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Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘書評’ Category

遠藤嘉信『初めに、神が-創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』(二〇〇七年、いのちのことば社)

Posted by Shota Maehara : 3月 10, 2013

初めにコリント人への手紙第二4章7節です。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」。そう書かれています。私たちには何もありません。しかし、私たちのつまらぬ「土の器」の中に「神のかたち」「いのちの息」そして「神の栄光を知る知識」と「御霊」を宿しているということです。(78頁)

さらには、イエスさまも、こう語ります。「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7・11)…どんな状況の中でも、どのような境遇に置かれていようと、神はどこまでも私たちを愛し、私たちに良いものをお与えになろうとしておられます。エデンの園は神の人に対する愛情の表現であり、人をかこって、その恵みの中にいつまでも憩わせようとなさった神の御思いの表れでした。(81頁)

ともかく、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(17節)と神は命じられました。たった一本の木、その木において、神は人間に選択という自由を与えられたのです。自分で神のみこころを求めてそれを選び取る自由を与えられました。自分で神を愛することも、神を愛さないこともできるのです。ですからここには宿命論も決定論もありません。その上で神は人間の愛の応答を求められたのです。そこにこそ人間の尊厳があり、神の人間に対する尊重の姿を見ることができるのです。(84頁)

ところで、「善悪の知識の木」という言葉には、どんな意味があるのでしょうか。それは確かに、もう一本の「いのちの木」とともに極めて象徴的な意味合いを含んでいます。これにはいろいろな説がありますが、おそらく一番適切と思われる見解は、良し悪しを判断する「自律性」に関する知識ないしその権利を意味しているというものです。

これを食べるとき、神のように、自分の感情や周囲からの判断に基づいて、神に依存することなく、またそのみこころに求めることもなく、自律的に、ものの良し悪しを決めるようになる、ということです。ある注解者は、「子が親の監督を嫌って、自分で判断するようになる」というような説明の仕方をしていました。

そのような木から取って食べるならば、神のように完全ではないので、人間は自分の判断に基づいて自滅する以外にないのです。そればかりか、これは園を管理させようとされた主なる神の契約であって、約束に対する違反行為は、契約の破棄を意味しています。ですから、この実を取って食べることは、その実が持つ効力の問題以上に、また園での働きを剥奪される以上に、もっと致命的な状況を生み出すことになります。

「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」

神から失われ、交わりを断たれ、祝福から遠ざけられたのです。これが現代の私たちの状態です。(86頁)

神は愛です。愛するお方はその愛の対象を求められます。とすれば、人が創造されることは神にとって必然でもあったと考えられます。そしてそのような意味において、私たちは「神のかたちとして」造られました。私たちに「神のかたち」を認めることができるのです。「神のかたち」というとき、1章26節によれば、それは「われわれに似せて」という言葉と対応していますから、神に似るものとして、という意味です。(87頁)

互いが互いの分身であることを忘れて、二人で一つであるという意味での自分の欠けを認めず、互いに自律的な方向へと向かって、結果的に性の違いとそれから生じる互いの本質的な役割をことごとく否定することになるのです。私たちは、「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と語られた主の御思いに目を留めなければなりません。(95頁)

「サタンに欺かれるならば、誰ひとりこの誘惑に打ち勝つことができません。それほどに、サタンは強力な存在なのです。だから、たといサタンが背後で関わっていたにせよ、アダムとエバの責任ということに焦点を当てようとしているということでしょうか。ここでは、霊的な目に見えない神秘的存在が関わったというよりも、見える現実において、被造物の一つである蛇が関係し、その蛇に惑わされつつも、人自ら罪を犯したという客観的な事実が述べられていると考えるべきだと思います。そして、そのことゆえに彼ら自身が責められなければならないのです。(100頁)

人が自律的になって、善悪を自分で判断し、もはや神を必要としなくなっていくことを選ぶのではなく、どこまでも神との交わりを求めて、神にあらゆる判断をゆだねて依存する存在として生き続けることを求められたのです。このことこそ人をこよなく愛する神の思いでなくして何でしょうか。(105頁)

神の愛が見えにくくなると同時に、神の裁きについても割り引くようになります。神の愛を一方で強調しながら、結局その深い意味と手ごたえを得られず、同時に神の裁きを直視できなくなっていくのです。(108頁)

蛇はその木の実の魅力について語り、神との約束を破るという恐るべき課題から意識をそらさせます。神のようになれるという謳い文句は常に人間を魅了してきているのです。神を必要とせず、自分で、自律して生きることができ、事の良し悪しを自分で判断する自由を得るのです。自分が支配し、自分がそこに君臨し、すべてが思いどおりになるのです。目が開き、これまで見えなかったものを見通すことができるようになるということなのです。(109頁)

善悪の知識の木それ自体に問題はありません。ただ人間には重すぎるのです。あらゆることで自律を求められます。あらゆる倫理的な判断を自分でしなければなりません。結局人間は、これによって二つの問題を抱えることになったのです。契約を破ったことと、善悪の知識を得たこと、これに伴って、一つは契約違反の罪の問題とその罪責感を、そして自律を求めた結果がもたらす得体の知れない不安感や無防備なゆえの他者への不信感を持つようになるということです。(111頁)

そして何よりも、神が私たちに対してどんなときにも愛であり、徹底して誠実なお方であることを疑うことのないようにしたいと思います。エレミヤは、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31・3)という主の言葉を書き留めています。誠実を尽くし続ける神を決して忘れてはなりません。そして救いの恵みにあずかる者でありたいと願います。(112頁)

しかも結果的には、妻ばかりか神まで問題視するのです。彼は、「あなたが私のそばに置かれたこの女」と言っています。つまり、ついには、主がこの女を置かれたことに問題がある、と言っているのです。神に問題があるとまで言ってしまいます。神が人のところにその女性を連れてこられたとき、彼は何と言ったでしょうか。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」。彼はそう言って歓喜し、感謝しました。ところが、今は、それを問題とするようになりました。その恵みを否定しています。(120頁)-人間による神をも畏れぬ「責任転嫁」を見よ!

あらためて創世記1章から3章を見るとき、神の愛がこれら全章を貫いて、満ち溢れていることに気づかされる。天地創造のすべてが、人に対する神の愛の表現である。すべてが人のために造られた。神が愛であるから、その愛は、愛の対象を求めていた。(あとがき)

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『若い牧師・教会リーダーのための14章』ジョン・M・ドレッシャー(工藤信夫訳)、いのちのことば社、1998年

Posted by Shota Maehara : 1月 15, 2013

『若い牧師・教会リーダーのための14章』ジョン・M・ドレッシャー(工藤信夫訳)、いのちのことば社、1998年

●序文

牧会というこの働きほど、誕生から死に至るまで人間存在のあらゆる段階に深く関わる仕事はほかにないであろうし、この仕事ほど、人生の最も深い痛みに触れるものもなければ、至上の喜びに触れるものもないだろう。またこの奉仕ほど失敗や成功の痛手や喜びを人々と分かち合うものもほかにないであろう。ージョン・M・ドレッシャー(6頁)

教会はさまざまな弱さや欠けをもちながらもなお、この世界にあって、最も深い愛と犠牲、配慮を具現化している群れであることに変わりはない。そして、キリストを認めない人でも、そこからキリスト教精神の祝福と恩恵を受けるのである。ージョン・M・ドレッシャー(6頁)

●1章
自分自身の霊性を豊かにするためにもっと訓練を受けたい

「もし私たちが日々聖書に心を開き、黙想を大切にし、祈るということを怠っていれば、私たち自身の霊的アイデンティティーをすぐに見失ってしまうだろう。信仰と確信、霊的な識別力も徐々に弱まっていくにいくに違いない。」(17頁)

✝優先順位

1、毎日、どんな読み物よりもまず聖書のみことばを読むこと。
2、毎日、人と語るよりも、まず神と語ること。
3、少なくとも週一回、また定期的にもう少し長い時間断食すること。
4、説教の準備や教会の働きのために、さまざまな分野の読みごたえのあるものを毎日一章は読むようにすること。

●2章
聖書の学びと説教にもっと時間を取りたい

「御言葉を説教する」という神の召しに忠実であってほしい。

●3章
もっとキリスト中心の牧会をしたい
「キリスト教の説教とは、キリストを説教することである。ところが多くの説教がキリストについてのお話になっている。」

※キリストを説教するための五つの条件
1、「私は、キリストを、かつて存在した歴史上の人物としてではなく、今日もなお生ける存在として紹介することを心がけたいと思う。イエスは現に生きておられる。イエスは、よみがえられた栄光の救い主、主であられる。キリストの復活がキリスト信仰の核心であるのは、このためである。」(三九頁)

2、「私は、自分自身が「キリストの使節」(Ⅱコリント5:20)であると述べ、生ける神からのメッセージを伝えることを心がけたいと思う。説教とは、キリストの御思いとみことば、キリストのメッセージを語るのであって、私自身の思いやことば、メッセージを語るのではない。」(40頁)

3、「罪の力から解放してくださるお方としてキリストを紹介したいと思う。」(40頁)

4、「キリストの教えを説教することを忘れないようにしたいと思う。イエスがまことの主、まことの主人であるならば、その主人のメッセージは私たち説教者にも語られたものである。そしてそれは、私たちがまた語らなければならないメッセージでもある。」(福音書に語られている教え)(40頁)

5、「キリストを説教するときに、私は人々を自分自身へではなく、もっとキリストのもとへ招きたいと思う。それはあくまでもキリストのもとへであって、何かの信仰的遺産や統一の教義、「唯一の真理」へではない。」(42頁)

※カルト的になるのを防ぐ二つの道
①自分自身を正しく評価できるほどに純粋な、キリストに対する献身。
②ユーモアのセンス。

●4章
牧会においてキリストのご目的を成し遂げるのは、私の弁舌でなく聖霊の御力によることを忘れないようにしたい

「もしもあなたが説得されてキリスト教に入ったのならば、だれか賢い人に説得されてキリスト教から離れることもあるだろう。しかし、聖霊が内側を照らし明らかにするなら、だれもあなたを説得してキリスト教から離れさせることはできない」(A・W・トウザー)(50頁)

●5章
教会は多くの欠けをもちながらもなお、この世において神のみわざを行っているキリストのからだであることを忘れないでいたい

●6章
奉仕の働きへと会員一人一人を導き整えるよう努力したい

「この美しい文章(エペソ4:12‐16)の中に、私たちのすべての説教や教えや、奉仕に関する最終目的が明確に記されている。すなわち、牧師の働きは、一人一人を整えて、キリストに似たものに成長させ、霊的な識別力をもたせ、さらには、キリストのからだにおける一致と成長と愛をそれぞれが建て上げるようにすることである。」(58頁)

※弟子訓練がうまくいっていない兆し
・会員の中に聖書教育の担当者や奉仕者を見出すことが難しい時。
・聖書研究や祈りのグループが成長をしなくなった時。
・施しが停滞した時。
・未伝地域への伝道と世界宣教に対する熱意が失われた時。
・「教会」がその教会自体の必要などに応じた献身者や霊的指導者を生み出さない時。
→牧会的リーダーシップの中心は、信徒の霊的な賜物を訓練することであって、それはその人に与えられている賜物を知り、それを発展させ、用いることである。(62頁)

●7章
「創造性に富み中心となる存在」(クリエイティブセンター)を探して励ましたい

「キリスト・イエスに対する燃える心をもつ若者はたとえひとりであっても、若い人たちのグループ全体を動かすことができるものであるし…祈りの人がひとりでもいれば、神はその人を用いて霊的な覚醒をもたらすことがおできになる。そのような人々に必要なのは牧師の励ましの一言である。」(66頁)

●8章
祈りを第一に強調したい

「たゆむことのない、力ある祈りの生活を実践しているということは、その人が神によって牧師に召されていることの大きな証拠である。また祈りにおいて深いということは、その人が霊的指導者であることを立証するものである。」(68頁)
「教会に何か危機があるときはいつも、まずそれは祈りの危機であると考えて間違いないであろう。特に指導者においては、もしその人が祈りの人でなかったら、牧師としての召しがあるかどうか甚だ疑問である。」(70頁)

●9章
私が召されたのは、信徒の信仰を操作するためではなく、彼らを愛して神の国に導くためであることを忘れないでいたい

「霊的な人は、人々にあれこれの教理を信じるようにとは要求しない。人々が自分の生活を、キリストの意思にそい、キリストに似たものとするようにと求めるのである。」(76頁)

「主よ。愛をもって真理を語らせてください。もしも私が愛をもって真理を語ることができないなら、それを語らせないようにしてください。」(77頁)

「マルコム・マゲリッジは、こう述べている。今日の時代の最大の病は、ハンセン病でも結核でもない。自分はだれからも必要とされていない、気にかけてもらえない、みんなから見捨てられているという思いこそ、最大の病なのだ、と。そして最悪の事態は愛の欠如である。助けを必要としている路上生活者に対するゾッとするほどの無関心である。そうした人たちのところへ、私たちを通してキリストの愛が流れていく必要がある。」(82頁)

●10章
神が働いておられるとはとても思えない人や場所、計画の中に実は神は働いておられることをいつも心に覚えていたい

●11章
あふれ出るもので牧会はするものであること、その実は新しい生長のあるところに結ぶものであることを忘れないでいたい

「これら(偽りの指導者)と対比してイエスは、今も変わらず、まただれの目にも明らかな真に霊的な指導者の指標を二つ示された。それは謙遜さと仕える精神である。」(93頁)

●12章
すでに確立された教会よりも、新しい教会を建てあげることにもっと熱心でありたい

●13章
教会員を訪問することで個人的なつながりをもつことをもっと訓練されたい

「私はいつも、病院や家を訪問したときにその人といっしょに、そしてその人のために祈ったものであった。祈りに導くのが不適当な状況が時折あるものだが、私の場合はめったにそういうことはなかった。その人々が、牧師とは祈りの人であると信じ、霊的指導者の祈りを期待しているからである。私はむしろ、牧師が訪ねてきても、自分のために祈ってくれなかったのが悲しかった、という声を何度も耳にしたのであった。」(100頁)

●14章
牧師の働きには特別な落とし穴があることに注意したい

1、自分の中にある「苦々しい思い」(教会、家族、人間関係など)
2、「不品行」の問題(道徳、肉欲など)
3、「所有」の問題

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ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」とともに思考する

Posted by Shota Maehara : 7月 31, 2011

リーマン・ショックに端を発する経済恐慌、東北を中心に東日本を襲った震災とそれに続く福島原発の放射能漏れ事故。あらゆる指標が世界や日本の破綻がまぢかに迫っていることを告げる何者かからの警告ように私には思われる。

このきわめて黙示録的な時代に置いて、私はキリスト教神学の立場から、自分のこれまでの思考を再構成したいと考えている。その中でも、世界資本主義における、隣人(=他者)と暴力に関しては目下最大の関心を払っている。この流れで、ポスト近代資本主義に生きる我々を取り巻くイデオロギー状況をはっきりさせる必要があると考えている。そのうえでシステムに対する対抗運動の可能性が練られていくべきだと。

本書はこうした問題認識をもったわたしを常に引きつける思考の試金石とでも呼べる一冊だ。ベンヤミンの思考は常に切迫した危機意識に支えられ、それゆえラディカルである。帯にある「神話的暴力が法を措定し、神的暴力は法を破壊する」の一文だけでも私を限りない思考にいざなう力に満ちている。

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The parallax view: Karatani’s ‘Transcritique. On Kant and Marx’ – Slavoj Žižek

Posted by Shota Maehara : 5月 17, 2011

The philosophical basis for social action, as recast in Kojin Karatani’s striking Transcritique. On Kant and Marx. Slavoj Žižek investigates the irreducible antinomies of production and circulation — or economics and politics — as envisioned from the gap in between.

SLAVOJ ŽIŽEK: THE PARALLAX VIEW
In today’s English, ‘pig’ refers to the animals with which farmers deal, while ‘pork’ is the meat we consume. The class dimension is clear here: ‘pig’ is the old Saxon word, since Saxons were the underprivileged farmers, while ‘pork’ comes from the French porque, used by the privileged Norman conquerors who mostly consumed the pigs raised by farmers. This duality, signalling the gap that separates production from consumption, is a case of what, in his formidable Transcritique. On Kant and Marx, Kojin Karatani refers to as the ‘parallax’ dimension. [1] Best known as the most striking Japanese literary critic of his generation—his Origins of Japanese Literature presented to the English-speaking world by Fredric Jameson—Karatani has moved from subsequent reflections on Architecture as Metaphor to one of the most original attempts to recast the philosophical and political bases of opposition to the empire of capital of the current period. [2] In its heterodox theoretical ambition and concern with alternative revolutionary traditions—here principally anarchist—Transcritique might be compared with Roberto Unger’s trilogy Politics, a work out of Brazil. But Karatani’s thought-world is closer to that of Marx, and behind him to the heritage of classical German philosophy.

Karatani starts with the question: what is the appropriate response when we are confronted with an antinomy in the precise Kantian sense of the term? His answer is that we should renounce all attempts to reduce one aspect of it to the other (or, even more, to enact a kind of ‘dialectical synthesis’ of the opposites). One should, on the contrary, assert antinomy as irreducible, and conceive the point of radical critique not as a determinate position as opposed to another position, but as the irreducible gap between the positions—the purely structural interstice between them. Kant’s stance is thus to see things ‘neither from his own viewpoint, nor from the viewpoint of others, but to face the reality that is exposed through difference (parallax)’. [3] Karatani reads the Kantian notion of the Ding an sich (the Thing-in-itself, beyond phenomena) not so much as a transcendental entity beyond our grasp, but as what is discernible only via the irreducibly antinomic character of our experience of reality.

Theories of value
According to Karatani, when Marx was faced with the opposition between classical political economy (Ricardo and his labour theory of value—the counterpart to philosophical rationalism) and the neo-classical reduction of value to a purely relational entity without substance (Bailey—the counterpart to philosophical empiricism), his ‘critique of political economy’ accomplished exactly the same breakthrough towards the parallax view. Marx treated this opposition as a Kantian antinomy—that is, value has to originate both outside circulation, in production, and within circulation. ‘Marxism’ after Marx—in both its Social Democratic and Communist versions—lost this parallax perspective and regressed to a unilateral elevation of production as the site of truth, as against the ‘illusory’ spheres of exchange and consumption. As Karatani emphasizes, even the most sophisticated theory of reification—that of commodity fetishism—falls into this trap, from the young Lukács through Adorno up to Jameson. The way these thinkers accounted for the lack of a revolutionary movement was to argue that the consciousness of workers was obfuscated by the seductions of consumerist society and/or manipulation by the ideological forces of cultural hegemony. Hence the shift in the focus of their critical work to cultural criticism (the so-called ‘cultural turn’)—in others, the disclosure of the ideological (or libidinal: here lies the key role of psychoanalysis in Western Marxism) mechanisms that keep workers under the spell of bourgeois ideology. In a close reading of Marx’s analysis of the commodity-form, Karatani grounds the insurmountable persistence of the parallax gap in the salto mortale that a product has to accomplish in order to assert itself as a commodity:

The price [of iron expressed in gold], while on the one hand indicating the amount of labour-time contained in the iron, namely its value, at the same time signifies the pious wish to convert the iron into gold, that is to give the labour-time contained in the iron the form of universal social labour-time. If this transformation fails to take place, then the ton of iron ceases to be not only a commodity but also a product; since it is a commodity only because it is not a use-value for its owner, that is to say his labour is only really labour if it is useful labour for others, and it is useful for him only if it is abstract general labour. It is therefore the task of the iron or of its owner to find that location in the world of commodities where iron attracts gold. But if the sale actually takes place, as we assume in this analysis of simple circulation, then this difficulty, the salto mortale of the commodity, is surmounted. As a result of this alienation—that is its transfer from the person for whom it is a non-use-value to the person for whom it is a use-value—the ton of iron proves to be in fact a use-value and its price is simultaneously realized, and merely imaginary gold is converted into real gold. [4]
This jump by means of which a commodity is sold and thus effectively constituted as a commodity is not the result of an immanent self-development of (the concept of) Value, but a salto mortale comparable to a Kierkegaardian leap of faith, a temporary and fragile ‘synthesis’ between use-value and exchange-value comparable to the Kantian synthesis between sensibility and understanding: in both cases, two levels irreducibly external to each other are brought together. For this precise reason, Marx abandoned his original project (discernible in the Grundrisse manuscripts) of ‘deducing’ in a Hegelian way the split between exchange-value and use-value from the very concept of Value. In Capital, the split of these two dimensions, the ‘dual character of a merchandise’, is the starting point. The synthesis has to rely on an irreducibly external element, as in Kant where being is not a predicate (i.e., cannot be reduced to a conceptual predicate of an entity), or as in Saul Kripke’s Naming and Necessity, in which the reference of a name to an object cannot be grounded in the content of this name, in the properties it designates.

The very tension between the processes of production and circulation is thus once again that of a parallax. Yes, value is created in the production process; however, it is created there as it were only potentially, since it is only actualized as value when the produced commodity is sold and the circle m-c-m is thus completed. The temporal gap between the production of value and its realization is crucial here: even if value is created in production, without the successful completion of the process of circulation, there stricto sensu is no value—the temporality is here that of the futur antérieur, i.e., value ‘is’ not immediately, it only ‘will have been’. It is retroactively actualized, performatively enacted. In production, value is generated ‘in itself’, while only through the completed circulation process does it become ‘for itself’. This is how Karatani resolves the Kantian antinomy of value which is and is not generated in the process of production. It is because of this gap between in- and for-itself that capitalism needs formal democracy and equality:

What precisely distinguishes capital from the master–slave relation is that the worker confronts him as consumer and possessor of exchange values, and that in the form of the possessor of money, in the form of money he becomes a simple centre of circulation—one of its infinitely many centres, in which his specificity as worker is extinguished. [5]
What this means is that, in order to complete the circle of its reproduction, capital has to pass through this critical point at which roles are inverted: ‘surplus value is realized in principle only by workers in totality buying back what they produce’. [6] This point is crucial for Karatani: it provides the essential leverage from which to oppose the rule of capital today. Is it not natural that proletarians should focus their attack on that unique point at which they approach capital from the position of a buyer, and, consequently, at which it is capital that is forced to court them? ‘If workers can become subjects at all, it is only as consumers.’ [7] It is perhaps the ultimate case of the parallax situation: the position of worker-producer and that of consumer should be sustained as irreducible in their divergence, without privileging one as the ‘deeper truth’ of the other. (Did not the planned economy of state socialism pay a terrible price for the privilege it accorded production over consumption, and hence its failure to provide consumers with goods they needed, instead of products nobody wanted?)

This is one of Karatani’s key motifs: his rejection of the—if anything, proto-fascist—opposition between financial speculation and the ‘real’ economy of capitalists engaged in productive activity. For in capitalism, the production process is only a detour in the speculative process of money engendering more money. The logic of ‘profiteering’ is ultimately also what sustains the incessant drive to revolutionize and expand production:

The majority of economists warn today that the speculation of global financial capital is detached from the ‘substantial’ economy. What they overlook, however, is that the substantial economy as such is also driven by illusion, and that such is the nature of the capitalist economy. [8]
There are, consequently, four basic positions à propos money: (1) the mercantilist belief—a naïvely direct fetishism—that money is a ‘special thing’; (2) the ‘classical bourgeois political economy’ represented by Ricardo, which dismissed such fetishism as a mere illusion and perceived money as no more than a sign of the quantity of socially useful labour—conceiving value as inherent to a commodity; (3) the ‘neoclassical’ school which rejected not only the labour theory of value, but any ‘substantial’ notion of value—the price of a commodity becoming simply the result of the interplay between the supply and demand for it, or the utility of a commodity for other commodities. Karatani is right to emphasize how, paradoxically, Marx broke out of the confines of the ‘classical’ Ricardian labour theory of value through his reading of Bailey, the first ‘vulgar’ economist who emphasized the purely relational status of value—its expression of the way this commodity relates to all other commodities. It was Bailey who thus opened up the path towards the formal approach of Marx, which insists on the gap between an object and the structural place it occupies: in the same way that a king is a king not because of his inherent properties, but because people treat him as one (Marx’s own example), a commodity is money because it occupies the formal place of the general equivalent of all commodities, not because say, gold, is ‘naturally’ money.

But it is crucial to take note of how both mercantilists and their Ricardian critics remained ‘substantialist’. Ricardo was, of course, aware that the object which serves as money is not ‘naturally’ money, and laughed at the naïve superstition of money, dismissing mercantilists as primitive believers in magic properties. However, by reducing money to a secondary external sign of the value inherent in a commodity, he nonetheless again naturalized value, conceiving it as a direct ‘substantial’ property of a commodity. It was this illusion that generated the ingenuous early-Socialist and Proudhonian proposals to overcome money fetishism by introducing a direct ‘labour money’ which would just designate the amount each individual contributed to social labour. Which is why, although Marx’s Darstellung of the self-deployment of capital is full of Hegelian references, the self-movement of capital is far from the circular self-movement of the Hegelian Notion (or Spirit). [9] The point of Marx is that this movement never catches up with itself, that it never recovers its credit, for its resolution is postponed forever, and crisis is its innermost constituent (the sign that the Whole of Capital is the non-True, as Adorno would have put it). In other words, its movement is a ‘bad infinity’, forever reproducing itself:

Notwithstanding the Hegelian descriptive style . . . Capital distinguishes itself from Hegel’s philosophy in its motivation. The end of Capital is never the ‘absolute Spirit’. Capital reveals the fact that capital, though organizing the world, can never go beyond its own limit. It is a Kantian critique of the ill-contained drive of capital/reason to self-realize beyond its limit. [10]
It is interesting to note that it was already Adorno, who in Three Studies on Hegel, critically characterized Hegel’s system in the same ‘financial’ terms as a system which lives on credit that it can never pay off. The same ‘financial’ metaphor is often used for language itself. Brian Rotman, among others, has defined meaning as that which is always ‘borrowed from the future’, relying on its forever-postponed fulfilment-to-come. [11] For how do shared meanings emerge? Through what Alfred Schuetz called ‘mutual idealization’: the subject cuts the impasse of an endless probing into the question ‘do we all mean the same thing by the term “bird”?’ by simply presupposing and acting as if we do mean the same thing. There is no language without this ‘leap of faith’. This presupposition, this ‘leap of faith’, should not be conceived in Habermasian vein as a normativity built into the functioning of language, the ideal all speakers (should) strive for. On the contrary, so far from being an ideal, it is a fiction that has to be undermined again and again if knowledge is to progress. So, if anything, this presupposed ‘as if’ is profoundly anti-normative. A Habermasian would, of course, reply that the ideal, the norm inscribed into language, is nonetheless the state in which this fiction would no longer be a fiction, but smooth communication in which subjects would reach a frictionless agreement. But such a defence misses the point, which is not only and simply that such a state is inaccessible (and also undesirable), but that the ‘leap of faith’ not only has no normative content, but can even block further elaboration—why strive for something that we allegedly already have? In other words, what the reading of this ‘as if’ as normativity fails to grasp is that the ‘leap of faith’ is necessary and productive (enabling communication) precisely insofar as it is a counterfactual fiction. Its ‘truth effect’, its positive role of enabling communication, hinges precisely on the fact that it is not true, that it jumps ahead into fiction—its status is not normative because it cuts the debilitating deadlock of language, its ultimate lack of guarantee, by way of presenting what we should strive for as already accomplished.

The same logic of living on credit borrowed from the future also goes for Stalinism. The standard evolutionary version is that, while Stalinist socialism did play a certain role in enabling the rapid industrialization of Russia, by the mid-60s the system had exhausted its potential. However, what this judgement fails to take into account is that the entire epoch of Soviet Communism from 1917—or more precisely from Stalin’s proclamation of the goal of ‘building socialism in one country’ in 1924 onwards—lived on borrowed time, was ‘indebted to its own future’, so that the final failure retroactively disqualified the earlier epochs themselves.

Economy and politics
Is, however, the ultimate Marxian parallax not that between economy and politics—between the ‘critique of political economy’ with its logic of commodities, and the political struggle with its logic of class antagonisms? Both logics are ‘transcendental’, not merely ontico-empirical; and each is irreducible to the other. Of course they point towards each other—class struggle is inscribed into the very heart of economy, yet it has to remain absent, non-thematized (recall how the manuscript of Capital iii abruptly breaks off with classes). But this very mutual implication is twisted so that it prevents any direct contact between them. Any direct translation of political struggle into a mere mirroring of economic ‘interests’ is doomed to fail, just as is any reduction of the economic sphere into a secondary ‘reified’ sedimentation of an underlying founding political process.

In this sense, the ‘pure politics’ of Badiou, Rancière or Balibar, more Jacobin than Marxist, shares with its great opponent, Anglo-Saxon Cultural Studies, a degradation of the sphere of economy. That is to say, what all the new French (or French-oriented) theories of the Political, from Balibar through Rancière and Badiou to Laclau and Mouffe, aim at is—to put it in the traditional philosophical terms—the reduction of the sphere of economy (of material production) to an ‘ontic’ sphere deprived of ‘ontological’ dignity. Within this horizon, there is simply no place for the Marxian ‘critique of political economy’: the structure of the universe of commodities and capital in Marx’s Capital is not just that of a limited empirical sphere, but a kind of socio-transcendental a priori, the matrix which generates the totality of social and political relations. The relationship between economy and politics is ultimately that of the well-known visual paradox of the ‘two faces or a vase’: one either sees the two faces or a vase, never both of them—one has to make a choice. In the same way, we can either focus on the political, reducing the domain of the economy to the empirical ‘servicing of goods’, or on the economic, reducing politics to a theatre of appearances, a passing phenomenon that will vanish with the arrival of a developed communist (or technocratic) society, in which, as Saint-Simon and Engels put it, the ‘administration of people’ gives way to the ‘administration of things’.

The ‘political’ critique of Marxism—the claim that, when one reduces politics to a ‘formal’ expression of some underlying ‘objective’ socio-economic process, one loses the openness and contingency constitutive of the political field proper—should thus be supplemented by its obverse: the field of economy is in its very form irreducible to politics. It is this reality, of the economic as the determining form of the social, that French ‘political post-Marxists’ miss when they reduce the economy to one of the positive social spheres.

The basic idea of the parallax view is thus that bracketing itself produces its object. ‘Democracy’ as a form emerges only when one brackets the texture of economic relations as well as the inherent logic of the political state apparatus—both have to be abstracted, for people who are effectively embedded in economic processes and subjected to state apparatuses to be reduced to individual electoral agents. The same goes also for the ‘logic of domination’, of the way people are controlled or manipulated by the apparatuses of subjection: in order to discern these mechanisms of power, one has to abstract not only from the democratic imaginary (as Foucault does in his analyses of the micro-physics of power, and Lacan in his analysis of power in ‘Seminar xviii’), but also from the process of economic (re)production. Finally, the sphere of economic (re)production, too, only emerges if one methodologically brackets the concrete existence of state and political ideology; it is no surprise that so many critics of Marx have complained that his ‘critique of political economy’ lacks a theory of power and the state. The trap to be avoided here, of course, is the naïve idea that one should keep in view the social totality, of which democratic ideology, the exercise of power and the process of economic (re)production are merely parts. If one tries to keep all these in view simultaneously, one ends up seeing nothing—their contours disappear. This bracketing is not a mere epistemological procedure, it answers to what Marx called ‘real abstraction’—an abstraction from power and economic relations that is inscribed into the very actuality of the democratic process, and so on.

Philosophy and homelessness
More radically still, should we not assert the parallax status of philosophy as such? From its very beginning with the Ionian Presocratics, philosophy emerged in the interstices of substantial social communities, as the thought of those who were caught in a ‘parallax’ position, unable fully to identify with any positive social identities. This is what is missing in Heidegger’s account: how, from his beloved Presocratics onwards, philosophizing has involved an ‘impossible’ position of displacement from any communal identity, be it in the ‘economy’, as the organization of the household, or the polis. Like exchange according to Marx, philosophy emerges in the interstices between different communities, in a fragile space of circulation which lacks any positive identity. Is this not especially clear in the case of Descartes? The grounding experience of his manifesto of universal doubt is precisely the ‘multicultural’ revelation that one’s own tradition is no better than what appear to us the ‘eccentric’ traditions of others:

I had been taught, even in my College days, that there is nothing imaginable so strange or so little credible that it has not been maintained by one philosopher or other, and I further recognized in the course of my travels that all those whose sentiments are very contrary to ours are yet not necessarily barbarians or savages, but may be possessed of reason in as great or even a greater degree than ourselves. I also considered how very different the self-same man, identical in mind and spirit, may become, according as he is brought up from childhood amongst the French or Germans, or has passed his whole life amongst Chinese or cannibals. I likewise noticed how even in the fashions of one’s clothing the same thing that pleased us ten years ago, and which will perhaps please us once again before ten years are passed, seems at the present time extravagant and ridiculous. I thus concluded that it is much more custom and example that persuade us than any certain knowledge, and yet in spite of this the voice of the majority does not afford a proof of any value in truths a little difficult to discover, because such truths are much more likely to have been discovered by one man than by a nation. I could not, however, put my finger on a single person whose opinions seemed preferable to those of others, and I found that I was, so to speak, constrained myself to undertake the direction of my procedure. [12]
Karatani is thus justified in emphasizing the insubstantial character of the cogito: ‘It cannot be spoken of positively; no sooner than it is, its function is lost’. [13] The cogito is not a substantial entity, but a pure structural function, an empty place (Lacan: $)—which as such can only emerge in the interstices of substantial communal systems. There is thus an intrinsic link between the emergence of the cogito and the disintegration and loss of substantive communal identities, which holds even more for Spinoza than for Descartes. Although Spinoza criticized the Cartesian cogito as a positive ontological entity, he implicitly endorsed it as the ‘position of the enunciated’, of a radical self-doubt, since even more than Descartes, Spinoza spoke from an interstitial social space, as neither a Jew nor a Christian.

It would be easy to reply that this Cartesian multiculturalist opening and relativizing of one’s own position is just a first step, the abandoning of inherited opinions, on the road to arrival at absolutely certain philosophic knowledge—the abandoning of the false shaky home in order to reach our true home. Did not Hegel himself compare Descartes’s discovery of the cogito to a sailor who, after long drifting on the sea, finally catches sight of firm ground? Is Cartesian homelessness thus not just a deceptive tactical move—a precursive ‘negation of negation’, the Aufhebung of the false traditional home in the finally discovered conceptual true home? Was in this sense Heidegger not justified in his approving quotation of Novalis’s definition of philosophy as a longing for the true lost home? We may be allowed to doubt it. After all, Kant himself stands as contrary witness: in his transcendental philosophy, homelessness remains irreducible—we remain forever split, condemned to a fragile position between the two dimensions and to a ‘leap of faith’ without any guarantee. Even with Hegel, are matters really so clear? Is it not that, for Hegel, this new ‘home’ is in a way homelessness itself, the very open movement of negativity?

Along these lines of the constitutive ‘homelessness’ of philosophy, Karatani asserts—against Hegel—Kant’s idea of a cosmopolitan ‘world-civil-society’ [Weltburgergesellschaft], which would not be a simple expansion of citizenship within a nation-state to citizenship of a global transnational state. For Karatani it involves a shift from identification with one’s ‘organic’ ethnic substance, actualized in a particular cultural tradition, to a radically different principle of identification—he refers to Deleuze’s notion of a ‘universal singularity’ as opposed to the triad of individuality–particularity–generality. This opposition is the contrast between Kant and Hegel. For Hegel, ‘world-civil-society’ is an abstract notion without substantial content, lacking the mediation of the particular and thus the force of full actuality. For the only way an individual can participate effectively in universal humanity is via full identification with a particular nation-state—I am ‘human’ only as a German, an Englishman, a Frenchman, and so on.

For Kant, on the contrary, ‘world-civil-society’ designates the paradox of a universal singularity—that is, of a singular subject who, in a kind of short-circuit, bypasses the mediation of the particular to participate directly in the universal. This identification with the universal is not an identification with an encompassing global substance (‘humanity’), but with a universal ethico-political principle—a universal religious collective, a scientific collective, a global revolutionary organization, all of which are in principle accessible to everyone. Just this, as Karatani points out, is what Kant meant, in a famous passage of ‘What is Enlightenment?’, by ‘public’ as opposed to ‘private’. For him what was ‘private’ was not the individual as opposed to the community, but the very communal–institutional order of one’s particular identification, while what was ‘public’ was the transnational universality of the exercise of one’s reason. The paradox is thus that one participates in the universal dimension of the ‘public’ sphere precisely as a singular individual, extracted from or even opposed to one’s substantive communal identification—one is truly universal only as radically singular, in the interstices of communal identities.

This, however, brings us to our first critical remark. Does Karatani really ‘give Hegel a chance’, or does he transform Hegel into a convenient straw man (as is often the case with critics of Hegel)? A negative proof of this insufficiency is a feature of Karatani’s book which cannot but strike the eye: the conspicuous absence of any reference to Alfred Sohn-Rethel, who also directly deployed the parallel between Kant’s transcendental critique and Marx’s critique of political economy, but in the opposite critical direction (the structure of the commodity universe is that of the Kantian transcendental space). [14] Karatani can only rely uncritically on Kant if he ignores the demonstration that Kant’s logic itself is already ‘contaminated’ by the structure of commodity fetishism, and that it is only Hegel’s dialectic which provides the tools to break out of the antinomies of the universe of commodities.

Lotteries of power
Furthermore, some of the details of Karatani’s reading of Kant are questionable. When Karatani proposes his ‘transcendental’ solution to the antinomy of money—we need an x which will be money and not-money—and then reapplies this solution to power—we need some centralized power, but not fetishized into a substance which is ‘in itself’ power—he explicitly evokes a structural homology with Duchamp, where an object becomes art not because of its inherent properties, but simply by occupying a certain place in the aesthetic system. But does not all this exactly fit Claude Lefort’s theorization of democracy as a political order in which the place of power is originally empty, and is only temporarily filled in by elected representatives? Along these lines, even Karatani’s apparently eccentric notion of combining elections with lotteries in the procedure of determining who will rule us is more traditional than it may appear. He himself mentions examples from Ancient Greece, but his proposal paradoxically fulfils the same task as Hegel’s theory of monarchy.

At this juncture Karatani takes the heroic risk of a crazy-sounding definition of the difference between the dictatorship of the bourgeoisie and the dictatorship of the proletariat: ‘If universal suffrage by secret ballot, namely, parliamentary democracy, is the dictatorship of the bourgeoisie, the introduction of a lottery should be deemed the dictatorship of the proletariat’. [15] In this way, ‘the centre exists and does not exist at the same time’ [16]: it exists as an empty place, a transcendental x, and it does not exist as a substantial positive entity. But would this really be enough to undermine the ‘fetishism of power’? A contingent individual is allowed to occupy the place of power temporarily, and the charisma of power briefly bestowed on him, following the well-known logic of fetishist disavowal: ‘I know very well that this is an ordinary person like me, but nonetheless . . . (while in power, he becomes an instrument of a transcendent force, power speaks and acts through him)’. Consequently, would not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the place of power, in keeping with the general matrix of Kant’s solutions, where metaphysical propositions (God, immortality of the soul, etc) are asserted ‘under erasure’, as postulates?

Lastly, Karatani’s account of Marx’s notions of surplus-value and of exploitation has a strange lacuna: it completely ignores the key element in his critique of the standard labour theory of value. For Marx, workers are not exploited by being denied the full value of their work—their wages are in principle ‘just’, they are paid the entire value of the commodity they are selling, their labour power. Rather they are exploited because the use-value of this commodity is unique—for it produces new value greater than its own value, and it is this surplus that is appropriated by the capitalists. Karatani, on the contrary, reduces exploitation to just another case of a difference in price between value systems: because of incessant technological innovation, capitalists can earn from selling the products of labour more than they have to pay their workers. Here capitalist exploitation is posited as structurally similar to the activity of merchants who buy and sell at different locations, exploiting the fact that the same product is cheaper here (where they buy it) than there (where they sell it):

Only where there is a difference in price between value systems: a (when they sell their labour power) and b (when they buy the commodities), is surplus value realized. This is so-called relative surplus value. And this is attained only by incessant technological innovation. Hence one finds that industrial capital too earns surplus value from the interstice between two different systems. [17]
Karatani ends by recommending the experiment of lets (a Local Exchange Trading System based on a non-marketed currency) as an economic model of ‘counteraction’ to capital. But it is difficult to see how this avoids the very trap to which Karatani otherwise points—the trap of a medium of exchange that would no longer be a fetish, but would serve just as a ‘labour-money’, a transparent instrument designating each individual’s contribution to the social product. Yet, however weak it may seem at these joints, Karatani’s book is a must for everyone who wants to break the deadlock of ‘cultural’ resistance to capitalism, and reassert the actuality of Marx’s critique of political economy. The objective irony of Karatani’s theory is that it can also be read as an allegory of the parallax split that has determined his own subjective position: he is geographically split between Osaka and the world of the East Coast us academia where he is now employed; his writing is split between literary-cultural analyses and engaged socio-political work; this work itself is yet again split between a ‘deconstructionist’ reading of Marxian political economy and a practical engagement in the New Associationist Movement in Japan. Far from signalling a critical failure, this parallax position of Karatani serves as the index of truth: in today’s globalized universe, marked by irreconcilable gaps between different levels of our life, such a fidelity to parallax views, to unresolved antagonisms, is the only way to approach the totality of our experience.

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[1] See Kojin Karatani, Transcritique. On Kant and Marx, Cambridge, ma 2003. Henceforth tkm.
[2] Origins of Modern Japanese Literature, Durham, nc 1993; Architecture as Metaphor: Language, Number, Money, Cambridge, ma 1995. For Karatani’s position within the Japanese critical field, see Asada Akira, ‘A Left within the Place of Nothingness’, nlr 5, September–October 2000, pp. 24, 35–36.
[3] tkm, p. 3.
[4] Karl Marx, ‘A Contribution to the Critique of Political Economy’, in Collected Works, vol. 29, New York 1976, p. 390.
[5] Karl Marx, Grundrisse, Harmondsworth 1993, pp. 420–1.
[6] tkm, p. 20.
[7] tkm, p. 290.
[8] tkm, p. 241.
[9] See, among others, Helmut Reichelt, Zur logischen Struktur des Kapitalbegriffs, Frankfurt 1969.
[10] tkm, p. 9.
[11] See Brian Rotman, Signifying Nothing: the Semiotics of Zero, London 1975.
[12] Discourse on Method, Notre Dame, in 1994, p. 33.
[13] tkm, p. 134.
[14] Alfred Sohn-Rethel, Intellectual and Manual Labour: a Critique of Epistemology, London 1978.
[15] tkm, p. 183. Karatani invokes the practice of sortition in Athenian democracy. But is not the combination of balloting and drawing by lots that he advocates close to the oligarchic procedure for electing the Doge in Venice, established in 1268, after an incumbent tried to obtain hereditary monarchic powers? There was first a vote for 30 members of a council, then another to select 9 of them. These 9 then nominated 40 provisional electors who in turn chose 12 by lot who then elected 25. These were reduced to 9, who then each nominated 5. The 45 so nominated were reduced by casting lots to 11; 9 of the 11 votes were needed to choose the final 41 who, meeting in conclave, would elect the Doge. The aim of this labyrinthine procedure was, of course, to prevent any group or family from exercising undue influence on the outcome. Furthermore, in order to prevent the Doge himself from getting too much power, there was a list of duties he could not undertake (his sons or daughters could not marry outside the Republic, he was only allowed to open official letters in the presence of others, etc.).
[16] tkm, p. 183.
[17] tkm, p. 239.

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カール・バルトを読む―キリストという出来事をめぐって

Posted by Shota Maehara : 3月 23, 2011

二〇世紀の最大の問題の一つが、ナチスドイツや日本の軍部によるファシズムであった点に異論はないであろう。近代は、デカルト以来、自己をあらゆる認識・存在の中心に置き、そこから科学を発展させ繁栄を築いてきた。

しかし、そうした理性や科学の時代こそが、ナチスを生んだのである。したがって、ナチスなどの国家に対して啓蒙主義的(=合理主義的)批判は無力であった。なぜなら、遥かにナチスドイツのほうが科学的合理性(優性遺伝子、メディア操作、原子力、ガス室など)を援用して民族を指導したからである。

では、ここにおいて何がこうした歴史の流れを押しとどめる力となりえるのか。その答えはスイスの神学者・カール・バルトにとって、神であるよりもむしろ、イエス・キリストをめぐる出来事であった。

おそらくバルトはこうしたキリストに対する認識をキルケゴールから得たのではないかと考える。それはバルトがやはりキルケゴールの強い影響を受けて、『ローマ書講解』を書き、それは時に「弁証法神学」とも呼ばれもしたからである。

ここでイエス・キリストとは無論、超越者ではない。むしろ、ありふれた隣人である。だが、この無限なる神がまさに地上に有限者として存在し給うたということ。ここにキリスト教の核心であるパラドックス(逆説)が存在するのである。

この他者性をもったイエス・キリストという出来事こそが、歴史に埋没しない特異な力でいまも我々を正しい道に連れ戻そうと呼びかけている。後期の彼の畢生の大作『教会教義学』はこのキリストの出来事を中心にして展開されていくのである。

本書は、こうした二〇世紀最高の神学者カール・バルトの全仕事を俯瞰することができる画期的なコレクションである。訳者である天野有氏に最大級の賛辞を送りつつ、日々紐解かせていただいている。

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三浦綾子『塩狩峠』におけるキリスト教の核心

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2010

三浦綾子『塩狩峠』

ある日、父はいつものように夕食をおえると、ソファーにもたれかかりながら今読んでいる本について語り始めた。定年で退職して以来、海外の古典文学を読みふけっている父が今読んでいる作品は三浦綾子の『塩狩峠』であった。父は自分の感動した箇所をひと通り説明し終わると、早速私に意見を求めてきた。私は父の話に共感しながらも、一つだけ不満を口にした。それは、小説を自分自身の問題にひきつけて読んでいないという点であった。なぜなら読書の醍醐味は、対岸の火事として話を読むのではなく、この話はまさに「お前のことだ」と言われているかのような姿勢で読むことにあるからだ。

キリスト教の核心

さらに重要なことに、こうした読書に向かう姿勢は、キリスト教における核心へと私たちを導く。私もまたそのことをこの作品から知らされた一人だった。とりわけ彼女自身の信仰告白との呼べるシーンが強く印象に残っている。そもそもこの作品は北海道の塩狩峠が舞台で駅員で敬虔なクリスチャンである永野信夫が自らの命を犠牲にして、乗客の命を救った実話をもとにしている。このシーンはまだ信仰に入る前の信夫がある伝道師から初めてキリストの教えの核心を突き付けられる場面である。

私:「主人公信夫はキリスト教伝道師伊木一馬を自宅に呼んで、イエスこそ人格を超えた神格を備えた存在であることを信じると告白する。無実でありながら十字架に架けられ、しかも自分を殺そうとする人たちのために《父よ、彼らを許し給え、その為す所を知らざればなり》と祈ることができる。この人こそ神の子であると深く感動したんだ。」

父:「それでキリスト教信者になったの?」

私:「いや、まだ。彼は伊木伝道師にこう問われるんだ―《しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか》。それに対して信夫はこの世の罪を背負うためにと答える。そして伊木はこう告げる―《そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか》と。」

ここで父はコーヒーを入れるために少し休憩をとった。やがて、キッチンから彼が戻ってきて、チョコレートと一緒にブラック・コーヒーを運んできた。それを飲みながら、父は満足そうにして、やがて私の方に向き直った。

父:「それでどうなったの?」

私:「信夫ははじめどうしてもそれが信じられないんだよ。自分はそんなことした覚えはないと言ったら、それじゃあなたはキリストとは何の縁もない人間ですって、ばっさり切り捨てられちゃって。この重要な対話部分を読み上げてみるね―《先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか》、《そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ(略)》。」

なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか

父:「信夫は自分自身をさほど罪深いとは思っていなかったわけだね。」

私:「そう、でもここからが大切なんだ。キリストの処刑を自らの犯した罪と受け止めることによって、人は時代と空間を超えて、古代のイェルサレムでのイエスの死に立ち合うんだ。そうすることによって、キリストの存在は彼らにとって遠く離れた昔の出来事ではなくて、今・ここで起こっている出来事に変わるんだ。こうして人々がこの出来事に自ら罪びととしての意識を持って同時代性を感じ続けるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に生き生きとし、人々に読み継がれていくんだ。」

二人の話はとうとう佳境に差し掛かりつつあった。父もだいぶ疲れ始めているので、私はこれまでの話をここでまとめて切り上げようと思った。実際彼の瞼はもう閉じそうになっていて、まるでゾンビと深夜二人で話しているような孤独な心境だった。

私:「キリスト教は、この罪という概念によって、同時代性=永遠性を獲得したんだ。時空間を超えて、読み手がこの出来事を自分自身の問題として受け止めるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に古びることがない。この内(この世)と外(あの世)とを繋ぐ回転扉のような聖書という不思議な書物は後にも先にも現れないだろうな。これこそ人類史上普遍の傑作であり、後のダンテやゲーテ、そしてドストエフスキーに至るまで今日の文学はこの形式を反復しているに過ぎないと言うこともできるからね。」

父:「(半分眠りながら)なんか難しくなってきたね。つまりどういうこと?」

私:「まあ要するにいつも言っていることだよ。つまり、文学であれ歴史であれ本を読むときには、それを単にストーリーや内容を追うものとしてではなく、自分自身だったらどうするかという主体性が大切なんだよ。だってあらゆる偉大な書物はこれはお前のことだよって挑発しているんだからね。その挑戦にどう応答するかが読書の醍醐味じゃないのかな。」

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U2―魂の歌を求めて

Posted by Shota Maehara : 6月 2, 2010

アイルランド出身のロック・バンド、U2はあまりにビックであるがゆえに、毀誉褒貶の嵐の中でなかなかその本質が見えにくい。しかし、本書『U2―魂の歌を求めて』(岳陽舎)は「U2」という稀有な存在を描きだすことに成功している。

なぜ、近代のヒューマニズムを支えた愛や平和や正義などの虚偽が暴かれ、そうした価値を誰もが口にすることさえできなくなっている時代に、U2は猶もそうした肯定的な価値に固執し、歌い続ける事が出来るのか。我々が今まさに取り戻さねばならないのは彼らのような精神ではないのか、そう思えてくる。

U2の音楽を繰り返し聴いていると、現代の讃美歌のように響いてくる。それは現代のどの教会で鳴り響く讃美歌に勝るとも劣らぬ神聖さを感じさせる。アーティストとしても、クリスチャンとしても彼らから本当に多くのことを学べるような気がする。悩み多き現代において福音や曙光のように射してくる彼らのような存在は素晴らしい。

私はあまりにも人の心を傷つけることに疲れた。むしろ人に愛を与える事のできる人間に生まれ変わりたいと願う。きっと、同じように感じている人は多いのではないか。プライドや肩書で前に進む傲慢な人間ではなく、もっと大きなものをめざして謙虚に歩む人間になりたいと願うあなたに本書をぜひ紐解いてもらいたい。

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通俗作家サマセット・モームの謎

Posted by Shota Maehara : 9月 15, 2008

 

 サマセット・モームは通俗的な作家だというのがもっぱら人口に膾炙した見方である。これは確かだとしても、「通俗」とはいかなる意味であるか、という問いを発したものは少ない。そもそも文化や芸術批評において通俗性という入口で思考が止まってしまっている分析が数多い。
 だが、サマセット・モームの作品の通俗性は、そのストリーテラーの才もさることながら、物語の中に意図的にブラック・ボックスを作り出す手法にあるといえる。いったい彼の作品は完全に解りきるということがなく、必ず物語の中に余白と呼べるような、読者の想像に任せる隙間を巧妙に拵えておく。このブラックボックスが物語の構造を支える架空の一点になっている。
 例えば、彼の代表的短編「雨」は、雨の多い熱帯地方パゴパゴに医師のマクフェイル博士夫妻と宣教師デイヴィッドソンらが乗る船が麻疹患者がでたために停泊するシーンから始まる。この土地に一軒しかない商人の貸室には彼らと一緒に下船した娼婦らしい女トムソンがいた。階下で蓄音器を鳴らしてパーティーをする彼女の淫蕩ぶりに対し、悔い改めろと迫ったデイヴィッドソンは侮辱されて追い返される。
 その後、島の提督へ働きかけ、この女を強制送還させるよう画策する。するととうとう音をあげた女は、泣きながら宣教師に許しを乞う。デイヴィッドソンは悔い改めた女を前にして、神の御業に恍惚となる。そして本当に生まれ変わるためにむしろ女が自ら罰を受け入れるべきと諭す。この土地の雨と罪の自覚のために徐々に精神の均衡を崩していく娼婦トムソンだった。
 しかし、物語は急転直下、宣教師デイヴィッドソンの突然の自殺によって幕を閉じる。その時、マクフェイル博士が目撃したものは、以前と同じ姿を取り戻したトムソンと、彼女の次の嘲りの言葉だった。

「男、男がなんだ。豚だ!けがらわしい豚!みんな同じ穴のむじなだよ、おまえさんたちは。豚!豚!」(中野好夫訳)

 実は、私自身最初にこの短編を読んだとき、結末の真意が完全に掴めなかった。一体娼婦が宣教師を誘惑して一夜を共にしたのか、逆に宣教師が彼女を求めたのか、もしくはたんに彼女が実は悔い改めていないことを悟って宣教師は死を選んだのか。熱帯に降り続く雨はどちらの理性をも狂わさずにはおかなかったともいえる。
 しかし、いずれにせよ著者はこの部分をあえてブラックボックスのままにしたのだという方が正鵠を得ている。なぜならこの謎は作品に不明瞭な死角を残すことで、平板なストーリーに、立体的な奥行きを生み出しているからである。かくしてサマセット・モームはこの手法を駆使することによって、いわゆる時代の中で消えてしまう通俗作家と異なり、時代が変わっても読み継がれる通俗作家という特異な位置を獲得し得たのである。

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「蟹工船」と漂流する日本

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2008

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

・『蟹工船』ブームに沸く格差社会

日本列島に幽霊船が出没する―蟹工船という幽霊船である。

2008年日本はネットカフェ難民や秋葉原での連続殺傷事件が相次ぎ殺伐とした雰囲気に包まれている。そんな中で、80年前のプロレタリア作品が30万部という異例の売れ行きを見せているという。それは小林多喜二の代表作『蟹工船』である。

蟹工船は、オホーツク海で蟹を捕まえ缶詰めに加工する船のことである。そこで働く出稼ぎ労働者は、極寒の中で長時間の労働と、監督の執拗な虐待に怒り、人間的な待遇を求めて団結し、ストライキに踏み切る。その意味で極めて風刺的な架空小説であり、ヒューマニズムを色濃く漂わせる作品である。

この流行の背後には、つい最近まで中間層に属していた人々が次々に貧困層に落ちていく過程で生み出された不安がある。いわばこの「新貧困層」(ホッファー)は、失った暮らしへの憧憬と戻れない絶望から社会の不安定分子になりやすい。このまま事態を放置すれば、社会の同情を背景にして、大規模なテロや暴力事件が起こる可能性がある。

・「アフリカ的段階」について

最近、批評家の吉本隆明は「文藝春秋」(7月号)に「「蟹工船」と新貧困社会」と題した文章を寄稿している。彼はその中で、日雇いや派遣で働く若者の苦労に一定の共感を示す。その上で、敗戦後の混乱を生き抜いてきた世代として、本当の飢えを知っているのかと疑問を呈する。

だが一方で、彼は人々の連帯を取り戻すために、「アフリカ的段階」なるものを考え直すのがヒントになるのではと述べる。つまり、現代の西欧を中心とした資本主義的段階は、実はこれまで遅れていると思われていたアフリカやおそらく先住民の暮らしにこそ学ぶべきものがある。例えば、資本主義化の波の中でも、生き生きとした共同体が存続し、その結果「人間のモラルや宗教や家族の暮らしがまだ残っている」と指摘する。

確かに現代社会は、個人が孤立したために、他者の幸福への妬みと、他者の痛みへの無関心が満ちている一方で、誰しもがどこか癒しやつながりを求めている。事実、「同世代の若者に、労働者としての何らかの意識、闘争のための古典的な連帯はほとんど存在しない」という読者の嘆きがそれを裏書している。この閉塞感を打開するためには単なる批判ではなく、建設的な批判こそが求められている。

・「コモンズ」(共有財産)の概念

吉本の唱える「アフリカ的段階」なるものをもう少し学問的俎上に載せるなら、それは「コモンズ」(共有財産)の再評価と呼べるだろう。例えば、コモンズとはもともとは村の入会地や川などを指す。入会地は、村人が共同で管理し、そこから薪などを拾ってくることで、燃料に利用することができる。村人は寄り合いで、その資源を平等に配分するよう取り決める。

なぜこの「コモンズ」(共有財産)が重要なのか。なぜならコモンズを守り育てることで人は最低限の生活基盤を確保できるからである。歴史的に、資本主義化の過程とは、こうした地域共同体の共有財をケーキを切り分けるように私有化していく過程であった。その最たるものは土地である。この土地が売買の対象になった時はじめて資本主義が誕生する。マルクスは中世に共有地であった裏山から木材を採って罰せられた近代的裁判の模様を印象深く記している。

私はこの「コモンズ」の概念を拡張して、明確化し、それをデモクラシー(地方分権)の議論と接続すべきであると考える。まずコモンズとして産業化から保護すべきは次の三つの分野である。(1) 教育 (2) 医療 (3) 環境。私がこれらを選んだ理由は二つある。これらがどれも人間の生活の根幹領域であるという点。そして次にこれらがどれも企業の利潤活動に依存させられるべきでなく、やがてはその手を離れてゆくべきであるからだ。

例えば、介護が不足している場合、充実したサービスを提供する企業を求めるが、営利企業であるがゆえに一生介護に依存する人を生み出しかねない。むしろ重要なのは充実したサービスではなく、それがなくても生きられるようにすることである。国家にある程度の補助を受けるとしても、こうした各部門は、地域の事情に通じ、かつ専門的知識を持った市や町の行政やNGO・NPOによって運営されていくことが望ましい。

・次なる社会へ

では日本の次なる社会像はどのように描かれるべきであろうか。私は地域分権化が進み、究極的に小さい行政単位に日本が分割されて、これら教育、医療、環境が人々に無償で提供される社会こそが目指されるべきだと考える。実際、このような例は世界に少なからず存在する。その意味で、スイスやスウェーデンなどの社会民主主義国ばかりでなく、キューバなどの社会主義国が参考になるだろう。

最後に、こうした指摘に対しては多くの批判があり得るだろう。まず、税制をめぐる問題。とりわけ国家官僚の影響力をどうシャットアウトできるか。次に、コモンズである三つの分野の質を持続的に確保できるかという問題。そして何よりも根本的な問題として、人間の持つ攻撃性をいかに抑止しうるかという点は無視できない。なぜなら、人間や共同体の起源にはつねに略奪や征服がある。なかでも、他の共同体との間で紛争や対立は必然的に付き纏う。今後議論を深めていくためにはこれらのことを考えていく必要がある。

ただし詳述はできないが、あえて言えば暴力の発生を相互抑止するメカニズムはデモクラシーの原理のなかにあると確信している。

[付記]

このエッセイを書く上で、多くの先達の議論を参照させていただいた。「コモンズ」(共有財産)の概念には、哲学者のイヴァン・イリイチ、そして経済学者のE・F・シューマッハ、宇沢弘文の諸著作に多くを負っている。とりわけ宇沢弘文氏は「コモンズ」の概念に当たる「社会的共通資本」(Social Common Capital)という考えを提唱し、それを自然環境系、インフラ系、制度系に分類し精緻化させている。変わらぬ敬意と感謝を捧ぐ。

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サイード『知識人とは何か』―「再帰せる野蛮時代」(ヴィーコ)を生きる知識人

Posted by Shota Maehara : 5月 28, 2008

知��人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

サイードの仕事は、『オリエンタリズム』に示された様に、文学者(知識人)と帝国主義支配の共犯関係を暴くことに向けられた。しかし、後にサイードは「知識人」と言うものを再び肯定的に捉え、自らその役目を引き受けようとする。ここに後期サイードの転回があるといっても言い過ぎではない。

たとえば知識人の代表格でありそれゆえ攻撃の的になるサルトルは文学者であり、「普遍的」な価値があることを主張していた。それに対して、フーコーは「普遍的」知識人という存在を疑い、グラムシを援用しつつ今や生産関係から超越した司祭型の「伝統的知識人」よりも、「有機的知識人」を重視したように見える。それは手に職を持ちつつ、そこから世界がどう見えるかを訴えるような複数のシステムに属している生活者+指導者のことである。工場労働者でありオピニオンリーダーでもある者だけが大衆文化の何たるかを語れる…。

しかし、サイードはこうしたグラムシの知識人像を受け継ぎながらも、なおも「普遍的」価値を追求することにこだわる。それは一見語義矛盾であるが、人間や知識人の終りを宣言したフーコーさえも街頭デモに率先して参加(アンガージュ)したことを思えば奇異ではない。実はサイードの言う知識人とは「批評性」そのものである。つまり一つの価値システムを自明視せず、外からそれを批判する単独者=亡命者。それは聖ヴィクトルの引用―「故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力を蓄えた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である」に見事に言い表わされている。

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