先の第四講話では、人間にとって正しいと思えることと本当に正しいこととは必ずしもイコールにはならないということについて触れた。いわば「人間の義」(理性、善意など)の限界についてともに考えてきた。そして、私たちには信仰という形でこの閉塞状況からの脱出口が与えられたことも示唆した。それは、現時点でキリスト教徒であろうとなかろうと、イエス・キリストを通して啓示された神の愛と恵みに無関係な人など地上には存在しないという聖書の解釈に基づいている。
ここで私は最初の「人はパンのみで生きるのではなく、同時に神のことばによって生きる」という主題に戻って、後者ではなく前者を必死に求めようとする私たちの行為がどういった帰結をもたらすのかについて考えてみたい。
2011年3月11日に発生した福島原発事故とそれが周辺住民にもたらした放射能汚染、そして日本に五〇数基ある残りの原発をどうしていくかは、決して日本国民全体に無関係な問題ではない。この問題を解決しなくては日本経済も立ち行かなくなるだけでなく、日本国民の生活も維持していけなくなる。これは自明の事柄である。
しかしながら、新聞やテレビなどの報道によれば、五月の長期連休を迎えて、多くの日本人が海外へ旅行する予定だという。私はこれを聴いた時、日本社会が抱えている課題の大きさと日本人の低い意識の落差にあらためて驚かされた。プレートの活断層以上に、我かんせずというような断層線がこの国には走っているような気がしてくる。ここから見えてくるのは、原発関係者や周辺住民だけでなく、今や多くの日本人が同胞の痛みを感じ取り、共感する力を失ってしまったということではないだろうか。
では、なぜこうした感覚の喪失が近年急速に生じたのだろうか。その問題の根源には、現代の日本人がパンのみを求める生活をひたすら優先してきたことと大きなかかわりがあると私は考える。
人間は精神であるがゆえに、動物と異なり、単なる物質的な糧に加えて、精神的な糧を必要としている。そのゆえに、神学では、神のことばを聴くことは神の食物を食すことを意味する。
実際、私たち自身も日々パンのほかに、友人や先輩などから様々な助言や励ましの言葉をもらうことによって、前向きに生きていく力をもらったような気がした経験が一度ならずあったはずだ。それに対して、日々のパンのみを求める人は、他人に関心を持たず、また、誰からも関心を持たれない。言い換えれば、パンのみを求める人は、利己主義に陥り、他者の痛みに共感する力を失ってしまう。
その最良の例をルカの福音書から引用しよう。当時最高の学者であるパリサイ派の律法学者(ユダヤの知識人)は、イエスを罠に陥れようとして、「何をしたら永遠の命が得られますか」と試問する。するとイエスは逆に律法にはどう書いてありますかと問われる。すると、律法学者は「『汝の神である主を愛せよ』そして『汝の如く隣人を愛せよ』とあります」と答える。それを聴いて、「その通りです。それを実行しなさい。」とイエスは告げられる。
ここで律法学者は、単なる聖書の知識や一般論を問うのではなく、自分自身の立場が問題とされていることに気づいて、たじろぐ。そして自分の責任を逃れるために、では、(自分の)「隣人」とはだれかと律法学者は反論する。それに対してイエスが「善きサマリヤ人のたとえ」によって語られる場面である。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」。彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です」。するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカの福音書、第10章第25~37節、新改訳)
この話の核心は、ユダヤ人の司祭やユダヤ教の教師(レビ)が同じユダヤ人が倒れているのを素通りしていったのに対して、むしろ民族的に敵対する関係にあったサマリヤ人が、臓腑(splagchnon)が痛むほどの憐れみを感じて、救いの手を差し伸べたことである。そして、イエスが引き出した結論は、「行ってあなたがたもそうしなさい」ということであった。すなわち、「隣人」とは<誰か>という問いではなくて、自分が目の前の傷ついている人の「隣人」に<なる>ということ、つまり、「隣人」とは他の誰かではなく、「あなた」なのだという点にある。
しかし、同時に、私は自分を省みて次のことを思わざるを得ない。自分を何よりも優先する人は、先の律法の二つの教えを裏返した形「神ではなく自分を愛す」、また「自分自身のようには隣人を愛さない」という結果に帰着せざるを得ないということである。言い換えれば、神ではなく、自分を神の如く愛している人は、隣人をも愛することはできないということである。まず自分を超えた存在を予感し、畏敬の念をもつからこそ、そこから共に生きる人々への愛も流れだすのだということをしっかりと心に刻んでおかなくてはならない。
ここで、私たちはこの講話の最後の段階に近づいた。社会に生きようとするとき、私たちがまず疑ってかからなければならないのは、他者ではなく、自らの心の王座に座った「自我」(ego)なのではないかということ、そして、それは時として他者へのはらわたのふるえるような思いによって、取り除くことが可能になるということである。それこそが、神の愛であり、無償の愛(agapee)にほかならないのだ。