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Shota Maehara's Blog

Archive for 2011年4月

レヴィナスを読む―信仰とは学知である

Posted by Shota Maehara : 4月 28, 2011

最近の私の関心は、哲学と神学に移っている。その意味でその先達であるレヴィナスの仕事に敬意を感じている。彼の倫理学は今なお重要な問題提起であり続け、さらにはキリスト教徒が知らない「ユダヤ教」の真の姿を感じ取ることができる。キリスト教は旧約ではないユダヤ教から「信仰とは学知である」という姿勢をいまこそ学ぶべきであると思う。

(以下は国文社ホームページから)

「先ごろ亡くなったエマニュエル・レヴィナスはかつて自分の思想について、タルムードの言葉を引いて「生まれたばかりの子供に肉を与えてはいけない」と述べ、安易にレヴェルを下げた解説をすることを拒んだ。本書はレヴィナスの弟子によるレヴィナス思想の入門書という形をとっているが、同時にその哲学思想を超えた部分でのフランス知識人層への生々しい影響を明らかにしている。」(http://www.kokubunsha.co.jp/archives/ISBN4-7720-0422-X.html

目 次
日本語版への序文
まえがき
第一章 散文を讃えて
第二章 倫理のパラドクス
第三章 人とその時代
第四章 政治的なものとその場所
第五章 要求の多いユダヤ教
第六章 究極の人間性
第七章 世俗化された歴史
第八章 レヴィナスを読む
エマニュエル・レヴィナスとの対話
訳 注
書 誌
著者あとがき
訳者あとがき

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パウロと福音主義神学

Posted by Shota Maehara : 4月 27, 2011

パウロはローマへ赴く前に、現地の信徒たちに宛てて一通の手紙を記している。帝国の都ローマにいる信徒たちに、キリスト教信仰の真髄をしっかりと知ってもらう必要があると考えたのである。

彼はその手紙のなかで、わけても人間の救いについて、次のように論じている。

「人は、正しい行いを積むことによって、神の義と認められて救いに導かれるのではない。人が神の前に義と認められるのは、ひとえに神の子イエス・キリストを信じることによる。律法を守り行う者は、かえっておごり高ぶることになりかねない。しかし、イエス・キリストに現された神の義は、律法を守れない者にも、律法を知らない者にも、救いの可能性を開いたのである。神の子であるイエス・キリストが十字架につけられた意味は、ここにある。これを信じ、これを受け入れるとき、人は無条件で義とされる。神の前には、ユダヤ人と異邦人の区別も、奴隷と主人の区別も、男と女の区別もない」

このようなパウロの主張は、当時のユダヤ教とは真っ向から衝突するものであった。そのため、ユダヤ人およびユダヤ主義的キリスト教徒のなかに、パウロに憎悪と敵意を抱く者がいても不思議はなかった。

信仰をともにする教会の共同体であっても、多くの人が集まればさまざまな問題が生じてくる。彼がしばらく滞在したことのあるコリントの教会は、パウロが去ってのちしばらくすると、信仰の立場の違いや人間関係における対立のために、互いに一致できない状態が続いていた。 そこでパウロは、コリントの信徒たちに宛てて複数の手紙を書いている。

「神の子であるイエス・キリストが受けた十字架という恥辱に、神の栄光の力が現された。キリストの福音はそこに始まる。信仰の原点もそこにある。 それゆえ信徒は、みずからを誇ってはならない。人間は『土の器(うつわ)』にすぎないのである。だが、イエス・キリストを神の子と信じるとき、十字架に現された神の力が『土の器』を突き動かす」

パウロはその力を「愛の働き」と言い表し、コリントの信徒に向けて、次のように書き送っている。

「人が並はずれた能力を持ち、賞賛に値する行為を果たしても、そこに愛がなければ無に等しい。愛こそは人を謙虚にし、信仰に導き、希望を抱かせる。知識は、いずれすたれよう。永続するのは信仰と希望と愛である。そのなかで、最も偉大なものこそ愛である」

この言葉は、生涯結婚しなかったパウロが、後世の全人類に向けて残した「愛の賛歌」である。

(ウィキペディアから引用)

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和解と希望―3.11と福島原発をめぐって

Posted by Shota Maehara : 4月 26, 2011

それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。―創世記11章9節

2011年の3月11日に、東日本は未曾有の震災に見舞われた。そして、それに伴う津波による被害は、何万という人命を一瞬にして押し流していった。その被害の爪後の大きさに対しては私を含む日本人は誰しも言葉を失ってしまう。そして、誰も予想しなかったのが福島にある東京電力の原子力発電所での爆発である。この施設からの放射能漏れの恐怖は、今も我々を脅かし、多くの近隣住民が避難を余儀なくされている。前者は天災であり、後者は人災であることが次第に我々国民の目にも明らかになってきた。

東京電力は、半ば国営企業として東日本の電力利権を独占し、何より原子力発電の安全をめぐる様々な現場技術者の警告を無視し、利益を優先させ、原子炉の安全管理を怠ってきた。また、同種のケースとして中部電力の浜岡原発も今後予測される東海地震のプレートの真上に立っているといわれる。そしてもちろん最大の罪は、本来これらの企業をチェックする義務を怠った原発行政である。こうした問題は、原発の技術者であった平井憲夫氏によるレポートでも語られている。

私は一人の人間として義憤を感じるし、デモの一つや二つでもしなければ気が収まらないという思いにもなる。実際、私も2011年4月24日の東電本社前や経済産業省の前でデモ行進に参加する知人友人から参加しないかというメールをいただいた。私はこの時都合で行くことはできなかったのだが、心の内には疑問があった。それは安易に他者を批判するということの難しさである。

なぜ、我々が東電と同じ人間でないと言いきることができるのか。これまで福島原発が供給する電力にたよって文明を享受してきた我々が。こうした極めてカント的な問いかけが今の日本には必要なのではないだろうか。

おそらく彼ら自身も気づいてはいないだろうが、今日の環境問題や原発反対のデモにはかつての60年代の左翼の学生運動と同じ病がある。それはつまり、自分達は正しくて、相手(体制や権力者)は悪いと断裁する自己中心の罪である。彼らは体制側の罪と闘い、自分達の心の中に巣くうもう一つの罪と闘うことをしなかった。それゆえに、かつての左翼運動は仲間同士の内ゲバに帰結してしまった。残念ながら現在も、左翼系知識人同士が批判し合って自分を上の立場に置こうとする光景を目にする。

私は、日々電車の中で自分が引きずりまわされている「罪」について考えている。神学的にいえば、罪とは虚偽であり、高慢であり、怠惰であるそうだ。とくに虚偽や高慢の罪によって、私は他者と共に生きることを拒む。それによって、すべての絆が断たれ孤独に生きていかざるを得ない。私は知識が悪いとは思わない、ただそれを用いる者が罪にとらわれているからこそ社会を低き流れに導いてしまう。

では、一体どうすべきなのだろうか。マルクス主義なき後、私たちにとって明日を生きる希望はもうどこにも存在していないのだろうか。いや、決してそうではない。人間が生きている限り、人間の手でこの社会秩序を作り変えることができる。しかしその前に、我々は自分達ひとりひとりの中にある罪ともう一度向き合わねばならない。そして、ここから日本人は出口を必死になって探さねばならない。かつてのローマでのパウロのように。地球上のあらゆる生き物のために。

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