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Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘アーカイブ’ Category

ノーベル文学賞 ヘルタ・ミュラー氏に寄せて

Posted by Shota Maehara : 10月 11, 2009

ノーベル文学賞 ヘルタ・ミュラー氏に寄せて 2009.10.11 08:41 □藤田恭子(東北大大学院准教授)

ノーベル文学賞受賞が決まったドイツの女性作家ヘルタ・ミュラーさん=04年5月(AP)

ヘルター・ミュラー

幾層にも重なる抑圧を際立たせた

 ドイツ語による文学は、ドイツやオーストリア、スイスだけでなく、東欧諸国にも存在する。中でもルーマニアは、1989年のチャウシェスク体制崩壊により多数のドイツ系住民がドイツに「帰還」するまで、規模も作品の質も群を抜いた存在だった。ヘルタ・ミュラーは、そんなルーマニア・ドイツ語文学を代表する作家の1人だ。

 鉄のカーテンの向こう側で、西側に知られることなく育(はぐく)まれたドイツ語文学の土壌は抑圧の陰を深く帯びている。国民は秘密警察に徹底的に監視され、逆らえば報復された。ミュラー自身、秘密警察への協力を拒んだために職場を解雇されている。さらに国内のドイツ系マイノリティーは、ナチ体制下のドイツに協力しホロコーストを担ったとして「共同責任」を問われ、ソ連領への移送と強制労働、資産の没収などを経験した。だが、ミュラーがルーマニアのドイツ語作家の中で傑出した存在となったのは、社会主義体制下のマイノリティー集団内部にも存在した更なる抑圧の構造に目を向け、鋭く切り込んだことによる。

 ミュラーが生まれたのは、バナートとよばれるハンガリー国境に近い地域だ。82年の処女作『どん底』では、バナートのドイツ人村の日常を子供の目で淡々と描き大きな衝撃を与えた。そこには、暴力と憎悪が渦巻く大人たちの日常と、その中で当惑し出口を見いだせない子供の姿があった。ミュラーは、抑圧が社会全体に幾層も積み重なる様を、凝縮された短文からなる小編を連ねる手法により鮮烈に描き出し、その不条理を際立たせることに成功したのである。

 87年にチャウシェスク体制を逃れて西独に出国し、現在はベルリンを拠点に多くの作品を発表している。近作では、同じルーマニア出身の詩人オスカー・パスティオールの体験を基に戦後のルーマニア・ドイツ人強制収容を取り上げ、新たな境地を示している。日本では97年、小説『狙われたキツネ』が山本浩司氏の訳で紹介されている。今回の受賞は、領土的範疇(はんちゅう)に収まらない文学の営みの可能性を改めて認識する契機になろう。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091011/acd0910110843002-n1.htm

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イヴァン・イリイチの思想

Posted by Shota Maehara : 8月 23, 2009

イリイチ本来、「非対称的なものや関係」(ジェンダー、差異、他者性、多様性など)を押しつぶし、システムや合理性によってそれらを画一化してしまう「公正」や「基準」への批判こそ、イリイチの思想の眼目である。

確かにイリイチの思想は一見すると単なる共同体主義に堕する恐れがある。しかし、イリイチ思想の現実批判の鋭さはキリスト教的な背景から由来している。彼は制度化した西欧文化の根底にあるキリスト教の伝統を「最善の堕落は最悪であるCorruptio optimi quae est pessima」と批判しつつ、そのエッセンスを換骨奪胎する。すなわち、すべてが有用性という観点から眺められる社会において、今や人間の生活は過去・現在・未来という途切れない鎖の一部と化している。人間はいかにそうした鎖を断ち切って「今・ここ」を回復できるのか。そこで彼は社会に何の見返りを求めない領域、「無償の愛」(アガペー)を再導入すべきではないかと訴える。

私はこの主張を必ずしも全面的に支持するわけではない。しかし、キリスト教の教えに基づいて、かつて賀川豊彦や今釜ヶ崎で活動する神父の本田哲郎氏などの幾つかのボランティア・NGO・NPO団体を見ると、イリイチの思想から何らかの力を引き出し得るとしたら、脱学校論者や共同体主義者の側面ではなく、彼のキリスト教思想家としての側面なのではないかと思わずにはいられない。今後イリイチ研究はこの方向に光を当ててゆく必要があるのではないだろうか。

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合理主義的精神―バートランド・ラッセル

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2009

合理主義者
(From: Sceptical Essays, 1928, chap. 4 & 9.)

 

 私は、自分を合理主義者だと考えるくせがあるが、近頃’合理性(合理主義)’はひどく攻撃を受けている。
 ‘合理性’の定義には、「’合理的’意見とは何か」の理論的定義と、「’合理的’行為とは何か」の実践的定義との二面がある。
 プラグマティズムは「意見は不合理である」とし、また、精神分析学は、「行為は不合理である」と強調する。これらから出る結論は、公平な局外者の仲裁を無駄とみる心情を人に与える。このような見方は甚だ危険で、結局は、文明の命取りになる。そこで、合理的な理想が命取りの思想に影響されないためには、考え方と生き方の指針として、昔からの考え方が重要性を失っていないという証明が必要になる。

 プラグマティズムの哲学者は、意見とは生存競争の武器(道具)に過ぎず、生存の助けになる意見が真理だ、と言う。精神分析学者は、多くの人々の日常抱く確信が異常かつ気違い(気狂い)染みた(無意識の)起源をもつことから、われわれの信念は合理的ではありえないことを証明できると考えている。
 合理主義の理論的部分の役割は、われわれの信念を、希望・偏見・伝統よりも、むしろ証拠に基づかせることにあり、事柄いかんでは、合理的な人は科学的な人や批判的な人と同じになる。精神分析は自分で自分を客観化して見る技術を教えてくれ、科学的な見方の訓練と共に、事実に関する信念や計画した行動が起す結果についての信念に対して、昔以上に人々を合理的にする。不一致を穏やかに調整できる。(松下注:イラストは、B. Russell’s The Good Citizen’s Alphabet, 1953 より)
 次に、合理主義の実際的部分については、論争者の(1)欲望の相違と、(2)欲望達成手段の評価の相違、との二つの源から見解の相違が生れるのでむずかしいが、後者の問題は理論的ではあるが、理論から派生的な実際的問題になるだけである。
 ある人がカッとなって、腹立ちまぎれに自分に損な事をすれば、その人は不合理だと言われる。その時彼は、極めて強く感じた欲望に甘えているのだ。冷静に見れば、遙かに重要な他の欲望を犠牲にしているので、不合理になるのだ。人々が合理的なら、己の利益についても、現在よりもさらに正しい考え方をするだろう。万人が合理的に‘啓発された利己主義’によって行動すれば、世界は現状よりも楽園になろう。‘啓発された利己主義’を最高の道徳だなどと私は言わないが、それがあたりまえになれば世界は住み良くなる。実際問題に対する合理性とは、その時の偶然に一番強い欲望にだけ左右されるのではなく、「関係するすべての欲望を思い出す習慣だ」と定義される。
 世界の真実の進歩は、すべて、実際と理論の両面における合理性の増加で成り立つ、と思う。私は、やはり‘悔い改めない合理主義者’である。

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ボンヘッファー―ヒトラー暗殺を企てた神学者

Posted by Shota Maehara : 6月 29, 2009

Bonhoefferxボンヘッファー
 ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer: 1906-1945)。(国際ボンヘッファー協会のサイト。)

 ドイツの神学者。ボンヘッファーは、ヒトラーが政権を取った当初から、ヒトラー批判を公にしていた。キリスト教徒によるナチスに対する抵抗運動「告白教会」に加わった後、亡命のために米国に渡る。しかし間もなく身の安全を省みず、ドイツへときびすを返す。そしてヒトラー暗殺計画に加わった。計画は失敗に終わって、捕えられ、終戦のわずか1月前に処刑された。

 ドイツで「教会アジール(Kirchenasyl)」の調査をしているとき、さまざまなところでこのボンヘッファーの名に接した。礼拝の説教で頻繁に引用される。またある教会に併設された文化センターは「ディートリヒ・ボンヘッファー・ハウス」と名づけられている。別の教会に牧師さんを訪ねると、オフィスの机上にボンヘッファーの本が置かれていた。

 昨年9月にベルリンで滞在したときには、この人についてちゃんと調べてみようと、キリスト教専門書店に行った。するとボンヘッファーのコーナーが設けられていて、たくさんの本が並んでいた。今年で生誕100年だから、それを記念する出版物も出始めていた。今ではもっと増えているだろう。

 ボンヘッファーという人物への関心は、少なくとも僕が知り合ったドイツ人のキリスト教関係者の間では非常に高いようだ。彼らはボンヘッファーに、ナチス以後、もしくはホロコースト以後のドイツで、キリスト者として生きるモデルを求めているのだろう。

 かつてドイツの多くのキリスト教徒はナチスに迎合し、ユダヤ人への暴力に見てみぬ振りをし続けた。そんな中で、ボンヘッファーはヒトラーの危険を当初から見抜き、そのユダヤ人政策を批判し、最後には文字通り命をかけてナチスという「暴走する車を止めようとした」。なぜそれが可能だったのか。そう現代ドイツのキリスト者は真摯に問い、その答えを実践に結び付けようとしている。

 「他者のための教会」が、ボンヘッファーの一つのキーワードだ。調べていくと、ボンヘッファーが「他者」という概念を神学に導入したことは実はすごいことだということが分かってきた。ここで「他者」にはユダヤ人も含まれている。反ユダヤ主義は、ヨーロッパのキリスト教を母胎に育っていった側面がある。ユダヤ人は、ヨーロッパがキリスト教化される中で、神学的にそして社会的に排除の対象とされてきた。だからボンヘッファーのこのテーゼは、キリスト教の世界できわめて異彩を放っているのだ。第二次世界大戦後のキリスト教徒とユダヤ人との和解は、ボンヘッファーのこの立場を一つの基礎に展開したようだ。

 ボンヘッファーの「他者」概念は、真剣に検討する価値がある。バフチン、レヴィナス、サイードらの他者概念と比べてみるとどうだろうか。また文化人類学を「他者」に関する学問と規定するとき、ボンヘッファーから何を学ぶことができるだろうか。

 ボンヘッファーに関する日本語の本として、村上伸氏による伝記『ボンヘッファー』(清水書院)は読み応えがあった。ボンヘッファーは「汝殺すなかれ」を戒めとするキリスト者であり、かつ非暴力主義者ガーンディーの影響も受けていた。それなのになぜ彼は、独裁者ヒトラーとは言え一人の命を奪う計画に参画したのか。村上氏はこの問いと正面から格闘している。その考察を読み進めることは非常にスリリングな体験であった。

 ボンヘッファーの伝記としてスタンダードなものはベートゲ(Eberhard Bethge)による”Dietrich Bonhoeffer: Eine Biographie”(邦訳『ボンヘッファー伝』)だ。このベートゲは、ボンヘッファーの姪の夫であり、戦後、キリスト教神学と反ユダヤ主義との関係を反省する作業を推し進めた人物だ。

 ボンヘッファーのほとんどの著作は邦訳されているようだ。「他者のための教会」というテーゼは、ボンヘッファーが獄中で書いた草案の一部であり、村上伸氏が精魂込めて完成した訳書『ボンヘッファー獄中書簡集「抵抗と服従」増補新版』(新教出版社、1988年)の439ページに収められている。

 日本では、上記の村上伸氏の他に、雨宮栄一氏、森野善右衛門氏、宮本光雄氏らによってボンヘッファー(および「告白教会」とドイツ教会闘争)の研究が進められてきた。僕は不勉強でその多くを読んでいない。わずかに目にしたもののうちでは、雨宮氏の『ユダヤ人虐殺とドイツの教会』(教文館)が印象に残った。何よりこの方のポジショニングに共感を覚えた。現場に立脚しながらの研究なのだ。「あとがき」から引用させていただこう。

 「この書物の執筆は牧会、伝道は当然のことながら、筆者の居住するこの地域の在日外国人の指紋押捺制度撤廃運動、あるいは山谷兄弟の家伝道所の住民支援活動に参加しながらなされた。学者の静かな書斎の産物ではない。この貧しい書物に、もしもかりに誇りうるところがあるとするならば、教会に仕える一人の牧師が、地域の人権問題へのささやかな取りくみから、これが生まれたというところにあるのかも知れない。」(p.274)

(出典:小田博志研究室ウェブエッセイ )

<関連サイト>

ディートリッヒ・ボンヘッファー(ウィキペディア―フリー百科事典)

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アナーキズム再び、つながり求め新たな運動(2009年6月11日)

Posted by Shota Maehara : 6月 16, 2009

X アナーキズム(無政府主義)と聞いて何を思い浮かべるだろう。時代遅れの暴力革命家か、それとも未来にユートピアを託す夢想家か。いずれにせよ非現実的な空理空論として、長い間「忘れられた思想」とされてきたアナーキズムをめぐる人文書の刊行が続いている。新しい「つながり」を求める運動として期待されているようだ。

 アナーキズムは19世紀半ばから20世紀前半、マルクス主義と並ぶ社会変革思想の一大潮流だった。個人の自由に立脚しながら、党や国家をはじめあらゆる権威を否定した。この時期の代表的思想家であるプルードンやクロポトキンの著作が今春、相次いで新刊として出版されている。一方で、「新しいアナーキズム」を掲げるものも目立つ。

 その代表が、ロンドン大学のデビッド・グレーバー准教授による『資本主義後の世界のために 新しいアナーキズムの視座』(以文社)だ。5月に開かれた歴史学研究会大会の近代史部会では「帝国秩序とアナーキズムの形成」がテーマとされ、報告者はいずれもグレーバー氏に言及した。人類学者で、反グローバリゼーション活動家でもあるグレーバー氏は、人類の共同体が古くからアナーキズム的な原理を備えていたとして、自身が参加した運動の組織論に、その復活を見いだした。

 99年にシアトルで起きた反WTO(世界貿易機関)デモ以来、世界的に広がった反グローバリゼーション運動は、自律や相互扶助を基本にしていた。それらは、アナーキズムの行動原理であり、既存の労働運動とは別の新しい潮流が生まれた。

 「理論よりも経験や倫理に重点を置くアナーキズムが見直されているのでは」とみるのは、『チョムスキーの「アナキズム論」』(明石書店)を翻訳した木下ちがや氏だ。Y

 かつて日本で資本主義が興りグローバル化の波が押し寄せた明治末から大正にかけ、アナーキズムは一時マルクス主義をしのぐほどの影響力があった。だが、ロシア革命や福祉国家の成立で、国家の存在感が極大化するに従い衰退した。その後、ソ連が消滅し、新自由主義による「小さな政府」が一般化。福祉国家への期待は遠のき、労働運動も停滞した。そんな中で「新たなつながり」の思想として期待されているというのだ。

 アナーキズムは、現実的な選択肢たりうるのか。梅森直之早稲田大学教授(日本政治思想史)は「すぐに実現するということではないが、今の資本主義秩序とは違う人間の働き方がありうるのを示すことに意義がある」という。

 『革命待望!』(芹沢一也氏らとの共著)でアナーキズムの可能性を論じた橋本努北海道大学准教授(社会哲学)も、その意義は近代批判にあるとみる。ただし「新自由主義は生きのびるために、アナーキズムの創造性さえ必要としており、逆説的だが両者が深いところでつながってしまっていることに注意が必要だ」と話す。

◆すでに社会の中にある

 ニューヨーク在住の批評家、高祖岩三郎氏(54)は近刊『新しいアナキズムの系譜学』(河出書房新社)で、アナーキズムの歴史を再解釈しながら、多様な運動の継続的な組織化の必要性を問うている。高祖氏に話を聞いた。

 ――なぜアナーキズムに注目するのか。

 「新左翼の崩壊した原因の一つは、階層序列による組織的な権威主義があったのではないか。新左翼がなぜうまくいかなかったかを考えていた90年代、米国でそれまでとは違う新しい運動が出てきて、若い活動家たちが漠然と自分をアナーキストと呼んでいることに気づいたのです」

 ――従来の運動との違いは。

 「アナーキズムは誰かが発明した思想ではありません。人類がもともと持っていた自律や相互扶助、直接民主主義という簡単な原理をもとにしたもの。この簡単なことが、99年のシアトル以降の反資本主義運動の決定的土台になったのです」

 ――アナーキズムは、資本主義への対抗軸になるか。

 「大きな集団を想定したものではなく、信頼できる友人や仲間との人間関係を築きながら連帯していくという行動様式が基本。そうした関係のネットワークを国家の存在とは別に、二重権力のような形で広げていく。国家を倒して反国家の秩序を打ち立てるとか、西軍と東軍が関ケ原で激突するような図式ではもう考えない。現実化しえない理想かどうかより、すでに社会の中にそれはあるのです」(樋口大二)

(掲載元→ http://book.asahi.com/clip/TKY200906110157.html)

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「愛を読むひと」S・ダルドリー監督、トニー賞も喜び

Posted by Shota Maehara : 6月 11, 2009

愛を読むひと戦犯の過去を背負う女性と、21歳年下の青年の恋を映した「愛を読むひと」の公開(19日)に合わせ、スティーブン・ダルドリー監督が来日し、10日、東京都内で会見した。今年の米アカデミー賞で女優賞を受けた作品で、演出を手がけた舞台「ビリー・エリオット」が米演劇界のトニー賞10冠を得たばかりの“時の人”だ。(アサヒ・コム編集部)

■「罪」抱え、どう生きるか

 原作は、世界の人々の涙を誘った小説「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク著)。「心揺さぶられる魂の旅を描いた小説。映画化権を持っていた友人で製作のアンソニー・ミンゲラを時間をかけて説得した」

 58年、ドイツ。15歳のマイケル(デビッド・クロス)は、発熱して街角で倒れたところを、ハンナ(ケイト・ウィンスレット)に介抱される。以後、2人は逢瀬を重ね、マイケルは字の読めないハンナに本の読み聞かせを続ける。年齢差を超えた恋が芽生えるが、ハンナは姿を消す。8年後、大学の法科の授業で裁判を傍聴していたマイケルは、被告人席にハンナの姿を見つける。彼女はアウシュビッツ収容所でナチス親衛隊の看守として働き、収容者の生死の「選別」に加担した容疑がかけられていた…。

 「原作者シュリンクの世代は、罪の意識で身動きがとれなくなった。彼はこの物語を書くことで、改めて罪に対峙しようとした。戦争中に犯した罪によって愛情の価値が損なわれるのか、どのように未来へ前進し、他者をどう愛すべきか、損なわれた人間関係を変えるべきか、今のままでいいのかと、多くのものを問いかけている」と語る。

■原作者の意図を反映

愛を読むひと3原作者の意図を、きめ細かく反映させたという。「シュリンクは脚本段階から撮影、編集にまで参加した。映画の舞台となったハイデルベルクの街を案内してもらい、(戦争犯罪を問う)倫理的部分の描き方という大きな判断を下す際にも、議論に加わってもらった」

 舞台出身のダルドリー監督の手際も生きた。この映画の演技で米アカデミー賞主演女優賞を受賞した練達のウィンスレットと共演したクロスは現在19歳。撮影前に、長編映画1作しか出演経験がなかったが、今回の熱演はウィンスレットに劣らぬ高評価を得た。

 「私は舞台出身なので、俳優と共に過ごすのが大好きだ。クロスがウィンスレットとのベッドシーンで不安に駆られないよう、即興に任せるのでなく、ウィンスレットと私で細かく打ち合わせた。クロスにとって、この映画が発見の旅、感情の旅であることを理解できるよう導いた」と話す。

 トニー賞を受賞した「ビリー・エリオット」は、監督自身による映画「リトル・ダンサー」(00年)の舞台版。英国の炭坑町に暮らす少年が、ボクシング教室に通ううち、隣でバレエの練習をする女の子を見てバレエに目覚める物語だ。労働争議真っ最中の武骨な父に軟弱だと猛反対されながら、ついに名門ロイヤル・バレエ学校を目指す。

 「(映画以来)10年間時間を共にしている『ビリー・エリオット』の受賞はうれしくて仕方ない。若い俳優を際だたせた作品なので、少年たちの俳優賞受賞が特にうれしい」と述べた。

http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200906100269.html

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「相愛互助」不況下で関心 賀川豊彦 救貧活動100年 【読売新聞】

Posted by Shota Maehara : 6月 3, 2009

賀川豊彦スラム シュバイツァー、ガンジーとともに海外で「20世紀の三大聖人」ともたたえられながら。戦後忘れられたキリスト教社会運動家の賀川豊彦(1889-1960)が、貧民街で救貧活動を初めて100年。その「相愛互助」の思想が、貧困や格差などを克服する手がかりを与えるとして脚光を浴びている。(植田滋)

 賀川豊彦は多面的だ。労働争議、農民運動、協同組合創設、セツルメント活動(地域福祉事業)を指導した活動家であるとともに、戦前400万部のベストセラーとなった自伝小説『死線を越えて』の作家として知られる。プロテスタントの牧師として伝道する一方、「世界国家」を構想した平和運動家でもあった。

 神戸市生まれの賀川は幼くして良心を失い、育った徳島県でアメリカ人宣教師と出会い、16歳で洗礼を受けた。結核に侵され余命短いと思い、ならばイエスに倣おうと決意。1909年、21歳で神戸市の貧民街に住み、病者保護や無料葬儀などの救貧活動を始めた。

 <おいしが泣いて、目が醒めて、お襁褓を更へて、乳溶いて、椅子にもたれて、涙くる。・・・>。「涙の二等分」は、貧民街の子どもに寄り添う生き方を伝える詩として知られる。

 キリスト教関係者らは今年、「賀川豊彦献身100年記念事業」を展開。すでに数回のシンポジウムや映画『死線を越えて』の上映会が行われたほか、小説『死線を越えて』(PHP研究所)、『空中制服』(不二出版)が復刊された。12月22日には神戸市で記念式典が予定されている。

 賀川豊彦記念・松沢資料館(東京都世田谷区)の加山久夫館長は「数年前から行事を企画していたところに、経済危機が重なった。最底辺の人々の立場に立ち、兄弟愛の精神で互いに支え合うという『相愛互助』思想は、不況下で強い関心を集めている」と言う。

 特に注目されるのが、<一人は万人のために 万人は一人のために>という標語のもと、賀川は大正期から消費組合や医療利用組合、協同組合金融を先導した。日本協同組合同盟(後の生協連)の初代会長も務め、「生協の父」とされる。4月に母校・明治学院で行われたシンポジウムでは、野尻武敏・神戸大学名誉教授(経済学)が「個人主義、物質主義、合理主義からなる近代文明が行き詰まっている。共産圏が消え、市場原理主義が失敗した、賀川の説いた協同組合運動が時代を担う」と語った。

 キリスト者としても再評価されつつある。栗林輝夫・関西学院大教授(神学)によると、賀川のキリスト教には<私の中に神の力が、はえて来る>と書いたように、神と人とが合一する神秘体験に基づく神秘主義がある。正統神学ではないため、戦後の教会は無視してきたという。しかし教授は「正統重視の教会から彼ほどの人材が育っていないのだから、積極的に社会にかかわる賀川の信仰のあり方は、もっと見直されていい。今、盛んに言われている『友愛』とも重なる」と強調する。

 また宗教学者の山折哲雄氏は。季刊誌「at」15号の賀川特集で、その詩に「乳房」に対する強い憧憬があることに注目。「賀川のキーワードは母です。厳父との対局で、仏教の観音の系譜、マリア観音の水脈に連なっています」と述べ、キリスト者としては同伴者としてのイエスを描いた遠藤周作とともに、日本の伝統風土に生きた文学者であったことを指摘している。

 ただ、賀川は第2次大戦で戦争に協力したと批判されているほか、現在から見ると問題ある人種発言もしている。それが戦後に忘れられた要因にもなってが、加山館長は「それでも一貫して貧しい人の側に立った賀川を評価してもらえば」としている。

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賀川豊彦「友愛の政治経済学」-その現代的意義

Posted by Shota Maehara : 5月 19, 2009

賀川パンフレット

  

4月28日(火) 18:00-20:00
 東京都生活協同組合連合会ホール(中野区中央5-41-18)

 野尻武敏(協同学苑学苑長、神戸大学名誉教授)
 司会:加山久夫(賀川豊彦松沢資料館館長)
 コメンテーター:石部公男(聖学院大学教授)

■賀川豊彦の「第三の道」 野尻武敏名誉教授が講演 【Christian Today】

 第一次大戦と第二次大戦の間の戦間期に大きな出来事があった。いまと同じように金融危機があり、1929年には世界大恐慌となった。ブラザーフッド・エコノミクスはその間に構想が練られて、1935年、アメリカで出版された。25カ国、17カ国語で出版され、一大センセーションを起こした。
 この本の中にはその大恐慌に対する経済の改造計画とその基礎理論が書かれている。理論の基礎となる部分が3点ある。第一は、「エコノミクス」といっても通常の経済学とまったく異なる。普通の経済学は物質経済学で、物とか通過の量の相関関係について語られる。それに対して賀川は「人間の経済学」とか「唯心経済学」といった。いわゆる「主観経済学」だ。経済を行う人に重点をおいて経済を語っているのだ。

 センセーション起こした賀川の経済構想
       1936年の『友愛の政治経済学』  パンフレット

 【野尻武敏氏略歴】 1924年大分県生まれ。コープこうべ理事長、日本経済政策学界会長などを歴任。専門分野の著書のほかに『第三の道』、『転機にたつ生協と生協運動』、『二一世紀と生活協同組合』など生協関連の著書も多数。

 司会:加山久夫 賀川は21歳のとき、明治42年でしたが、健康をそこない寿命がないとの宣告をうけました。それでは生きがいのある生き方をして死を迎えようと神戸の貧民街に飛び込みました。そして、伝道活動、救貧活動をはじめたわけです。その間、健康を回復するとともに社会的な注目を浴びることになりました。その後、賀川は13年半スラムでの生活を原点として、さまざまな社会運動に取り組みます。そのスラムでの生活を開始した1909年から本年はちょうど100年です。われわれはこの献身100年事業に向け、賀川の活動を現代に活かす道を考えながら、いろいろと議論し、準備してまいりました。

 賀川が生きた時代である明治・大正・昭和を経て、現在は平成です。賀川の名前はその後忘れられ、遙か過去の人となったように見られています。特に若い人にとってはそうです。しかし、深刻な経済危機、構造的な諸問題に直面している現在、賀川が生きた時代が過去となっていないことを、実感しております。もう一度、賀川の言葉を現代に生かす、そのプロジェクトのひとつとして、われわれは『友愛の政治経済学』の翻訳に着手しました。

 賀川は、1935年、ルーズヴェルト政府に招かれ、協同組合運動の講演について依頼をうけました。そして、翌36年、約半年間全米講演を行いました。その時の賀川のもうひとつの渡米目的は、ニューヨークのロチェスター神学校にありますラウシェンブッシュ記念講演でした。そこで賀川は「brotherhood economics」という題で講演を行いました。その講演が本になるという話が出たとたん、3000部の注文が舞い込んだといいます。その後、25カ国で17ヶ国語に翻訳されたのです。ところが、日本語では出版されておりません。この本が『友愛の政治経済学』です。われわれはこの本を翻訳してまいりました。野尻先生には、その監修者となっていただいております。この会場を用意していただきました生協のコープ出版社から刊行されます。これを記念して、今回の講演会が開催されることになりました。

 山下俊史・日本生活協同組合連合会会長

 私は、献身東京プロジェクトの顧問をさせていただいております日本生協連の会長・山下と申します。賀川は日本の生協の父であり、日本生協連の創設者であり、初代会長であります。私どもは『死線を越えて』や『一粒の麦』といった小説を通してその生き方を感じてきました。今回のテーマともなっております『友愛の政治経済学』を日本語で読むのはこれからのことだと思います。加山先生、石部先生の翻訳を野尻先生が監修されました。すでに原稿を読ませていただきましたが、大変読みやすく、胸を打つものとなっております。われわれコープ出版から刊行させていただきます。

 われわれ生協は大きな危機に直面しております。経済の危機、消費者・組合員の暮らしの危機、生協の経営の危機、これを三重の危機と受け止めております。これを突破できる、将来のヴィジョンを築き上げなければならないと考えております。この100年に一度の危機に対して、生協の父である賀川が何を考え何を為そうとしたのかを考え、活かしていくことは私たちの責務であろうと思っています。

 私自身は、賀川が実践した多様な運動の中で、とりわけ、彼の理念とした協同組合運動、そして、その依拠する体系的な経済システムの問題として賀川が何を目指そうとしたのか、これらを皆様と一緒に考えたいと思っています。たとえば、賀川がヨーロッパの経済組合運動の実践を学び、そこから掘り起こし日本に定着させた理念のひとつに「ひとりは万人のために、万人はひとりのために」という考えがあります。ヨーロッパでは古くから伝えられてきた言葉だと聴いております。この理念をドイツの農村で農民組合振興のため説いてやまなかったライファイゼンその理念と実践から賀川は学び、日本に定着させました。

 この理念からどういう経済や実社会を構築しようとしたのか。当時の背景と合わせて学ぶことで、現在の危機を乗り越える力にしたいと思っております。本日は、この分野に精通され、またコープこうべ理事長として実戦の先頭にもお立ちになられた野尻先生をお迎えしてご講演をいただくのは大変光栄なことだと思います。

 野尻武敏

 「友愛の政治経済学」というテーマになっております。「Brotherhood Economics」は、1936年に出版されましたが、賀川豊彦は、35年から36年にかけて全米で講演活動を行いました。この中で行われました、ロチェスター神学校のラウシェンブッシュ記念講演のタイトルが「Brotherhood Economics」です。そのときの講演内容を中心に出版されたものがこの本です。大恐慌のさなかにあったアメリカのルーズヴェルト政府が新しい経済政策を行う中で、賀川は招かれました。この講演活動は半年で500回に達したといいます。1日に3回も4回も繰り返し講演されたのです。そして、それに耳を傾けたアメリカの聴衆は100万になるといわれます。この講演は大変なセンセーションを巻き起こしました。ただ日本では知られていない。日本だけで知られていないのです。この本が出版された翌年には、ロンドンで、その後、ヨーロッパの言葉だけではなくヘブライ語、ヒンドゥー語、隣国である中国語など25カ国、17ヶ国語で翻訳出版されたのです。ただ、日本だけにはなかったのです。献身100年になることを記念して、こちらの本の翻訳が本年出版されることになるのです。

 こうした本ですから、当時、大変なセンセーションが巻き起こったのです。賀川先生は生涯で三百数十冊の本を書かれたといいます。さらに、実践活動も朝から晩までやっていたのです。どこにそれだけのエネルギーがあったのでしょうか?北アメリカだけではなく世界中を講演旅行で回ってもいるのです。当時は船です。どういう風に活動して、いつ本を書かれたのか?超人的というのはこういうことを言うのです。この本も実は船の中で書かれたのです。知れば知るほど驚かざるを得ないわれわれの先輩です。

 われわれは子供のころ賀川の名前は知っておりました。中学生でもみんな知っていました。ほぼ全国で知られていたのです。現在はほんの限られた人しか知りません。しかし、これだけスケールの学者であり活動家であり宗教家であるような人物がいたということは、賀川について勉強すればするほど、ますます驚きを感じるようになります。

 賀川がスラムでの生活をはじめたのは1909(明治42)年、21歳の時でした。彼は、神戸で生まれで徳島で育ち、神戸で活動を開始し、それから東京にやってきました。彼は、肺結核になり死に直面しました。こうしたこともキッカケとなって新川のスラム地区に入っていきます。そこでいろいろな活動をしました。キリスト教の牧師として伝道も行いましたが、それ以外にも一膳飯屋、医療活動など、さまざまな救貧活動、社会活動に従事しました。

 その後、賀川は5年ほどこの活動を継続した後、アメリカのプリンストンに留学します。これが1914年から17年まで。第一次世界大戦の大部分をこの地アメリカで過ごします。帰国後の、賀川の活動に変化が見られます。アメリカ留学の前は、貧しき者を救う救貧活動でしたが、帰国後の賀川は貧しき者を生み出さない社会作り、防貧活動に軸足を移してしていきます。

 私は、コープこうべの理事長を6年ほど勤めておりました。地域の生協としては日本でもっとも古い歴史をもち、もっとも大きい組織です。この組織は、1921年に創設された神戸購買組合と灘購買組合の二つの組織が合併したものです。後者の灘購買組合をつくったのは、那須善治です。彼はクリスチャンではありません。日蓮宗の熱心な信徒です。彼のモットーは、「自他享受、不惜身命」であったと言われています。彼は仲買人をやっておりました。第一次大戦のときには、株で大儲けをしました。しかし、彼は大変質素な方で贅沢はしませんでした。荒縄を帯のかわりにするような人でした。贅沢な暮らしを求めてはいませんでした。彼は住吉に住んでおりましたが、そこは阪神間の富裕層の住宅地でした。ここに、地域コミュニティを作る大運動をやっていた平生釟三郎がいました。平生は後に文部大臣も務めるような人物で、甲南大学などは彼が創設したものです。この平生のところに出入りしていた那須は、平生に「儲けたお金を有効に使いたい。どうすればいいか?」と問うたといいます。平生は当時新川のスラム街で活動をしていた賀川に相談するように言ったそうです。平生は賀川に相談しました。賀川の答えはこうでした。「それを慈善事業に使うのも悪いことではない。しかし、それはデキモノに膏薬を貼るようなものである。膏薬を貼ったところはよくなるかもしれない。しかし、別のところにまた別の吹き出物ができるだろう。吹き出物自体ができないような体質作りにお金を使ったらどうか?」賀川はそう答えたそうです。

 当時、賀川は労働組合運動にかかわっておりました。鈴木文治の友愛会、これとかかわり神戸の川崎・三菱造船所のストライキ、非常に有名なストライキ(1921年夏)の先頭に立つようになります。

 それから生協です。1919年に大阪に作った購買組合共益社、これは賀川が最初に作ったものですが長続きしませんでしたが、1921年の神戸購買組合、これが現在一番大きな地域生協、コープこうべになりました。それから農民組合、医療セツルメント、学生生協・・・。賀川が行ったのは、助け合いを中心にした組織化です。これが、1920年代から30年代にかけての賀川の活動です。救貧から防貧困へ。助け合いに重点を置いた運動を行ったのです。

 時代的には今から80年あまり前です。20年間の戦間期には非常に大きな出来事がありました。金融大恐慌です。神戸は大打撃を受けました。たとえば、神戸では新興財閥であった鈴木商店が倒産しました。これが1927年。昨今の金融危機と似ています。こうして大恐慌が起こり、第二次世界大戦へと突入していきました。

 さて、この大変大きな変動の時代、5・15事件、2・26事件それから満州事変、日中戦争へと続く、世界の仕組みそのものが変化していく時代。賀川はこの時代、世界がどうかわっていくかについて理想を唱えました。それが協同組合であり、労働組合であり、農民組合であり、医療組合であり・・・等々。この本にはその社会構想が入っております。なぜそう考えるのか、基礎理論が示されているのです。賀川先生の社会構想を知るには一番いい本だと思います。今日はそれについてお話しようと思います。

 この本での賀川の理論の基礎になっているものを3つだけ挙げたいと思います。「Brotherhood economics」、これは通常の経済学とは大きく異なります。利子や投資、雇用、物価など経済の領野の相関関係を分析するのが通常の経済学です。賀川は、これを物質経済学と呼んで批判しました。彼の経済学は主観経済学といいます。賀川先生が自分の経済学につけた名前です。通常の経済学との違い、人間に重点を置く「主観経済学」が第一点。

 また、どういう経済社会でなければならないのか?ものを考える上での基礎、賀川はこれを人格経済・人格社会といいます。私たちは、個人であると同時に人格でもあります。人格としての労働者=人間を解放するような経済でなければならない。それを押しつぶすようであってはならない。人格としての労働者、これを解放する経済学なのです。これが二番目です。その意味では、マルクスの経済学と実は似ているのではないか?しかし、私はマルクスがもっとも近い経済学で、またもっとも遠い経済学であると思います。違いは「唯物史観」です。確かにマルクスの議論には一面の真理がある。しかし、経済はこれだけで成り立っているのではない。

 賀川は、人格とともに友愛を語ります。この友愛はフレンドシップではなく、ブラザーフッドです。フランスの国旗、この友愛はフラテルニテです。兄弟愛です。人格と兄弟愛、これが賀川の経済学の中心にあります。なぜか日本では、兄弟愛という言葉を使わないようですね。この愛は、人格としてひきあう愛です。人格と友愛、兄弟愛。これが別のものにはならないのです。

 ここからは、少し私の議論となりますが、人格は英語でパーソンといいます。語源的にはペルセからきたといいます。「自分自身で」ということです。自分を自分で律することができるのが人格です。しかし、同時に、「響きあう」という意味もあります。心の通いあい、これを愛といいます。心がひとつになること。この二つを強調する意味で、賀川は人格経済と友愛経済を柱にしたのだと、私は考えます。

 第三番目は唯心論です。賀川はマルクスの唯物論を大変勉強した人物でした。多くを学びましたが、これに批判的でもありました。賀川は、唯心論、人の心が物を規定しているんだという考えをとりました。マルクスの唯物論は、資本主義の必然的没落、社会主義、共産主義への推移を語りました。この転換は、暴力革命によって生まれます。しかし、賀川はこうした考えを拒否しました。賀川の唯心論は、人々の意識を目覚めさせるものです。したがって、教育というものが決定的に重要になるのです。人々の意識の覚醒によって新しい時代を作る、これが賀川の唯心論です。

 以上の3つの特徴が、賀川先生のこの本を理解する上で大きな助けとなります。そして結局は、ひとびとの助け合いの組織、そこから賀川の協同組合思想が生まれてきます。賀川先生はこの考えをずっと前からおもちだったと思います。労働運動、農民運動の指導もこの考えに則っていたはずです。

 さて、では、賀川先生がその時代どういったことを行ったのか。大恐慌、資本主義経済が大変いきずまったこの時期、ケインズの「自由主義の終焉」が1926年。その後次々と資本主義批判の論調が高まってきます。その代表が社会主義国家、ソ連です。第二次世界大戦にになだれ込んでいく20年間は、大変な時期でした。日本はその間に関東大震災も経験します。この震災を契機にして賀川先生は東京に移り住みます。関東大震災のときに大々的なボランティア活動を行ったのは賀川です。この時代のベストセラー『死線を越えて』この印税のすべてをこうした活動に費やしました。その額だけでも大変なものですが、さらには募金を集めて東京にもってくる。そうした東京での幾多の活動を重ねて1960年、72歳で亡くなります。

 さてこの時期、ソ連、イタリアのファシズム、ナチズム、これらが活発になってきました。これらは全て、社会主義(国家社会主義)なんですよ。資本主義に反対する運動のひとつなのです。それから第二インターに属していた社会民主主義も力をつけてきました。イギリスでは、労働党が内閣を組織するようになります。こういうものが相次いでできた時期です。その中で賀川はどういった態度をとったのか。資本主義は真っ向から批判する。そして恐慌という悲惨な体験を考えながら、自覚的に社会主義に立った発言をする。彼はしかし、人格主義であり友愛を語る立場です。自分たちで自由に組合・組織を作ることを提唱します。ですから、国家社会主義にみられる上からの強制の体制は否定します。ドイツの社会民主党、これは民主主義を前提にしたものですが、これもダメだめだと言います。資本主義経済を前提にした社会保障だからです。政治の力によって困った人を助けるのではなく、自分たちで自分たちを助けるのが本来あるべき姿であると否定します。彼はこうして、資本主義の対案として当時でてきたものを次々批判します。そして賀川の示したものが「第三の道」なのです。資本主義でも社会主義でもない第三の道。この本ではそうした主張が示されており、キリスト教世界では広く影響を与えたのですが、日本では省みられることがなかった。この賀川の提唱した社会構想がこの本を読めば分かります。

 少し本の内容について議論してみたいと思います。人格と友愛、これはいずれもキリスト教精神から生まれてきたものです。第二次大戦後、日本で言われてきた「人権」はこうしたキリスト教精神から歴史的に生み出されてきたものです。この点については、神戸大で私の恩師だった方がよく言われておりましたのを思い出します。人格としての尊厳、人権の思想はキリスト教が与えたものであり、ギリシアにはそういった思想はない。アテナイの思想家たちで民主主義を誉めた者はいない。誰もが、それをポピュリズムとして批判します。彼らはソフィストと呼ばれます。辞書では詭弁家と載っていますね。当時から知識人が詭弁家になっていたのです。だから社会が悪くなり財政破綻を引き起こした。わき道に逸れましたが、ひとつだけ言わせていただきます。ポリス市民は働きませんでした、労働は奴隷にさせました。市民がもっとも好んだのは、議論です。そして劇でありスポーツです。ギリシアで民主主義がはじまったことは確かです。しかし、人権の思想はありません。これはキリスト教から生まれたものなのです。キリスト教では、人間である限り価値を有している、尊厳をもっているということが前提となります。人間だけがパーソン(人格)なのです。個indevidual、これは人間だけではなく犬でも猫でもそうです。でもパーソンは人間だけのものです。人権は、ヨーロッパのキリスト教の地下水の上にできたものであり、日本にはその根がないのだ。このままでは枯れてしまう。大学の恩師が言っていたことです。

 こうしたもの、人権の根っこにある、この「人格」を中心として語る賀川の思想はキリスト教社会主義に位置づけられます。賀川先生の思想は、キリスト教社会主義思想のひとつの優れた体現だと思います。これがひとつ。

 もうひとつ一般的に、賀川の社会運動は、組合社会主義、サンディカリズムに位置付けられます。組合社会主義、これの代表はプルードンです。こうした思想は、バクーニンなどの無政府主義に結びつきます。この流れでアナルコ・サンディカリズムが生まれますが、賀川はこの立場には反対でした。当時1920~30年代の日本における社会運動は、アナルコ・サンディカリズム、そして友愛会と大きく二つの流れがありました。賀川は後者の立場です。さらに、ムッソリーニのファシズム、そして後年のレーニンに見られる農業協同組合の創設、これは賀川の農民運動に近いものかもしれませんが、賀川の立場からはこれを拒否することになるでしょう。

 上からだからです。人々が自由に助け合う組織を作る。この組織化の延長に国がある。これが賀川の考え方です。賀川もまた二院制を構想しますが、今の日本に見られるような二院制とは違います。協同組合の代表者による産業議会と社会議会です。社会議会とは、組合を作れないような人びとが代表を送るのが社会議会です。賀川はこの本でこういった制度構想を示しています。それから、世界全体を協同組合の形で構想していくという世界連邦の壮大な考えも見ることができます。

 それでは、今日から見て、この本を読むことにどんな意義があるだろうか? これを最後に考えてみたいと思います。

 ひとつは、現代の金融危機。これは今日と当時の社会状況との近さを感じさせます。しかし、今度の金融危機は、実態としての産業の危機ではないのです。一般に市場で取引をする場合、売る側・買う側双方に責任があります。ところが、金融商品は買い手にのみ責任があります。これはおかしいのではないか?

 賀川は言います。過剰だから恐慌が起こるのだと。物が不足、欠乏しているのではない。ものがあまっているのに、食べられない人々があふれている。当時アメリカでよく語られた「poverty in plenty」、賀川もこれを非常に強調します。これが資本主義社会がもっているもっとも大きな矛盾です。賀川もここに意識的でありました。賀川の基本の思想は、「人格」です。労働者の人格を大切にすることはもちろん、資本家も実は人格をすり減らしているのです。こういう資本主義社会を変えなければならない、こうした賀川の思想は現代にも生きるものだと思います。昔は、物の売買も人格的な関係の上に築かれたものでした。資本主義社会はそうした関係から離れるものです。実体経済について昨今話題になりました偽装問題はこのよい例です。金融経済についても、メスを入れることが必要です。

 第二番目は、賀川の時代とわれわれの時代ですっかり違ったものがある。ふたつ挙げます。ひとつは、20世紀までは「あれかこれか」の時代でした。賀川先生の悪いところは、市場の機能を認めていないところです。当時は計画経済の合理性について大論争がおこった時代です。ですから管理経済の合理性がかなり信じられていたのです。でも結果的には、効率を下げることがはっきりしました。賀川はこの論争について知っていたはずです。1989年、ちょうど20年前、共産主義体制が崩壊をはじめました。91年には、とうとうソ連邦が消えてしまいました。市場なくして、効率のよい経済は考えられない。これが理論的にも経験的にもはっきりしました。しかし、市場だけではだめだ。これもはっきりしております。市場の失敗です。今日、基本的な大前提となっているのは「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」だと思います。市場を前提にしながら公権力の介入が行われる。市場基調の混合体制が一般的になる。

 それから、行政でも市場でもない中間の組織が現れてきたことも冷戦後の大きな動きです。社会的な活動を行う民間の組織、NPOなどの組織、これを第三セクターと呼びます。こうした第三の社会セクターが急速に伸長してきております。フランスでは社会セクタ、イギリスでは通常ボランティア・セクターと呼びます。私はこのボランティアセクターという言葉を用いています。21世紀は、市場と行政とともにこのセクターが担うことになると思います。行政が平等と公正を担う一方で、ボランティアセクターが友愛と連帯を担う。友愛と連帯のセクターは今後、世界の大きな地位を占めるようになるでしょう。この代表が生協なのです。残念ながら、日本ではNPO(非営利組織)の中に生協を入れることはできません。利益を配分するからです。NPOの要件のひとつである利益を配分しないという特徴がないので生協はNPOとされないのです。しかし、ヨーロッパにおいて第三セクターの中心となる最も大きな友愛と連帯の組織は生協です。規模だけではなく160年を超える歴史を持っているのです。生協はこの方向性をもたなければならない。これが賀川思想を現代に生かす道です。

 それから、二番目。この本が書かれた当時、世界では植民地支配が一般的でした。現在、植民地がなくなった一方で、世界、市場経済がグローバル化している。そして、アメリカ一極支配が崩れつつある。9・11はアメリカの政治的一極支配の終焉ですが、今回の金融危機は経済面でのアメリカ一極支配の終焉、多極化のはじまりだと思います。EUをみてください。昔の国家というものはほとんど消えている。通貨も統合された。国家には、3つの条件があります。通貨、外交、防衛です。グローバル化された社会の中で、EUはこうした条件の下にある国家とはかけ離れたものです。アジアでも東アジア共同体という話がありますが、世界で一番この潮流に乗り遅れているのではないでしょうか?アメリカを含めた北米の方がまだ進んでおります。賀川が生きていたら、こうした意味でも世界連邦を提唱されるのではないでしょうか?

 最後にもうひとつお話します。最近、経済学の中で行動経済学という新しい動きがある。そして道徳経済学や倫理経済学。後者は道徳や倫理学から経済学を見直していこうという動きです。賀川先生の主観経済学はこうした動きを先取りしたものではなかったでしょうか?現在の経済学が賀川に近づいてきている。賀川先生の主観経済学はこうした現在最先端の経済学が求めるものを持っているのです。賀川の作品は、経済学、倫理学、宗教、さらには量子力学や宇宙論にまで至る幅広い学際的な知識が盛り込まれています。学問の総合性・学際性が今日叫ばれています。賀川の経済学、賀川の思想はそれに相当するものをもっていたのだと思います。荒削りだとは思いますが、いずれの面をとってみても、今日議論するに値する問題が提起されているのだと思います。どうもありがとうございました。

 石部公男

 『友愛の政治経済学』は、さきほど説明いただきましたように、加山先生と私が訳したものです。今回は、その本について野尻先生がいろいろな問題提起を行っていただきました。今日のお話全体を通して私が感じるのは、賀川先生は一種の預言者的人物だったのではないでしょうか?今、預言者という話をしますとやや神がかった印象を受けてしまいますが、そういうものではない。賀川豊彦のこの本、そして今日のお話を通して感じたのは、今後私たちがどういう経済社会を作っていくのが本当にいいのか?この時代にそれを予見し、講演し、本にしたものだということです。私自身もこれを読んで驚嘆いたしました。1936年、戦前にこうした幅の広い議論がなされていたのです。現代になってEUをはじめようやく統一の動きが出てきた。

 賀川の経済学、これは組合経済学、友愛経済学・・・いろいろな側面があるでしょうが、経済というのはそもそも人間というものがいかに生きるべきか?という問いに答えるものだという考えに立っているのだと思います。野尻先生からマルクスとの類似性の話がありましたが、人間が善き社会を作るにはどうしたらいいか、これを賀川先生は語られたと思います。

 最近の金融危機の話についてですが、もともとアメリカというのは自由な社会、極力規制を嫌う社会です。危機以降、金融に規制をという声がアメリカでも強くなりつつあります。野尻先生が指摘されたように、賀川に「市場」という言葉が抜けているのは非常に残念であると思いますが、これを前提とした相互扶助を考えるのは現代に生きる私たちの役割だと思います。ワークシェアリングは大事な概念ですが、仕事をシェアしても限界がある。深刻な事態に直面している。賀川の議論からそれを突破できる道を探していくことが大変大事だと思います。

 もうひとつは、今回、野尻先生は触れておられませんでしたが、犬養道子さんの『ヨーロッパの心』(岩波新書)という本があります。そこには、エマニュエル・ムーニエのことが出ておりましたが、雑誌「エスプリ」(1932年)を代表とするムーニエの活動などと絡めてお話していただければと思いますが、これは時間があればで結構です。

 また、本が出された1936年には、ケインズの『一般理論』も刊行されております。いろいろな意味で重要な結節点だと思います。そうしたケインズとの位置関係なども含めお話していただければと思います。

 質疑応答

 会場A 質問は簡単です。福祉行政をよくすれば友愛の政治経済学を活かした社会ができるのではないか?
 会場B 二つ質問があります。賀川先生の本、これが世界中で翻訳され読まれなかったのに、なぜこれまで日本で翻訳されなかったのか?その理由について。もうひとつは、人格と人間の尊厳の思想について日本には馴染まないという否定的な議論がなされていましたが、それはどうしてなのか。

 会場C 主旨とズレるかもしれませんが、賀川に欠けていたのは市場とおっしゃられていましたが、地球環境はどうでしょうか?賀川には「環境」の議論が抜けていたのではないでしょうか?

 会場D 第三の勢力、ボランタリーセクターの一翼として生協があると述べられていました。私は、現在の生協に欠けているものとして「情報開示」を挙げたいと思います。その点についてお考えをいただきたいと思います。

 会場E 先生のお話で、EUのことが出ました。東アジア共同体ではなく、日本もEUに入ればいいのではないか?という考えを持ちました。いかがでしょうか?

 野尻武敏

 石部先生からケインズの話が出ました。この時、経済理論において古典派の流れが大きく変化します。これは経済理論の第一の危機と言われています。ケインズの総需要創出という話はそういう意味をもっておりました。ところが、1970年代に第二の危機が起こります。賃金の下方硬直性の問題、さらに自然の限界が顕在化しはじめたということです。今、さらに新しい経済学の創出が求められている。

 福祉行政の話についてお答えします。福祉行政は福祉国家に結びつくもので、旧来のイギリス労働党の政策が代表的です。福祉国家はゆりかごから墓場まで国家が面倒をみるものです。これには限度がある。自助や共助の精神とは大きく異なります。人格を中心に語る賀川の経済学は後者に立つ議論です。日本は財政破綻の危機に直面しております。大きく制度を変えなければだめでしょう。賀川のいう「友愛」という原理に立脚した新しい社会構想が必要だと思います。

 日本において人格や人間の尊厳の思想的基盤が脆弱であるか否かについてですが、ひとつだけ例を言いますと、400年前の九州の儒学者貝原益軒の『養生訓』を挙げることができます。『養生訓』では世代の連鎖について、「いのち」の大切さを語っています。萩原朔太郎には「生きたるはひとつの責務」という言葉があります。日本でも決して歴史的に人間の尊厳が軽視されてきたわけではありません。日本書紀などでも「人」というのは霊が宿る場所として説明されています。キリスト教と近いのではないでしょうか?

 環境の問題についてです。賀川は、環境を特に取り上げて議論したわけではありませんが、この本『友愛の政治経済学』にこうした文章があります。「今日、存在するのは資本主義である。資本主義は無限に自然資源がある間はまだよいが、われわれが自然資源を使い尽くしてくると、悲惨と貧困の恐ろしい状態が起こる。そうなると生活を守り、経済状態を公正に調整していくために兄弟愛の運動がどうしても欠かせなくなる」。これは、73年前に書かれた言葉です。

 ボランティア・セクターと生協の話ですが、コープこうべのモットーとなっている言葉は「ひとりが万人のために、万人がひとりのために」です。これは決して強制ではありません。加入・脱退が完全に自由である。その意味でボランタリーです。生協というのは、生活の安定と向上を目指す自発・自立・自主の共助組織であると定義するのがいいと私は思っています。コープの「CO-OP」というのは、「一緒に活動する」、「ともに働く」という意味です。同じく、「捧げ合う」という意味もあります。働きあい、捧げ合うボランタリーな組織、それが生協だと思います。

 EUについての話ですが、EUはそもそもフランク王国から続く長い歴史的背景があります。それが近代的にひとつのものになったのだと考えています。それがウクライナ、ロシアまで入ろうとする大きなものになってきました。ここまできているのですから、(広域共同体は)アジアにもあっていいと思います。やがてアジアにもそういった共同体ができるのだと思っています。

 主催:賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会
 後援:日本生活協同組合連合会
 協力:東京都生活協同組合連合会

 問い合わせ先 賀川豊彦献身100年東京プロジェクト 03-3302-2855

 

※参照HP・Blog (1)2009賀川豊彦献身事業100年記念事業 (2)Think Kagawa 賀川豊彦を考える

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中世政治神学―宗教(権威)と国家(権力)

Posted by Shota Maehara : 5月 14, 2009

西洋的な国家制度を作るにあたって、ヨーロッパを視察した政府高官たちは、ヨーロッパの国々は議会と教会の二本柱で国民を束ねて成立していることに気付き、単に議会制度を取り入れるだけでは不十分であると考えました。高官の中には、日本に議会制度と共にキリスト教も国のシステムとして取り入れようという主張もあったそうですが、結局は天皇および神道を、イギリスの国王とイギリス国教会のような形に改変させることで対応したのです。その名残から一神教的要素を感じ取れるかもしれません。しかし、そのことで天皇および神道が本質的に一神教になったというわけではありません。キリスト教が日本に伝わったのは1549年です。天皇の存在感が極めて薄い時代も短からずありました。という点から考えると、むしろ政治的理由や日本人の性質との相性の方に原因があると思います。(引用

日本に憲法を作るため、欧米諸国を歴訪し、欧米の憲法学者から学んだ伊藤博文は、欧米の民主主義の背後にバックボーンとしてのキリスト教の存在があることを理解します。欧米の憲法を形だけ日本に取り入れても、キリスト教の背景が薄い日本では「仏作って魂入れず」に成りかねません。それを強く危惧した伊藤博文は、キリスト教に代わる役割を皇室に求めたのです。キリスト教の役割を皇室に求めたことが、戦前の国家神道(小室直樹のいう天皇教)につながっていきます。(引用

「伊藤博文は、ヨーロッパでは議会制度も含む政治体制を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として皇室に期待した。」(Wikipedia「天皇制」)が正しいです。伊藤博文は明治21年6月18日、憲法原案の大意を次のように述べています。「抑歐洲ニ於テハ憲法政治ノ萌芽セル事千餘年、獨リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス、又タ宗教ナル者アリテ之ガ機軸ヲ爲シ、深ク人心ニ滲潤シテ人心之ニ歸一セリ。然ルニ我國ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、(中略)我國ニ在テ機軸トスヘキハ獨リ皇室ニアルノミ。」(引用

※参考資料 (1)伊藤博文著『憲法義解』 (2)伊藤博文著『皇室典範義解』

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賀川豊彦100年/「友愛の経済」に学ぼう

Posted by Shota Maehara : 5月 1, 2009

e8b380e5b79de8b18ae5bda6 大正・昭和期のキリスト教社会運動家で、生協やJA共済事業の生みの親とされる賀川豊彦が、生涯の活動の原点とした神戸の貧民街に身を投じたのは、1909年の12月、21歳の時だった。100年目となる今年、関係する組織や機関が多くの記念事業を行っている。競争優先の経済が行き詰まった今日、「友愛の経済」を唱え、協同組合思想の中にその実現を託した先駆者の思想をひもとくことは、協同組合運動をあらためて考えるよい機会である。

 神戸で苦難の救貧と伝道活動を続ける中で、賀川は慈善事業の限界に気付き、貧しさをなくすのは「救貧」ではなく「防貧」であることを知る。労働運動や農民運動にかかわる中で、自立・自治の精神に基づき、教育・経済的活動を基本とする協同組合組織の必要性を唱えた。その後、大阪、東京での信用組合や生協の設立、協同組合保険のための産業組合での奮闘は、この神戸での取り組みが始まりだった。

 賀川は、現在のJA共済の生みの親でもある。協同組合による生命保険事業の必要性を訴え、戦前、産業組合による保険会社の買収を提案したが実現しなかった経緯がある。戦後、さまざまな経緯があったものの、協同組合における保険事業は、農協による共済事業として実現し、全国組織として1951年の全共連創立となった。産業組合の指導者だった千石興太郎や有馬頼寧などの理解と協力があったが、農協共済の実現は、賀川の思想と行動力によるところが大きい。

 JA関係者の中でもこのことを知る人が少なくなった。世界的にも知名度の高い宗教家、思想家、社会運動家である賀川の全体像をつかむことは簡単ではないが、生協や信用組合など今日の協同組合運動の中に、その思想は引き継がれている。のみならず一般の保険に対して唱えた協同組合保険の意義、当時の救貧と今日の失業・貧困対策など、相互扶助の組織である協同組合は、賀川の思想から学ぶべきことが多い。

 生協、JA、信用金庫、大学、各種労働者組織など幅広い組織、機関が記念事業を展開している。「賀川豊彦献身100年―平和・人権・共生」をテーマに、東京と神戸でそれぞれ講演会、シンポジウム、ベストセラーとなった「死線を越えて」の上映会などさまざまな催しが計画されている。 

 著書は、宗教、社会思想、文学など150冊を超え、東京、神戸、徳島(鳴門市)には記念館や展示室などがある。また、条幅をよく書き、含蓄のある言葉を多く残している。同じ時代に活動した協同組合の指導者の自宅、連合会の書庫などに眠っている条幅も少なくないと聞く。手近なことからでよい。「献身100年」を機に、JAも独自の催しで賀川の精神を振り返りたい。

http://www.nougyou-shimbun.ne.jp/modules/news1/article.php?storyid=893

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