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Shota Maehara's Blog

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暴力と恩寵の弁証法―フラナリー・オコナーを読んで

Posted by Shota Maehara : 9月 9, 2010

1.はじめに

フラナリー・オコナー(Flannery O’Connor)は、1925年にアメリカ南部のジョージア州の海辺の町サヴァンナで生まれた。彼女は熱心なカトリック教徒であったが、1949年に父親と同じ紅斑性狼瘡を発病する。以後彼女はこの難病と闘いながら、アメリカ文学史上に残る数々の短編を発表し、1964年に39歳の生涯を閉じた。

代表作「善人はなかなかいない」は1955年に同タイトルの短編集の中の一つとして出版された。彼女の作品には常に底流にカトリック信仰があるが、フォークナーなどアメリカ南部の作家と同様に、その表面は不気味なものや暴力に覆われている。それゆえそこに描かれるその残酷で、グロテスクな人間世界の実像はある種の読者を敬遠させる一因にもなってきた。

しかし、彼女の作品は単なる暴力的な小説の一言でかたづけられるべきではない。では、果たして彼女は人間の暴力を通して、その先に何を描きだそうとしていたのだろうか。この短いエッセイではこの秘密の一端に私なりに迫ってみたいと思う。

2.「自己中心」という概念

キリスト教のプロテスタント教会の説教では人間の自己中心性こそが罪であるという思想がしばしば語られる。例えば、私の尊敬するプロテスタントの作家、三浦綾子も小説やエッセイ、そしてインタヴューの中でこの問題を繰り返し述べている。

そう。キリスト教ではね、その自己中心を罪だというのよ。考えてみると、人のいう悪口は許せない、しかし自分のいう悪口は、悪いとは思わない。自分の夫を取られることは許せない。しかし人の夫を自分が取ることは、美しい恋愛だなどと、うっとりしている。自分のしていることが、どれほど人を傷つけている罪であるか、ということに気づかない。この自分の罪に気づかない、ということが本当に罪だと思うのよ。気づけば神様の前に謝ることができるけど、気づかなければ謝れないわね。この自己中心こそが、罪の素、むずかしく言えば原罪の大きな要素といえるのよ。(「罪ってなあに」『風はいずこに』集英社文庫)

また、プロテスタント系の団体が出している小冊子にも同様の記述がある。

人は本来、造り主である神との交わりのできる神との交わりのできる存在として造られました。けれども、神の命令に背き、神から孤立した、自分勝手な道を歩むことを選び取りました。それで神との交わりが壊れたのです。聖書でいう「罪」とは、神に反逆したり、神を無視したりすることに現れる、人の「自己中心」のことです。(「豊かな人生のための四つの法則」日本聖書刊行会)

さらにはアメリカでもっとも影響力のある牧師であり、オバマ大統領の就任演説でもスピーチをしたリック・ウォレンも全米でベストセラーになった『人生を導く5つの目的(Purpose Driven Life)』において自分の人生ではなく、神の人生を生きることから出発しなければ人生に本当の意義は見いだせないだろうと述べている。

しかし、一体いかにしたら自己中心から神中心の生活へと転換できるのかに関しては誰も語らない。ただ一日も早く神を知るようになってほしいというばかりである。それゆえ、私はこの「自己中心」というキリスト教的罪の概念に半分納得できても、もう半分は何か釈然としない気持ちが残っていた。つまり、単に人間の自己中心が罪だといういうのなら困難でもなんとか自力でそこから逃れていくことは可能ではないかと思われたのである。ならば、それは単なる道徳的な努力目標と何が違うというのだろか。いわゆる「道徳」と「宗教」の差異はここに秘められている。

3.「暴力」という概念

かつて東欧のユダヤア系のエマニュエル・レヴィナスは、人間存在の根源にある暴力性について深く思考した哲学者である。彼は人間の自己中心性こそが暴力であることを次のように述べている。

もちろん暴力とは、別のビリヤードの球に当たるビリヤードの球のなかだけにあるものではない。収穫物を台無しにする嵐のなかだけに、奴隷を虐待する主人のいなかだけに、市民を頽落させる全体主義国家のなかだけに、人々を隷属させる軍事的侵略のなかだけにあるわけでもない。おのれひとりだけが行動するものであり、宇宙の自余のものはその行動を受け入れるためにのみそこにいるかのようにしてなされる行動は何であれ暴力的である。ということは、すべての点においてわたしたちがその協力者であることなしに私たちが蒙ることになる行動は何であれ暴力的だ、ということになる。(レヴィナス『困難な自由―ユダヤ教についての試論』)

私たちは世界のなかで自分を中心にして考えるとき、認識においても、現実においても他者を排除しようとする。それをレヴィナスは広い意味で「暴力」と呼んだのだ。

そう考えると、我々はある袋小路に入り込んでしまったことになる。つまり、生きていくためには他者を押しのけることは避けられず、かといってそれを続けていけば他者と対立し、孤立していくことは避けられない。いわば「生きるとは暴力である」というジレンマ(葛藤)である。ここで重要なのは、このジレンマは個人の努力では解決しない。それは人間の存在に刻みつけられた原罪のようなものであるからだ。

3.神の「恩寵」(Grace)

かくして自己の無力を知った時にのみ我々は神を思うことができるのだ。我々は暴力に浸されている人間存在であるのにもかかわらず、それに反して他人を救おうとする行動に突き動かされることがある。この人間的な物差しで言ったら極めて非合理な無償の行為を促す力をクリスチャンは「恩寵」(grace)と呼んでいる。

12人の弟子のうち、ユダは裏切り、愛弟子のペテロもまた自分を知らないと否認することを予言したうえで、なおも愛によってイエス・キリストは弟子たちを励まして最後の晩餐でこう述べる。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(新約聖書、ヨハネ福音書13:34-5)

ここに示されているのはイエス・キリストによってもたらされた新しい契約、すなわち無償の愛(アガペー)のことに他ならない。まさに神が私たちを愛して下さったことによって、私たちも罪から逃れ互いに愛し合えるのだということ。そのために、人間が神に到達しようとするのではなく、神が人間の世界まで降りてきて我々に神の愛を示して下さったのだ。

この自力による救済から他力による救済への認識の転換(Conversion)こそ道徳のみならず、ユダヤ教徒とも峻別されるキリスト教の本質なのだ。フラナリー・オコナーがアメリカ南部の現実を通して描いた暴力と恩寵の弁証法はこのことをわれわれに教えてくれている。

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三浦綾子『塩狩峠』におけるキリスト教の核心

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2010

三浦綾子『塩狩峠』

ある日、父はいつものように夕食をおえると、ソファーにもたれかかりながら今読んでいる本について語り始めた。定年で退職して以来、海外の古典文学を読みふけっている父が今読んでいる作品は三浦綾子の『塩狩峠』であった。父は自分の感動した箇所をひと通り説明し終わると、早速私に意見を求めてきた。私は父の話に共感しながらも、一つだけ不満を口にした。それは、小説を自分自身の問題にひきつけて読んでいないという点であった。なぜなら読書の醍醐味は、対岸の火事として話を読むのではなく、この話はまさに「お前のことだ」と言われているかのような姿勢で読むことにあるからだ。

キリスト教の核心

さらに重要なことに、こうした読書に向かう姿勢は、キリスト教における核心へと私たちを導く。私もまたそのことをこの作品から知らされた一人だった。とりわけ彼女自身の信仰告白との呼べるシーンが強く印象に残っている。そもそもこの作品は北海道の塩狩峠が舞台で駅員で敬虔なクリスチャンである永野信夫が自らの命を犠牲にして、乗客の命を救った実話をもとにしている。このシーンはまだ信仰に入る前の信夫がある伝道師から初めてキリストの教えの核心を突き付けられる場面である。

私:「主人公信夫はキリスト教伝道師伊木一馬を自宅に呼んで、イエスこそ人格を超えた神格を備えた存在であることを信じると告白する。無実でありながら十字架に架けられ、しかも自分を殺そうとする人たちのために《父よ、彼らを許し給え、その為す所を知らざればなり》と祈ることができる。この人こそ神の子であると深く感動したんだ。」

父:「それでキリスト教信者になったの?」

私:「いや、まだ。彼は伊木伝道師にこう問われるんだ―《しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか》。それに対して信夫はこの世の罪を背負うためにと答える。そして伊木はこう告げる―《そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか》と。」

ここで父はコーヒーを入れるために少し休憩をとった。やがて、キッチンから彼が戻ってきて、チョコレートと一緒にブラック・コーヒーを運んできた。それを飲みながら、父は満足そうにして、やがて私の方に向き直った。

父:「それでどうなったの?」

私:「信夫ははじめどうしてもそれが信じられないんだよ。自分はそんなことした覚えはないと言ったら、それじゃあなたはキリストとは何の縁もない人間ですって、ばっさり切り捨てられちゃって。この重要な対話部分を読み上げてみるね―《先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか》、《そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ(略)》。」

なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか

父:「信夫は自分自身をさほど罪深いとは思っていなかったわけだね。」

私:「そう、でもここからが大切なんだ。キリストの処刑を自らの犯した罪と受け止めることによって、人は時代と空間を超えて、古代のイェルサレムでのイエスの死に立ち合うんだ。そうすることによって、キリストの存在は彼らにとって遠く離れた昔の出来事ではなくて、今・ここで起こっている出来事に変わるんだ。こうして人々がこの出来事に自ら罪びととしての意識を持って同時代性を感じ続けるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に生き生きとし、人々に読み継がれていくんだ。」

二人の話はとうとう佳境に差し掛かりつつあった。父もだいぶ疲れ始めているので、私はこれまでの話をここでまとめて切り上げようと思った。実際彼の瞼はもう閉じそうになっていて、まるでゾンビと深夜二人で話しているような孤独な心境だった。

私:「キリスト教は、この罪という概念によって、同時代性=永遠性を獲得したんだ。時空間を超えて、読み手がこの出来事を自分自身の問題として受け止めるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に古びることがない。この内(この世)と外(あの世)とを繋ぐ回転扉のような聖書という不思議な書物は後にも先にも現れないだろうな。これこそ人類史上普遍の傑作であり、後のダンテやゲーテ、そしてドストエフスキーに至るまで今日の文学はこの形式を反復しているに過ぎないと言うこともできるからね。」

父:「(半分眠りながら)なんか難しくなってきたね。つまりどういうこと?」

私:「まあ要するにいつも言っていることだよ。つまり、文学であれ歴史であれ本を読むときには、それを単にストーリーや内容を追うものとしてではなく、自分自身だったらどうするかという主体性が大切なんだよ。だってあらゆる偉大な書物はこれはお前のことだよって挑発しているんだからね。その挑戦にどう応答するかが読書の醍醐味じゃないのかな。」

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ミラン・クンデラ論―人生こそ小説を模倣する

Posted by Shota Maehara : 5月 1, 2010

19世紀ロシアの文豪チェーホフのドラマ(劇)は、「関係の偶然性」に翻弄されながら生きていかなければならない人間の存在を描いていた。そしてまさに現代においてその人間存在の寄る辺なさを描いたのが、チェコの作家ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』である。主人公トマーシュは優秀な医者で、ドンファンであった。そして、ある出張のため訪れた片田舎で平凡なウェイトレスとして働いていたテレザと出会い、すぐさま恋に落ちる。そしてお互いが釣り合わない恋に戸惑いながらも二人で暮らし始める。

まもなくして一九六八年のプラハの春を境にして生活は一変し日々の行動や言葉が監視される。テレザとの恋のために、亡命せずチェコで暮らし、とうとう医者という天職をも捨てる覚悟をする。トマーシュは言う。人生はたった一度きりだ、その意味で結果は後にならないと分からないが、自分は「そうでなければならない」(Es muss sein!)という運命の重しから逃れたい。そういう運命の重しと正反対にいるテレザとの暮らしに人生を賭けようと決心する。その理由は次のテレザの言葉に見事に集約されている。

「必然性ではなしに、偶然性に不思議な力が満ち満ちているのである。恋が忘れがたいものであるなら、その最初の瞬間から偶然というものが、アッシジのフランチェスコの肩に鳥が飛んでくるように、つぎつぎと舞い降りてこなければならないのである。」(千野栄一訳)

確かにこれはフィクションと現実を混同したいささかロマンチックな言動にすぎないのではないのかと疑う人もあろう。しかしこうした批判にまえもって答えるかのように、人間の生活はそもそも「小説的」構成を成しているのだと語り手は反論する。

「すなわち小説が偶然の秘密に満ちた邂逅(例えば、ブロンスキーとアンナの出会い、プラットフォームと死、あるいは、ベートーベンとトマーシュとテレザとコニャックの出会い)によって魅惑的になっていると非難すべきではなく、人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくことをまさしく非難しなければならないのである。」(千野栄一訳)

これを平たく言えば、二人が偶然に関係を取り結ぶことは前もって決まっている運命ではなく、われわれがよく「縁」と呼んでいるものなのである。ゆえに縁によって結びついた人間の生活の偶然性やその軽さは必ずしも耐え難いわけではない。むしろそれから目を閉ざすことこそトマーシュには耐えがたい。なぜなら未知の可能性へ向かうとき人は不安であると同時に、多様に変化し得る自分と知らない人と出会いコミュニケーションできることへの期待に胸膨らませる生き物でもあるからだ。

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トルストイにおける純粋な「悪」―「クロイツェル・ソナタ」を通して

Posted by Shota Maehara : 10月 14, 2009

tolstoi私は長い間、ロシアの文豪トルストイの作品群とは距離を置いて思索してきた。なぜなら、彼の農民学校の運動や、私有財産の否定、そしてガンジーに受け継がれた無抵抗主義もさることながら、その純粋さにある危険のなものの兆候を嗅ぎ取っていたからだ。

宗教にせよ、麻薬にせよ、テロにせよ、何かをを唯一絶対の基準として信じることのできる人間は元来純粋で、勤勉なものである。だからこそ純粋な人間は純粋な善人にもなれば、また純粋な悪にもなることができる。昔から狂人と聖人は紙一重などと言われる所以でもある。例えば、映画『セブン』ではブラッド・ピットとモーガン・フリーマン扮する二人の刑事が七つの大罪にまつわる難事件を捜査する。その最後の殺人現場へ向かうシーンで犯人は自分は神の手足となって犯行を行っているのだと告げるセリフが極めて印象的である。

さらにそうした文学や芸術が政治と結びついたとき自体はより深刻さを増す。人は純粋に国家や民族のために死すことこそ美しいというプロパガンダを人々の心に強烈に植え付ける恐れがあるからだ。日本でも宮澤賢治、白樺派の作家などを読むと彼らの純粋さの中に潜む「悪」の存在を否応なく感じてしまう。 

本作「クロイツェル・ソナタ」は作者トルストイが自分の中に潜む光と影を抉りだした問題作である。トルストイは、性的欲望こそが、人間の生活の様々な不幸や悲劇、また社会の腐敗の根源であるとみなした。彼は、嫉妬のために妻を刺し殺した男の告白を通して、欲望の三角関係に置かれた男の悲劇を生々しく描き、社会の堕落を痛烈に批判している。確かにそれだけなら巷にありふれている小説に過ぎない。しかし、この小説の本領は、この妻を刺し殺した男の言葉によって、精神的な恋愛関係や夫婦愛、そして女性の社会進出によって可能になった男女平等の結婚観に至るまで冷や水を浴びせかける強烈なアンチ・テーゼなのである。レフ・トルストイ

彼にとって男女の愛とはどんなに神聖なベールで包まれようと所詮は性的なものにすぎない。そして、男は女を性的な対象と見なし、女性もまたそれを常に意識するという奴隷関係でつながれている。だがときに女性は自らの性的魅力によって男を虜にすることによって、逆に男性を支配しようと企てる。その結果、主人と奴隷の関係が逆転するということが起きる。かくして現代は女性の支配する時代なのである。

そして、ここから文明の進歩や人類愛を阻むものは真実をオブラートで包み、偽善に偽善を重ねて夫婦の契りをあたかも神聖なものであるかのように見なす偽りの道徳観なのだと結論する。女性が性的な対象であること、また女性が男性を支配する唯一の武器であることは女性が少し学問を身につけたくらいでは変わらない。そして姦淫するなかれという聖書の教えに従い生きるべきだと説くのである。

この主張に表面的に反論することは容易い。確かに世の中には性的な関係がなくても仲良く暮らしている夫婦やカップルがいくらでもいるからだ。しかし、D・H・ロレンスが『チャタレイ夫人の恋人』で描く様に、この問題の本質はひっくり返ると西洋文明の根源に性的な欲望を抑圧するキリスト教の道徳観があることを批判するファシズムの思想と相通じるものになりはしないだろうか。この作品ではチャタレイ夫人は炭鉱を所有する裕福な貴族と結婚するが、彼が戦争に従軍し負傷し下半身不随となって帰ってくる。彼女は性的に不具になった夫をどうしても愛することができない。そこに野性味に溢れ教養もある労働者階級の青年と出会い肉体的に結ばれる。やがてそれは本物の愛へと変わっていくのである。このようにロレンスは西洋文明を支えるキリスト教や民主主義の中に強者に対する弱者のルサンチマン(嫉妬)を見いだし、それを乗り越えようとしたのである。

一方でトルストイは人間存在の根底に性的欲望を見出した上で、それを否定し、そこから聖書の姦淫するなかれという教えへ向かう。そして他方でロレンスは同様に人間存在の根底に性的欲望を見出した上で、それを肯定し、キリスト教批判へ向かう。どちらもその進み方は異なるが問題の枠組みは全く同じである。つまり、彼らは否定、肯定のどちらにしろ、結局は理性を超えていく無意識の領域に対して排跪するのである。そこにはそれらを解明し、乗り越えていこうとする自己を啓蒙するいわば科学的な態度と言うべきものが欠如している。その時、近代を築いた合理的理性は、自らの過ちによって野蛮へ落ちていく。それこそ真の堕落へと。すなわち、それがヒットラーを生み出したファシズムの正体なのである。

要するに何かを自分の心の拠り所として信じ切ってしまうこと、つまり、純粋さこそが「悪」なのである。私はそれを左翼のアナーキスト(無政府主義者)にも、右翼の民族主義者やファシストの中にも同様に見出し得る。そして、我こそは神の言葉を正しく理解し、人々を導くことができると確信し、あたかも神を自己の所有物にしている宗教者にもその純粋な悪を見出す。彼らが神の教えの下に、ナショナリズムを包み隠し、朝鮮や中国の人々への攻撃的な感情を燃やすなら、彼らはもはや純粋な「悪」である。

思索者はたえず自己を疑いつつ、同時にともに戦う未来の友への信頼を燃やし続けねばならない。たとえそれがどんなに困難な時代であったとしても、決して安易に既成の理念や理論に身を任せ切ることがあってはならない。我々が求めているものとは、信仰者にとって神がそうであるように、生涯にわたって追求していくべき祈りのような永遠の対象なのだ。

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なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか―『カラマーゾフの兄弟』から『塩狩峠』へ

Posted by Shota Maehara : 5月 16, 2009

1.ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の可能性の中心を読む

ここ数年私の父は代表的な文学作品を立て続けに読んでいる。彼が作品を読み終わるたびに、私達はその本について批評し合うということを極自然に行ってきた。ある日、彼が19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるという話になったときに、こんな会話のやりとりをした。

父:「いまだいたい3分の2くらいまで読み終えたけど、一体このカラマーゾフ家の父親殺しの犯人は誰なんだろう。」
私:「もしかしてこの人かもという予想はできるでしょう?」
父:「うん、とりあえず長男のドミトリーに容疑がかけられてるけど、3兄弟のうち誰がやってもおかしくない。皆が父親を憎んでいたからね。でも、真犯人は3兄弟の他にいるんじゃないかって気もするんだ。」
私:「例えば誰?」
父:「あのスメルジャコフが怪しいね。彼は同じ父親の腹違い子なのに息子と認めてもらえず使用人として扱われてきたんだから。」
私:「そうだ、当たりだ。犯人はそのスメルジャコフだ。彼が一家の主人フョードル殺害の犯人だよ。」
父:「え、やっぱりそうか。」

いきなりここでネタばれしてしまった父の微妙な表情。だがなおも私は会話を続けた。

私:「うん、でも誰が殺してもおかしくなかったよね。実際、スメルジャコフは次男イワンに向って、あなたがそう望んだから自分が代わりに殺したのだって語るセリフがあるよね。確かにある意味ではこの3兄弟全員が犯人だった。たまたまそれを実行したのがスメルジャコフだったに過ぎないのさ。」
父:「すべての人に責任があるっていうこと?」
私:「そう刑法上の責任ではなく、倫理的な形而上学的な責任がね。」
父:「それはどういうこと?」
私:「例えば、戦後多くのナチス協力者がニュルンベルク裁判で絞首刑にされた。ただ自らはユダヤ人迫害や殺害に手を染めなかったドイツ人も何らかの心の負い目を感じざるを得なかった。いうなれば民族全体がある種の罪責感を抱えていた訳だね。それが嘘偽らざるドイツ人の戦後の姿だった。」
父:「なるほどね。よく分かるよ。戦後日本国民もある意味同じ罪責感に囚われていたからね。」

少し沈黙の時間が流れた。父はこんな話になろうとは思ってもいなかったようだった。やがて私は核心的な話を切り出した。

私:「ドストエフスキーの文学が現代の予言書と呼ばれている所以が分かったかなぁ。この物語では、我々の心の中に潜む何かがある一人をして「父」=「神」殺しを犯させた。ただ誰しも俺が手を下していたかもしれないと自分を疑ってしまう。まさしく倫理的な、形而上学的な罪責感に囚われてしまう。そして、これこそ現代におけるアメリカの9.11同時多発テロや日本の派遣労働者の若者が起こした秋葉原連続殺人事件に遭遇して、自分もそうなることを望んだと心のどこかで思ってしまう瞬間なんだ。だってこの世の中はあまりに不公平じゃないか、と。」
父:「つまり、このテーマはまさしく現代社会の問題だということ?」
私:「そう、しかもそれはたんに対岸の火事ではないし、社会の客観的な真理の話じゃない。もっと自分自身に問うべき問題だ。」
父:「一体何だっていうの?」
私:「要するに、真犯人スメルジャコフの正体はこの私だということ。いいかえればこれを読んだあなたがスメルジャコフの正体だったんだ。」

2.三浦綾子『塩狩峠』におけるキリスト教の核心

こうした会話のやりとりをした後で、私は自分自身がこう考えるきっかけをくれた読書体験のことを語り始めた。それは作家の三浦綾子の『塩狩峠』におけるまさに彼女自身の信仰告白との呼べる印象的なシーンだった。この作品は北海道の塩狩峠が舞台で駅員で敬虔なクリスチャンである永野信夫が自らの命を犠牲にして、乗客の命を救った実話をもとにしている。このシーンはまだ信仰に入る前の信夫がある伝道師から初めてキリストの教えの核心を突き付けられる場面だ。

私:「主人公信夫はキリスト教伝道師伊木一馬を自宅に呼んで、イエスこそ人格を超えた神格を備えた存在であることを信じると告白する。無実でありながら十字架に架けられ、しかも自分を殺そうとする人たちのために《父よ、彼らを許し給え、その為す所を知らざればなり》と祈ることができる。この人こそ神の子であると深く感動したんだ。」
父:「それでキリスト教信者になったの?」
私:「いや、まだ。彼は伊木伝道師にこう問われるんだ―《しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか》。それに対して信夫はこの世の罪を背負うためにと答える。そして伊木はこう告げる―《そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか》と。」

ここで父はコーヒーを入れるために少し休憩をとった。やがて、キッチンから彼が戻ってきて、チョコレートと一緒にブラック・コーヒーを運んできた。それを飲みながら、父は満足そうにして、やがて私の方に向き直った。

父:「それでどうなったの?」
私:「信夫ははじめどうしてもそれが信じられないんだよ。自分はそんなことした覚えはないと言ったら、それじゃあなたはキリストとは何の縁もない人間ですって、ばっさり切り捨てられちゃって。この重要な対話部分を読み上げてみるね―《先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか》、《そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ(略)》。」
父:「信夫は自分自身をさほど罪深いとは思っていなかったわけだね。」
私:「そう、でもここからが大切なんだ。キリストの処刑を自らの犯した罪と受け止めることによって、人は時代と空間を超えて、古代のイェルサレムでのイエスの死に立ち合うんだ。そうすることによって、キリストの存在は彼らにとって遠く離れた昔の出来事ではなくて、今・ここで起こっている出来事に変わるんだ。こうして人々がこの出来事に自ら罪びととしての意識を持って同時代性を感じ続けるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に生き生きとし、人々に読み継がれていくんだ。」

3.なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか

二人の話はとうとう架橋に差し掛かりつつあった。父もだいぶ疲れ始めているので、私はこれまでの話をここでまとめて切り上げようと思った。実際彼の瞼はもう閉じそうになっていて、ゾンビと深夜二人で話しているような孤独な心境だった。

私:「キリスト教は、この罪という概念によって、同時代性=永遠性を獲得したんだ。時空間を超えて、読み手がこの出来事を自分自身の問題として受け止めるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に古びることがない。この内(この世)と外(あの世)とを繋ぐ回転扉のような聖書という不思議な書物は後にも先にも現れないだろうな。これこそ人類史上普遍の傑作であり、後のダンテやゲーテ、そしてドストエフスキーに至るまで今日の文学はこの形式を反復しているに過ぎないと言うこともできるからね。」
父:「(半分眠りながら)なんか難しくなってきたね。つまりどういうこと?」
私:「まあ要するにいつも言っていることだよ。つまり、文学であれ歴史であれ本を読むときには、それを単にストーリーや内容を追うものとしてではなく、自分自身だったらどうするかという主体性が大切なんだよ。だってあらゆる偉大な書物はこれはお前のことだよって挑発しているんだからね。その挑戦にどう応答するかが読書の醍醐味じゃないのかな。」

父は眠気で恐ろしい顔になり始めた。何だか心配で話に集中できない。

父:「ああ、自分に置き換えて読めということだね。」
私:「そう。文学でも科学でも、今流行っていることを書くのが真理の探究じゃない。ましてや、終わったことをつらつら書くのが歴史じゃない。むしろ、いま・ここで生きているこの私が、過去や現在そしていまだ来らぬ未来の現実を必然としてではなく、自由として捉えられるか。いいかえれば事後的に固定したものではなく、事前的に変化し得るものとして捉えるかで歴史の見方は大きく違ってきてしまう。もしそう考えられたなら、なぜ、どのようにして、このような現実が生まれたのかを把握した上で、これを変えていくことは可能かと考え、そしてもう一つの現実へ向かって行動していくことができる。あの随分眠そうだけど大丈夫?」
父:「う、うん。でも難しいよね。学校で教わる歴史って昔の話をただ暗記しているだけになりかねないからさぁ。」
私:「確かに我々は歴史というものを過去、現在、未来という連続した直線のように考えがちだけど、しかしキリスト教は「罪」という概念を軸にして、キリストの死を自ら身に引き受けることによって、現代に生きるているはずが何千年前の処刑の場面に一瞬タイムスリップしてしまうんだ。さらに、真のキリスト教徒であれば未来さえもいま・ここと質的に並び立ったものとして眺めることができる。だって、過去が過去として固定されていず、こちらの主体性によって変化するものならば、未来も固定したものではなく、我々の係り方如何によって変化するものとなるはずだからね。キルケゴールはこのように罪を引き受けた瞬間に過去とも未来とも同時代性を感じてしまう時間の係り方を永遠と表現したんだ。」

しばらく沈黙があった。なぜか私の方が取り残された様な妙にシュールな気分を味わう。すると次の一瞬、父は夢の世界からこの世界へ舞い戻ってきて何かしゃべった。

父:「うん・・・そうか。」
「もう少し厳密に言えば、これはキリスト教の中でもさらに新教(プロテスタント)特有の視点であるという気がしてならないよ。なぜなら、カトリックや特にユダヤ教は本質的に過去に現れた救世主(メシア)への繋がりを持ち続けている。それに対して、プロテスタントのエッセンスは本質的に過去ばかりでなく未来へと質的に飛躍(ジャンプ)することによって永遠とかかわることなんだ。いずれにしてもこの時期、信仰者にとって普遍的な倫理(神)は存在するかという宗教改革の問いは、科学実験による普遍的な真理の探究とも並行している。そして同じ時期にこのプロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神になったことも忘れてはいけない。確かに資本主義は、お金を今すぐ使ってしまうのではなく、自分や会社の事業拡大のために投資し、未来においてその何倍もの利益を生み出そうとする特徴がある。ただ、これは社会を進歩させもするけど、逆にそれが加速化すれば目先の利益を追求するだけに陥る。この意味で先のウェーバーの表現をもじって言えば、現代はプロテスタンティズムの倫理なき資本主義に陥っている。このまま本当にこの先やれるのか心配だよ。今後は文明史的立場からこの科学と資本主義に立脚した国民国家のゆくえを宗教を軸にして再吟味してみたいと思うんだ。」

気づくともう父はソファで寝入っていた。私の半分ほど残ったコーヒーも冷めてしまっていた。「キリストを殺したのはあなただ」という声だけがいまだ残響のように耳に響いていた。

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ハーマン・メルヴィル『白鯨』を読む

Posted by Shota Maehara : 5月 7, 2009

square悲劇的に偉大な人物とはすべて一種病的なものを持つことによって成り立っているものだ。若くして大望を抱く人よ、人間の偉大さとは病にすぎぬのだと記憶されたい。―メルヴィル『白鯨』(阿部知二訳、世界文学大系、筑摩書房、五四頁)

この四方に偏満する民主的尊厳の尽きることのない光源こそは、神自身なのだ。絶対の神こそが、あらゆる民権の中心であり周辺であり、、神の遍在こそが、われわれの神聖なる平等となるのである。―メルヴィル『白鯨』(阿部知二訳、世界文学大系、筑摩書房、七七頁)

1.アメリカ文学のルネッサンス

一八五一年に発表されたハーマン・メルヴィルの『白鯨』は、アメリカに潜む理想と狂気、そしてその無意識(エス)に潜む何かをあたかも精神分析にかけて明るみに出すかの如き傑作である。

そこに描かれる中心的なモティーフはモーヴィ・ディックと呼ばれる巨大な白鯨とかつてその鯨によって自らの片足を奪われたエイハブ船長との復讐劇である。その冷静な殺人鬼にも似た妄念に突き動かされる船長とそれに巻き込まれていく捕鯨船の乗組員との協同と確執そして悲劇が一人のイシュメールという流れ者の船乗りの視点から淡々と描かれていく。

この地の果てに及ぶ航海を共にする我々読者はまた、随所にちりばめられる鯨についての百科全書的な説明、哲学的な語りやセリフ、そして突然演劇が始まる場面に遭遇して面喰ってしまうだろう。これは従来の小説の範疇に収まらない。D.H.ロレンスは『アメリカ文学論』の中で、アメリカのメルヴィルを、ロシアのドストエフスキー同様に、古いヨーロッパの抑圧的な表現空間を打ち破る新たな世紀の文学として位置付けている。

2.宗教と死の欲動

私がこの作品を読んだのは2001年9.11の同時多発テロ以降に、復讐に燃えて、アフガン、イラクへと進行を開始するブッシュ政権に、エイハブ船長の面影を重ねていた頃であった(実はこの時期ロシアとイギリスの間でこの地の覇権をめぐって第一次アフガン戦争があり、小説の中にも「アフガニスタンにおける血なまぐさい戦闘」という新聞記事がある)。なぜならここにはアメリカがその後何度でも繰り返す歴史の反復の原型があると私は認識したからだった。神への信仰のためにメイフラワー号に乗ってアメリカの地に降り立ったピューリタンたちの平等な信仰共同体は、ときに約束の地を知っていると騙る盲目の老人によって崖へと導かれてゆくかの様である。まさに破滅へと。

しかし、崇高な民主主義の理想に燃えるピューリタンたちの信仰共同体として建国されたアメリカがなぜグローバルな平和(パックス・アメリカーナ)をもたらすどころか、冷戦、ベトナム戦争、9.11同時多発テロ、アフガン、イラク戦争、そしてサブプライムショックに至る混乱を世界にもたらし続けるのか。それは単に覇権国家システムの成熟と崩壊という以上の説明を要するのではないだろうか。

このモーヴィ・ディックと呼ばれる白鯨への復讐劇に見事に象徴されているように、アメリカ的な友愛で結ばれた信仰共同体、神の下での民主主義の底にあるのは宗教によって抑圧された様々な人間のリビドーである。例えば無垢であろうとするがゆえに、信者は性的な欲望を無意識の世界に抑圧しなければない。ときにはそれはサタンとなって信者を誘惑する。だが、その中で最も抑圧しなければならないのは、「汝殺すなかれ」という十戒に刻まれた善悪の掟の彼岸にある、死の欲動(人間の攻撃性)である。人間とは他人を殺し得る生き物である。それを罪の観念で蔽い、逆に照射することで神への畏敬の念が生まれるのである。

だから人間は死を恐れつつ、死に魅せられている。本来、死(崇高)という領域へのおそれとおののきがなければ宗教はそもそも存在しない。いまでもユダヤ教における供犠の羊、キリスト教における十字架で磔にされたイエスの死によって、はじめて共同体は死を記憶として共有することによって死後の世界(神)とのつながりを感知する。つまり、様々な宗派が道徳的な仮面の下に抑圧している宗教の宗教性こそこの死の欲動(人間の攻撃性)なのである。まさしくこの作品では、船乗り(人間)/エイハブ(死の欲動)/白鯨(神)という構造の中で、エイハブ船長はこの人間と神の道徳的で安定的な関係を破壊する「他者」(the Other)として現れるのである。ここにこの作品を読み解く最大のポイントがある。

3.文明と宗教の弁証法

晩年フロイトはこの死の欲動を研究し、それが外へ向かえば他者を傷つける攻撃性となり、内に向かえば責め苛まれるような良心の呵責になると考えた。それに基づいて彼は良心(超自我)とは社会の規範を内面化したものではなく、この死の欲動が内向化した結果だというコペルニクス転回を行う。そして、この文脈からフロイトは第二次大戦を前に他国から押し付けられたものとして批判されたドイツのワイマール憲法が実はドイツ人自身の中から、それこそ死の欲動の内向化として生まれたのだと考えて護憲平和を訴え続けた。彼は人々が徐々に人間の攻撃性を自己を抑制する力に変え、文化を発展させていくことに希望を賭けたのである。

だが悲劇的にも、現代文明は国民国家を構成していた諸民族の力が蘇生し、死の欲動がふたたび人々を紛争や経済的混乱へと引き摺り込もうとしている。いまや文明の衝突が叫ばれて久しい。確かに戦争は文明化のプロセスに拍車をかけるきっかけとなることが事実だとしても、その惨禍を座視することはできない。私もまた人類の歴史は文明化のプロセスを辿ることを疑わない。ただし、すべての人々が第三次大戦で滅んだあと永久平和が達成されても意味はない。

今後究極的には世界連邦が達成されるまで、不均等に発展する文明間のバランスを保ち、対立を回避する国際的な枠組みやコンセンサスを創り上げる必要がある。そのためには国家に過度に依存しない市民の分散型コミュニティーを社会の中にいくつも作り上げていくべきだ。フロイトは宗教の社会運動的な側面を軽視したが、トインビーはむしろ宗教を文明の揺籃の場だと述べている。したがって現実的には、新しい文明が生まれるその時まで、現在の資本制経済の功利主義的道徳を批判できるのは、おそらく多かれ少なかれキリスト教的な色彩の強い「奉仕」や「福祉」の精神に基づくもの以外にはあり得ないだろう。

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第5部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

Posted by Shota Maehara : 5月 29, 2008

私の知る限りチェーホフと同様に人間や現実に潜む多様性を「関係の偶然性」という観点から眺めた作家が日本にいるとしたらそれは夏目漱石である。それは彼の半自伝的な作品『道草』の中で典型的に示されている。漱石こと健三は、海外留学から帰ってきて、大学の教師となったが、そこへかつての養父島田が金を無心にくる。彼と出会うたびいやな胸騒ぎがする。

なぜなら、幼年時代養父母に育てられ、実の両親を祖父母だとおもって成長してきたかつての自分の不安が蘇ってくるかのようだからである。以来、彼はどうしても親と子の関係性における確かさの感覚が持てなくなる。人間が最初に生まれおちてくる家族関係の中において、自分はここの家の子であるという誰でもが持つ自己同一性(アイデンティティ)が健三には最初から奪われている。

したがって、『虞美人草』や『こころ』などの漱石の小説は、つねにある碁盤の目の中でチェスの駒として存在する登場人物と登場人物がたまたま与えられた役柄に基づいて、徐々に人物の意外な側面を浮き彫りにし、ドラマに動きや奥行きを持たせていくという構成をとっている。それ自体きわめて「劇」的であると言える。たとえば、『虞美人草』や『こころ』で描かれているのは、個人の恋愛感情に特殊な磁場を及ぼす「三角関係」である。そして『三四郎』では、チェーホフのことに何度か触れられていることも付け加えておきたい。

しかし、こうした二人の類似性は、漱石がチェーホフに影響されていたか否かではなく、彼がまさに当時の自然主義文学とは違う「リアリズム」を模索していたことに由来している。むしろ彼らに共通するのは、まるで自然科学者のような微細な観察者の眼である。『道草』の最後では健三に、チェーホフを思わせる次のような言葉で締めくくらせている―「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ。ただいろいろな形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」。

漱石の文学はその多くが人間の内面性を扱っているが、それを人間に備わっているものとしてではなく、関係が変わることによって変化するものとしてとらえている。だから、読んでみると始めから終りまで主人公の内面に感情移入していく意味での快楽はない。むしろ視点が次々に移り変わって、まるで落語の寄席を聴いているような楽しさが感じられる。

ではいったい彼らは人間社会の構造というものが確固としたものではなく、それ自体不安定な偶然的なものであるという認識をどこから得たのだろうか。もちろんいわゆる近代文学への批判という共通の問題意識があったであろう。それに加えて、チェーホフやクンデラや漱石が二つ以上の国の間で生きて考えたコスモポリタン(世界市民)であった事実である。マルクスが観念論の隆盛するドイツを離れ、経験論を重んじるイギリス渡り二つの国の間で『資本論』を書いたように、私は私であるということや机は机であるという自己同一性(アイデンティティ)の自明性は、別の文化や言語に身を置いてはじめて根底から疑うことができるからである。

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第4部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

Posted by Shota Maehara : 5月 29, 2008

チェーホフのドラマ(劇)は、こうした「関係の偶然性」に翻弄されながら生きていかなければならない人間の存在を描いている。まさにその人間存在の寄る辺なさは、チェコの作家ミラン・クンデラが『存在の耐えられない軽さ』と名付けた状況である。その主人公トマーシュは優秀な医者で、ドンファンであった。そして、ある出張のため訪れた片田舎で平凡なウェイトレスとして働いていたテレザと出会い、すぐさま恋に落ちる。そしてお互いが釣り合わない恋に戸惑いながらも二人で暮らし始める。

まもなくして一九六八年のプラハの春を境にして生活は一変し日々の行動や言葉が監視される。テレザとの恋のために、亡命せずチェコで暮らし、とうとう医者という天職をも捨てる覚悟をする。トマーシュは言う。人生はたった一度きりだ、その意味で結果は後にならないと分からないが、自分は「そうでなければならない」(Es muss sein!)という運命の重しから逃れたい。そういう運命の重しと正反対にいるテレザとの暮らしに人生を賭けようと決心する。その理由は次のテレザの言葉に見事に集約されている。

「必然性ではなしに、偶然性に不思議な力が満ち満ちているのである。恋が忘れがたいものであるなら、その最初の瞬間から偶然というものが、アッシジのフランチェスコの肩に鳥が飛んでくるように、つぎつぎと舞い降りてこなければならないのである。」(千野栄一訳)

確かにこれはフィクションと現実を混同したいささかロマンチックな言動にすぎないのではないのかと疑う人もあろう。しかしこうした批判にまえもって答えるかのように、人間の生活はそもそも「小説的」構成を成しているのだと語り手は反論する。

「すなわち小説が偶然の秘密に満ちた邂逅(例えば、ブロンスキーとアンナの出会い、プラットフォームと死、あるいは、ベートーベンとトマーシュとテレザとコニャックの出会い)によって魅惑的になっていると非難すべきではなく、人間がありきたりの人生においてこのような偶然に目が開かれていず、そのためにその人生から美の広がりが失われていくことをまさしく非難しなければならないのである。」(千野栄一訳)

これを平たく言えば、二人が偶然に関係を取り結ぶことは前もって決まっている運命ではなく、われわれがよく「縁」と呼んでいるものなのである。ゆえに縁によって結びついた人間の生活の偶然性やその軽さは必ずしも耐え難いわけではない。むしろそれから目を閉ざすことこそトマーシュには耐えがたい。なぜなら未知の可能性へ向かうとき人は不安であると同時に、多様に変化し得る自分と知らない人と出会いコミュニケーションできることへの期待に胸膨らませる生き物でもあるからだ。

先の『ともしび』における《この世のことは何一つわかりっこない》という一見絶望とも希望ともとれる述懐は関係の偶然性というチェーホフの生々しい現実認識を如実に反映している。彼の劇は、ある対象に対して一つの意味づけをするのではなく、複数の対話が織りなすやり取りによってそれぞれの人物の新しい相貌が浮び上がり、それによって平凡なドラマが重層的な意味を獲得し始めるのである。

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第3部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

Posted by Shota Maehara : 5月 29, 2008

上記の短編『ともしび』の要約には、チェーホフ文学のリアリズム(現実主義)のエッセンスが凝縮して詰まっている。そもそもチェーホフ戯曲や短編には男女の恋愛の話がきわめて多く扱われているが、そのどれもがピースとピースが噛み合わず成就しない。いつもどこかちぐはぐで、タイミングを逸しているように思われる。そこにはシェイクスピアのロミオとジュリエットのような釣り合った男女のロマンもなく、したがって運命によって引き裂かれる悲劇もない。

むしろ、彼は恋愛というものを何か必然の出会いとして見るよりも、人と人とが偶然に出会い一つの関係を取り結ぶ一種の「劇」として見なしていたといえる。人間と人間の関係はつねに確定的なものではなく、本来劇の配役のように置き換え可能でありながら、何らかの偶然の重なりあいによって今の関係に納まっているにすぎないのではないか。しかし、そこにチェーホフは日々の生活に潜む人間の複数性の源泉を掘り当てたのである。

たとえばチェーホフは『恋について』という短編で、恋愛に象徴される人間関係のあり様を直接に主題として描いている。アリョーヒンは町で、地方裁判所の副議長ルガーノウィチと知り合いにあり、自宅に招かれる。すると、夫と親子ほども年の離れた若い妻アンナ・アレクセーエヴナと出会う。二人は中睦まじい夫婦でアリョーヒンにも親切にしてくれる。やがて彼らと親しく付き合う内に、アンナに魅かれ悩む。そして、彼は恋とは一体何なのかがまるで分らなくなり始める。彼はその時の感情をこう吐露する。

「わたしは不幸でした。家にいても、畑に出ても、納屋にいても、わたしは彼女のことを思い、あの若い美しい聡明な女性がほとんど初老といってもよい(夫は四十を越えていましたから)、退屈な男と結婚して、その男の子供を儲けているという秘密を理解しようと努め、一方では、あれほど退屈きわまる常識でものごとを判断し、舞踏会や夜会ではまるで売られに連れてこられたような従順で無関心な表情をして、誰にも必要のない萎れた姿で偉い人たちのまわりに控えている、あのお人好しで単純な、おもしろみのない男が、それでいながら、幸福になって彼女に子供を産ませる権利を信じきっているという秘密を、理解しようと努めました。わたしはたえず、なぜ彼女がわたしではなく、ほかならぬ彼にめぐり会ったのか、私たちの人生にこんなにも恐ろしい誤りの生ずることが、いったい何のために必要だったのかを、理解しようと努めました。」(原卓也訳)

アリョーヒンとアンナはお互いに魅かれあいながらも愛を打ち明けることができない。なぜなら、心の秘密を打ち明けることがお互いの運命にとって果たして良いことなのかどうか分からないからである。アリョーヒンは彼女の幸せな家庭生活に波風をたて、アンナはただでさえ気苦労の多いこの青年に不幸を増す結果にならないかと恐れたからだ。

いつしか沈黙の中で歳月は過ぎ、やがて別離のときが訪れる。夫のルガーノウィチが西部のある県の裁判所長に任じられて、その地へ赴任することになったからである。その汽車を見送る際、個室で二人の眼差が出会った瞬間、抑えていた気持ちが堰を切ったかのように溢れだす。二人は涙に濡れながら抱きしめ合いキスをして永遠に別れる。アリョーヒンは、「ああ、私たち二人はなんて不幸だったんでしょう!」と振り返る。本当に愛しているならば心配事なんて些細な問題だったろうにと。

ここにあるのも「関係の偶然性」を示す一例である。もし若い男が、釣り合いのとれた若い女と出会い恋を成就するのであれば、恋とは必然的なものであると言える。しかし、実際は、「どうしてこんな奴が!」と言いたくなるほどに、酔いどれの男に従っている女がいたり、わがままな女につくす男がいたり、そうかと思うと親子ほど年の離れたカップルがいるなど釣り合いがとれていない例は世の中では決して珍しくない。すると恋愛は誠に偶然の組み合わせであるとしか言いようがない。そこには「縁」としか呼べない何かがあるのだ。かくして彼の恋愛観に象徴されるように、チェーホフは人間というものが不意に訪れる他者との関係の中でつねに変化する可能性を秘めていることをわれわれに示しているのだ。

こうした観点を押し進めて、チェーホフは『六号室』において人間社会の偽らざる構造を抉り出そうと試みる。医師アンドレイ・エフィームイチは何度も精神科の患者イワン・ドミートリチの話を聞きに病室に通い続けるうちに今度は自分自身が精神病棟に入れられてしまう。だが実は医師アンドレイ自身が精神病患者のドミートリチとの会話でその理由を前もって予言している。

「じゃ、なぜあなたは僕をここに閉じこめておくんです?」

「あなたが病気だからです」

「そう、病気ですとも。しかし、あんたらの無学が健康な人間と病人の区別もつけられないために、何十人、何百人という気違いが自由に歩きまわっているじゃないですか。なぜ僕や不幸な人たちだけが贖罪の山羊のように、みんなの身代わりにこんなところに入っていなけりゃいけないんです?あんたや、助手や、事務長や、この病院の屑どもみんなが、道徳面ではわれわれのだれよりも、くらべものにならぬほど低級なのに、どういうわけでわれわれが入れられ、あんたらは入れられないんです?どこに論理があるんですか?」

「道徳面や論理はこの場合なんの関係もありませんよ。すべてが偶然によって左右されるんです。いれられた人は、閉じ込められるし、入れられなかった人は野放しだ、それだけのことです。わたしが医者であり、あなたが精神科の患者であるということには、道徳面も論理もなく、つまらぬ偶然があるだけなんです」(原卓也訳)

このようにゲシュタルトの地と図が反転するかの如く人間の役割がいつでも入れ換わり可能であるという事実は私を恐れさせる。パスカルがいうようになぜ私はここにいてあそこにいないのか、その根拠はどこにもない。私が平凡な男であって、犯罪者でないのはたんに幸せな偶然によってそうであるに過ぎないのではないか。たまたま貧しい生活を経験しなかったからなのではないか等々。結局は環境や状況が違えば、被害者が加害者になり、その逆もまたありえたのではないだろうか。

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第2部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

Posted by Shota Maehara : 5月 29, 2008

しかし、それにしても何の筋も主張もないチェーホフの戯曲や短編小説がなぜ読者を魅了するのか。まずこの核心に後期チェーホフの出発点となった作品『ともしび』に光を当てることから迫りたい。「ともしび」は、ロシアの大地に鉄道を敷設するための夜営地でわたしがたまたま一夜を明かすことになり、そこで働く技師アナニエフと鉄道学校の学生で男爵のフォン・シテンベルグと交わす会話が中心になっている。学生は、この夜営地に広がるともしびを見て次のような感慨を漏らす。

「はてしなくつづいているこのともしびが、いったい何に似ているか、わかりますか?このともしびは、僕の心に、とうの昔に死んでしまった、何千年も前の人たちとか、アマレク人やフィリスチン人の軍営のようなものとかを、思い起こさせるんですよ。(略)」

「かつてこの世には、フィリスチン人やアマレク人が生活し、戦いをまじえ、それぞれの役割をはたしていたんです、ところが今じゃ、彼らの跡さえも消えさってしまったんですからね。僕らだって同じことですよ。(略)」(原卓也訳)

こうした学生の虚無主義に対して、技師は「そういう思想はすてた方がいいよ…」と教え諭すように言う。なぜならそういう虚無だとか生のはかなさというものは人生が終わるときに見えてくるものであって、学生はまだそうした見解を抱くには若すぎるという。少しムッとした学生に対して直接には語らずに、わたしに向かって自分自身のある体験を語り始める。

それは技師がコーカサスへの旅行中立ち寄った故郷N市で幼馴染のキーソチカに再会した出来事であった。かつて可憐で仲間の憧れの的であった彼女には、いまやどこか憂いを帯びたような面影が見える。そして何よりも、母親としての忍従の表情がはっきりとあらわれ、それが少女時代から過ぎ去った月日を痛感させる。彼女は町に残った酔いどれと結婚し、男の子を出産したが一週間して亡くなってしまう。技師は彼女の家に連れていかれ、一夜のアバンチュールを夢見るが、それも所詮は儚い夢と知る。彼女はこの町や自分自身に絶望しつつも次のような言葉をつぶやく。

「人間だれしも、運命によって定められたものに、耐え忍んでいかなければならないんですものね…」(原卓也訳)

技師はこの言葉に胸を締め付けられ、彼女を彼の泊まっているホテルに連れていくと、明日の正午に町の公園で会い、明後日いっしょにピチャゴールスクへ発つことを約束してわかれる。だが、その後で言いようのない不安に襲われて結局、キーソチカを残して夕方には町を離れ、汽車に乗る。彼は苦しみ抜き、この状況において自分の思想が何の役にも立たぬことに愕然とし、次のことを悟る。

「…わたしは、自分の思想など一文の価値もないことや、キーソチカと会うまでは本当に思索していたのではなく、まじめな思想なるものが何を意味するのかという理解すら持たなかったことを、悟ったのでした。いまや、苦しみ抜いた果てに、わたしは、自分には信念も、特定の道徳規範も、人間の心も、理性もなかったことを悟りました。(中略)これまでわたしが、嘘をつくことを好まず、盗みも働かず、人も殺さず、明らかに手ひどいとわかる過ちをしなかったとしても、それは別にわたしの信念の力によるものではなく(そんなものは、もともとないんですからね)、ただ、わたし自身ばからしいと思いながら、いつしかわたしの血や肉にしみこんで、知らず知らずのうちに、人生におけるわたしの行動を支配していた乳母のお伽ばなしや、陳腐な道徳観によって、手足を金縛りにされていただけの話なのです。」(原卓也訳)

学生はこんな話で誰かを説得した気になっているかと腹立たしげに眉をひそめて自分のベッドに入ってしまう。技師とわたしの二人は夜営地のバラックを出てともしびを眺める。すると技師はしばらく黙っていたが、わたしに次のように語りかける。

「男爵先生は、このともしびがアマレク人を思いださせると言ったけど、わたしの感じじゃ、人間の思想に似てますね…そうでしょ、一人一人の人間の思想も、ちょうどこんなふうに、とりとめもなく散らばって、闇の中を一つの線に沿って、どこか、はるかに遠い老年のかなたへ消えさっているんですよ…しかし、哲学はもうたくさんですな!もう、おやすみにしましょう…」(原卓也訳)

次の朝、昨夜ともしびの輝いていた平野や、線路沿いのバラックからぞろぞろと起きだしてくる工夫たちを眺めやりながら、≪この世のことは何一つわかりっこないんだ!≫と心の中で繰り返しつぶやく。そして馬に鞭をあて、この地を後にするのである。

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