I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘聖書’ Category

罪の意識がないという罪

Posted by Shota Maehara : 3月 6, 2013

三浦綾子え三浦綾子さんの本に次のような言葉があります。

「もしかしたら、私には罪の意識というものが、欠けているのではないだろうか。罪の意識がないということほど、人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしても何ら良心の呵責がない。それと同様に、私もまた、人の心を傷つける ことをしても胸が痛まないのだ。こう思ったとき、私は、『罪の意識のないのが、最大の罪ではないだろうか』と思った。そして、その時、イエス・キリストの十字架の意義が私なりにわかったような気がした。」

確かに法律的には、犯罪を犯すわけではないが、人を見下し、人を傷つけていて、罪の意識が皆無の人がいます。

この罪の意識がない、人の心を傷つけても胸の痛みがないというのが問題です。罪の意識がないと、イエス・キリストの十字架の意義がわからないのです。

罪の意識が芽生えてくると、神様に近づけます。罪の意識があると、和解が生まれてきます。

クリスチャンは人間であり、罪人です。ですから争い、いさかい、人間関係のこじれが生じます。

しかし嬉しいことに、その人間関係のこじれが、和解したという話もよく聞きます。その時に何があったかというと、当事者同士が、自分の罪と悪に気がつき、お互いに相手に赦しを求めて、涙の和解となるようです。そして当事者の両方が、自分の罪のほうが、相手の罪よりも大きいと感じているのです。

自分の罪を知ること、そして自分では罪の問題を解決できないこと、そしてその罪の罰を、すべてイエス・キリストが十字架に身代わりに受けてくださったことを知るときに、自分の罪の大きさを自覚するのです。ですから争いがあっても、いさかいがあっても、罪の自覚のある人同士であれば、イエス様を見て和解できるのです。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(新約聖書エペソ人への手紙4章32節)

キリストの十字架によって、自分が赦されたということを知るときに、人間は他の人を赦すことができるのです。

しかし罪の自覚がない人、三浦綾子さんの言葉によると、最大の罪を持っている人は、和解できないのです。常に自分は正しくて、問題の原因は相手にあると考えて、 さばき、高ぶってしまうのです。

罪の自覚は、実は、神様のあわれみによるものであって、自分から出たものではないのです。自分が罪人であることがわかるということは、 神様の子として生きることの出発点になるのです。

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赦されること・愛すること(ルカの福音書7:36ー50)

Posted by Shota Maehara : 3月 6, 2013

ルカの福音書36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、

38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。

40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。

41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。

42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」

43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。

44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。

45 あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。

46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。

48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。

49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

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FOOTPRINTS(あしあと)

Posted by Shota Maehara : 2月 12, 2013

FOOTPRINTS

One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
“Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I’m aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don’t understand why, when I needed You most,
You leave me.”

He whispered, “My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you.”

copyright(C)1964 by Margaret Fishback Powers

footprints

あしあと
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワーズ
translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association

 

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「義人は信仰によって生きる」ローマ人への手紙1章16-17節

Posted by Shota Maehara : 3月 4, 2012

礼拝メッセージ「義人は信仰によって生きる」ローマ3

聖書箇所:ローマ人への手紙1章16ー17節

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマ人への手紙1章16-17節

帝国の首都ローマにおいて、福音を恥と思ってしまうキリスト者がいたとしても不思議ではありません。パウロはそんな人々に配慮して、「私は福音を恥とは思いません」と語ります。なぜパウロが福音を恥と思わないのか、その理由は2つです。

①福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だから。

もし福音が、人を救うことができない無力なものであれば、あなたは福音を恥じることしかできないでしょう。けれども福音はあなたを救うことのできる神の力です。

②福音には神の義が啓示されていて、神の義は信仰によって人を義人として生かすから。

「義」という漢字は「我」の上に「羊」と書きます。「羊」とは主イエスです。主イエスを信頼し、あなたの上に迎えるならば、あなたは救われ、神との正しい関係・絆を回復することができます。主イエスは、あなたの罪を十字架によって取り除き、3日目に墓から復活され、今も生きておられます。

杉キリスト教会礼拝より)

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放蕩息子のたとえ(The Prodigal Son)

Posted by Shota Maehara : 9月 23, 2011

放蕩息子のたとえ(The Prodigal Son)

ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。

それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩(ほうとう)に身を持ちくずして財産を使い果たした。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。

そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

そこで彼は本心に立ちかえって言った、「父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」。

そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻(せっぷん)した。むすこは父に言った、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」。

しかし父は僕(しもべ)たちに言いつけた。「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのにみつかったのだから」。

ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえたので、ひとりの僕(しもべ)を呼んで、「いったい、これは何事なのか」と尋ねた。僕は答えた、「あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです」。

兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」。

すると父は言った、「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである」。

―ルカによる福音書第十五章第十一節から第三十二節

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生まれつきの盲人を癒すイエス・キリスト

Posted by Shota Maehara : 9月 23, 2011

The Man Born Blind

As he passed by, he saw a man blind from his birth. And his disciples asked him, “Rabbi, who sinned, this man or his parents, that he was born blind?” Jesus answered, “It was not that this man sinned, or his parents, but that the works of God might be made manifest in him. “-John 9:1-3

イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それとも両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現われるためである。―ヨハネによる福音書第九章第一節から第三節

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「汝殺すことなかれ」―「顔」の倫理性

Posted by Shota Maehara : 12月 19, 2010

◆鷲田清一, 20061129, 「〈顔〉、この所有しえないもの」鷲田清一編《夢みる身体 (身体をめぐるレッスン1)》岩波書店:221-248.
(pp231-232)
 この裸のまなざしの接触は、真正面からは起こらない。一方がまなざしを向けるやいなや他方が消え入るか、一方が他方を押しのけるというかたちでしか起こらない。ときに、双方が眼を伏せた瞬間に、その瞬間にのみ、〈顔〉のかりそめの深い接触が奇蹟のように起こるということも、たぶんある。
 他者の顔はわたしに切迫してくる。こちらに眼を向けよと、わたしのまなざしを、いや、わたしの〈顔〉を召喚しにくる。それほどの強度を〈顔〉の現われはもつ。〈顔〉は執拗なものだ。眼を伏せても追いかけてくる。
 けれども、〈顔〉はまた儚いものである。すぐに消え入るような脆いもの、傷つきやすいものである。E・レヴィナスの言葉を引けば、それはむしろ「羞じらい」としてある。
 顔は切迫してくる(simposer)が、それを見つめる視線を前にしてすぐに身を退ける。これをレヴィナスは〈顔〉の撤退(retrait)と呼んだ。それは対象となることを拒む。〈顔〉は壊れやすいものだからだ。視線が、見返す眼が、〈顔〉を壊し、歪める。顔面として現われているときに〈顔〉は消失する。かぎりなく近くにありながら、まさにそのときにもっとも遠ざかり、もっとも隔てられているというこのもどかしさを経験したことのないひとなど、たぶんいまい。とすれば、レヴィナスのいう「羞じらい」としての〈顔〉とは、消え入ることそのことで現われるものだということになるのだろうか。あるいは、消え入ることそのことの現われだということになるのだろうか。
 そのレヴィナスに、〈顔〉について書かれたある決定的な言葉がある。「顔は内容となることを拒むことで現前する。この意味において、顔は了解し内包することのできないものである」(レヴィナス 一九八九)。〈顔〉は何かとして理解しうるものではほんらいないというのである。わたしが何かとして理解するようなものではそれはなく、むしろわたしではない何かが、その存在を押しつけてくる、あるいは切迫してくる、その〈外〉の経験そのものが〈顔〉だというのである。
 「隣人の顔は表象から逃れる。隣人の顔は現象性の欠損にほかならない。とはいえ、隣人の顔が現われないのは、隣人の顔があまりにも不意に、あまりにも乱暴に到来するからではない。ある意味では、現われることさえできないほど薄弱な非現象であるがゆえに、現象「以下」のものであるがゆえに、隣人の顔は、現われることなき現象性の欠損にほかならないのだ。」(レヴィナス 一九九〇)
 「〈顔〉は肖像のような形あるものではまったくありません。〈顔〉との連関は、絶対的に弱きものとの連関であると同時に、絶対的な仕方で外に曝されたものとの連関です。」(レヴィナス 一九九三)
 〈顔〉は、見える形、読まれる形という媒介なしに、それの彼方からみずからを突きつけてくる。が、その突きつけてくるものはあまりに薄弱なものである。いいかえると、それは現われすらしない。現われかけては撤退してしまうものである。それは、はすかいに、ちらちら、ほの見えるしかない。じっとまなざすことのできないものなのだ。

http://www.arsvi.com/b1990/9100le.htm

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