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Shota Maehara's Blog

ランボーはかく語りき―「俺達が国を愛したように、国も俺達を愛して欲しい」

Posted by Shota Maehara : 8月 22, 2008

愛国心やナショナリズムについて、ポレミカルな議論が巻き起こった時、私がまず思い浮かべるのは有名な映画「ランボー怒りの脱出」の印象的なラストシーンである。

シルベスター・スターローン扮するジョン・ランボーは、ベトナム帰還兵であり、服役中だった。そこへかつての上官が現れ、ある任務を遂行すればここから出してやるという。その仕事とは、ベトナムでアメリカ人の捕虜の有無を調べるために写真を撮ってくることであった。

だが、この任務には裏があったのだ。それはこの任務が純粋に捕虜救出のためではなく、残された捕虜を見殺しにするための形だけの調査であったことだ。そのため合流地点へ捕虜を連れてきたランボーはヘリに置き去りにされるが、最後には敵のヘリを奪って捕虜とともに基地へ帰還する。

彼は作戦指揮官の部屋で銃を乱射し、残りの捕虜を助け出せと言い残して部屋を去る。かくして任務を終えて晴れて自由の身になったランボーにかつての上官がまた一緒にやらないかと声をかける。それに対してランボーはNoと言い、何が望みだと問われるとこう答える―「ベトナムにいった俺達や、腹をぶち抜かれて死んでいった奴らの望みは、俺達が国を愛したように、国も俺達を愛してほしいただそれだけです」。

愛国心やナショナリズムの問題の淵源は、この不等価な交換にある。こちらが愛するようには国はけっして愛してくれない。ましてや、国家のために差し出された死は、本来はどんな交換とも見合うはずはない。それなのに、この国家への無償の自己犠牲という観念はナショナリズムを衝き動かすエロス(生の欲動)でありタナトス(死の欲動)であり続けている。

では、この矛盾に引き裂かれたランボーが最後のラストシーンに込めた本当の気持ちとはどんなものだったろうか。

先日NHKの終戦70周年記念へ向けての街頭インタビューで街ゆく人々に、あなたなら国のために死ねますかという質問を投げかけていた。その時数多の声の中でも次の若者の意見が特に印象的だった―国家のために命を捧げることを要求してくるような国ならば、むしろいっそ滅びたほうがいい<NHK終戦七〇周年記念へ向けての街頭インタビューより>

私はこの発言に安吾の文章を読む時のような突き放された感覚を覚え、同時に多くの真実が含まれていると感じた。この発言を聞いて、今の若者は愛国心がなくなったと嘆くのは早計である。もし国が悪いことをしていても国が生き残るためには手を貸そうというのが人情なら、ここではむしろそんな国なら滅んでしまえばいいと思うまでに国を愛する。あらゆる人情味をはぎ取った非人情なまでの愛国心。

実はこうした心の境地こそランボーの心境そのものなのではあるまいか。だからかれは不正に手を染める国家へ愛と怒りをもって孤独な戦いを演じ続ける。あたかも「正義はなされよ、たとえ世界が滅ぶとしても」というカントの道徳哲学における普遍命題を地で行くかのようである。

たしかにヘーゲルなど様々な人によってカントの普遍命題はその非現実性が指摘されてきた。ただそれゆえにこそ、こうした理念は現実を批判する理想として文学や映画などの芸術の世界で永遠に脈打ち続けるだろう。まさにランボーは永遠の正義のヒーローなのである。

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コメント / トラックバック2件 to “ランボーはかく語りき―「俺達が国を愛したように、国も俺達を愛して欲しい」”

  1. 前原謙治 said

    久し振りですね。
    又、楽しみが戻ってきたと、想っていいのかな。
    いつも、刺激を与え合える関係を続けたいね。
    よろしく。

  2. akizukiseijin said

    コメントありがとう。全く同感です。リラックスしてやりたいと思います。

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