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フラット化する世界に国境はないのか?

Posted by Shota Maehara : 8月 8, 2007

16世紀に誕生した世界市場は、今日文字通り地球上を覆い尽くしている。このグローバリゼーションと呼ばれる現象は、基本的に中心を持たず、水平的なネットワークによって、ヒト、モノ、カネ、そして情報を世界中に行き渡らせている。

19世紀にいちはやく近代的な土地や労働力の売買を実現し、産業化に乗り出したのは西ヨーロッパ諸国、とりわけイギリスであった。その後ドイツ、アメリカ、日本といった国々が続々と産業化を果たすが、そこではもっぱら国家が産業育成をリードした。そして今日では、この資本化の波は、いわゆるBRICsと呼ばれる地域でも加速化している。特にインドのIT化の波は、安い労賃も手伝って、先進国の人々の仕事を奪いつつある。

現在これに対し、二つの見方が一般的には存在している。まず、イタリアのマルクス主義者アントニオ・ネグリは主著『帝国』の中で、多様な価値を持った群集、すなわちマルティチュードが世界経済の底辺に産み落とされており、早晩この世界に対して革命を起こすというヴィジョンである。究極的には格差の広がりによって、人々は革命を起こすというネガティヴな見方だ。

次に、アメリカのジャーナリスト、トマス・フリードマンは、『フラット化する世界』の中で、これとは反対のポジティヴなヴィジョンを提示する。つまり、ITによってもたらされるグローバリゼーションは、言語、生活、文化の画一化を一見もたらすように見えるが、かえって個別化、多様化する。そして、貧しい国にマイナスになるどころか、知的労働に従事し、国際競争力を高めることを可能にする。その例が近年発展目覚しいインドだ。

この両者はグローバリゼーションが基本的に、アメリカなどの一国に牛耳れらない、分散型のネットワークであることでは一致している。そこから別様の帰結を引き出してきているのである。

しかし、ここには決定的な盲点がある。それは、グローバリゼーションに焦点を当てたがゆえに、「国家」や「民族」、一言で言えば「国民国家」(ネーション=ステイト)の存在を軽視してしまったことだ。市場原理のみを追求した経済活動によって、社会は必然的に不安定になる。環境破壊が進み、格差は広まり、治安も悪化する。そのとき誰がこの社会の中に走った亀裂を修復するのか。国家か、民族か、宗教か、それとも市民団体か。

こうした弁証法的に持ち上がる問題に人類はつねに直面してきたし、今も解決を見ていない。私にはこれに対して理論的な解決策と実践的な問題解決の二つがあると思う。ただし、その前にこれからのグローバリゼーションによって変化する世界情勢を理解するための枠組みを手に入れる必要がある。それは戦前の日本で繰り広げられた社会科学史上最大の「日本資本主義論争」(俗に封建論争)を振り返ることによって得られるだろう。

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