戒をこめて危惧する。宗教者ですらそうなのであるから、一般の信仰のない人たちは言わずもがなであろう。

例えば、私はこのところよく話題にされている、福井県の大飯原発を再稼働させようとする問題もさることながら、新聞で見かけた次のような記事に衝撃を受けた。東日本大震災の津波被害を受けた宮城、岩手の沿岸自治体では、堤防の高さを当初計画より引き下げる動きが出ているそうである。どうやら、日本三景の一つ、松島湾に面する宮城県松島町などで、観光業に打撃を与えるという理由から、景観を損ねる高い堤防に反対しているとのことであった。そして、これは本当かは知らないが、もうそんなに高い津波は当分来るはずもないからという声もあるという。

これに対して、あなたはどう思われるだろうか。原発停止は採算が合わない。コストがかかりすぎると言った経済学者と同じ論理が見られるのではないだろうか。この町は、観光で潤っているのだから、生きていくためにはそれを中心にして考えていかねばならないと。そして、またもや人間として本当に大切なことは後回しにされていくのだ。すべてはこの論理である。とりあえず社会を回していかなければならない。それがまともに回っているかは後回し、二の次の問題であるというような。

私はこの話を聞いた時、ここには自分の子どもや孫の世代にまで危険が及ばないようにしたいという考えが微塵もなく、そこにあるのはただ今の自分たちの欲だけだと憤りを感じた。

私はこの震災や原発の問題は、「経済」とは独立した、別個の領域の問題であると考える。つまり、採算が合うか合わないかではなく、例えば「福島」のような汚染されて人が住む場所を離れねばならないような土地を、祖国日本の地に可能性にしてももう一つ作ってよいのか、という観点から組み立てられるべきものであると考える。そして、今回こそはわれわれはパンという経済の論理に引きずられて、大切なもの、友人、家族、祖国、何よりも神のことばを守ることを後回しにすべきではない。

ただ同時に民主党の原発行政に反対する意見があるということに希望を見出す。なぜなら私も含めて日本人は時に多くの間違いを犯すが、他者の痛みに共感するという素晴らしい感覚を持っているからである。それはいわば神から授かったギフト(贈り物=才能)であり、その尊い感覚こそが、政治や企業の愚を糺す力強い流れを生み出すと私は信じている。

政治の本質とは信仰と同様に「決断」の問題である。確実な根拠もなく、それに対しては自分自身で全責任を負わなければならない。それゆえ非常に困難なことではある。しかし、今でなければいつ我々は正しい方向に舵を切れるというのだろうか。もしこの国がこのままことなかれ主義で進めば、子々孫々にまでその代償は測りしれなく大きいものになるだろう。

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原発と神の義 第一講話―人は生きるためにパンを必要とはしない

Posted by Shota Maehara : 4月 19, 2012

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」―新約聖書マタイの福音書4章4節

私は大学生時代、教授などが集まる研究会に許可をいただいて参加させていただいていた。そのときの事でいまだに印象に残っている出来事がある。それは農業経済学の権威で、インドの経済学者アマルティア・センの流れをくんでいたある学者が立食パーティーの席でふと漏らしたことばだ。彼は相手の女性の学者に対して「人はね、まずなによりも明日の飯をどうするかということを考えなくちゃいけないんですよ」と言ったのだ。

これに対して私は不意に胸をつかれたような気持ちになった。私はこの時まだマルクス主義の文献を研究する左翼系の学生でしかなかったが、瞬間にそれは違うという思いが頭をよぎったのである。「人はパンのみにて生きるにあらず、神のことばによって生きるのである。」というマタイ福音書第4章4節の聖句が思い出されてきてならなかったからである。

一般的に、農業経済学やセンが業績を上げた厚生経済学は、フリードマンなどの自由市場経済学とは異なり、現代の貧困格差の問題に敏感な倫理や道徳を重視する立場だといわれている。もちろん私もそのように考えてきた。

しかし、実際は彼らの価値観は、「経済」を何よりも重視するという点で新自由主義経済学者と大同小異であったのだ。私はこの席で何とも言えない違和感を胸に家路に就いたことを覚えている。そしてこの違和感は今日に至るまで完全に拭いさられることはなかった。つまり、同じ価値観を共有する者同士が他方を批判し合っているだけなのではないか、そして、もしそうならば本当にこの世の中を改革することができるのかということに対する疑問であった。

今、私は今日の閉塞状況に直面して、この時の私の認識というか直感は正しかったのではないかという感を強くしている。そして私には、この人間の義のどこが間違いなのかをはっきりと指摘することができる。

確かに多くの人々と同様、私は生きていかねばならない。そのため、したくもない仕事をせねばならぬときがある。そして、家に帰れば体を休めねばならない。こうして日々は光陰のように過ぎ去っていく。私が本当になすべきことがなにかがわからぬままに。

しかしやがて不幸に出会った日には、打ちひしがれ、「なぜ自分がこんなつらい思いをして生きているのだろうか」と疑問に感じもするだろう。そのとき心は飢え渇いて、物質的なものだけでは満たされないと感じるだろう。それはまさしく人間が精神であるからである。だから、人は誰かの言葉を日々必要としている。

したがって、私は聖書のことばをより過激に再提示して見たいと思う。すなわち、「人が生きるためには、日々のパンを棄ててでも神の言葉を選びとらねばならぬ瞬間(とき)がある」。本当に生きるという意味で、パンは必要ではない。正しい道を歩むということ、このことを単に生きることのために犠牲にしてはならないのではないだろうか。原発に依りかかって生きるというあり方を含めて今の私たちは神のことばに寄り添い正しい道を見出していかなければならない。

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