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Shota Maehara's Blog

なぜ現代人は生きる力を失ってしまったのか

Posted by Shota Maehara : 10月 14, 2010

なぜ現代人は無気力なのか。言いかえれば、なぜ今人々は「生きる力」を失っているのか。これは一見するよりも非常に重要な問いかけであるように思う。なぜなら、そこから現代の日本人のライフスタイルにおける陥穽が浮かび上がってくるからだ。

私たち労働者は自分自身以外頼みとすることのできるものをもっていない。例えば会社でもつねに自分が有能であることを周囲にアピールし、認めてもらわなければならない。いつでも気の休まる時がない。そんな中で、対人関係においても、ストレスをため、命をすり減らしている。これが嘘偽らざる私たちの日常ではないか。

誰でも心に「不安」はもっている。ただ私たちのそれは埋めようとしても決して埋まることのない心の穴だ。渇くことのない心の渇きとも呼べる。その結果、買い物をしたり、飲みに行ったり、物質的な欲望でその渇きをいやそうとする。かつてこの時代ほど自己の欲望に忠実に生きることのできる豊かな時代はなかったのではないか。

例えば、近年、ワーキングプアの問題や派遣労働の問題が社会問題化する中で、彼らに対するいわゆる「自己責任論」が持ち上がったことは記憶に新しい。彼らは、まじめに努力せず、貯蓄もしないのだから切り捨てられても仕方がないという主張だ。私はこのことが全面的に間違っていると反論するつもりはない。事実、怠惰はそれほど人間にとって根深いものだからだ。

しかし、そう主張する人々の方がかえって「生きる力」を半ば失っていることを自ら証明しているのではないかと私は危惧している。なぜなら他人の生き死にに関心を持たなくなるということがすなわち、「アパシー」(無気力、無感動、無関心)ということの根源なのだから。他人に関心を持たず、自分にだけ関心を持つこと。これは一見は当り前のように見えるが、それはすでにアパシーという病理の初期症状なのである。

わたしたちはもうそろそろ気づき始めている。つまり、「我執」(ego)こそが私たちの生を閉じ込めてしまっている病原だということに。

では、私たちはどうしたらこの病理から癒されることができるのか。私はおそらく「他者」を取り戻すこと以外に道はないと考える。なぜなら他人との交わりの中に真の人間性はあり、生きる喜びもまたあるからである。「生きる力」とは決して自分の内側からは湧いてこない。それはつねに、外からくるのだ。考えてみて欲しい、自分の欲しか考えていない人が本当に生き生きと暮らせるだろうかと。

イギリスの作家ディケンズは『クリスマス・キャロル』という有名な小説でこのテーマを分かりやすく教えてくれている。金貸しのスクルージは一人でクリスマス(聖夜)を過ごす。それは金銭欲と物欲の塊となった彼のライフスタイル自体が他人との交わりを遠ざけ、どんどん孤独になってしまったからである。その彼の生き方を象徴しているのが「くだらん」(humbug)という口癖である。

しかし、ある夜、死んだかつての共同経営者マーレーが亡霊となって現れ、お前も地獄に落ちるのだと告げられる。そして、マーレイの亡霊は、金銭欲や物欲に取り付かれた人間がいかに悲惨な運命となるか、自分自身を例としてスクルージにさとし、スクルージが悲惨な結末を回避し、新しい人生へと生き方を変えるため、三人の精霊がこれから彼の前に出現すると伝えるのだった。そして、生き方を180度転換したスクルージは人々から愛され、生きる喜びに満ちあふれた人物となる。

この物語が教えてくれることはシンプルだ。私たちは生きるために自分以外の友人、家族、またこう言ってよければ神の愛を必要とする。時に自分を犠牲にしてでも守りたいものがある人こそ本当の意味で生きる力にあふれていると言えるのではないだろうか。

2件のフィードバック to “なぜ現代人は生きる力を失ってしまったのか”

  1. akizukiseijin said

    トクヴィル「個人主義のアパシー」

  2. 毎度ーん!
    家族持ちは、独身と比較できない強さを持ってますね。

    なんの文献か失念しましたが[自分のためだけに生きるのは限界があり、その理由は(失念www)]

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