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Shota Maehara's Blog

私を変えた愛―三浦綾子

Posted by Shota Maehara : 10月 6, 2010

神は愛なり―ヨハネ福音書

「人間という者は、皆さん、一体どんなものでありますか。先ず人間とは、自分を誰よりもかわいいと思う者であります。しかし皆さん、真に自分がかわいいということは、どんなことでありましょうか。真に自分がかわいいとは、おのれの醜さを憎むことであります。
 しかし、我々は自分の醜さを認めたくない者であります。例えば、つまみ食いはいやしいとされておりましても、自分がする分にはいやしいとは思わない。人の陰口を言うことは、男らしくないことだと知りながらも、おのれの言う悪口は正義の然らしむるところだと思うのであります。俗に泥棒にも三分の理という諺があるではありませんか。人の物を盗んでおきながら、何の申しひらくところがありましょう。しかし、泥棒には泥棒の言い分があるのであります。
 皆さん、しかし私は、たった一人、世にもばかな男を知っております。その男はイエス・キリストであります。
 イエス・キリストは何ひとつ悪いことをなさらなかった。生まれつきの盲目をなおし、足なえをなおし、そして人々に、ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とはどんなものか、皆さんおわかりですか。ほんとうの愛とは、自分の最も大事なものを、人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。命ではありませんか。このイエス・キリストは、大事なその命を我々に下さったのであります。彼は決して罪を犯さなかった。我々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くないと言う者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、いや善いことばかりをしたイエスはこの世のすべての罪を背負って、十字架にかかられたのであります。彼は、自分に罪はないと言って、逃げることはできた筈であります。しかし、彼はそれをしなかった。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が、悪くないと言って逃げる。ここにハッキリと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。
 しかも皆さん、十字架につけられた時、イエス・キリストは、自分を十字架につけた者のために、かく祈り給うたのであります。〈父よ(神の意)、彼らを許し給え。そのなす所を知らざればなり〉
 皆さん。今、自分を刺し殺す者のために、人間は祈り得るものでしょうか。イエスは許し給えと祈ったのであります。これこそ神の人格を所有する方であると、わたしは思うのであります。」(―三浦綾子『塩狩峠』)

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