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Shota Maehara's Blog

Archive for 2012年7月

現代人にとって愛とはなにか―『東京物語』(小津安二郎)が語るメッセージ

Posted by Shota Maehara : 7月 31, 2012

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。―コリント人への手紙第一 第13章13節

キリストの教える「愛」(アガペー)とは何でしょうか。例えば、岩波書店の広辞苑第五版はいわゆる一般的な愛(エロス)と区別して次のように説明しています―「アガペー(agape ギリシア)神の愛。神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵を与える自己犠牲的な行為で、キリストの愛として新約聖書に現れた思想。」。すなわち、イエス・キリストはまだ罪人である私たちのために十字架に架かり、そして神と和解させて下さいました。これこそが愛であり、自己犠牲的な愛なのです。例えば、ヨハネ福音書にも「友の為に命を捨てる以上に大きな愛はない。」とあります。

もちろん、これをそのまま私たち人間に適用することは、まれな例を除き、非常に難しいことでしょう。そこでドイツの学者ボンへッファーやアメリカのリック・ウォレン牧師は、これをパラフレーズして、愛とは、他人と一緒に時間を過ごし、話に耳を傾けることであるいう重要な指摘をしています。なぜなら人間にとって時間こそがニ度と戻って来ることのない自分の人生の一部だからです。その意味で、まさしく自分の時間を与えるということは、犠牲を払うことに他なりません。そして、犠牲こそが愛だからです。

さて、それにしてもなぜ人間にとって最も貴重なものがお金ではなく、時間なのかという点に疑問を持たれる方もいらっしゃるのではないでしょうか。確かに、現代人にとってお金は最も大事なもののように見えます。子どもでさえもがプレゼントに何が欲しいと聞かれて、お金が欲しいと答える光景をしばしば目にします。

しかし、それは戦後高度経済成長の中で、経済的な豊かさのみを至上の価値と思い込んだことによる錯覚にすぎないのではないでしょうか。この疑問を解く鍵は小津安二郎監督の代表作『東京物語』にあると私は考えます。

この物語は、周吉、とみの老夫婦が広島県の尾道から成長した子供たちに会いに二十年ぶりに東京を訪れるところから始まります。東京で長男の幸一は、町医者をしており、長女のしげは、美容院を営んでいます。彼らははじめは両親が来てくれたことを喜び、できるだけもてなそうとします。しかし、仕事が忙しく満足に相手をしてやることもできない。そこで話し合った末、お金を出し合って熱海の旅館に何日か行ってもらうように決めるのです。老夫婦はこの申し出をありがたく受けますが、その姿からはどこかにかすかな寂しさが漂っているのでした。

その一方で、彼らの心を慰めてくれたのは、戦争で死んだ次男昌二の嫁・紀子の存在でした。彼女はわざわざ仕事を休んで、義理の両親のために二人を東京見物に連れて行ってくれます。そして、労わりのこもった言葉を二人にかけてくれるのです。二人は心からお礼を言い、「今まで本当に息子のことで苦労をかけてすまなかった、どうかいい人がいたら気兼ねすることなくお嫁に行って欲しい」と告げるのでした。

その後両親は尾道に戻りますが、程なくして一緒に暮らす次女の京子から「ハハキトク」の電報が届きます。長男の幸一と長女のしげそして紀子たちは、出来るだけ早く尾道へ向いますが、母はまもなく息を引き取ってしまいます。東京訪問の直後のこの母の死は虫の知らせだったのかもしれないと悲嘆にくれるものの、葬式を終えると、実の子どもたちは仕事のためにそそくさと東京に戻ってしまいます。そして、またもや紀子だけが尾道にもう数日だけ残ることになるのです。

尾道で父と暮らす次女・京子は義理の姉紀子に長女しげたちへの不満をぶつけます―「実の親子なのに、形見だけ受け取って早々と帰ってしまうなんて。自分勝手なんよ」と。すると紀子は「でもね、京子さん、大人になると、御父様や御母様とは別の御姉様だけの生活があるの。御姉さまも決して悪気でやった訳ではないと思うの。誰だってみんな自分の生活が一番大切大事になってくるのよ。」と優しく諭す。それに対して京子は、「自分はそうなりたくない。もしそうなら親子なんて、随分つまらない。いやね、世の中って。」と反論する。紀子もまた「そうね。嫌なことばっかり…。」と少し淋しそうに呟くのだった。

やがて紀子が東京へ帰る前に、義理の父周吉と会話を交わす最後の場面が、この映画をいっそう印象深いものにしています。

今回の東京の訪問で、「あんたに親切にしてもらったことが何よりも一番嬉しかったととみが言っていた」と周吉は話す。そして、「あんたみたいにいい人はいないってお母さんも誉めていた」と。それに対して、紀子は自分の胸の不安をはじめて吐露する―「そんなことありません。わたくしずるいんです。いつも昌二さんのことを考えているわけではありません。わたくし、このままこうして独りでいたら一体どうなってしまうかを考えてしまうことがあるんです。何ごともなく一日が過ぎて行くことが寂しいんです。ずるいんです」。それを聞いた周吉はにっこりほほ笑んで、「やっぱりあんたはいい人だ。正直で」と言った後で、とみの懐中時計を形見に貰ってくれと差し出す。

そして、「妙なもんじゃ。自分が育てた子供より、いわば他人のあんたのほうがよっぽどわしらに良うしてくれた。ありがとう」としみじみと紀子に感謝の言葉をかけるのだった。

この作品で、小津安二郎は一体何が伝えたかったのでしょうか。それは東京のせわしない生活の中で、お金ではなく「時間」こそが現代人にとっての愛の本質を形作っているということに他ならないでしょう。現代に生きるわれわれはそれぞれが精一杯働き、努力をしている。それは素晴らしいことです。しかし、家族や友人や恋人や目の前にいる他人が苦しんでいる時に、自分の時間を割くことなくお金で済ませようとしたなら、それは果たして愛でしょうか。もし自分が相手の立場だったとしたらどう感じることでしょうか。

このように考えてくると、私は自分の胸が痛みます。なぜならば、私自身大学院時代にクリスチャンの友人にこう言われたからです。つまり、「自分一人で研鑽を積むだけではなく、あなたはそれを人々に教えるためにもっと時間を費やすべきだ」と。それ以来、今でも私は他人と一緒に時間を過ごすという事がどれほど出来ているかと自問することがよくあります。

もちろん、自分のためだけに時間を使ってしまうことは現代生活では避けられません。これは悲しいかな事実です。しかし次の時代に生きるわれわれは、これまでの自己中心の生活ではなく、共に生きる生活を合言葉にしていかなければならないとするなら、それにはまず各人が心の中の固い自我の殻を少しずつ破っていく必要があると思うのです。その先に、たとえ完全には至らなくとも、他人に対して見返りを要求しない神の愛(アガペー)に基づいて生きる可能性が顕われるのではないでしょうか。

関連文献: 「東京物語」試論―「時間」の共有をめぐって

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神の愛について

Posted by Shota Maehara : 7月 29, 2012

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。―コリント人への手紙第一 第13章13節

キリストの教える「愛」(アガペー)とは何でしょうか。イエス様はまだ罪人である私たちのために十字架に架かり、そして神と和解させて下さいました。これこそが愛であり、自己犠牲的な愛です。例えば、ヨハネ福音書にも「友の為に命を捨てる以上に大きな愛はない。」とあります。

また神学者のボンへッファーやウォレン牧師は、愛とは他人と一緒に時間を過ごす事だと述べています。なぜなら人間にとって時間こそがニ度と戻って来ることのない自分の人生の一部だからです。その意味で、まさしく自分の時間を与えるということは、犠牲を払うことに他なりません。そして、犠牲こそが愛だからです。

しかるに、私自身は他人と一緒に時間を過ごすという事がどれほど出来ているかと自問します。するとそこに結局自己中心に生きている惨めな自分を見出すのです。 それでも私も主の御力によって少しずつ変えられて、本当の意味で自己中心から、神中心の生き方ができるようにと絶えず祈っています。

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チェスタトン『正統とは何か』に関するノート

Posted by Shota Maehara : 7月 29, 2012

相対主義との闘い

『正統とは何か』の第二章は「脳病院からの出発」と題されているが、チェスタトンが相対主義者のことを狂人とみなしたのは、「何も信じず誰も信じぬこの男が、自分自身の悪夢の中にたった一人で立ちつくす時が来るだろう」とわかっていたからである。

おのれの言動が正義や真理から遠く隔たっているとわかっていても、このおおよそ無限遠にある思想の光源に少しでも近づくべく思想を紡ぐ、そうするのでなければ人は相対主義者となり、相対主義者はいずれおのれ自身を相対化して虚無主義者となり、ついには―自殺するのでないとしたら―狂人になりはてる。この忌むべき相対主義を理性の名において思想の高みに登らせてしまった忌むべき時代、それが近代だとチェスタトンは喝破したのである。

「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」(脳病院からの出発)

(vi)

「宗教が滅べば、理性もまた滅ぶ。どちらも共に、同じ根源の権威に属するものであるからだ。…そして、神によって与えられた権威を破壊することによって、われわれは人間の権威という観念まであらかた破壊してしまったのだ。」(思想の自殺)

この文句の意味は、自己を超越する次元にまで視線を及ぼす精神の力量を持つことこそが自己を権威あらしめる唯一の方途だ、ということである。逆にいうと、自己(人間)を無条件に権威の源泉とした近代のヒューマニズムは、超越(神仏)への思いを非理性的として嘲ってきたため、とうとう自己を無価値なものとして足蹴にする破目になったということだ。

「人間は自分自身を疑って然るべきものだった。しかし真実を疑うべきではないはずだった。」

(viii)

平衡感覚の保持

「正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。」(キリスト教の逆説)

…一言でいえば、伝統ほどに面白く楽しめるものはまたとない、と察知するのでなければ、またそれゆえに実際に面白い人生を生き、楽しい歴史を展開してみせるのでなければ、とても保守主義者の名に値しない。チェスタトンがみごとであるのは、伝統という変わり映えのしないものを語るその語り口が、荒馬の御者の手綱捌きのように、躍動している点にある。

(X)

大衆ではなく庶民とともに

「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならないと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」(おとぎの国の倫理学)

「真の民主主義について、他の何物よりも真なることがあるとすれば、それはつまり、真の民主主義は衆愚の支配に断固として反対するという一事である。なんとなれば、真の民主主義の根本は市民の存在ということにかかっているからであって、そして衆愚の最上の定義何かと言えば、その中に一人として市民の存在せぬ群衆であるという以外にはないからである。」

(xiii)

第二章 脳病院からの出発

「徹底して現世的な人びとには、現世そのものを理解することさえできぬものだ。」(14頁)

「狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。実際、この意味では、狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」(23頁)

「…実際に狂気を形作っているものは何かを示すことである。さて、では、それはいったい何か。要約してこう言ってよろしかろう。つまり、根なし草の理性、虚空の中で酷使される理性である。正しい第一原理なしに物を考え始めれば、人間はかならず狂気に陥ってしまう。出発点を誤っているからだ。では、正しい出発点とは何なのか。」―神秘主義(39頁)

「人間は自分自身を疑って然るべきものだった。しかし、真実を疑うべきではないはずであった。ところが今や事態はまさに正反対に逆転した。今日、人間が現に主張しているものは、人間が決して主張すべきではないはずのもの―自我である。人間が現に疑っているものは、けっして疑うべきではないはずのもの―神にも似たその理性なのである。」(47頁)

「警察を攻撃するのは理屈にあっている。いや、大いに名誉なことでさえある。だが今日宗教の権威を批判する連中は、強盗のことなど聞いたこともないのに警察を攻撃しているようなものである。しかし人間の魂を襲う危険は現に存在する。強盗と同じくらい現実的な危険が存在している。この危険にたいする防壁として立てられたのが、善悪は今のところ一応別として、宗教的権威というものなのである。そしてこの危険にたいしては、何らかの防壁は是が非でも立てなければならぬのだ。もっとも、人類が滅びてしまってもかまわぬというなら話は別であるが。」(四九頁)

第三章 思想の自殺

「いつもいつも、理性か信仰か、どちらを取るかなどと言って暮らすのは愚論もいいところであろう。理性そのものが信仰の問題だからである。」(50頁)

「宗教が滅べば、理性もまた滅ぶ。どちらも共に、同じ根源の権威に属するものであるからだ。どちらも共に、それは証明しえない証明の手段である。そして、神によって与えられた権威を破壊することによって、われわれは人間の権威という観念まであらかた破壊してしまったのだ。」(51頁)

「狂気とは、知的無力に帰着する知的活動であると定義することができるだろう。そして現代思想は今まさにその終着駅に到着寸前のところまで来ている。」(67頁)

第四章 おとぎの国の倫理学

「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。あらゆる民主主義者は、いかなる人間といえども単に出生の偶然によって権利を奪われてはならないと主張する。伝統は、いかなる人間といえども死の偶然によって権利を奪われてはならぬと主張する。」(七六頁)

「私が今まで何らかの偏向を持ってきたとすれば、それはいつまでも民主主義を支持し、したがって伝統を指示する偏向であった。」(七七頁)

「現代を支配する唯物論は天をも摩する勢いに見えるが、しかしその根拠とするところは、実は結局のところたった一つの前提、しかも誤った前提にすぎない。何かが繰り返して起こるというのは、それが死んでいる証拠、時計仕掛である証拠と考えられている。もし宇宙に生命があり、人格を持つのであれば、宇宙は当然変化するにちがいない、もし太陽が生きているのなら、当然太陽は踊りだすはずだ―人びとはそう決めてかかっているらしい。しかしこれは謬見というも愚かな謬見というしかない。日常身辺の事実に照らしてもそれは明らかだ。人間の生活に何か変化が起れば、それをもたらすのは普通は生命ではなくて、逆に死のなせるわざである。力が衰え、欲望が絶えることこそ変化の原因なのである。」(99頁)

「自然界の繰り返しは、単なる反復とは違うのではあるまいか。実はアンコールではあるまいか。」(100頁)

第五章 世界の旗

「人びとはローマが偉大であるからローマを愛したのではない。ローマは人びとがローマを愛したから偉大となったのだ。」(一一六頁)

「この解答は白刃の一閃のごときものであった。まさに一刀両断したのである。いかなる意味でも、感傷的にほころびを縫い合わせたのではない。一言で言えば、キリスト教は神と宇宙とを切り離したのである。神は宇宙から絶対的に超絶した別個の存在と考えること―現代のキリスト教徒の中には、この根本の理念をキリスト教から除去しようとする者があるけれども、しかしこれこそ実に、当時の人びとがキリスト教徒になろうとした唯一の理由にほかならなかったのだ。」(一三四頁)

第六章 キリスト教の逆説

「われわれの住むこの世界で本当に具合の悪いところは何か。それは、この世界が非合理の世界だということではない。合理的な世界だということでさえもない。いちばん具合が悪いのは、この世界がほとんど完全に合理的でありながら、しかも完全に合理的ではないということだ。」(一四二頁)

「異教の哲学は、美徳は平衡にあると主張した。キリスト教は、美徳は対立葛藤にあると主張した。一見相反するように見える二つの情熱の衝突にあると主張した。もちろん、二つの情熱は本当に対立しているのではない。ただ、同時に二つながら抱くことの困難な情熱なのである。」(一六四頁)

「「自分の命を失おうとする者は命を全うするだろう」というマタイ伝の言葉は、聖者や英雄のためだけの神秘な言葉ではない。水夫や登山者のためのごく日常的な忠告にほかならぬ。アルプスの登山ガイドや教練の指導書に印刷してしかるべき言葉なのだ。この逆説こそ勇気というものの本質を言いつくしている。」(一六五頁)

「キリスト教は、まずこの二つの観念を分断し、しかる後にその両方を極端にまで押し進めた。ある意味では、人間はかつてためしのないほど誇りを高く持つべきだった。だがまたある意味では、人間はかつてためしのないほど身を低く持すべきだった。私は、「人間」であるという意味ではあらゆる被造物の長である。だが私は、一人の人間にすぎぬという意味では、あらゆる罪を犯した者の最たるものでもある。」(一六七頁)

「「自己を誇るなかれ。しかしてまた自己を卑下することなかれ」という金言なら誰にも言えたはずである。そしてこの金言は人間を縛るものであったはずである。しかし、「ここでは自己を誇ってよろしい。ここでは自己を卑下してよろしい」と言い切ること―それは人間を解き放つことだったのである。(改行)この新しいバランスの発見こそ、キリスト教倫理の重大事だった。」(一七六頁)

「正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だったのだ。」(一八〇頁)

第七章 永遠の革命

「ちなみに言えば、ニーチェの弱点もすべて実はこれにつきる。ニーチェのことを、大胆にして力強い思想家のごとく言う人びとがある。詩的で暗示的な思想家であることは否定できないが、力強いとは義理にも言えぬ。正反対である。大胆などとはとんでもない。アリストテレスにしろカルヴィンにしろ、あるいはカール・マルクスさえ、恐れを知らぬ思想の持主は、自分の主張の意味するところを、比喩の衣をはぎ取った素裸の言葉で定着し、直視した。ところがニーチェにはそれができない。いつでも物理的な比喩に頼って問題を避けて通るのだ。この点では気楽な二流詩人と同じことである。」(一八八頁)

「「進化」か、それとも「進歩」か、などと、単なる言葉の問題でかれこれ言うには及ばない。私自身は、むしろ「改造」(リフォーム)が好ましいと思う。「改造」という以上は、何らかの「構造」(フォーム)を予想しているからである。世界を、何かある特定の形に改めようと努力する意味がふくまれているからだ。つまり、われわれがすでに心の中にはっきりとした形を見ていて、世界をその形に合わせようとするわけである。」(一九〇頁)

「革命的な書物を読みすぎて、結局ただじっと座っている結果になっている。」(一九四頁)

「では、キリスト教の自然観の要点はどうかと言えば、それはつまり、自然はわれらの母ではなくて、自然はわれらの姉妹だということである。」(二〇三頁)

「すでに述べたように、世人が進歩主義者となるべき理由の一つとして挙げているのは、世の中の物事が自然によくなって行く傾向があるということである。だが、進歩主義者となるべき真の理由はただ一つ、世の中の物事は自然に悪くなって行く傾向があるということなのである。いや、物事が堕落して行くということは、単に進歩主義の最大の論拠であるだけではない。保守主義に反対すべき唯一の論拠でもある。」(二〇八頁)

第八章 正統のロマンス

「現代がいかに喧騒に満ち、奮闘努力を要するかを嘆くのは、今日ではほぼ決まり文句になっている。けれども実は、現代の第一の特徴は底知れぬ怠惰と倦怠にある。事実はむしろ、本当は怠惰であるからこそ見かけの喧騒が生じているのだ。」(二二六頁)

「休日というものは、自由主義と同様ただ人間の自由をを意味するにすぎないが、奇蹟とは、要するに神の自由を意味するにすぎないのである。諸君の良心にかけて、人間の自由も神の自由も、二つながら否定するのは諸君の自由だ。しかしその否定を自由主義の勝利と呼ぶことは自由ではない。カトリシズムによれば、人間も神も、共にある種の精神的自由を持っている。カルヴィニズムは人間から自由を取り上げて、それをもっぱら神に委ねた。ところが科学的物質主義は、天地の創造者自身からさえ自由を奪った。黙示録が悪魔を縛ったように、唯物論は神さえも縛ったのである。宇宙全体の中に、何一つとして自由なものを残さないのだ。しかもこういう行為を助ける人びとが、こともあろうに「自由主義的」神学者と呼ばれているのだからたまらない。」

「奇蹟を懐疑することに、何かしら自由や改革に通じるものがあると考えることは、まさに文字どおり事実の正反対というものだ。奇蹟が信じられぬというのなら、それで万事は終りである。」(二三二頁)

「ここでわれわれはまたしても、キリスト教の本質にまつわるあの倦むことのない性格を発見する。現代の哲学はすべて、人を縛り、手かせ足かせをはめる鎖である。だがキリスト教は剣であって、束縛を断ち切り、解き放つ。宇宙を自己から切り放ち、生きた魂とすることを真に喜ぶ神の観念はキリスト教以外に抱きうるものではない。正統のキリスト教に従えば、この神と人間の分離は聖なるものである。なぜならそれは永遠の分離であるからだ。人間が神を愛しうるためには、人間の愛すべき神が必要であるばかりではなく、神を愛する人間の存在もまた不可欠である。…つまり、神の子が地上に来給うたのは、単に平和をもたらさんがためばかりではなく、人と人とを引き裂かんがためだというあの言葉だ(マタイ伝一〇・三四)。この言葉は、その文字どおりの意味においてもまったく真理の響きを放っている。神の愛を説く者は、必ずや憎しみを生まずにはおかぬという意味である。」(二四一頁)

「われわれが民主主義を尊重し、西欧の自己革新のエネルギーを尊重するとすれば、古い神学にこそこれらを発見できるのであって、現代流の新しい神学に見出すことはまずできない。改革を求めるのなら、正統に固執しなければならない。」(二四四頁)

三位一体の教義

「…というのも西欧の宗教においては、「人間がただ一人でいることはよろしくない」という観念がいつも鋭く感じられてきたからだ。…三位一体を信じるわれわれにとっては、神ご自身がすでに一つの社会を構成しているのだ。」(二四六頁)

「キリスト教はすべて、岐路に立った人間に集中する。」(二四八頁)

「現代では、キリストの神性をできるだけ小さく見つもろうとしたり、人間的あるいは「科学的」に説明しようとしたりする試みがよく見られるが、この場合にも、今まで述べてきた事実はやはり事実として当てはまる。こういう説明が正しいかどうか、それは後で論ずることにする。だが、もしキリストの神性が事実であるとすれば、この神性が恐ろしく革命的であることもまた事実である。正しい人間が窮地に陥ることもあるということなら、われわれにもことさら珍しいことではない。けれども神が窮地に陥ることがありうるなどということは、どんな反逆者が主張するにしても恐るべき傲慢の言と言うべきだろう。神が単に全能であるだけでは完全ではないと感じた宗教は、地上の宗教多しといえどもキリスト教をおいてほかにはない。神は、完全に神であるためには、王であるばかりでなく反逆者でなければならぬと感じた宗教は、地上のあらゆる宗教のうちキリスト教以外には一つとして見当たらぬ。すべての宗教のうちキリスト教のみが、天地の創造者の徳のうちに勇気をつけ加えたのである。およそ勇気の名に値する勇気とは、魂のまさにくず折れようとする瞬間を経験し、しかもなおくず折れぬことを意味するはずである。」(二五一頁)

第九章 権威と冒険

「キリスト教とは、一個の超人間的なパラドックスであって、これによって二つの相対立する情熱が、お互いに相並んで燃えさかることのできるものなのだ。福音書の文体を真に説明できる唯一の説明は、これが、何か超自然的な高みから、何かさらに驚倒すべき矛盾の統合を見守っている者の言葉だということ以外にはないのである。」(二六九頁)

「宗教について本当の議論をしようとすれば、それはいつでも、逆様に生れついた人間は、もし正常に帰った時、はたして自分でそれがわかるかどうか、という問題に帰着する。そもそもキリスト教の最大のパラドックスは、人間の尋常の状態が、人間の正気にして正常な状態ではないと主張することだ。正常自体が異常だとすることだ。それこそ原罪ということの真意にほかならぬ。」(二九〇~二九一頁)

「第一の、「お前はいったい何者であるか」という問には、私の考えついた答えはただ、「そんなことは知るものか。神様だけがご存知だ」というのであった。第二の質問―「それでは、人間の堕落とは何を意味するか」にたいしては、私は真から真面目にこう答えたものである―「私がそもそも何者であろうと、私は実は私自身ではない。」これこそわれわれの宗教の最大のパラドックスというものだ。われわれが本当の意味では一度もわからなかったあるものが、単にわれわれ自身以上のものであるばかりではなく、われわれ自身よりもさらにわれわれ自身にとって本然のものですらあるのだから。そして、これが正しいかどうかを決める手がかりは、結局のところ、本書の冒頭で示したあの単純な実験しかない―つまり、気ちがい病院の独房か、それとも開かれた扉を出て行くかという実験しかないのである。私が知的な解放ということを本当に知ったのは、正統の何たるかを知ってからのことだった。」(二九一~二九二頁)

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宗教改革の光と影 7―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 4, 2012

幼児洗礼の問題

七四問 幼い子供たちにも、洗礼を授くべきでしょうか。

―そうです。子供たちも大人とおなじように、神の契約とその教団に属しており、罪からの救いと、信仰を起こして下さる聖霊とが、彼らに対しても、大人に対してと同じように、キリストの血において約束されているのですから、彼らもまた、契約の徴としての洗礼によって、キリスト教会に接がれて、不信者の子供たちから区別されるべきです。それは、ちょうど旧約聖書において、割礼によって区別が行われているのと同様です。この割礼の代りに、新約聖書では、洗礼が設定されているのです。

この問答の出現は、唐突である。洗礼は、信仰の保証である。あるいは、イエス・キリストに血と霊によって、その起源が確かなものとされて、信仰の基礎づけが保証されることである。〔その場合〕自分の信仰を告白し、洗礼を受けることを願う信仰する人間が、前提とされている。ところが、突然に―またこれまで述べて来たこととは明らかに矛盾して、幼児(infantes)の洗礼について語られる。古プロテスタンティズムの神学全体において(カルヴィンにおいても)、幼児洗礼は、このような思いがけない無根拠な仕方で扱われた。すなわち、それまで挙げられていた洗礼にとっての基本的な標識が―ことに受洗者の信仰が、突然不問に付せられる。なぜと言って、乳児が信ずるということは、理性的に受け容れられないからである。「泣き叫ぶ子供」が、ここで罪人がその反抗にもかかわらず聖霊に捕えられていることの、証明なのであろうか。信仰は、洗礼によって、幼児に媒介させるのであろうか。それとも、他の人々の信仰が―恐らくは両親や洗礼立会人の信仰、あるいは集まった会衆の信仰が、その代理をするのであろうか。したがって、この場合、受洗者の信仰は、少しも問題ではなくて、代りの信仰が、問題なのであろうか。しかし、それらすべてのことは、これまで洗礼について教えられてきたことと、どういう関係になるのであろうか。

七十四問には、それ自身としては正しい三つの根拠が、挙げられている。

(1)幼い者も年とった者も、神の契約に属し、聖霊の約束が彼らすべてに与えられているということは正しい。しかし、それによって〈信じていない者、したがってまた自分の信仰を告白し得ない者が、教団に属している〉というようなことが、言われているのではない。教団(ゲマインデ)の一つの活きた肢(えだ)が、他の人の信仰の客体にすぎないというようなことが、あり得るであろうか。それとも、子供は、一つのキリスト教的家庭の子供として、教団に属するのであろうか。

(2)信仰者の子供が、他の子供たちから区別されなければならぬということは、正しい。Iコリント七・一四を見よ!しかし、彼らが教団の肢(えだ)々であるということではなく、ただキリスト者の両親によって、特別の提供がなされるという限りにおいて、彼らが区別されているということである。しかし、このようなことによって、これらの子供たちが、どうしても洗礼を受けなければならぬということについては、まだ何も言われていない。

(3)洗礼が割礼の代りであるということは、正しい。この論証は、改革派教会においては、いつも特別の役割を演じて来た。オランダの教会では、《Verbond》すなわち、神が教団(ゲマインデ)とではなく、キリスト教的諸民族と結び給うた一つの契約について、語られている。われわれがこの観念を広げてゆくと、「キリスト教的西洋」について語ることになる。世界政治的な景観が、展開されるわけである。しかし、教会は、本当に、そのような「キリスト教世界」(Corpus christianum)と同一視され得るであろうか。この問題によって、一切が決定される。イスラエルが諸民族の間にあって、割礼という徴によって、区別されなければならなかったのは、一人の方がこの民の中から、裔として生まれ給うたからではないであろうか。そして、このことが成就され、彼が来たり給うた後においては、この民族の歴史は、終わったのではないであろうか。その後においてなお、どのような意味で、聖なる教会について語ることができるのであろうか。イスラエルと教会は、別のものではないであろうか。そして、われわれは、新しい契約の教団(ゲマインデ)の中へは、信仰に基づいて受け容れられるのではないであろうか。もちろん、イスラエルは、血に基づいて、家族的結合・民族的結合として、構成された。しかし、神の子らの集まりは(ヨハネ一・一二参照!)、聖霊によって召されるのである。神の子らは、一人の人間の意志によって生まれたものではなく、すべての民の中から、御言葉によって呼び出された者たちである。この点に関して、ユダヤ教的理解が力を持っていて、キリスト教的諸民族について、人々が語り得るということは、教会史の多くの誤りの一つである。教会は、もはやイスラエルではなく、イスラエルはいまだ教会ではなかったのである。(もっとも、神の契約が、このような二重の形態を持っているとは、言うことができるが。)このことによって、しかし、洗礼に対する割礼の論証は、力を失う。ただ確信できることは、両方いずれの場合においても、契約の徴が、示されているのだ、ということである。ただし、それは、違った種類の契約の徴なのである。このことは、イスラエル人の男性だけが割礼を受けて、娘たちはやはり洗礼を受けたという事実によっても、証明される。

ハイデルベルク信仰問答は言及していないが、幼児洗礼に対しては、今一つの根拠が、好んで挙げられるのが常である。すなわち、幼児の洗礼こそ、「先行する恩寵」(gratia praeveniens)の不思議な徴であると言われる。宗教改革者たちは、この論証を、少しも用いなかった。それに、この論証が貫穿力(かんせんりょく)を持ち得るのは、幼児洗礼の正当性が証明された場合に限る、ということも、言わなければならないであろう。

しかし、幼児洗礼を執拗に固守する真の根拠は、きわめて端的に言って、もし幼児洗礼をやめるならば、教会は急に驚くべき仕方で空中に投げ出されることになるだろう、という点である。なぜかと言えば、その場合には、一人一人皆、自分がキリスト者であろうと思うかどうかを、決定しなくてはならないからである。しかし、その場合、どれだけのキリスト者が、存在するであろうか。そのことによって、国民教会(フォルクスキルヘ)という考えは、すべて動揺するであろう。しかし、そのようなことが起ってはならない。そこで、人々は、幼児洗礼のために、次々に根拠を挙げる。しかも、根本的に忸怩(じくじ)たるものがあるために、やはり説得的に語ることはできないのである。成人の洗礼を実施しても、それは、もちろん、改革を必要とする教会の改革そのものではないであろう。なぜかと言えば、幼児洗礼を固守するということは、教会が活きておらず・勇敢でなく・ペテロのように海を渡って主に向って進むことに不安を懐き・そのために手摺を探し求めてしかもただ当てにならぬ支柱を見出すという数限りない様々の徴候の一つ―もちろん、きわめて重要なものではあるが―にすぎないからである。

しかし、このように幼児洗礼を固守することの帰結は、第一には、「堅信礼」によって洗礼が、その価値を失うということである。この堅信礼において、洗礼は、信仰によって、保証されねばならない。したがって、洗礼に先立つべきであった信仰告白と〔受洗の]願いが、いわば補充されなければならないのである。人が十五年後に、自分の信仰保証をしなければならない―そのようなことは、不可能である。しかし、幼児洗礼を固守したいと思う限り、それは、やむを得ぬことであろう。その場合には、洗礼は、事実上、後に続く堅信礼を抜きにしては、不完全ということになる。

しかし、今一つの帰結は、必然的に、自分のキリスト者としての存在を少しも問われず・したがってまた受洗の慰めを実現し得ない人々の大衆教会(マッセンキルヘ)が、形成されるということである。われわれは、われわれの教会の中を貫いて流れる無関心と世俗主義の流れを、怪しんではならないのである。

しかし、これらすべてのことによって、数世紀以来行われて来た洗礼が、真に洗礼ではなかったなどということが、言われてはならない。〔洗礼の〕執行(プラクシス)がどうであるにしても、洗礼は、依然として、洗礼である。ここで論じているのは、単に秩序の問題である。しかし、今日新しく提出されている幼児洗礼の問題は、まさに洗礼執行の正しい秩序についての新しい自覚へと、われわれを招くのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四三七~四四〇頁)

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宗教改革の光と影 6―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

神の信仰と義

人間がキリスト教団(ゲマインデ)の肢(えだ)として、感謝に満ちた服従の中に、しかも自分の価値や業績に対して何の要求も持たずに、そしてそれゆえにこそ完全にまた強く〈イエス・キリストの死と甦えりにおける神の義なる業は、すべての人にとって、したがってまた自分にとっても、その目標に到達したのだ〉という唯一の慰めに依り頼む確信―それが信仰である。信仰は、このような内容を持っているゆえに、また信仰だけがこのような内容に相応しいものであるゆえに、信仰は―そして信仰だけが、その義認に至る唯一の人間の道である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四二二頁)

宗教改革的認識

人間の信仰は、どの程度に人間を義とする道なのであろうか。また、人間の義認は、どの程度にこの道と結びつけられているのであろうか。われわれは、ここで、「ただ信仰によっての義認」sola fide(ただ信仰によってのみ)という宗教改革的認識の中心に立つ。これは、どのようなことであろうか。

この場合、必然的に三つの境界設定が行われる。

(1)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)、その信仰する主体に残っていたり、あるいは新しく獲得せられた、無垢清浄さによるのではない。また、信仰は、病人を健康にして神に喜ばれるものとする一種の薬ではない(カール・ホル!)。義認ということが、人間の中における何か「善いもの」に関連を持つと考えるこのような考え方は、すべて拒否されなければならないし、また、宗教改革者たちによって拒否されたものである。もちろん、信仰は事実、神の善き被造物の態度であり、またそれは、生活の変革である。ただし、それは、救われた者としても、また救われた者としてこそ、自分が五問、八問、一三問に記されているような罪人と同じ者であることを知っている人間の生活の変革なのである。なぜかと言えば、キリストを信じている人間だけが「人間の悲惨」を知っているからである。したがって、信仰によって義とされるのは、信仰する人間がまだ罪人でないとか、もはや罪人でないとか、という理由によってではない(六〇問の前半)。そうではなくて、信仰する人間は、罪人でありつつ、義とされるのである。

(2)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)、その人間が感謝の中にあって、何か新しい善い生活を生み出すという理由によってではない。〔もとより〕信仰は、そのような生活を生み出す。また、信仰する人間は、必ず信仰において善き業をなすであろう(六四問の「真の信仰によってキリストに接がれた者が、感謝の実をもたらさぬというようなことはあり得ない」という言葉を参照)。また、そのような善き業がいつまでも報いを受けぬということも、必ずないであろう(六三問)。しかし、われわれが、何に信頼するかと自問する場合、われわれは、決して自分の「善き業」を指示したりはしないであろう。そのような「善き業」によっては、われわれは、神の御前に立つことはできないのである。それは、神の御前において通用する義は、「神の律法と全く一致するもの」(六二問)でなければならぬからである。われわれの性向は、われわれの善き業にもかかわらず、いつも「生まれつき、神と自分の隣人を憎む傾向がある」(五問)というようなものである。したがって、われわれは、恩寵によって、そしてただ恩寵によってのみ、神に受け容れられるのである。

(3)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)その人間自身の中に宿る何かの性質によるのではない。「それは、私が自分の信仰の価値によって、神に喜ばれる、ということではありません」(六一問)。〔もとより〕信仰は、一つの人間的な行為でもある。信仰の中にあっても、われわれは、なお人間的な動と反動の領域の中におり、したがってその領域特有のあらゆる問題性の中にいるのである。しかも、信仰者こそ、〈自分は自分自身からは信ずることはできない。これは聖霊の業である〉ということを知っている。したがって、人間は、信仰においてこそ、神を正しいとし、自分自身を正しいとしないであろう。

信仰が人間を義とするのは、信仰する人間が、キリスト教団に与えられている約束の下に、身を置くからである。キリスト教団(ゲマインデ)とは、〈神の計画と意志は、すべての人間のために成就され、イエス・キリストにおいて、その目標に達している〉ということを知ることを許されている人間の集まりである。信仰する人間は、イエス・キリストが「私共のためにそこに存す」(四六問)ということ、「彼が天において、その父の御顔の前で、私共の執成しをする者であり給う」(四九問)ということを見る。信ずる者は、神の義なる裁きに信頼する。そして、神に対して「然り」と言って、もはや呟かぬことによって、神との平和の中に生きる。したがって、そのような人は、神を正しとする人であり、まさにそのようにして、同時に神の御前において、正しい人なのである。このようにして、信ずる者は、いまだ途上にありながら、すでに目標に至っており、キリストの中にあるのである。

人の信仰が、その人を義とするのではなく、その信仰の対象と内容が、その人を義とするのである。しかし、この対象は、人間に与えられる一つの贈り物である。それは、信仰者が、ただ受けることだけできるところの・ただ承認することだけできるところの・ただ信頼することだけできるところの恩恵である。このような態度は、神がわれわれに与え給う神の自由な慈恵に、対応するものである。なぜなら、このような態度においてこそ、「あたかも私が罪を犯したことが…ないかのように」(六〇問)神に栄光が帰せられ、神の義認の贈り物は受け容れられるからである。それは、「信仰の大胆な行為」である。「義人はその信仰によって生きる」。すなわち、信仰とその対象との間には、一つの即事的な(ザッハリッヒ)な対応があるのである。信仰者は、自分の信仰を誇ろうなどとは思いつきもしないが、しかし、彼は、神が自分を喜んでいて下さるということを、受け容れることを許されているし、また受け容れるであろう。

このようにして、信仰が―そして信仰だけが、裁きにおいて人間が義とされるに至る道である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四二四~六頁)

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宗教改革の光と影 5―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

聖徒の交わり

私と私の信仰が、神の道の目標ではなく、むしろ神の業の完遂がその目標である。神は、一つの光を、地上に点じ給うた。私は、地上に一つの教団が―しかも神の子によって基礎づけられた一つの教団が存在することを信ずる。ここでは、人間が優先的に働くのではなくて(もちろん、ここでは神に対する賛美が鳴り響き、祈られ、宣べ伝えられるが)、一切がイエス・キリストの先手(イニチアティーヴェ)によって起る。そこでわれわれが出会うのは、イエス・キリストの活動である。そこでは、神御自身が「集め・守り・保ち給う」のである。教会の設立とその保持は、彼に依存する。彼が存さぬところ、そこには、何物も存しない。すべての異端的な・また死んだ教会主義の根拠は、そこではキリストがもはやただ独りの創始者として、理解されていないということである。「また、私が、その群れの活ける肢(えだ)であり、いつまでも肢として留まるであろうということ…」。教団(ゲマインデ)の活ける肢であるということ、それがキリスト者であるということである。そして、ここにおいてこそ、「教会の外に救いなし」(extra ecclesiam nulla salus)という言葉が、全き厳格さにおいて妥当する。ハイデルベルク信仰問答が、一人一人のキリスト者の現実存在を、いわばただ教団(ゲマインデ)の現実存在に対する補遺としてだけ、述べているということは、美しいことだと言い得るであろう。しかし、他方から言えば、ここにおいてこそ、問題は一人一人の個人にかかっているのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四一九頁)

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宗教改革の光と影 4―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

三位一体

神が「ただそのような方でのみある」ということは、〈このような三一の神でないような神についてどのような観念も(それがどんなに美しく、どんなに意味深遠なものであっても)、一つの偶像、一つの偽りの神の像を築き得るにすぎない〉という意味である。この点からして、二九、三〇、八〇、九四、九五、一〇二、一二五問において見るような、この信仰問答の唯一神論に対する熱中は、理解される。そこでは〔神の〕単一(アンハイト)に対する思弁的な関心が肝要なのではなくて、むしろ〔ハイデルベルク信仰問答の〕編纂者たちにとっては、イエス・キリストの御業において顕わされた三一の神の独一性(アンチヒカイト)が、重大なことであったのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三八三頁)

神は、罪人の死を欲し給わない。むしろ、罪人が悔い改めて生きることを欲し給う。神が完全に厳しくあり・しかも完全に憐れみ深くあり給うということこそ、神の深みであり、神の義の深みである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三九八頁)

神の義が憐憫であるということが可能であり、現実であるのは、われわれの事柄を御自身の事柄とするために、神自身が降り給うたからである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三九八頁)

聖霊なる神

「我は聖霊なる神を信ず」とは、次のようなことである。

五三問 聖霊について、あなたは何を信じていますか。―第一には、聖霊が父および子と同様に永遠の神であり給うということを、信じます。第二には、聖霊は、私にも与えられており、真の信仰によって、私をしてキリストとキリストのすべての恩恵に与らしめ、私を慰め、永遠に至るまで私の許に留まり給うであろうということを、信じます。

〈神は単に私を越えたところにいることを欲せず、私の中にいることを欲し給う〉ということ―これが第三項の語る異常な中心の言葉である。Deus in nobis(われらの中なる神)である。あらゆる新プロテスタンティズムと、あらゆる攻撃者に反して、神はそのような方なのである!しかし、それは、どのようなことであろうか。それは、「聖霊は、私にも与えられており、真の信仰によって、私をしてキリストとキリストのすべての恩恵に与らしめ」給うということである。このようなDeus in nobis(われらの中なる神)。このように聖霊が私に与えられているということ。それは一瞬も、静的に理解さるべきことではない。キリストは、私の信仰の根底として、私に与えられている。したがって、神の方から基礎づけられることによって、われわれのいささかの信仰も、真の信仰である。すなわち、キリストとキリストのすべての恩恵に与ることである。信仰において、われわれは、神がわれわれに向かって差し出し給うものの方に、手を差しのべる。私は、イエス・キリストにおいて、客観的に得られた慰めに、主体的にすでに与っている(一問)ということを、信ずる。信仰が終わることがあり得るということは、信仰の中に基礎を持つ事柄ではない。もし、私から信仰が失せるとすれば、その場合には、私が信仰を投げ捨てたのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四一七頁)

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宗教改革の光と影 3―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

真の信仰

二一問 真の信仰とは、何ですか。

―それは、単に、神が御言葉において私共に啓示し給うたすべてのことを、私が真実であると考えるある種の認識のことではありません。それは、また、心からの信頼であり、この信頼は、全く恵みから、ただキリストの功績のゆえに、単に他の人々にだけではなく私にも罪の赦しと永遠の義の祝福が神から私に与えられるために、聖霊が福音によって、私の中に起こし給うものです。

 ここでは、神の民の存在と行為が記される。この民は、三問―十一問において、その悲惨が記されていた人類の一部分である。それは、他の人類とは、ただ信仰によって区別されているにすぎない(六問)。しかし、信仰者とは、神の真理をイエス・キリストにおいて認識し、約束を捉え、この約束に信頼することを許されている人々である。信仰とは、単に一つの認識ではなく、それは、同時にこのような「心からの信頼」なのである。なぜかと言えば、ここで問題は、一定の理論に関するのではなく、義による救いが私にも与えられ、私に対しても私の罪が赦される、その確かさに関するのだからである。神の賜物を一つの実存的な賜物として認識することが、信仰の決定的な働きである。このような信仰の働きが、人間の中において出来事となる場合にこそ、義による救いを世界に対して証しすることを許される神の民が集められる。なぜかと言えば、この民は、啓示され信ぜられた言葉によって、この上もなく真実の意味において、「その場に」居合わせたのだからである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三七八頁)

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宗教改革の光と影 2―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

神の判決

人間は、神の正常性(レヒト)を破壊することによって、自分自身の正常性(レヒト)を失うのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三六四頁)

神の義

神がただ一人のイエス・キリストにおいて、御自身の正常性(レヒト)と人間の正常性(レヒト)を同時に保証し、またイエス・キリストにおいて、御自身の栄光と同時に人間の祝福を確保し給うたことによって、人間によって乱された秩序は回復され、人間を脅かす危険は回避された。このことがイエス・キリストにおいて起ったということが、人間の望みであり、一切の慰めの根底である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三七〇頁)

イエス・キリストは、神の御前において、人間の責任を引き受け給う。彼は罪に対して、「償い」給う。彼は、神の怒りを忍び、まさにそのことによって、人間の正常でない状態を除去し給う。彼は神と人間を、再びその正常性(レヒト)に移し給う。これがキリストという出来事であることによって、この出来事は、われわれの救いであり、したがって、それによって義が「満たされる」神の憐みの行為である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三七三頁)

教団(ゲマインデ)は、イエス・キリストの中に「唯一の慰め」を認識し賛美する場合に、自分のなしていることを知るのである。イエス・キリストは、現身(うつしみ)の神の義であり、神の憐みである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三七五頁)

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宗教改革の原点―「ハイデルベルク信仰問答」の特徴

Posted by Shota Maehara : 7月 1, 2012

『ハイデルベルク信仰問答』の中心的概念が、問1に現われる「慰め」にあることは言うまでもありません。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
  
 この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
 
 また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。

 そしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。

 しかし、この概念は、聖書全体を体系的に説明するためのものではなく、イエス・キリストの福音の本質を端的に言い表した信仰の言葉です。人間の業によってではなくイエス・キリストを信じる信仰ののみによる救いの発見、この福音に唯一の「慰め」を見出したことが、宗教改革の原点でした。混沌とした時代にあって、文字通りこの慰めとともに生きそして死んでいった人々にとって、問1の答えは偽らざる信仰の告白であったに違いありません。

 しかしながら、この「慰め」というモティーフは、決してセンチメンタルなものではありません。生も死も、自己の存在のすべてが、ただキリストに根ざすという信仰の確信に基づくものです。それはまた、父・子・聖霊の神の過去・現在・未来にわたる御業の真実また確かさに対する、全人格的信頼の告白に他なりません。罪の悲惨に生きる人間が自分自身ではなく神の大いなる御業のうちに生きる者へと変えられて行く、そのことが私たちの喜びであり神賛美となる、と言うのです。

 この目的に至るために、『ハイデルベルク信仰問答』は、人間の悲惨さ(問3―11)・救い(問12―85)・感謝(問86―129)の三つの知識が必要であると言います(問2)。これは基本的には新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の構造にならったものですが、一キリスト者が信仰を会得して行く過程を繁栄しており、信仰問答全体がキリスト教信仰の一つの道程となっているとも言えます。さらに、『ハイデルベルク信仰問答』の作者たちは、答えの一言一言が人々の心からの告白となるように実に細かな配慮をしています。彼らは、すべての主要教理を十分熟知した上で、それらを問答の中に巧みに取り入れ血肉化する努力をしているのです。そのような作者たちの努力と祈りが、この信仰問答書に独自の深みと温かさを与えていると言えるでしょう。
―『ハイデルベルク信仰問答』(新教出版社、吉田 隆訳、一二九頁~一三〇頁)

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