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Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘神学’ Category

遠藤嘉信『初めに、神が-創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』(二〇〇七年、いのちのことば社)

Posted by Shota Maehara : 3月 10, 2013

初めにコリント人への手紙第二4章7節です。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」。そう書かれています。私たちには何もありません。しかし、私たちのつまらぬ「土の器」の中に「神のかたち」「いのちの息」そして「神の栄光を知る知識」と「御霊」を宿しているということです。(78頁)

さらには、イエスさまも、こう語ります。「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7・11)…どんな状況の中でも、どのような境遇に置かれていようと、神はどこまでも私たちを愛し、私たちに良いものをお与えになろうとしておられます。エデンの園は神の人に対する愛情の表現であり、人をかこって、その恵みの中にいつまでも憩わせようとなさった神の御思いの表れでした。(81頁)

ともかく、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(17節)と神は命じられました。たった一本の木、その木において、神は人間に選択という自由を与えられたのです。自分で神のみこころを求めてそれを選び取る自由を与えられました。自分で神を愛することも、神を愛さないこともできるのです。ですからここには宿命論も決定論もありません。その上で神は人間の愛の応答を求められたのです。そこにこそ人間の尊厳があり、神の人間に対する尊重の姿を見ることができるのです。(84頁)

ところで、「善悪の知識の木」という言葉には、どんな意味があるのでしょうか。それは確かに、もう一本の「いのちの木」とともに極めて象徴的な意味合いを含んでいます。これにはいろいろな説がありますが、おそらく一番適切と思われる見解は、良し悪しを判断する「自律性」に関する知識ないしその権利を意味しているというものです。

これを食べるとき、神のように、自分の感情や周囲からの判断に基づいて、神に依存することなく、またそのみこころに求めることもなく、自律的に、ものの良し悪しを決めるようになる、ということです。ある注解者は、「子が親の監督を嫌って、自分で判断するようになる」というような説明の仕方をしていました。

そのような木から取って食べるならば、神のように完全ではないので、人間は自分の判断に基づいて自滅する以外にないのです。そればかりか、これは園を管理させようとされた主なる神の契約であって、約束に対する違反行為は、契約の破棄を意味しています。ですから、この実を取って食べることは、その実が持つ効力の問題以上に、また園での働きを剥奪される以上に、もっと致命的な状況を生み出すことになります。

「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」

神から失われ、交わりを断たれ、祝福から遠ざけられたのです。これが現代の私たちの状態です。(86頁)

神は愛です。愛するお方はその愛の対象を求められます。とすれば、人が創造されることは神にとって必然でもあったと考えられます。そしてそのような意味において、私たちは「神のかたちとして」造られました。私たちに「神のかたち」を認めることができるのです。「神のかたち」というとき、1章26節によれば、それは「われわれに似せて」という言葉と対応していますから、神に似るものとして、という意味です。(87頁)

互いが互いの分身であることを忘れて、二人で一つであるという意味での自分の欠けを認めず、互いに自律的な方向へと向かって、結果的に性の違いとそれから生じる互いの本質的な役割をことごとく否定することになるのです。私たちは、「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と語られた主の御思いに目を留めなければなりません。(95頁)

「サタンに欺かれるならば、誰ひとりこの誘惑に打ち勝つことができません。それほどに、サタンは強力な存在なのです。だから、たといサタンが背後で関わっていたにせよ、アダムとエバの責任ということに焦点を当てようとしているということでしょうか。ここでは、霊的な目に見えない神秘的存在が関わったというよりも、見える現実において、被造物の一つである蛇が関係し、その蛇に惑わされつつも、人自ら罪を犯したという客観的な事実が述べられていると考えるべきだと思います。そして、そのことゆえに彼ら自身が責められなければならないのです。(100頁)

人が自律的になって、善悪を自分で判断し、もはや神を必要としなくなっていくことを選ぶのではなく、どこまでも神との交わりを求めて、神にあらゆる判断をゆだねて依存する存在として生き続けることを求められたのです。このことこそ人をこよなく愛する神の思いでなくして何でしょうか。(105頁)

神の愛が見えにくくなると同時に、神の裁きについても割り引くようになります。神の愛を一方で強調しながら、結局その深い意味と手ごたえを得られず、同時に神の裁きを直視できなくなっていくのです。(108頁)

蛇はその木の実の魅力について語り、神との約束を破るという恐るべき課題から意識をそらさせます。神のようになれるという謳い文句は常に人間を魅了してきているのです。神を必要とせず、自分で、自律して生きることができ、事の良し悪しを自分で判断する自由を得るのです。自分が支配し、自分がそこに君臨し、すべてが思いどおりになるのです。目が開き、これまで見えなかったものを見通すことができるようになるということなのです。(109頁)

善悪の知識の木それ自体に問題はありません。ただ人間には重すぎるのです。あらゆることで自律を求められます。あらゆる倫理的な判断を自分でしなければなりません。結局人間は、これによって二つの問題を抱えることになったのです。契約を破ったことと、善悪の知識を得たこと、これに伴って、一つは契約違反の罪の問題とその罪責感を、そして自律を求めた結果がもたらす得体の知れない不安感や無防備なゆえの他者への不信感を持つようになるということです。(111頁)

そして何よりも、神が私たちに対してどんなときにも愛であり、徹底して誠実なお方であることを疑うことのないようにしたいと思います。エレミヤは、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31・3)という主の言葉を書き留めています。誠実を尽くし続ける神を決して忘れてはなりません。そして救いの恵みにあずかる者でありたいと願います。(112頁)

しかも結果的には、妻ばかりか神まで問題視するのです。彼は、「あなたが私のそばに置かれたこの女」と言っています。つまり、ついには、主がこの女を置かれたことに問題がある、と言っているのです。神に問題があるとまで言ってしまいます。神が人のところにその女性を連れてこられたとき、彼は何と言ったでしょうか。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」。彼はそう言って歓喜し、感謝しました。ところが、今は、それを問題とするようになりました。その恵みを否定しています。(120頁)-人間による神をも畏れぬ「責任転嫁」を見よ!

あらためて創世記1章から3章を見るとき、神の愛がこれら全章を貫いて、満ち溢れていることに気づかされる。天地創造のすべてが、人に対する神の愛の表現である。すべてが人のために造られた。神が愛であるから、その愛は、愛の対象を求めていた。(あとがき)

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ローマ書に見る「救い」の原則を正確に定義する

Posted by Shota Maehara : 1月 16, 2013

2008_10ローマ書の中で語られる「救い」(義認、聖化、栄化)の原則を正確な日本語で表現すると次のようになる―「一方的な神の恵みにより、信仰を通して人は救われる。」したがって救いは根本的に罪深い人間に神から無償で与えられる賜物であり、しかもそれは救いの完成の時まで続く。それは人間が自らを誇ることのないためである。

※【恩寵】(おんちょう)/gratia ラテン・grace イギリス―キリスト教神学で、神の恵み。罪深い人間に神から与えられる無償の賜物。

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『若い牧師・教会リーダーのための14章』ジョン・M・ドレッシャー(工藤信夫訳)、いのちのことば社、1998年

Posted by Shota Maehara : 1月 15, 2013

『若い牧師・教会リーダーのための14章』ジョン・M・ドレッシャー(工藤信夫訳)、いのちのことば社、1998年

●序文

牧会というこの働きほど、誕生から死に至るまで人間存在のあらゆる段階に深く関わる仕事はほかにないであろうし、この仕事ほど、人生の最も深い痛みに触れるものもなければ、至上の喜びに触れるものもないだろう。またこの奉仕ほど失敗や成功の痛手や喜びを人々と分かち合うものもほかにないであろう。ージョン・M・ドレッシャー(6頁)

教会はさまざまな弱さや欠けをもちながらもなお、この世界にあって、最も深い愛と犠牲、配慮を具現化している群れであることに変わりはない。そして、キリストを認めない人でも、そこからキリスト教精神の祝福と恩恵を受けるのである。ージョン・M・ドレッシャー(6頁)

●1章
自分自身の霊性を豊かにするためにもっと訓練を受けたい

「もし私たちが日々聖書に心を開き、黙想を大切にし、祈るということを怠っていれば、私たち自身の霊的アイデンティティーをすぐに見失ってしまうだろう。信仰と確信、霊的な識別力も徐々に弱まっていくにいくに違いない。」(17頁)

✝優先順位

1、毎日、どんな読み物よりもまず聖書のみことばを読むこと。
2、毎日、人と語るよりも、まず神と語ること。
3、少なくとも週一回、また定期的にもう少し長い時間断食すること。
4、説教の準備や教会の働きのために、さまざまな分野の読みごたえのあるものを毎日一章は読むようにすること。

●2章
聖書の学びと説教にもっと時間を取りたい

「御言葉を説教する」という神の召しに忠実であってほしい。

●3章
もっとキリスト中心の牧会をしたい
「キリスト教の説教とは、キリストを説教することである。ところが多くの説教がキリストについてのお話になっている。」

※キリストを説教するための五つの条件
1、「私は、キリストを、かつて存在した歴史上の人物としてではなく、今日もなお生ける存在として紹介することを心がけたいと思う。イエスは現に生きておられる。イエスは、よみがえられた栄光の救い主、主であられる。キリストの復活がキリスト信仰の核心であるのは、このためである。」(三九頁)

2、「私は、自分自身が「キリストの使節」(Ⅱコリント5:20)であると述べ、生ける神からのメッセージを伝えることを心がけたいと思う。説教とは、キリストの御思いとみことば、キリストのメッセージを語るのであって、私自身の思いやことば、メッセージを語るのではない。」(40頁)

3、「罪の力から解放してくださるお方としてキリストを紹介したいと思う。」(40頁)

4、「キリストの教えを説教することを忘れないようにしたいと思う。イエスがまことの主、まことの主人であるならば、その主人のメッセージは私たち説教者にも語られたものである。そしてそれは、私たちがまた語らなければならないメッセージでもある。」(福音書に語られている教え)(40頁)

5、「キリストを説教するときに、私は人々を自分自身へではなく、もっとキリストのもとへ招きたいと思う。それはあくまでもキリストのもとへであって、何かの信仰的遺産や統一の教義、「唯一の真理」へではない。」(42頁)

※カルト的になるのを防ぐ二つの道
①自分自身を正しく評価できるほどに純粋な、キリストに対する献身。
②ユーモアのセンス。

●4章
牧会においてキリストのご目的を成し遂げるのは、私の弁舌でなく聖霊の御力によることを忘れないようにしたい

「もしもあなたが説得されてキリスト教に入ったのならば、だれか賢い人に説得されてキリスト教から離れることもあるだろう。しかし、聖霊が内側を照らし明らかにするなら、だれもあなたを説得してキリスト教から離れさせることはできない」(A・W・トウザー)(50頁)

●5章
教会は多くの欠けをもちながらもなお、この世において神のみわざを行っているキリストのからだであることを忘れないでいたい

●6章
奉仕の働きへと会員一人一人を導き整えるよう努力したい

「この美しい文章(エペソ4:12‐16)の中に、私たちのすべての説教や教えや、奉仕に関する最終目的が明確に記されている。すなわち、牧師の働きは、一人一人を整えて、キリストに似たものに成長させ、霊的な識別力をもたせ、さらには、キリストのからだにおける一致と成長と愛をそれぞれが建て上げるようにすることである。」(58頁)

※弟子訓練がうまくいっていない兆し
・会員の中に聖書教育の担当者や奉仕者を見出すことが難しい時。
・聖書研究や祈りのグループが成長をしなくなった時。
・施しが停滞した時。
・未伝地域への伝道と世界宣教に対する熱意が失われた時。
・「教会」がその教会自体の必要などに応じた献身者や霊的指導者を生み出さない時。
→牧会的リーダーシップの中心は、信徒の霊的な賜物を訓練することであって、それはその人に与えられている賜物を知り、それを発展させ、用いることである。(62頁)

●7章
「創造性に富み中心となる存在」(クリエイティブセンター)を探して励ましたい

「キリスト・イエスに対する燃える心をもつ若者はたとえひとりであっても、若い人たちのグループ全体を動かすことができるものであるし…祈りの人がひとりでもいれば、神はその人を用いて霊的な覚醒をもたらすことがおできになる。そのような人々に必要なのは牧師の励ましの一言である。」(66頁)

●8章
祈りを第一に強調したい

「たゆむことのない、力ある祈りの生活を実践しているということは、その人が神によって牧師に召されていることの大きな証拠である。また祈りにおいて深いということは、その人が霊的指導者であることを立証するものである。」(68頁)
「教会に何か危機があるときはいつも、まずそれは祈りの危機であると考えて間違いないであろう。特に指導者においては、もしその人が祈りの人でなかったら、牧師としての召しがあるかどうか甚だ疑問である。」(70頁)

●9章
私が召されたのは、信徒の信仰を操作するためではなく、彼らを愛して神の国に導くためであることを忘れないでいたい

「霊的な人は、人々にあれこれの教理を信じるようにとは要求しない。人々が自分の生活を、キリストの意思にそい、キリストに似たものとするようにと求めるのである。」(76頁)

「主よ。愛をもって真理を語らせてください。もしも私が愛をもって真理を語ることができないなら、それを語らせないようにしてください。」(77頁)

「マルコム・マゲリッジは、こう述べている。今日の時代の最大の病は、ハンセン病でも結核でもない。自分はだれからも必要とされていない、気にかけてもらえない、みんなから見捨てられているという思いこそ、最大の病なのだ、と。そして最悪の事態は愛の欠如である。助けを必要としている路上生活者に対するゾッとするほどの無関心である。そうした人たちのところへ、私たちを通してキリストの愛が流れていく必要がある。」(82頁)

●10章
神が働いておられるとはとても思えない人や場所、計画の中に実は神は働いておられることをいつも心に覚えていたい

●11章
あふれ出るもので牧会はするものであること、その実は新しい生長のあるところに結ぶものであることを忘れないでいたい

「これら(偽りの指導者)と対比してイエスは、今も変わらず、まただれの目にも明らかな真に霊的な指導者の指標を二つ示された。それは謙遜さと仕える精神である。」(93頁)

●12章
すでに確立された教会よりも、新しい教会を建てあげることにもっと熱心でありたい

●13章
教会員を訪問することで個人的なつながりをもつことをもっと訓練されたい

「私はいつも、病院や家を訪問したときにその人といっしょに、そしてその人のために祈ったものであった。祈りに導くのが不適当な状況が時折あるものだが、私の場合はめったにそういうことはなかった。その人々が、牧師とは祈りの人であると信じ、霊的指導者の祈りを期待しているからである。私はむしろ、牧師が訪ねてきても、自分のために祈ってくれなかったのが悲しかった、という声を何度も耳にしたのであった。」(100頁)

●14章
牧師の働きには特別な落とし穴があることに注意したい

1、自分の中にある「苦々しい思い」(教会、家族、人間関係など)
2、「不品行」の問題(道徳、肉欲など)
3、「所有」の問題

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エックハルトの残した言葉

Posted by Shota Maehara : 1月 14, 2013

「神は私よりも私に近く在(いま)す」 by エックハルト

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マイスター・エックハルトについて

Posted by Shota Maehara : 1月 14, 2013

マイスター・エックハルトエックハルト

マイスター・エックハルトMeister Eckhart1260年頃 – 1328年頃)は、中世ドイツ神聖ローマ帝国)のキリスト教神学者、神秘主義者。

エックハルトは、ドイツのテューリンゲンにて生まれる。タンバハという村で生まれたと推測されている。 パリ大学にてマイスター称号を受ける。トマス・アクィナス同様、同大学で二度正教授として講義を行った。 ドミニコ会ザクセン地方管区長やボヘミア地方副司教等を歴任した。 1326年ケルンで神学者として活動していたエックハルトはその教説のゆえに異端の告発を受け、これに対し「弁明書」を提出。 当時教皇庁があったアヴィニョンで同じく異端告発を受けたウィリアム・オッカムとともに審問を待つ間(もしくはケルンに戻った後)に、エックハルトは没した。 その死後 1329年、エックハルトの命題は異端の宣告を受け、著作の刊行・配布が禁止された。 これによって彼に関する記録はほとんどが失われたため、その生涯は上記の「弁明書」等から再構成されるのみであり、不明な部分が多く残されている。

目次

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教義 [編集]

との合一を、そして神性を説く。

「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう」

このようなネオプラトニズム(新プラトン主義)的な思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなった。

神と被造物 [編集]

エックハルトは、神はその源初において無というほかはないと述べる。この状態で神は安らぐことがない。神からロゴス(言葉)が発し、被造物が創造されることによってはじめて神は被造物において自分自身を存在として認識する。

この時の被造物に対する神は唯一の存在であり、それに対する被造物は無に過ぎない。被造物は神に生み出されることによって存在を持つのであって、被造物それ自体ではまだまったく持っていない。被造物はそれ自体では存在すらできない純粋な無である。

神は生むもの、被造物は生みだされたもの。この両者はアナロギア関係にある。アナロギア関係は次のようにたとえられる。「健康な尿」という言葉があるが、尿それ自体が健康であるということはない。「健康な生物」がそれを生み出したから尿が健康だと言われるのである。被造物における「善き者」などもそれ自体が善いのではなく、「善性」がそれを生み出したから善いと言われる。神がそれを生み出したから被造物は善き者であることができ、知性を持つことができ、生きることができ、存在することができる。だから被造物において絶対的に義なるものはありえない。善い意志を持とうとする被造物の側からの努力もエックハルトにとっては空しい試みである。では、被造物にできる最高のこととは何か。それはに徹することだとエックハルトは言う。無のうちには最大の受容性がある。「あれ」「これ」といった特定の存在が消え去る純粋な無の中にこそ純粋な存在たる神が受容される。「我の無」すなわち「神の有」。神は充溢した存在そのものであるからその本性からして無に存在を注ぎ込まずにいられない。神は被造物と気まぐれな関係をもつのではなく、本質的に被造物と関わっている。神はその本性からして私(被造物)を愛することをやめることができないという。

無になることの重要さをエックハルトは繰り返し説く。板の上に何かが書き込んであるとして、そこにいかに高貴なことが書き込まれていようとも、その上に更に書くことはできない。神が最高の仕方で書くには何も書かれていない板が最適であるという。極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら創造の以前より存在する魂の火花が働き、魂の根底に神の子の誕生(神の子としての転生)’が起こる。

しかし人が神の子になるというこの思想は教会にとっては非常に危険なものであった。そもそも神の子はイエスただ一人でなければならないし、個人がそのまま神に触れうるとすれば教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまう。

神の慰め [編集]

みずからを消し去り、神の子として生まれ変わったものは被造物を超えた存在となるため、いかなる被造物からも悩まされることがなくなる。被造物から生まれたものは被造物に悩まされるが、被造物にあらざる神の子として生まれ変わったものは被造物による悩みを持ちようがない。

それでは現に悩みがある者はどうすべきなのかというと、悩みを神から受け取るべきであるとエックハルトは言う。神のうちで「神、ともに悩み給う」のを喜ぶべきなのである。悩みが消えるような慰めが神から与えられないときは、「恩寵を受けない」という仕方で受け取っているのであり、受けないということで受けることにより一層本来的に神を受容することになる。

あらゆるものを受容することはエックハルトの中心的な教説のひとつである。神の意志は「あれ」とか「これ」とかいう風に指し示せる特定の事柄として現われるのではない。「これが神の意志だ。」と言う人は被造物たる己の意志を語っているに過ぎない。神が何を意志するか、神が何を与えてくれるかが問題なのではなく、神の与え給うものも、そして与え給わぬものも、一切を断念することが重要である。一切の消滅的な事物を放下した者はそのすべてを神のうちで再び受け取る。神において受け取る一匹のハエは最高天使それ自身の存在よりも貴いとまでエックハルトは言っている。

あらゆるものは時間の上ではそれらが神から流出したという点で等しく、永遠の上ではそれらが神のうちにあるという点で等しい。神にすべてをゆだねた者にとっては神が神自身であるようにその者自身が神なのである。そのような神の子の誕生は神自身にとっての喜びでもある。

神性への突破 [編集]

エックハルトにとって最高の徳は離脱である。それは愛や慈悲や謙虚よりも貴い。愛することよりも離脱が高貴だというのは、愛が私に神を愛させるのに対し、離脱は神に私を愛させるからである。愛は神のためにあらゆるものを忍従する。離脱はあらゆる物から脱却し、神をみずからの内に迎え入れて神を神たらしめる。

離脱は内面において達成される。外的な所有物をいくら捨てても、己の意志を捨てなければ離脱することはできない。これは当時ドミニコ会に対立していたフランチェスコ会の、自分の所有物を捨てようとする清貧の運動に対する批判を含んでいる。

イエスの「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである。」という言葉は解釈が分かれる言葉であるが、エックハルトは「心の貧しい者」を、意志の貧しい者、自己を捨てたものとみなして同意している。彼はここで無我を唱える仏教に近づいている。しかし彼のキリスト教の枠からの跳躍はここにとどまらない。エックハルトはさらに神からの離脱を説く。神と考えられるもの、それは真の神ではない。考えが消えれば考えられた神は消えてしまう。そのような神は所詮、我の立てたものである。エックハルトが神と神性を分けているのは重要である。神は三位一体という形を有するが、神性が、神をそのようにあらしめているもの、いわば神の本質である。エックハルトはしかしこの神の本質を神性としての無と表現する。有として形ある神は突破されなくてはならない。

純粋な有たる神が本質的には神性という無であり、無という神性に徹した我が、最高の存在になるというのは、初発に無と有を峻別しながらも、無の貫徹に終わる境地である。「生むもの」と「生まれるもの」は、一方が能動、もう一方が受動であるという以外は全く同じ一つの「生」であると言われる。エックハルトは一切の神イメージを持つことから脱し、神と合一した自己をも捨てた究極の無を目指している。

後世への影響 [編集]

ドイツ語圏を中心に中世末期のみならず近代以降の思想家にも、強い影響を残している。

中世

近世 ・現代

関連人物 [編集]

著作邦訳 [編集]

  • 『ドイツ語説教集』 (ドイツ神秘主義叢書 2) 上田閑照訳、香田芳樹訳註、創文社、2006年
  • 『エックハルト論述集』 (ドイツ神秘主義叢書 3) 川崎幸夫訳、創文社、1991年
  • 『エックハルト I』 (キリスト教神秘主義著作集 6) 植田兼義訳、教文館、1989年。[ドイツ語説教集、神学論集、ヨハネス22世の教皇勅書]。
  • 『エックハルト II』 (キリスト教神秘主義著作集 7) 中山善樹訳、教文館、1993年。[創世記注解、ヨハネ福音書注解]。
  • 『エックハルト説教集』田島照久訳、岩波文庫1990年ISBN 4003381610
  • 『神の慰めの書』 相原信作訳、講談社学術文庫、1985年ISBN 4061586904

参考文献 [編集]

  • 上田閑照『マイスター・エックハルト』(人類の知的遺産21) 講談社、1983年。
  • 上田閑照「『神の子の誕生』と『神性への突破』」、上田閑照編『ドイツ神秘主義研究』増補版、創文社、1982年、107-232頁所収。
  • 西谷啓治『神と絶対無』(西谷啓治著作集第7巻所収)、創文社、1987年。

外部リンク [編集]

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ローマ人への手紙講解説教ー「先行する神の愛」(クリスチャンの土台)

Posted by Shota Maehara : 12月 30, 2012

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERAローマ人への手紙の講解説教を締めくくるにふさわしい胸に迫る説教をありがとうございました。主が野町先生を祝福し、メッセージをお与えくださったことに心から感謝したいと思います。

クリスチャン生活の信仰の土台をどこに置くべきか、それは自分自身の行為による成果ではなくて、それに先立って私たち罪人を慈しみ、憐れみ、そして死をもって救い出してくださった「先行する神の愛」(十字架の愛)に他ならない。

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。―ローマ人への手紙5:8

しかし、自分自身の存在価値を目に見える成果を出すことによって守ろうとする誘惑は生涯続く。その時、クリスチャンは絶えず「主の祈り」をもってこの自己の傲慢さと格闘すべきである。なぜなら、神があなたという存在の固有の価値を認め、愛し、必要なものとしてそこに置いてくださっているという確信に立って生きるためである。

そして、私たちはただ神の選びの器として、神に用いられた者として、感謝し、喜びを持って、すべての栄光を神に帰することができるように。アーメン。

(杉戸キリスト教会、野町真理牧師、ローマ人への手紙講解説教2012年12月30日)

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宗教改革についてのノート

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2012

16世紀の宗教改革は、新約聖書の中のローマ書の次に私が重要視する研究テーマである。ここに最低限の基礎知識を書き記しておこう。

「宗教改革が提起したものは、時代が要求する人間の魂の「神への限りない飢え」にキリスト教がいかに応えるかということであった。」―『詳説・世界史研究』(山川出版社、2008年、296頁)

「ルターやカルヴァンは、聖書から直接神のことばを学び、「信仰によってのみ神の恩寵がえられるとし、神と人との間にカトリック教会が介在することを否定したのである。」―同書、269頁

「キリスト者は自己自身において生きるのではなく、キリストと自己の隣人において、すなわちキリストにおいては信仰をとおして、隣人においては愛をとおして生きる」―マルティン・ルター『キリスト者の自由』

少しここで簡単に整理してみると、歴史的な記述ではルターやカルヴァンの宗教改革の思想基盤は次の三つである。すなわち、「聖書主義」(信者が直接神のことばを学ぶ)、「信仰義認」(人間の行為ではなく、神への信仰によって救われる)、「万人祭司主義」(教会の司祭ではなく、各自でが自己の信仰生活を守る)。

しかし、こうした記述からは宗教改革の真の意義は触れられず、こぼれ落ちてしまっているのではないかと私は恐れる。おそらくルターにとって、「信仰」とは、自分の人生を振り返ってみた時、惨めな自分がそれにもかかわらず、命の綱をしっかりと握られてここにあるという生の確信なのではないだろうか。

いずれにしても、プロテスタントもカトリックもなく、主イエス・キリストへの信仰を告白するという点で一致して、人々の生き方、社会の進むべき道をともにさし示すことができたらどんなに素晴らしいかと思う。子供っぽい夢想だと笑われてしまうかもしれないが。

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神の恵みの選び―「予定説」をめぐって

Posted by Shota Maehara : 8月 11, 2012

「カルヴァン神学の中心教義は予定説二重予定説)である」というアレクサンダー・シュヴァイツァーの学説は、マックス・ヴェーバーらに影響を及ぼした見方ではあるが、現在は支持されないという主張を行う者が現れているがその者の名前を知る者は多くはない。[要出典]「予定」の項目が現われるのは『キリスト教綱要』第3版からである。カルヴァンの中心思想を特定することは困難であるが、「神中心主義」などと表現されることが多くなった。

予定の教義は、カルヴァンの死後も後継者の手によって発展し、1619年ドルト会議の「ドルト信仰基準」(ドルト信仰告白)などを経て、カルヴァンの死後約100年後のウェストミンスター教会会議1643年7月1日1649年2月22日)において採択された「ウェストミンスター信仰告白」(1647年)によって現代見られるような形で一応完成した。それ以来、改革派神学者の保守的陣営において、19世紀の終わりまでは二重予定論に関して、ウェストミンスター信仰告白の枠組みを抜本的に変えることを迫るほど新しく有効な議論が起こされた形跡はない。

しかし20世紀に入ると、カール・バルトが主著『教会教義学』[12]等のなかでカルヴァンやウェストミンスター信仰告白の二重予定説を強く批判したのを受けて、それまでは保守的陣営にとどまっていた改革派神学者たち自身が、二重予定説の立論そのものについての抜本的な再検討へと動き始めた。

とくに、アムステルダム自由大学神学部で長く教鞭をとった改革派教義学者G. C. ベルカウワーによる再検討は、抜本的なものであった。ベルカウワーは、神の予定の二重性は「非均衡的」であること、つまり、選びと遺棄は同等の強調を置かれるべきではないこと、また、「キリストにある選び」(Election in Christ)という点、つまり、予定論のキリスト論的側面を強調することが重要であることなどを主張した[13]

ただし、カール・バルト自身の予定論(恵みの選びの教説)の大意は「神の御子イエス・キリストが十字架において遺棄されることによって、万人が選びに定められた」ということであり、人間のなかに救いへと選ばれる者と遺棄される者がいるとするカルヴァンの予定論とは全く趣を異にするものである。

カルヴァンは、職業は神から与えられたものであるとし、得られた富の蓄財を認めた。この思想は、当時中小商工業者から多くの支持を得、資本主義の幕開けを思想の上からも支持するものであったとされる。

ウィキペディア ジャン・カルヴァンより)

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宗教改革の光と影 7―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 4, 2012

幼児洗礼の問題

七四問 幼い子供たちにも、洗礼を授くべきでしょうか。

―そうです。子供たちも大人とおなじように、神の契約とその教団に属しており、罪からの救いと、信仰を起こして下さる聖霊とが、彼らに対しても、大人に対してと同じように、キリストの血において約束されているのですから、彼らもまた、契約の徴としての洗礼によって、キリスト教会に接がれて、不信者の子供たちから区別されるべきです。それは、ちょうど旧約聖書において、割礼によって区別が行われているのと同様です。この割礼の代りに、新約聖書では、洗礼が設定されているのです。

この問答の出現は、唐突である。洗礼は、信仰の保証である。あるいは、イエス・キリストに血と霊によって、その起源が確かなものとされて、信仰の基礎づけが保証されることである。〔その場合〕自分の信仰を告白し、洗礼を受けることを願う信仰する人間が、前提とされている。ところが、突然に―またこれまで述べて来たこととは明らかに矛盾して、幼児(infantes)の洗礼について語られる。古プロテスタンティズムの神学全体において(カルヴィンにおいても)、幼児洗礼は、このような思いがけない無根拠な仕方で扱われた。すなわち、それまで挙げられていた洗礼にとっての基本的な標識が―ことに受洗者の信仰が、突然不問に付せられる。なぜと言って、乳児が信ずるということは、理性的に受け容れられないからである。「泣き叫ぶ子供」が、ここで罪人がその反抗にもかかわらず聖霊に捕えられていることの、証明なのであろうか。信仰は、洗礼によって、幼児に媒介させるのであろうか。それとも、他の人々の信仰が―恐らくは両親や洗礼立会人の信仰、あるいは集まった会衆の信仰が、その代理をするのであろうか。したがって、この場合、受洗者の信仰は、少しも問題ではなくて、代りの信仰が、問題なのであろうか。しかし、それらすべてのことは、これまで洗礼について教えられてきたことと、どういう関係になるのであろうか。

七十四問には、それ自身としては正しい三つの根拠が、挙げられている。

(1)幼い者も年とった者も、神の契約に属し、聖霊の約束が彼らすべてに与えられているということは正しい。しかし、それによって〈信じていない者、したがってまた自分の信仰を告白し得ない者が、教団に属している〉というようなことが、言われているのではない。教団(ゲマインデ)の一つの活きた肢(えだ)が、他の人の信仰の客体にすぎないというようなことが、あり得るであろうか。それとも、子供は、一つのキリスト教的家庭の子供として、教団に属するのであろうか。

(2)信仰者の子供が、他の子供たちから区別されなければならぬということは、正しい。Iコリント七・一四を見よ!しかし、彼らが教団の肢(えだ)々であるということではなく、ただキリスト者の両親によって、特別の提供がなされるという限りにおいて、彼らが区別されているということである。しかし、このようなことによって、これらの子供たちが、どうしても洗礼を受けなければならぬということについては、まだ何も言われていない。

(3)洗礼が割礼の代りであるということは、正しい。この論証は、改革派教会においては、いつも特別の役割を演じて来た。オランダの教会では、《Verbond》すなわち、神が教団(ゲマインデ)とではなく、キリスト教的諸民族と結び給うた一つの契約について、語られている。われわれがこの観念を広げてゆくと、「キリスト教的西洋」について語ることになる。世界政治的な景観が、展開されるわけである。しかし、教会は、本当に、そのような「キリスト教世界」(Corpus christianum)と同一視され得るであろうか。この問題によって、一切が決定される。イスラエルが諸民族の間にあって、割礼という徴によって、区別されなければならなかったのは、一人の方がこの民の中から、裔として生まれ給うたからではないであろうか。そして、このことが成就され、彼が来たり給うた後においては、この民族の歴史は、終わったのではないであろうか。その後においてなお、どのような意味で、聖なる教会について語ることができるのであろうか。イスラエルと教会は、別のものではないであろうか。そして、われわれは、新しい契約の教団(ゲマインデ)の中へは、信仰に基づいて受け容れられるのではないであろうか。もちろん、イスラエルは、血に基づいて、家族的結合・民族的結合として、構成された。しかし、神の子らの集まりは(ヨハネ一・一二参照!)、聖霊によって召されるのである。神の子らは、一人の人間の意志によって生まれたものではなく、すべての民の中から、御言葉によって呼び出された者たちである。この点に関して、ユダヤ教的理解が力を持っていて、キリスト教的諸民族について、人々が語り得るということは、教会史の多くの誤りの一つである。教会は、もはやイスラエルではなく、イスラエルはいまだ教会ではなかったのである。(もっとも、神の契約が、このような二重の形態を持っているとは、言うことができるが。)このことによって、しかし、洗礼に対する割礼の論証は、力を失う。ただ確信できることは、両方いずれの場合においても、契約の徴が、示されているのだ、ということである。ただし、それは、違った種類の契約の徴なのである。このことは、イスラエル人の男性だけが割礼を受けて、娘たちはやはり洗礼を受けたという事実によっても、証明される。

ハイデルベルク信仰問答は言及していないが、幼児洗礼に対しては、今一つの根拠が、好んで挙げられるのが常である。すなわち、幼児の洗礼こそ、「先行する恩寵」(gratia praeveniens)の不思議な徴であると言われる。宗教改革者たちは、この論証を、少しも用いなかった。それに、この論証が貫穿力(かんせんりょく)を持ち得るのは、幼児洗礼の正当性が証明された場合に限る、ということも、言わなければならないであろう。

しかし、幼児洗礼を執拗に固守する真の根拠は、きわめて端的に言って、もし幼児洗礼をやめるならば、教会は急に驚くべき仕方で空中に投げ出されることになるだろう、という点である。なぜかと言えば、その場合には、一人一人皆、自分がキリスト者であろうと思うかどうかを、決定しなくてはならないからである。しかし、その場合、どれだけのキリスト者が、存在するであろうか。そのことによって、国民教会(フォルクスキルヘ)という考えは、すべて動揺するであろう。しかし、そのようなことが起ってはならない。そこで、人々は、幼児洗礼のために、次々に根拠を挙げる。しかも、根本的に忸怩(じくじ)たるものがあるために、やはり説得的に語ることはできないのである。成人の洗礼を実施しても、それは、もちろん、改革を必要とする教会の改革そのものではないであろう。なぜかと言えば、幼児洗礼を固守するということは、教会が活きておらず・勇敢でなく・ペテロのように海を渡って主に向って進むことに不安を懐き・そのために手摺を探し求めてしかもただ当てにならぬ支柱を見出すという数限りない様々の徴候の一つ―もちろん、きわめて重要なものではあるが―にすぎないからである。

しかし、このように幼児洗礼を固守することの帰結は、第一には、「堅信礼」によって洗礼が、その価値を失うということである。この堅信礼において、洗礼は、信仰によって、保証されねばならない。したがって、洗礼に先立つべきであった信仰告白と〔受洗の]願いが、いわば補充されなければならないのである。人が十五年後に、自分の信仰保証をしなければならない―そのようなことは、不可能である。しかし、幼児洗礼を固守したいと思う限り、それは、やむを得ぬことであろう。その場合には、洗礼は、事実上、後に続く堅信礼を抜きにしては、不完全ということになる。

しかし、今一つの帰結は、必然的に、自分のキリスト者としての存在を少しも問われず・したがってまた受洗の慰めを実現し得ない人々の大衆教会(マッセンキルヘ)が、形成されるということである。われわれは、われわれの教会の中を貫いて流れる無関心と世俗主義の流れを、怪しんではならないのである。

しかし、これらすべてのことによって、数世紀以来行われて来た洗礼が、真に洗礼ではなかったなどということが、言われてはならない。〔洗礼の〕執行(プラクシス)がどうであるにしても、洗礼は、依然として、洗礼である。ここで論じているのは、単に秩序の問題である。しかし、今日新しく提出されている幼児洗礼の問題は、まさに洗礼執行の正しい秩序についての新しい自覚へと、われわれを招くのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四三七~四四〇頁)

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宗教改革の光と影 6―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

神の信仰と義

人間がキリスト教団(ゲマインデ)の肢(えだ)として、感謝に満ちた服従の中に、しかも自分の価値や業績に対して何の要求も持たずに、そしてそれゆえにこそ完全にまた強く〈イエス・キリストの死と甦えりにおける神の義なる業は、すべての人にとって、したがってまた自分にとっても、その目標に到達したのだ〉という唯一の慰めに依り頼む確信―それが信仰である。信仰は、このような内容を持っているゆえに、また信仰だけがこのような内容に相応しいものであるゆえに、信仰は―そして信仰だけが、その義認に至る唯一の人間の道である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四二二頁)

宗教改革的認識

人間の信仰は、どの程度に人間を義とする道なのであろうか。また、人間の義認は、どの程度にこの道と結びつけられているのであろうか。われわれは、ここで、「ただ信仰によっての義認」sola fide(ただ信仰によってのみ)という宗教改革的認識の中心に立つ。これは、どのようなことであろうか。

この場合、必然的に三つの境界設定が行われる。

(1)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)、その信仰する主体に残っていたり、あるいは新しく獲得せられた、無垢清浄さによるのではない。また、信仰は、病人を健康にして神に喜ばれるものとする一種の薬ではない(カール・ホル!)。義認ということが、人間の中における何か「善いもの」に関連を持つと考えるこのような考え方は、すべて拒否されなければならないし、また、宗教改革者たちによって拒否されたものである。もちろん、信仰は事実、神の善き被造物の態度であり、またそれは、生活の変革である。ただし、それは、救われた者としても、また救われた者としてこそ、自分が五問、八問、一三問に記されているような罪人と同じ者であることを知っている人間の生活の変革なのである。なぜかと言えば、キリストを信じている人間だけが「人間の悲惨」を知っているからである。したがって、信仰によって義とされるのは、信仰する人間がまだ罪人でないとか、もはや罪人でないとか、という理由によってではない(六〇問の前半)。そうではなくて、信仰する人間は、罪人でありつつ、義とされるのである。

(2)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)、その人間が感謝の中にあって、何か新しい善い生活を生み出すという理由によってではない。〔もとより〕信仰は、そのような生活を生み出す。また、信仰する人間は、必ず信仰において善き業をなすであろう(六四問の「真の信仰によってキリストに接がれた者が、感謝の実をもたらさぬというようなことはあり得ない」という言葉を参照)。また、そのような善き業がいつまでも報いを受けぬということも、必ずないであろう(六三問)。しかし、われわれが、何に信頼するかと自問する場合、われわれは、決して自分の「善き業」を指示したりはしないであろう。そのような「善き業」によっては、われわれは、神の御前に立つことはできないのである。それは、神の御前において通用する義は、「神の律法と全く一致するもの」(六二問)でなければならぬからである。われわれの性向は、われわれの善き業にもかかわらず、いつも「生まれつき、神と自分の隣人を憎む傾向がある」(五問)というようなものである。したがって、われわれは、恩寵によって、そしてただ恩寵によってのみ、神に受け容れられるのである。

(3)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)その人間自身の中に宿る何かの性質によるのではない。「それは、私が自分の信仰の価値によって、神に喜ばれる、ということではありません」(六一問)。〔もとより〕信仰は、一つの人間的な行為でもある。信仰の中にあっても、われわれは、なお人間的な動と反動の領域の中におり、したがってその領域特有のあらゆる問題性の中にいるのである。しかも、信仰者こそ、〈自分は自分自身からは信ずることはできない。これは聖霊の業である〉ということを知っている。したがって、人間は、信仰においてこそ、神を正しいとし、自分自身を正しいとしないであろう。

信仰が人間を義とするのは、信仰する人間が、キリスト教団に与えられている約束の下に、身を置くからである。キリスト教団(ゲマインデ)とは、〈神の計画と意志は、すべての人間のために成就され、イエス・キリストにおいて、その目標に達している〉ということを知ることを許されている人間の集まりである。信仰する人間は、イエス・キリストが「私共のためにそこに存す」(四六問)ということ、「彼が天において、その父の御顔の前で、私共の執成しをする者であり給う」(四九問)ということを見る。信ずる者は、神の義なる裁きに信頼する。そして、神に対して「然り」と言って、もはや呟かぬことによって、神との平和の中に生きる。したがって、そのような人は、神を正しとする人であり、まさにそのようにして、同時に神の御前において、正しい人なのである。このようにして、信ずる者は、いまだ途上にありながら、すでに目標に至っており、キリストの中にあるのである。

人の信仰が、その人を義とするのではなく、その信仰の対象と内容が、その人を義とするのである。しかし、この対象は、人間に与えられる一つの贈り物である。それは、信仰者が、ただ受けることだけできるところの・ただ承認することだけできるところの・ただ信頼することだけできるところの恩恵である。このような態度は、神がわれわれに与え給う神の自由な慈恵に、対応するものである。なぜなら、このような態度においてこそ、「あたかも私が罪を犯したことが…ないかのように」(六〇問)神に栄光が帰せられ、神の義認の贈り物は受け容れられるからである。それは、「信仰の大胆な行為」である。「義人はその信仰によって生きる」。すなわち、信仰とその対象との間には、一つの即事的な(ザッハリッヒ)な対応があるのである。信仰者は、自分の信仰を誇ろうなどとは思いつきもしないが、しかし、彼は、神が自分を喜んでいて下さるということを、受け容れることを許されているし、また受け容れるであろう。

このようにして、信仰が―そして信仰だけが、裁きにおいて人間が義とされるに至る道である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四二四~六頁)

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