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Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘映画’ Category

『人類の子供たち』(アルフォンソ・キュアロン監督)について語る

Posted by Shota Maehara : 6月 20, 2010

本作『トゥモロー・ワールド(原題=人類の子供たち)』はアルフォンソ・キュアロンが監督し、2006年に公開された近未来SFアクション巨編だ。

舞台は2027年のロンドン。地球環境の汚染やテロ、移民の問題などに加え、人類には18年間子供が誕生していなかった。あと50年もすれば人類を受け継ぐ世代がいなくなってしまうことから、人々は希望を失い、秩序は崩壊していった。そんな中で移民の少女が子供を身ごもる。元活動家のセオは、この少女をヒューマン・プロジェクトと呼ばれる組織に引き渡すため彼女を守り、彼らが船でやってくる海へと向かう。

ハリウッドにはない圧倒的な映像美、背景の効果、俳優の演技力、巧みなプロット(筋書き)、そして何よりマリアの受胎やノアの箱舟を思わせるキリスト教的世界観、どれをとっても素晴らしい。優れた文学作品がそうであるように、現実をよりリアルに描くとそれがあるリアリティをもった架空世界のように見えてしまう。その意味で、この作品はまさにイギリスのジョージ・オーウェル『1984』に代表されるアンチ・ユートピアの系譜に連なる作品だ。

そしてそれ以上にこの作品を奥行きあるものとしているのは聖書の視点である。過去に活動家だった主人公セオは、同じ活動家のジュリアンとの間に一子をもうけるが、まもなく病気で亡くしてしまう。そして、ジュリアンと20年間会うことなく、傷を負ったまま無気力に生きている。この映画で描かれるグローバル資本主義に由る様々な弊害とともに、この無気力な主人公セオはポスト・モダニストと呼ばれる我々の生き写しである。

私がこの作品を見てつくづく思うのは、真に新しい芸術は、普遍的なものを追求していく態度が根本になくてはもはや作り得ないということだ。日本の芸術家の作品が文学にしても音楽にしても映画にしてもどこか陳腐なのは愛を語ってもそこに商業的な響きしか感じられぬからではないだろうか。しからば凡ての若き日本の芸術家の卵よ、まず自分にとって、そして世界にとってなくてはならぬものとは一体何なのかを深く沈静して見いだしていかねばならないのではないだろうか。

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『東京物語』試論―「時間」の共有をめぐって

Posted by Shota Maehara : 1月 10, 2010

久しぶりに小津安二郎監督の名作『東京物語』を観る機会があった。その映画に触発されて現代の様々な問題点が浮かび上がってくるような思いがした。それは私自身常日頃感じているテーマとも触れ合う。つまり、現代の人間関係の再構築をするにはどうすればいいのかという難問である。これは多かれ少なかれ現代人が抱える共通した欠陥なのではないだろうか。うつや自殺者は毎年後を絶たず、結婚活動(コンカツ)や離婚活動(リカツ)などが流行語に選ばれたりする昨今、人々が他人と精神的つながりを感じられなくなってきているのではないだろうか。私はここに現代の癒しがたい病を見る思いがするのだ。

『東京物語』は、年老いた夫婦が成長した子供たちに合うために上京する旅を通して、戦後の日本における急速な核家族化の実態を描いている。さらにこれまで信じられてきた「家族愛」の崩壊と再生を繊細な描写で描き出している。物語の筋そのものは極めてシンプルである。平山周吉と平山とみの老夫妻は、東京に生活する子供たちに会いに尾道から上京する。しかしそこで彼らから自分たちは疎外されていると感じる。子供たちはそれぞれ家庭や仕事を持ち自分たちの時間で動いているからだ。彼らは絶えず時間に追われていて、彼らを充分かまってやることができない。そのため熱海の温泉に宿泊させたりする。そしてそこから老夫妻が戻るとその存在を一層疎ましく感じ始める。

ただ一人戦死した次男・昌二の嫁・紀子だけはこの老夫妻に優しく接する。上京中も彼女は仕事を休んで、観光バスで街を案内し、義理の母である平山とみが危篤になって駆け付けた時や亡くなった後も本当の娘以上に身の回りの世話をしてくれる。この映画の中で紀子の存在が失われた家族愛の再生のカギを握っている野は確かである。血を分けた子供に冷たくあしらわれ、その一方で血の繋がっていない他人に親切にされる。この逆説を通して新たな人間関係の構築は可能であることを示し映画は幕を閉じる。

ここで、私たちにとって非常に興味深いのは、なぜこの「平山紀子」(原節子)だけが老夫妻を優しくもてなすことができたのだろうか、という点である。それは単に性格の良し悪しだけに起因する問題だったのであろうか。いや、おそらくそうではあるまい。実は、この映画の謎を紐解くことのできる唯一のキーワードは「時間」である。それは例えば、尾道(田舎)と東京(都会)の時間の流れの対比であり、老夫婦と息子や娘夫婦の時間の流れの対比である。そして、何よりも重要なのは、8年前に戦争で夫を失った「紀子」の時間がその時以来止まったままであるという事実である。ここに紀子だけが田舎から上京した老夫婦に優しく接しえた理由があるように思われる。

紀子は夫・昌二を戦争で失って以来、東京でOLとして働き、一人暮らしをしている。戦後東京では特に、目覚ましい復興を遂げ、人々の意識が変わっていく中で、兄弟中でこの紀子だけが過去との繋がりを持ち続け、8年たった今も部屋に亡くなった主人の写真を飾っている。そのことを老夫婦に指摘される場面がある。老夫婦はこれまで彼女に苦労の駆け通しだったと詫び、これからはもう次男のことは忘れて、もう一度良い人と巡り合って再婚することを勧める。しかし、彼女は「良い人がいればね」と何気なくこの場をやり過ごす。老夫婦は自分たちにこんなに尽くしてくれるあなたならきっと良い話はあるというのだった。

この映画は、時間の観点からいって、三つの共同体に分類することができる。第一は、戦災を逃れてほぼ昔のままの尾道の緩やかな田舎の生活と、第二は戦後急速に変容する東京のせわしない都市生活、そして第三にただ過去のある時点で時間が止まったままの「紀子」に代表される傷ついた者たちの生活である。第一の共同体と第二の共同体の対話は困難に思われたが、第一と第三の共同体は不思議に心を通わせることができる。それはおそらく戦後急速に変容する日本の中で、両者が共に「過去」に属する者であったからであろう。

その意味で、義理の母の平山とみが亡くなった後に交わされる周吉と紀子の会話は印象的である。「あなたにいつまでもそうして独りでいられるとこちらが心苦しくてならない」という義理の父・周吉に対して、彼女ははじめて自分の心情を次のように吐露する。「私はずるいんです。本当はそういつもいつも昌二さんのことばかり思っているわけではないんです。最近は思い出さなくなる日もあるくらい。それにこのまま独りでいたらと思うと不安なんです」と。

さらに尾道で老夫婦と暮らして、小学校教師をしている次女の京子と紀子との間で最後に交わされるセリフは映画を撮った小津監督自身の主張である。自分の実の母に対する兄姉の心無い態度に憤る京子に対して、紀子は言う。「彼らは悪気が合ってそうしているのではない。彼らにはもう彼らの家族があり仕事があり生活があるのだから。皆それに従って生きていかなくてはならないものなの」と。でも「お姉さんは違うじゃない」という京子に対して、「自分もだんだんそうなっていくの。いやでもそれは仕方のないことなの」と紀子は答える。京子はそれに対して「自分はそうなりたくない」とポツリとこぼすのだった。最後に紀子は京子に「あなたも今度きっと東京にいらっしゃい」と言葉をかける。

これら三つの共同体の間の対話とその不可能性を通して小津は、戦後の社会のみならず、いついかなる時代も存在する「孤独」というテーマに向き合おうとする。ただし、その筆致はいかにも小津らしく愛のある眼差しとも呼べるほど温かさを感じる。つまり、観る者の心を癒してくれる力があるかのようだ。

この映画を通して、私は自分自身の心にも年老いた人々や肉親を疎ましく思う心があることを認めぬ訳にはいかなかった。そして、本当の意味で他者と繋がることに恐れを感じているのではないかと針で心をちくちく刺されているような気持にもさせられた。私たち平凡人の心の内に潜む「冷たさ」が私たちの人間関係をいかに自己疎外しているかを再認識させられる。

その一方で、小津は新たな人間関係の構築の可能性をも指し示している。それは複数の時間の共同体の交錯の中でも、紀子のようにそれらをつなぎ合わせ、コミュニケーションを成り立たせていくことは可能であること。インターネットなどのテクノロジーを背景にして、複数の私的な時間の成立が既存の共同体を壊してしまったのであるならば、またそれらの分裂した個々人の時間を多様なチャネル(仕事、趣味、恋愛、社会奉仕など)を通じてふたたび同期させていくことができればまた新たな共同体は生まれ得るのである。

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『東京物語』(監督/小津安二郎)

Posted by Shota Maehara : 12月 13, 2009

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チャップリン『独裁者』の演説

Posted by Shota Maehara : 12月 7, 2008

 

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I’m sorry but I don’t want to be an Emperor. That’s not my business.
I don’t want to rule or conquer anyone.
I should like to help everyone if possible, Jew, gentile, black man, white.

申し訳ない 私は皇帝になりたくない
支配はしたくない
できれば援助したい ユダヤ人も黒人も白人も

We all want to help one another, human beings are like that.
We all want to live by each other’s happiness, not by each other’s misery. We don’t want to hate and despise one another.
In this world there is room for everyone and the earth is rich and can provide for everyone.

人類はお互いに助け合うべきである
他人の幸福を念願として お互いに憎しみあったりしてはならない
世界には全人類を養う富がある

The way of life can be free and beautiful. But we have lost the way.
Greed has poisoned men’s souls has barricaded the world with hate, has goose-stepped us into misery and bloodshed.

人生は自由で楽しいはずであるのに
貧欲が人類を毒し 憎悪をもたらし 悲劇と流血を招いた

We have developed speed but we have shut ourselves in, machinery that gives abundance has left us in want.
Our knowledge has made us cynical, our cleverness hard and unkind.

スピードも意思を通じさせず 機械は貧富の差を作り
知識をえて人類は懐疑的になった

We think too much and feel too little,
more than machinery we need humanity,
more than cleverness we need kindness and gentleness,
without these qualities, life will be violent and all will be lost.

思想だけがあって感情がなく
人間性が失われた
知識より思いやりが必要である
思いやりがないと暴力だけが残る

The aeroplane and the radio have brought us closer together.
The very nature of these inventions cries out for the goodness in men, cries out for universal brotherhood for the unity of us all.
Even now my voice is reaching millions throughout the world, millions of despairing men, women and little children,
victims of a system that makes men torture and imprison innocent people.
To those who can hear me, I say “Do not despair”.

航空機とラジオは我々を接近させ
人類の良心に呼びかけて 世界をひとつにする力がある
私の声は全世界に伝わり 失意の人々にも届いている
これらの人々は罪なくして苦しんでいる
人々よ 失望してはならない

The misery that is now upon us is but the passing of greed,
the bitterness of men who fear the way of human progress,
the hate of men will pass and dictators die,
and the power they took from the people will return to the people,
and so long as men die, liberty will never perish.

貧欲はやがて姿を消し
恐怖もやがて消え去り
独裁者は死に絶える
大衆は再び権力を取り戻し
自由は決して失われぬ!

Soldiers, Don’t give yourselves to brutes,
men who despise you and enslave you – who regiment your lives,
tell you what to do, what to think and what to feel,
who drill you, diet you, treat you as cattle, as cannon fodder.

兵士諸君 犠牲になるな
独裁者の奴隷になるな!
彼等は諸君を欺き
犠牲を強いて家畜の様に追い回している!

Don’t give yourselves to these unnatural men, machine men, with machine minds and machine hearts.
You are not machines. You are not cattle.
You are men.
You have the love of humanity in your hearts.
You don’t hate, only the unloved hate. Only the unloved and the unnatural.
Soldiers! Don’t fight for slavery, fight for liberty.

彼等は人間ではない! 心も頭も機械に等しい!
諸君は機械ではない!
人間だ!
心に愛を抱いてる
愛を知らぬ者だけが憎み合うのだ!
独裁を排し 自由の為に戦え!

In the seventeenth chapter of Saint Luke it is written “the kingdom of God is within man” –
not one man, nor a group of men – but in all men – in you, the people.

“神の王国は人間の中にある”
すべての人間の中に! 諸君の中に!

You the people have the power, the power to create machines, the power to create happiness.
You the people have the power to make life free and beautiful, to make this life a wonderful adventure.

諸君は幸福を生み出す力を持っている
人生は美しく 自由であり すばらしいものだ!

Then in the name of democracy let’s use that power – let us all unite.
Let us fight for a new world,
a decent world that will give men a chance to work, that will give you the future and old age and security.

諸君の力を民主主義の為に集結しよう!
よき世界の為に戦おう!
青年に希望を与え 老人に保障を与えよう

By the promise of these things, brutes have risen to power, but they lie.
They do not fulfil their promise, they never will.
Dictators free themselves but they enslave the people.

独裁者も同じ約束をした
だが彼らは約束を守らない!
彼らの野心を満し 大衆を奴隷にした!

Now let us fight to fulfil that promise.
Let us fight to free the world, to do away with national barriers, do away with greed, with hate and intolerance.
Let us fight for a world of reason, a world where science and progress will lead to all men’s happiness.
Soldiers! In the name of democracy, let us all unite!

戦おう 約束を果す為に!
世界に自由をもたらし 国境を取除き 貧欲と憎悪を追放しよう!
良心の為に戦おう 文化の進歩が全人類を幸福に導くように
兵士諸君 民主主義の為に団結しよう!

Hannah, can you hear me?
Wherever you are, look up Hannah.

ハンナ 聞こえるかい
元気をお出し

The clouds are lifting, the sun is breaking through.
We are coming out of the darkness into the light.
We are coming into a new world.
A kind new world where men will rise above their hate, their greed and their brutality.

ご覧 暗い雲が消え去った 太陽が輝いてる
明るい光がさし始めた
新しい世界が開けてきた
人類は貧欲と憎悪と暴力を克服したのだ

Look up Hannah.
The soul of man has been given wings – and at last he is beginning to fly.
He is flying into the rainbow – into the light of hope, into the future,
the glorious future that belongs to you, to me, and to all of us.
Look up hunna. Look up.

人間の魂は翼を与えられていた やっと飛び始めた
虹の中に飛び始めた 希望に輝く未来に向かって
輝かしい未来が君にも私にもやって来る 我々すべてに!
ハンナ 元気をお出し!

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ジャッキー・チェン讃歌―人命を代償にする革命は崇高ではない

Posted by Shota Maehara : 11月 6, 2008

ジャッキー・チェン(Jackie Chan)は、アジアが世界に誇るアクションスターである。彼は、一九五四年に香港で生まれる。七歳から京劇や中国武術を学び、その後スタントマンとして映画の世界に飛び込んだ。従来暗いイメージだったカンフー映画にコメディーの要素やストーリー性を取り入れることで、ファン層を広げることに成功した。

確かに修行を通して師弟関係を描き、最後に強敵を倒すという純粋なカンフー映画も素晴らしかったが、ストーリー(歴史)を織り交ぜたことで映画は深みを増したといえる。例えば、一九八三年の『プロジェクトA』はその代表作だ。この作品は二〇世紀初頭のイギリス殖民統治下の香港が舞台である。この作品で彼は主演、監督、武術指導、脚本を務めている。特に高い時計塔から落ちるスタントは圧巻としか言いようがない。内容はイギリス海軍や沿岸警備隊が海賊を取り締まるというストーリーで、サモ・ハン・キンポーやユン・ピョウなどの多くの名優が出演している。

一九八七年にはこの続編として『プロジェクトA2 史上最大の標的』が日本先行で公開された。キャスティングは前作ほど華やかではないものの、内容はぐっと深みを増している。特に清朝末期の香港が舞台となっているため、腐敗した警察内部と暗黒街の首魁の癒着、革命を掲げる若者たちと暗躍する清朝のスパイのそれぞれの思惑とやりとりだけでも観る者を飽きさせない。ジャッキーはこの地区に警察署長として赴任し活躍する。

特に印象的なシーンは、返り咲きを狙っている前警察署長の罠にかかって、逮捕され袋詰めにされて川に投げられたジャッキーを助けてくれた革命派の青年と婦人たちとの会話である。正義感から同じ警察内部の人間に殺されかけた彼に革命派の青年が人民を救うため一緒にやらないかという。するとジャッキーは次のように答えるのだ。

「そりゃ、君たちのやろうとしていることは、立派だと思う。」「でも、もし革命になったらどうなる。」

「革命に多少の犠牲はつきものだ。」

「ほらそこだよ、僕は警官だ。警官には市民を守るという義務がある。」「僕は眼の前の一人を見殺しにすることはできない。」

ここには社会主義者と自由主義者の考え方の違いが象徴的に表れている。明らかに、ジャッキーは腐敗を憎み虐げられた人のために良い世の中を作ろうという理想に燃えるこの革命派の青年に好感を持っている。私利私欲のために自分を殺そうとした前署長よりも、もしかすると目指す目標は彼らに近いのかもしれない。

しかしそうでありながらも、その理想のために多少の犠牲は已む無しという道を採ることはできない。おそらく、どんな理想よりも個人を重んじ、その立場から現実を粘り強く改変していく困難な道を自らに課そうとする。これが社会主義と自由主義とが交わるかに見えた寸前で、両者を分かつ神聖なラインなのだ。

この場面を思いだすと、私はシモーヌ・ヴェイユの次の一節を連想せざるを得ない―『カラマーゾフの兄弟』の中のイワンの議論。「この壮大な塔の構築によって今まで見なかったようなどんなにすばらしい光景があらわれるとしても、それがただひとりの子どもにただ一滴の涙を流させずにはあがなえぬものなら、ぼくはおことわりするね。」わたしは、この意見にまったく固執する。ひとりの子どもの一滴の涙をつぐなうにたるものとして、たとえ人がどんな理由をもち出してくるとしても、わたしはこの涙を容認することはできない。知性によって考えつくことのできるかぎりのどんな理由であろうと、絶対に。ただひとつだけの理由を除いて。ただし、それは超自然的な愛によってのみ理解できるものである。すなわち、神のみこころであったということである。(『重力と恩寵』)

私もまたこの意見に深く同意する。所詮人間が考えた大義名分に過ぎない革命や理想に人の命を犠牲にしていい程崇高なものがあるんだろうか。結果として、多くの人命が失われてしまったということは歴史に無数の記録がある。だがそれに対して私はどこまでも個人の生命と人格を守り抜きたいし、それにもっともな理由をつけてくる人間を決して信じないであろう。ひとは自分の命を軽々しく理想のために犠牲にすべきではない。それは他人の命をも軽々しく扱うことにつながりかねないのであるから。かつてスターリンのソ連がそうであったように。

もし仮にこれをヒューマニズム(人道主義)だと笑う人がいれば笑わせておこう。映画の本質はヒューマニズムだ。ジャッキーはそれを華麗なアクションとコメディーによって見事な娯楽作品に作り上げ、私たちを楽しませてくれる。そして、もちろん芸術の本質は人を楽しませることだ。ジャッキー・チェンよ、カンフー映画よ、永遠なれ。

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人は戦場で何のために命を賭すべきか

Posted by Shota Maehara : 10月 28, 2008

もし明日あなたは国のために戦地に赴かねばならないと告げられたら、私ならばどう答えるだろう。きっと何度も逡巡した挙句、次の結論に達するのではないか。何故大義のない戦争で死ななければならないのか。私はその無意味な死を考えると恐ろしい。臆病者と嘲笑い軽蔑もされるだろう。しかし、本当に国家のために戦争で死ぬことだけが正しくまた勇敢なことなのだろうか。私は何かに命を賭けることが惜しいのではない。自分の信じるもののためになら死ぬことも厭わない。では、自分にとって命を賭けるに値するもの、それは一体何であろうか。

イギリスに『四枚の羽根』(A・E・W・メイソン作)という古典的名作がある。この作品は、二〇〇二年にイギリスとアメリカの合作『サハラに舞う羽根』(原題:The Four Feathers)として、六度目の映画化がなされた。監督はシェカール・カプールである。実はこの作品の主題に関して、初めて見たときあまり判然としなかったが、今になってみるととても切実で重要なメッセージを含んでいることに気づかされる。

一八八四年の大英帝国が舞台である。将軍の息子ハリーは、美しい婚約者エスネと親友のジャックをはじめ三人の友人に囲まれていた。陸軍士官である彼らの下にスーダンへの召集令状が下る。まだ見ぬ戦地を思って、武者震いする仲間たち。ただ一人ハリーは、浮かない顔をする。「自分にとって大切なものを犠牲にしてまで、英国の領土を拡大するためだけに、不毛の砂漠を奪いに行く価値はあるのか?」、こう彼は思わずにはいられない。そして、ハリーは一人除隊を決意する。

三人の仲間はハリーを臆病者と罵りその象徴である白い羽根を渡して戦地に向かう。そして、恋人のエスネにも白い羽根を渡されてしまう。ただジャックだけは、ハリーを信じて庇うが、やはり彼の本意は掴めぬまま戦場に向かう。やがて、スーダンの戦況が伝わってくる。次々と告げられる戦死者の名。灼熱の砂漠で、部隊は苦戦を強いられる。そんな中で、かつて「君になら僕の命を託せる」と言ったジャックの言葉が、彼の脳裏を離れない。ハリーは居ても立ってもいられなくなり、現地のアラブ人になりすまし、仲間を助けに向かうのだった。

前線でジャックの連隊は、サハラ砂漠を進軍していた。だが移動中の連隊は無数の反乱軍に包囲されてしまう。反乱軍に紛れて連隊に舞い戻ったハリーの目に飛び込んできたものは、狡猾な反乱軍に翻弄され、大混乱の中で敵や味方の銃弾に倒れる仲間、そして、目を負傷して苦しむジャックの姿だった。ハリーはジャックを助け出した時、落とした手紙からジャックのエスネへの愛を知ることとなる。ハリーは動揺しながらも、ふたたび捕虜として連れ去られた仲間の救出に向かう。

やがて、仲間を収容所から助け出したハリーは、故郷の英国に戻りその勇気を称賛される。一方で、失明し故郷に戻っていたジャックとエスネはすでに婚約していた。ふたたび現れたハリーを前に、かつての恋人エスネは後悔の念に涙を流す。ただ時はもう戻らない、運命だったと諦めるしかないと告げる。そんな時かつての友と再会したジャックは、ハリーに触れたとき自分を助けてくれた男の「正体」を知るのだった。かつて白い羽根を渡された親友は、やはり真の友であり、自分の尊敬できる男だと確信する。そしてエスネとの婚約を破棄するのだった。

確かに国のために死ねるか否かの前には選択の余地は残されていないように見える。人間は個人より大切な共同体のために命を捧げるべきだという主張は道徳的に正しいかのように見える。国のために死ぬことだけが勇気のある行為であり、それ以外は臆病者、非国民であると。しかし、この映画が示唆しているのは、国のためではなく、友のために命を賭ける行為こそ本当に誇りある、高貴な生き様なのではないかというメッセージである。

私はこの文学や映画が英国で長らく愛されてきたという事実に感銘を受けざるを得ない。それは自由を重んじるイギリス人が国民として持つべき「道徳」だけでなく、人間として持つべき「倫理」の存在をも直覚し、心にとどめておこうとしているからである。一人の自由主義者として戦争に立ち向かわねばならなくなった時、私もまたこの映画を思い出すことだろう。

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二足のわらじのすゝめ―『釣りバカ日誌』より

Posted by Shota Maehara : 10月 10, 2008

『釣りバカ日誌』は、山田洋次監督が脚本を手掛け、国民的映画となり、シリーズ化されて現在十九本製作されている。

物語は、釣りバカの浜崎伝助(西田敏行)が、高松から東京の鈴木建設本社へ転勤するところから始まる。そこで彼は、会社の社長鈴木一之助(三国連太郎)とお昼休みに食堂で出会う。お互いのことを知らないまま、「ハマちゃん」「スーさん」と呼び合うまでに意気投合した二人は、次の休みに釣りに行く約束をする。

実際は、「スーさん」は会社の社長で、「ハマちゃん」は社員なのだが、釣り関しては「師弟」の間柄に逆転する。会社にいる間も釣りのことばかりに気が散っているハマちゃん。こんな彼ををしょうがない奴だと言いながら上司や同僚はかばってくれる。やがて、社長のスーさんはハマちゃんと出会って釣りの面白さに魅せられ、いままでと違う自分を見出していく。

このあり得ないユーモラスな物語は、日本の企業戦士たちへのピリッと辛い風刺である。日本では大企業になればなるほど、会社に人生の大部分を捧げる人が多い。また世間でもそのことを美徳とする節がある。だから一人で二足も三足も草鞋(わらじ)を履く人はあまりいない。でも、もしハマちゃんのように会社がすべてではないと思えたらどんなに人生は楽しく思えるだろう。これがこの映画の最大の魅力になっている。

たしかに二足の草鞋を履く人はただの会社人間にはない魅力がある。きっと人生で仕事と遊びを同時に楽しめる人は、仕事の顔と遊びの顔を両方持っているからだろう。つまり、会社に依存せず、自分というものを大切にしているのだ。こうした人は最近若い女性たちの中にも増えてきている。例えば、以前職場で出会った女性に、OL業をしながら子育てするいわゆるシングルマザーが多くいた。その一人とこんな会話を交わしたことがある。

「仕事をめい一杯やってから、子育てをするなんて凄いね。」「二つ仕事を同時にやっているようなものだよね。」

「うん、そうだね。でも、仕事は時間がたつほど疲れが溜っていくだけだけど、育児は大変でも喜びがあるよ。」「いつも早く家へ帰りたいって気持ちになるもん。」

「ああそうか、二つは全然違うんだね。」

本来都会は多くの出会いの場であるはずなのに、一部の男女はそこにおらが村を作りたがる。会社に依存して、自分というものを持たない。だから何でもやれてしまう。それに対して彼女たちのように同時に複数の場に所属している人は、海外では決して珍しくない。趣味や育児やボランティアをしながら、仕事では得られない喜びをそこから得ている。何よりそれは多様な見方を自分の中に養ってくれる。

こうしたライフスタイルを愛する女性がもっと多く現れることを願う。それがタコ壺化した日本を変え、明日の市民社会を築くきっかけとなるだろう。

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ランボーはかく語りき―「俺達が国を愛したように、国も俺達を愛して欲しい」

Posted by Shota Maehara : 8月 22, 2008

愛国心やナショナリズムについて、ポレミカルな議論が巻き起こった時、私がまず思い浮かべるのは有名な映画「ランボー怒りの脱出」の印象的なラストシーンである。

シルベスター・スターローン扮するジョン・ランボーは、ベトナム帰還兵であり、服役中だった。そこへかつての上官が現れ、ある任務を遂行すればここから出してやるという。その仕事とは、ベトナムでアメリカ人の捕虜の有無を調べるために写真を撮ってくることであった。

だが、この任務には裏があったのだ。それはこの任務が純粋に捕虜救出のためではなく、残された捕虜を見殺しにするための形だけの調査であったことだ。そのため合流地点へ捕虜を連れてきたランボーはヘリに置き去りにされるが、最後には敵のヘリを奪って捕虜とともに基地へ帰還する。

彼は作戦指揮官の部屋で銃を乱射し、残りの捕虜を助け出せと言い残して部屋を去る。かくして任務を終えて晴れて自由の身になったランボーにかつての上官がまた一緒にやらないかと声をかける。それに対してランボーはNoと言い、何が望みだと問われるとこう答える―「ベトナムにいった俺達や、腹をぶち抜かれて死んでいった奴らの望みは、俺達が国を愛したように、国も俺達を愛してほしいただそれだけです」。

愛国心やナショナリズムの問題の淵源は、この不等価な交換にある。こちらが愛するようには国はけっして愛してくれない。ましてや、国家のために差し出された死は、本来はどんな交換とも見合うはずはない。それなのに、この国家への無償の自己犠牲という観念はナショナリズムを衝き動かすエロス(生の欲動)でありタナトス(死の欲動)であり続けている。

では、この矛盾に引き裂かれたランボーが最後のラストシーンに込めた本当の気持ちとはどんなものだったろうか。

先日NHKの終戦70周年記念へ向けての街頭インタビューで街ゆく人々に、あなたなら国のために死ねますかという質問を投げかけていた。その時数多の声の中でも次の若者の意見が特に印象的だった―国家のために命を捧げることを要求してくるような国ならば、むしろいっそ滅びたほうがいい<NHK終戦七〇周年記念へ向けての街頭インタビューより>

私はこの発言に安吾の文章を読む時のような突き放された感覚を覚え、同時に多くの真実が含まれていると感じた。この発言を聞いて、今の若者は愛国心がなくなったと嘆くのは早計である。もし国が悪いことをしていても国が生き残るためには手を貸そうというのが人情なら、ここではむしろそんな国なら滅んでしまえばいいと思うまでに国を愛する。あらゆる人情味をはぎ取った非人情なまでの愛国心。

実はこうした心の境地こそランボーの心境そのものなのではあるまいか。だからかれは不正に手を染める国家へ愛と怒りをもって孤独な戦いを演じ続ける。あたかも「正義はなされよ、たとえ世界が滅ぶとしても」というカントの道徳哲学における普遍命題を地で行くかのようである。

たしかにヘーゲルなど様々な人によってカントの普遍命題はその非現実性が指摘されてきた。ただそれゆえにこそ、こうした理念は現実を批判する理想として文学や映画などの芸術の世界で永遠に脈打ち続けるだろう。まさにランボーは永遠の正義のヒーローなのである。

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タルコフスキー『サクリファイス』―核戦争の黙示録

Posted by Shota Maehara : 4月 24, 2008

サクリファイス

サクリファイス

ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキー監督が、1986年にスウェーデンで撮りあげた遺作。1932年生まれの監督は、この年12月28日にパリで亡くなった。死因は肺ガン。享年54歳だった。タイトルの『サクリファイス』とは、「神への生け贄」や「犠牲」という意味だ。映画の冒頭にダ・ヴィンチの「東方の三賢者の礼拝」が登場し、バッハの「マタイ受難曲」が流れ、物語の導入部に「はじめに言葉ありき」というヨハネによる福音書の冒頭部分が引用されていることからもわかるとおり、この『サクリファイス』の中にはキリストの受難というエピソードが地下水のように流れている。物語はキリスト受難劇を正確になぞるわけではないが、ひとりの男が世界を救うために我が身を犠牲にするという筋立ては同じだ。だがキリストと異なり、この男の犠牲は感謝も評価もされぬまま、精神病の発作として処理されてしまう。

海沿いの小さな家に暮らすアレクサンデルという初老の男が、この映画の主人公だ。高名な役者としての人生を捨て、今は評論家や大学教授として暮らしている無神論者。そんな夫に妻は不満を感じている。夫婦仲はあまりよくない。アレクサンデルの愛情は、つい最近のどの手術をしたばかりの幼い息子だけだ。言葉を発することができない息子に向かい、アレクサンデルは自分の思いを語り続ける。大小の不満はあるが、まずまず穏やかで平和な暮らしだ。だがその日々は、激しい轟音と床に飛び散ったミルクによって寸断される。ミサイル戦争が勃発したのだ。やがて世界は滅びるだろう。電話も電気も不通になる。死の恐怖におびえる家族や友人たち。アレクサンデルは家族を救うため、信じていなかったはずの神にある願い事をするのだが……。

この映画のラストは、少々意地悪だ。アレクサンデルが神に祈り、その願いが聞き入れられたため、彼は約束どおり自分自身を犠牲にする。ところが映画を観ていると、世界破滅というエピソードがはたして現実だったのか、それともアレクサンデルの見た幻影、あるいは夢だったのかが判然としない。滅びてゆく世界はそれまでの映像と異なり、極度に色を制限して描かれ、最後には完全なモノクロームの世界になってしまう。これは映画を観る者に「現実とは違う別の世界」を感じさせる。もしこれが夢だったとしたら、夢の中での出来事の結果として、アレクサンデルは取り返しのつかない犠牲を支払ったことになる。まさに狂気の沙汰だ。彼ははたして救世主なのか?

それともただの狂人なのか? その境界線は曖昧であり、混沌としている。

しかしこの曖昧さや混沌こそが、この映画で描きたかったことなのだろう。そもそもキリストが十字架の死によって全人類の罪を贖ったという信仰だって、信者以外の人間にとっては与太話にすぎない。偉大な行いは、常に狂気すれすれのところにある。

(原題:Offret / Sacrifiacatio)

(転載→ http://www.eiga-kawaraban.com/02/02091003.html)

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吾唯足るを知る―山田洋次監督『武士の一分』

Posted by Shota Maehara : 1月 1, 2008

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先日、山田洋次監督の『武士の一分』を観ました。妻を手篭めにされた盲目の侍が、その張本人である上役の侍と果し合いをする場面がクライマックスにあります。盲目の侍は、ついに一刀のもとに相手の片腕を切り落とします。

そこで、お付きの爺に、「止めを刺されますか」と問われます。すると彼は、痛みにうめき叫ぶ相手を前にして、「いや、もう十分だ」と言って立ち去るのです。その後、片腕を切られた相手の上役は、誰にやられたのかを告げることなく、切腹して果てます。

かくして、盲目の侍はお咎めを受けることなく、再び離縁した妻とともに暮らすのです。勝者とともに敗者の側にも「武士の一分」があり、ともに華を持たせようとする山田洋次の美学がここにあります。これは敗れた側を完膚なきまでに叩こうとする今の日本やアメリカの姿となんという違いでしょうか。どちらがより文明的といえるでしょうか。

現代文明は、進歩の長い旅路のどこかで「足るを知る」という生き方を学ばなければならないと思います。それは常に自己を超えた他者の存在を感知することで自らを制御し、同時に新たなるものに開かれている生き方です。

あらゆる商品経済の波が社会を覆い尽くそうとしている今、いたずらに産業化されてはならない生命の根幹に関わる領域があるはずです。例えば、教育、医療、福祉、環境などです。それらを守りつつ発展させ新しい時代のあり方を模索する一人でありたいと願っています。

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