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Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘草稿’ Category

遠藤嘉信『初めに、神が-創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』(二〇〇七年、いのちのことば社)

Posted by Shota Maehara : 3月 10, 2013

初めにコリント人への手紙第二4章7節です。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」。そう書かれています。私たちには何もありません。しかし、私たちのつまらぬ「土の器」の中に「神のかたち」「いのちの息」そして「神の栄光を知る知識」と「御霊」を宿しているということです。(78頁)

さらには、イエスさまも、こう語ります。「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7・11)…どんな状況の中でも、どのような境遇に置かれていようと、神はどこまでも私たちを愛し、私たちに良いものをお与えになろうとしておられます。エデンの園は神の人に対する愛情の表現であり、人をかこって、その恵みの中にいつまでも憩わせようとなさった神の御思いの表れでした。(81頁)

ともかく、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(17節)と神は命じられました。たった一本の木、その木において、神は人間に選択という自由を与えられたのです。自分で神のみこころを求めてそれを選び取る自由を与えられました。自分で神を愛することも、神を愛さないこともできるのです。ですからここには宿命論も決定論もありません。その上で神は人間の愛の応答を求められたのです。そこにこそ人間の尊厳があり、神の人間に対する尊重の姿を見ることができるのです。(84頁)

ところで、「善悪の知識の木」という言葉には、どんな意味があるのでしょうか。それは確かに、もう一本の「いのちの木」とともに極めて象徴的な意味合いを含んでいます。これにはいろいろな説がありますが、おそらく一番適切と思われる見解は、良し悪しを判断する「自律性」に関する知識ないしその権利を意味しているというものです。

これを食べるとき、神のように、自分の感情や周囲からの判断に基づいて、神に依存することなく、またそのみこころに求めることもなく、自律的に、ものの良し悪しを決めるようになる、ということです。ある注解者は、「子が親の監督を嫌って、自分で判断するようになる」というような説明の仕方をしていました。

そのような木から取って食べるならば、神のように完全ではないので、人間は自分の判断に基づいて自滅する以外にないのです。そればかりか、これは園を管理させようとされた主なる神の契約であって、約束に対する違反行為は、契約の破棄を意味しています。ですから、この実を取って食べることは、その実が持つ効力の問題以上に、また園での働きを剥奪される以上に、もっと致命的な状況を生み出すことになります。

「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」

神から失われ、交わりを断たれ、祝福から遠ざけられたのです。これが現代の私たちの状態です。(86頁)

神は愛です。愛するお方はその愛の対象を求められます。とすれば、人が創造されることは神にとって必然でもあったと考えられます。そしてそのような意味において、私たちは「神のかたちとして」造られました。私たちに「神のかたち」を認めることができるのです。「神のかたち」というとき、1章26節によれば、それは「われわれに似せて」という言葉と対応していますから、神に似るものとして、という意味です。(87頁)

互いが互いの分身であることを忘れて、二人で一つであるという意味での自分の欠けを認めず、互いに自律的な方向へと向かって、結果的に性の違いとそれから生じる互いの本質的な役割をことごとく否定することになるのです。私たちは、「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と語られた主の御思いに目を留めなければなりません。(95頁)

「サタンに欺かれるならば、誰ひとりこの誘惑に打ち勝つことができません。それほどに、サタンは強力な存在なのです。だから、たといサタンが背後で関わっていたにせよ、アダムとエバの責任ということに焦点を当てようとしているということでしょうか。ここでは、霊的な目に見えない神秘的存在が関わったというよりも、見える現実において、被造物の一つである蛇が関係し、その蛇に惑わされつつも、人自ら罪を犯したという客観的な事実が述べられていると考えるべきだと思います。そして、そのことゆえに彼ら自身が責められなければならないのです。(100頁)

人が自律的になって、善悪を自分で判断し、もはや神を必要としなくなっていくことを選ぶのではなく、どこまでも神との交わりを求めて、神にあらゆる判断をゆだねて依存する存在として生き続けることを求められたのです。このことこそ人をこよなく愛する神の思いでなくして何でしょうか。(105頁)

神の愛が見えにくくなると同時に、神の裁きについても割り引くようになります。神の愛を一方で強調しながら、結局その深い意味と手ごたえを得られず、同時に神の裁きを直視できなくなっていくのです。(108頁)

蛇はその木の実の魅力について語り、神との約束を破るという恐るべき課題から意識をそらさせます。神のようになれるという謳い文句は常に人間を魅了してきているのです。神を必要とせず、自分で、自律して生きることができ、事の良し悪しを自分で判断する自由を得るのです。自分が支配し、自分がそこに君臨し、すべてが思いどおりになるのです。目が開き、これまで見えなかったものを見通すことができるようになるということなのです。(109頁)

善悪の知識の木それ自体に問題はありません。ただ人間には重すぎるのです。あらゆることで自律を求められます。あらゆる倫理的な判断を自分でしなければなりません。結局人間は、これによって二つの問題を抱えることになったのです。契約を破ったことと、善悪の知識を得たこと、これに伴って、一つは契約違反の罪の問題とその罪責感を、そして自律を求めた結果がもたらす得体の知れない不安感や無防備なゆえの他者への不信感を持つようになるということです。(111頁)

そして何よりも、神が私たちに対してどんなときにも愛であり、徹底して誠実なお方であることを疑うことのないようにしたいと思います。エレミヤは、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31・3)という主の言葉を書き留めています。誠実を尽くし続ける神を決して忘れてはなりません。そして救いの恵みにあずかる者でありたいと願います。(112頁)

しかも結果的には、妻ばかりか神まで問題視するのです。彼は、「あなたが私のそばに置かれたこの女」と言っています。つまり、ついには、主がこの女を置かれたことに問題がある、と言っているのです。神に問題があるとまで言ってしまいます。神が人のところにその女性を連れてこられたとき、彼は何と言ったでしょうか。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」。彼はそう言って歓喜し、感謝しました。ところが、今は、それを問題とするようになりました。その恵みを否定しています。(120頁)-人間による神をも畏れぬ「責任転嫁」を見よ!

あらためて創世記1章から3章を見るとき、神の愛がこれら全章を貫いて、満ち溢れていることに気づかされる。天地創造のすべてが、人に対する神の愛の表現である。すべてが人のために造られた。神が愛であるから、その愛は、愛の対象を求めていた。(あとがき)

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宗教改革についてのノート

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2012

16世紀の宗教改革は、新約聖書の中のローマ書の次に私が重要視する研究テーマである。ここに最低限の基礎知識を書き記しておこう。

「宗教改革が提起したものは、時代が要求する人間の魂の「神への限りない飢え」にキリスト教がいかに応えるかということであった。」―『詳説・世界史研究』(山川出版社、2008年、296頁)

「ルターやカルヴァンは、聖書から直接神のことばを学び、「信仰によってのみ神の恩寵がえられるとし、神と人との間にカトリック教会が介在することを否定したのである。」―同書、269頁

「キリスト者は自己自身において生きるのではなく、キリストと自己の隣人において、すなわちキリストにおいては信仰をとおして、隣人においては愛をとおして生きる」―マルティン・ルター『キリスト者の自由』

少しここで簡単に整理してみると、歴史的な記述ではルターやカルヴァンの宗教改革の思想基盤は次の三つである。すなわち、「聖書主義」(信者が直接神のことばを学ぶ)、「信仰義認」(人間の行為ではなく、神への信仰によって救われる)、「万人祭司主義」(教会の司祭ではなく、各自でが自己の信仰生活を守る)。

しかし、こうした記述からは宗教改革の真の意義は触れられず、こぼれ落ちてしまっているのではないかと私は恐れる。おそらくルターにとって、「信仰」とは、自分の人生を振り返ってみた時、惨めな自分がそれにもかかわらず、命の綱をしっかりと握られてここにあるという生の確信なのではないだろうか。

いずれにしても、プロテスタントもカトリックもなく、主イエス・キリストへの信仰を告白するという点で一致して、人々の生き方、社会の進むべき道をともにさし示すことができたらどんなに素晴らしいかと思う。子供っぽい夢想だと笑われてしまうかもしれないが。

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一八四八年の同時代性―カール・マルクスとセーレン・キルケゴール、そしてふたたびカントへ

Posted by Shota Maehara : 10月 5, 2011

一九世紀における時代閉塞の現状に対して、共産主義者のマルクスとキリスト教者のキルケゴールは別様の答えを出したように見える。前者はプロレタリアートの団結を呼びかけ、他方、後者は真に神の前で一人の個人になりきる決断を説いたからである。しかし、哲学的にとらえれば、両者の「プロレタリアート」と「キリスト者」の位置づけは非常に近いことに気づく。いずれも、逆説的に、社会の中から完全に排除され、残余でしかなくなった者だからこそ、はじめて普遍的な立場に立てるのだという理論構成になっている。

これはカントを通して見ると分かりやすい。カントは理性の私的使用と公的使用の意味を通常とは逆転して用いている。例えば、普通は一国の国務大臣は公人と呼ばれ、対して民間人は私人と呼ばれる。しかし、理性の使用という観点から見れば、いささか事情が違ってくる。なぜなら、一国の国務大臣はあくまで自国の国益を優先して考え行動するという意味で私的であるのに対して、一個人は自らの理性を世俗的なしがらみを断って普遍的な世界市民的な観点から使用できるという意味で公的であるからだ。

こうした見方からすれば、社会のあらゆる紐帯から絶縁された(uncoupling)者こそ、まさしく、プロレタリアでありキリスト者であり、残余である彼ら、この地球上のエイリアン(異邦人・寄留者)であるような存在の彼らだからこそ真に普遍的に思考し、普遍的な利益のために行動することができるのである。

※一応ここまでの意見ならば認めてもよい。ただし、教育もない者が果たして理性を正しく使用できるのかは未知数であるし、真に神の前で単独者として立ち、神の声を聴く事ができるものが何人いるかもわからない。むしろ、いかにそれができるのかこそわれわれが考えなければならない探求の場であると思われる。

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柄谷行人「超自我と文化=文明化の問題」

Posted by Shota Maehara : 8月 30, 2011

超自我と文化=文明化の問題

フロイトは第一次大戦後の一九二〇年に『快感原則の彼岸』を書き、そこで「死の欲動」という概念を提示した。その後、一九二三年に「自我とエス」という論文で、超自我という概念を提示した。これに該当する概念は以前からあった。『夢判断』(一九〇〇年)でいえば、夢の「検閲官」である。それは、親を通して子供に内面化される社会的な規範のようなものであった。しかし、「自我とエス」という論文で明確にされた「超自我」は、それとは異質である。検閲官が他律的であるのに対して、超自我はいわば自律的、自己規制的なのである。

こうした自律的能動性は、『快感原則の彼岸』では、外出した母親に置き去りにされた幼児が母親の不在という苦痛を反復的に再現して遊びに変えてしまう例においても示されている。この例はすでに自律的な超自我の働きを暗示するものだ。しかし、超自我のこうした性質は何よりも、「ユーモア」という論文(一九二八年)において端的に示されている。フロイトによれば、ユーモアとは、超自我が苦境におかれた無力な自我に「そんなことは何でもないよ」と励ますものなのである。

「文化と文明」というドイツ的区別を斥けたフロイトにならって、私は文化=文明化とみなすが、「検閲官」とは、文化=文明化の抑圧的な機能を意味している。しかるに、フロイトが「超自我」と呼ぶものは、文化=文明化の効果を肯定的に見るものだ。それは欲動を自己規制する能力なのである。フロイトはそのような見方を「文化への不満」(一九三〇年)において示した。一九二〇代から三〇年代にかけて、文明の抑圧に抗して、自然に帰れ、生命に帰れという風潮があった。それはドイツではワイマール体制の否定を意味し、事実、それがナチズムの支配に帰結したことはいうまでもない。それに対して、フロイトは、文明が抑圧であることを認めつつ、しかも、そのような抑圧が不可欠である所以を説いた。このとき、彼は超自我に肯定的な意味を与えたのである。

このように、「快感原則の彼岸」以後のフロイトの考えは、初期のものとはまるで異なるようにみえる。しかし、よく考えて見ると、それは前期の考えを根本的に逆転したとはいえない。というのは、フロイト的な精神分析が出現したときにも大きな逆転があり、それはあとで述べるように、「快感原則の彼岸」における逆転と同じ方向に向かっているものだったからである。

最初の逆転は、『ヒステリー研究』(一八九五年)で、ヒステリーの原因を性的外傷――つまり、大人側の誘惑による――に見出していたフロイトが、一八九七年に、そのような考えを否定したときに起こっている。新たな見方によれば、患者が記憶している外傷的体験は、患者が事後的に作り出したフィクションである。そのような記憶が隠蔽するのは、子供時代に自らが欲望を実現しようと能動的にふるまったという過去である。

いうまでもなく、フロイトがエディプス・コンプレクスという概念を提起したのはこのときである。同時に、彼は性的欲動(リビドー)という概念を提起した。これは人間がリビドーに従属するということを意味するものではない。その逆である。フロイトは、子供は意識的主体(自己)ではないが欲動の主体として能動的であるということを強調するためにこそ、リビドーという考えをもちこんだのである。つまり、それは意識的な主体がない次元に、人間の主体性を見出すためであったといえる。

「死の欲動」という概念が導入されたのも、同様の理由からである。その意味で、これは、前期の考えの逆転というよりも、それを拡張したものであると見なすことができる。実際、フロイトは「死の欲動」といい始めてから、性的リビドーを「生の欲動」と言い換えている。したがって、「欲動」という概念は、意識的でない次元の能動的主体性を保証するものとして提起されたのである。たとえば、ユーモアにおける超自我は、自発的・能動的に働くのであるが、意識的なものではない。もし意識的なものであれば、それはユーモアではなく、イロニーや負け惜しみになってしまうだろう。

こう考えると、次のことが明らかとなる。超自我は「死の欲動」という概念の結果として考えられたのではない。逆に、欲動を自己規制するような自律的な超自我を説明するためにこそ、フロイトは「死の欲動」を想定したのだ。それによって、攻撃性は「死の欲動」の一部であると考えられる。そして、攻撃性を抑えるのは(内に向けられた)攻撃性である。そうだとすれば、攻撃性を抑制することは不可能ではない。そして、それが文化=文明化にほかならない。一言でいえば、文化=文明化とは、攻撃性を自己抑制するような社会的装置である。

ところで、このような文化=文明化の過程に関しては、ノルベルト・エリアスの考察が示唆的である。彼はフロイトの影響を受けたというが、フロイトとは違って、文明化がもたらす問題を社会学的な観点から考えたのである。エリアスは、ナチズムが席巻した一九三〇年代に、西ヨーロッパにおける「文明化の過程」を、礼儀作法をふくむさまざまな角度から詳細に考察した(『文明化の過程』)。たとえば、一五・六世紀ぐらいまで、人々は粗暴ですぐに喧嘩し殺しあうことが多かったが、次第に、攻撃的な振る舞いが無くなっていった、と彼はいう。それは、暴力を独占した絶対主義王権国家によって禁じられたからだけでない。攻撃性を自己抑制することが支配階級(貴族)のノーブルな特質であるとみなされたからである。文明化とは攻撃性をたんに規制するだけでなく、それを自己規制できるということに存するのである。

ここから逆にフロイトに戻ってみると、彼が超自我に関して考えたことが、実はそのような問題にかかわっていることが明らかとなる。すなわち、自発的な抑制がどうして可能なのかという問題である。たとえば、親は子供に攻撃性を抑制するようにきびしく暴力的にしつけることができる。しかし、それはしばしば暴力的な人間を育てることになる。逆に、フロイトが述べたように、寛大な親に育てられた子供が強い倫理感(超自我)をもつことがある。彼はそれを「死の欲動」から説明した。

しかし、この場合、寛大な親は子供を強制しなかったとしても、たとえば、自己抑制ができないのは恥ずかしいということを、身をもって子供に示すことによって、超自我を与えたのだといえるだろう。この点で、フロイトが初期の考えを修正して、子供の超自我は親そのものではなく、親の超自我を規範として形成されると述べたことは、さまざまな点で重要である。親が攻撃性を自制するような超自我をもつとき、それは子供に伝わる。また、ここから、超自我が個人だけでなく集団にもありうるということができる。

ただ、攻撃性の抑制は一国の中では可能だとしても、国家間においては難しい。つまり、戦争という問題にかんして、人類はまだまだ文化=文明化の段階に達していないのである。もちろん、第一次大戦後の国際連盟や第二次大戦後の国際連合のような国際機関が育っている。しかし、それでも戦争を廃棄することはできない。フロイトは一九三三年に、どうすれば戦争を廃棄できるかというアインシュタインの問いに答えて、戦争を抑制するためには、各国の主権を制限する国際連邦を形成するだけでなく、人々が戦争行為に嫌悪を感じるような文化(文明化)の過程が不可欠である、と述べた。
 
戦争への拒絶は、単なる知性レベルでの拒否、単なる感情レベルでの拒否ではないと思われるのです。少なくとも平和主義者なら、拒絶反応は体と心の奥底からわき上がってくるはずなのです。戦争への拒絶、それは平和主義者の体と心の奥底にあるものが激しい形で外にあらわれたものなのです。私はこう考えます。このような意識のあり方が戦争の残虐さそのものに劣らぬほど、戦争への嫌悪感を生み出す原因となっている、と。(「ヒトはなぜ戦争をするのかーアインシュタインとフロイトの往復書簡」浅見昇吾訳)
 
戦争は残酷で罪深いという人は多い。しかし、それをいいすぎることはかえって、戦争は快楽だ、戦争はヒロイックだという反撥を招くことになる。戦争を拒絶するのに必要なのは、罪の感情よりも恥の感情、つまり、そんな下品で野蛮なことはしたくない、という嫌悪感なのである。さらに、フロイトはこのような「文化の発展」によって、戦争を廃棄しうるような社会に達することは可能だと述べ、つぎのように締めくくっている。《どのような道を経て、あるいはどのような回り道を経て、戦争が消えていくのか。それを推測することはできません。しかし、今の私たちにもこう言うことは許されていると思うのです。文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!》(同前)。

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パララックス・ヴュー [著]スラヴォイ・ジジェク

Posted by Shota Maehara : 8月 30, 2011

パララックス・ヴュー [著]スラヴォイ・ジジェク[掲載]2010年3月7日
[評者]柄谷行人(評論家)■「視差」戦略的に全面的に再編成

 カントは『純粋理性批判』で、たとえば、「世界には始まりがある」というテーゼと「始まりがない」というアンチテーゼが共に成立することを示した。それはアンチノミー(二律背反)を通してものを考えることである。しかし、カントはそれよりずっと前に、視差を通して物を考えるという方法を提起していた。パララックス(視差)とは、一例をいうと、右眼で見た場合と左眼で見た場合の間に生じる像のギャップである。カントの弁証論が示すのは、テーゼでもアンチテーゼでもない、そのギャップを見るという方法である。実は、そのことを最初に指摘したのは、私である(『トランスクリティーク――カントとマルクス』)。それを読んだジジェクは、本書において、戦略的なキーワードとして、パララックスという語を全面的に使用した。といっても、たんに言葉を取り入れただけである。本書は、その語を使って、彼がすでにこれまで書いてきた事柄を再編成したものだといったほうがよい。彼自身が本書を「代表作」と呼ぶのは、そのためである。

 私がカントのパララックス的把握を重視したのは、それによってヘーゲルによる弁証法的総合を批判するためであった。しかし、ジジェクは、ヘーゲルにおける総合(具体的普遍)にこそ、真にパララックス的な見方がある、したがって、私のヘーゲル観は的外れだ、というのである。それに対して、私は特に、反対しない。私のカントが通常のカントと異なるのと同様に、ジジェクのヘーゲルも通常のヘーゲルではないからだ。ヘーゲルを読んだからといって、彼のような見方が出てくるわけではない。また、彼のような考え方は、必ずしも彼がいうラカンの精神分析から来るものでもない。私の知るかぎり、彼に最も似ているのは、ドストエフスキーである。テーゼとアンチテーゼの両極をたえず目まぐるしく飛びわたる、その思考においてのみならず、その風貌(ふうぼう)、所作、驚異的な多産性において。

 彼は本書で、政治経済から自然科学におよぶ広範な領域に、パララックス・ヴューを見いだした。「光は波動である」と「光は粒子である」という両命題を認める量子力学はいうまでもない。本書で最も興味深いのは、近年急速に発達した、脳科学や認知科学に対する考察である。通常、これに対しては、意識(精神)は脳と異なる次元にあるといった、人文科学的な批判がなされる。しかし、ジジェクはむしろ、脳科学や認知科学の成果を肯定する。その上で、そこにパララックスを見いだすのである。たとえば、「意識」はニューロン的なものと別次元にあるのではなく、ニューロン的なものの行き詰まり(ギャップ)において突然あらわれる、という。こうして、ジジェクは、現象学や精神分析といった人文科学的な観点に立つかわりに、現在の認知科学そのものの中に、ドイツ観念論(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)が蘇生している、と考えるのである。

    ◇

 山本耕一訳/Slavoj Žižek 49年生まれ。哲学者・思想家。スロベニアの大学で哲学を学び、パリ第8大学でラカン派精神分析を学ぶ。最新の邦訳に『大義を忘れるな――革命・テロ・反資本主義』(青土社)。

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カントの超越論的批判―物自体、現象、仮象

Posted by Shota Maehara : 8月 30, 2011

カントは、主観の形式によって構成されるものを「現象」と呼び、たえず主観を触発しつつありながら、主観によってはとらえられないものを「物自体」と呼んでいる。さらにつけ加えるべきなのは、「仮象」である。ここで注意すべきなのは、「現象」と「物自体」は、ドクサ(仮象)とエピステメー(真の認識)という旧来の区別とは異なるということである。たとえば、科学的認識がとらえるのは「現象」である。それは物自体ではないとしても仮象ではない。つまり、大事なのは、「現象」と「仮象」が区別されなければならないということである。カント以前の哲学者は、仮象が感覚にもとづくがゆえに生じる、ゆえに、感覚を越えた理性による認識が真であると考えてきた。カントが画期的なのは、仮象をもたらすのは感覚だけではない、ある種の仮象が理性そのものによって生み出されると考えたところにある。彼の仕事は、そのような理性を批判(吟味)することであった。しかし、それは、人がそのような仮象を容易に取り除けるということを意味するのではない。むしろ、その逆である。たとえば、自分(自己同一性)という考えは仮象である。とはいえ、もし自分というものがないとしたら、人は恐るべき心理状態に陥るだろう。カントはそのような仮象を超越論的仮象と呼んだ。

このように、物自体、現象、仮象という三つの概念は、一組の構造をなしている。つまり、そのどれかを捨てても根本的に意味が失われるのである。もちろん、われわれもこの古くさい「物自体」という言葉を廃棄してもよい。が、これらの構造だけは手放すわけにはいかない。たとえば、精神分析において、ラカンが定立した、「現実的なもの」・「象徴的なもの」・「想像的なもの」という区別は、明瞭にカント的である。このように、物自体、現象、仮象という三つの概念が別の言葉でも言い換えられるということは、それらが超越論的に見出される一つの「構造」であること、カントの言葉でいえば、アーキテクトニック(建築術)であることを意味する。カント自身が、それを隠喩として語った。(柄谷行人「英語版への序文」、一五~一六頁、『隠喩としての建築』所収)

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永遠に自己啓蒙する理性の働き

Posted by Shota Maehara : 8月 30, 2011

啓蒙主義しかないという岩井さんの考えに、ぼくは賛成です。たとえば、カントは啓蒙主義者ですが、啓蒙主義にたいしてさえ啓蒙的であって、いわば、その「理性の越権」を批判している。いうなれば、アドルノの「啓蒙の弁証法」を先取りしている。実際いって、「超越論的」ということは、啓蒙主義的です。啓蒙主義の徹底しかない。ディコンストラクションも本当はそうで、デリダはいわば永久啓蒙主義者です。(柄谷行人+岩井克人「貨幣・言語・数」『資本主義を語る』所収)

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近代哲学について(スラヴォイ・ジジェクのノート)

Posted by Shota Maehara : 5月 24, 2011

「次に、多文化主義を語るうえでの、ヨーロッパの宗教的・イデオロギー的遺産に含まれる貴重な側面があります。私にとって守り抜く甲斐のあるヨーロッパ的価値とは何か?近代哲学の初期段階においてはすでに…デカルトの『方法序説』を読めば、彼が思想の追究を始めたきっかけが書いてあります。他の文化が滑稽に映る様子と同じように、もし自身の文化を異邦人の視点から捉えたらどうか?それで、どれほど滑稽かが認識できる。自らの文化がいかに偶然かを実感するわけです。生れついた文化が自然だと思わせる生来のルーツから、離脱することができるわけです。間違っているかもしれませんが、私はこの体験こそがヨーロッパがもたらしたものだと考えています。そのような意味で、ヨーロッパは真の普遍性を導入した。ヨーロッパの遺産において肯定できる側面です。」―スラヴォイ・ジジェク 『人権と国家』(岡崎玲子訳、集英社新書、二〇〇六年、9頁)

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レヴィナスを読む―信仰とは学知である

Posted by Shota Maehara : 4月 28, 2011

最近の私の関心は、哲学と神学に移っている。その意味でその先達であるレヴィナスの仕事に敬意を感じている。彼の倫理学は今なお重要な問題提起であり続け、さらにはキリスト教徒が知らない「ユダヤ教」の真の姿を感じ取ることができる。キリスト教は旧約ではないユダヤ教から「信仰とは学知である」という姿勢をいまこそ学ぶべきであると思う。

(以下は国文社ホームページから)

「先ごろ亡くなったエマニュエル・レヴィナスはかつて自分の思想について、タルムードの言葉を引いて「生まれたばかりの子供に肉を与えてはいけない」と述べ、安易にレヴェルを下げた解説をすることを拒んだ。本書はレヴィナスの弟子によるレヴィナス思想の入門書という形をとっているが、同時にその哲学思想を超えた部分でのフランス知識人層への生々しい影響を明らかにしている。」(http://www.kokubunsha.co.jp/archives/ISBN4-7720-0422-X.html

目 次
日本語版への序文
まえがき
第一章 散文を讃えて
第二章 倫理のパラドクス
第三章 人とその時代
第四章 政治的なものとその場所
第五章 要求の多いユダヤ教
第六章 究極の人間性
第七章 世俗化された歴史
第八章 レヴィナスを読む
エマニュエル・レヴィナスとの対話
訳 注
書 誌
著者あとがき
訳者あとがき

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他者へ―「見る」哲学と「聞く」神学

Posted by Shota Maehara : 3月 23, 2011

人間は孤独の自我として自己中心的に生きる存在ではない。むしろ人間イエスが隣人であることが、人間の本質を形成するのである。それゆえわれわれは、神との交わり、イエスとの交わりの背後に人間の本質を求むべきではない。すなわち人間はまず独りで存在し、時に神との交わりの中に取り入れられ、また孤独の存在に戻ると考えるべきではない。なぜなら孤独の存在が不変の状態(Zustand)であり、その特殊の様態(あり方)だけが神との交わりによって影響されると考えることは、人間の本質、人間の根本構造そのものを変えるキリストの出来事を理解するのに相応しくない思考形式であるからである。

詳言すると、神と人間との出会いは、神が人間の堅い殻を打ち破るとき、真の意味で生起する。これは、他者に対して自己を開く人間に変えることであり、古来の思考形式の殻を打ち破ることを意味する。古来、哲学は見ることを本質とするが、この場合、人間は自己の中にとどまっているわけである。ところが、他者の言葉に聴従することは、自己の中心を他者に明け渡すことであり、他者の言葉が自己の存在根拠となることである。これがキリストの出来事の本質であることは言うまでもない。反面、見る立場を堅持する傍観者と対象の間には、真の出会いは生起せず、われわれは影の人間、空虚な人間にとどまるのである。

われわれがイエス(隣人)のために生きるということは、閉ざされた心が聖書の言葉によって開かれて、神の言葉がわれわれの心を占領することである。これが神の言葉によって呼び出されることであり、創造の真の意味である。ところがアダムの堕落により、われわれは自閉的な影の人間に転落したのである。神の言葉は、この空虚な人間、非本来的人間を再び真に実在する人間、本来的人間に変え、神との交わりの中に呼び出すのである。そして神によって呼び出される時、われわれは自己を超越し、神の歴史の形成に参与するのであるが、これが正統神学の「生まれ変わること」「新たに生まれること」の核心である。―大島末男『カール・バルト』(清水書院、一八〇~一八一頁)

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