それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。―創世記11章9節
2011年の3月11日に、東日本は未曾有の震災に見舞われた。そして、それに伴う津波による被害は、何万という人命を一瞬にして押し流していった。その被害の爪後の大きさに対しては私を含む日本人は誰しも言葉を失ってしまう。そして、誰も予想しなかったのが福島にある東京電力の原子力発電所での爆発である。この施設からの放射能漏れの恐怖は、今も我々を脅かし、多くの近隣住民が避難を余儀なくされている。前者は天災であり、後者は人災であることが次第に我々国民の目にも明らかになってきた。
東京電力は、半ば国営企業として東日本の電力利権を独占し、何より原子力発電の安全をめぐる様々な現場技術者の警告を無視し、利益を優先させ、原子炉の安全管理を怠ってきた。また、同種のケースとして中部電力の浜岡原発も今後予測される東海地震のプレートの真上に立っているといわれる。そしてもちろん最大の罪は、本来これらの企業をチェックする義務を怠った原発行政である。こうした問題は、原発の技術者であった平井憲夫氏によるレポートでも語られている。
私は一人の人間として義憤を感じるし、デモの一つや二つでもしなければ気が収まらないという思いにもなる。実際、私も2011年4月24日の東電本社前や経済産業省の前でデモ行進に参加する知人友人から参加しないかというメールをいただいた。私はこの時都合で行くことはできなかったのだが、心の内には疑問があった。それは安易に他者を批判するということの難しさである。
なぜ、我々が東電と同じ人間でないと言いきることができるのか。これまで福島原発が供給する電力にたよって文明を享受してきた我々が。こうした極めてカント的な問いかけが今の日本には必要なのではないだろうか。
おそらく彼ら自身も気づいてはいないだろうが、今日の環境問題や原発反対のデモにはかつての60年代の左翼の学生運動と同じ病がある。それはつまり、自分達は正しくて、相手(体制や権力者)は悪いと断裁する自己中心の罪である。彼らは体制側の罪と闘い、自分達の心の中に巣くうもう一つの罪と闘うことをしなかった。それゆえに、かつての左翼運動は仲間同士の内ゲバに帰結してしまった。残念ながら現在も、左翼系知識人同士が批判し合って自分を上の立場に置こうとする光景を目にする。
私は、日々電車の中で自分が引きずりまわされている「罪」について考えている。神学的にいえば、罪とは虚偽であり、高慢であり、怠惰であるそうだ。とくに虚偽や高慢の罪によって、私は他者と共に生きることを拒む。それによって、すべての絆が断たれ孤独に生きていかざるを得ない。私は知識が悪いとは思わない、ただそれを用いる者が罪にとらわれているからこそ社会を低き流れに導いてしまう。
では、一体どうすべきなのだろうか。マルクス主義なき後、私たちにとって明日を生きる希望はもうどこにも存在していないのだろうか。いや、決してそうではない。人間が生きている限り、人間の手でこの社会秩序を作り変えることができる。しかしその前に、我々は自分達ひとりひとりの中にある罪ともう一度向き合わねばならない。そして、ここから日本人は出口を必死になって探さねばならない。かつてのローマでのパウロのように。地球上のあらゆる生き物のために。