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Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘宗教’ Category

宗教改革についてのノート

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2012

16世紀の宗教改革は、新約聖書の中のローマ書の次に私が重要視する研究テーマである。ここに最低限の基礎知識を書き記しておこう。

「宗教改革が提起したものは、時代が要求する人間の魂の「神への限りない飢え」にキリスト教がいかに応えるかということであった。」―『詳説・世界史研究』(山川出版社、2008年、296頁)

「ルターやカルヴァンは、聖書から直接神のことばを学び、「信仰によってのみ神の恩寵がえられるとし、神と人との間にカトリック教会が介在することを否定したのである。」―同書、269頁

「キリスト者は自己自身において生きるのではなく、キリストと自己の隣人において、すなわちキリストにおいては信仰をとおして、隣人においては愛をとおして生きる」―マルティン・ルター『キリスト者の自由』

少しここで簡単に整理してみると、歴史的な記述ではルターやカルヴァンの宗教改革の思想基盤は次の三つである。すなわち、「聖書主義」(信者が直接神のことばを学ぶ)、「信仰義認」(人間の行為ではなく、神への信仰によって救われる)、「万人祭司主義」(教会の司祭ではなく、各自でが自己の信仰生活を守る)。

しかし、こうした記述からは宗教改革の真の意義は触れられず、こぼれ落ちてしまっているのではないかと私は恐れる。おそらくルターにとって、「信仰」とは、自分の人生を振り返ってみた時、惨めな自分がそれにもかかわらず、命の綱をしっかりと握られてここにあるという生の確信なのではないだろうか。

いずれにしても、プロテスタントもカトリックもなく、主イエス・キリストへの信仰を告白するという点で一致して、人々の生き方、社会の進むべき道をともにさし示すことができたらどんなに素晴らしいかと思う。子供っぽい夢想だと笑われてしまうかもしれないが。

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神の愛について

Posted by Shota Maehara : 7月 29, 2012

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。―コリント人への手紙第一 第13章13節

キリストの教える「愛」(アガペー)とは何でしょうか。イエス様はまだ罪人である私たちのために十字架に架かり、そして神と和解させて下さいました。これこそが愛であり、自己犠牲的な愛です。例えば、ヨハネ福音書にも「友の為に命を捨てる以上に大きな愛はない。」とあります。

また神学者のボンへッファーやウォレン牧師は、愛とは他人と一緒に時間を過ごす事だと述べています。なぜなら人間にとって時間こそがニ度と戻って来ることのない自分の人生の一部だからです。その意味で、まさしく自分の時間を与えるということは、犠牲を払うことに他なりません。そして、犠牲こそが愛だからです。

しかるに、私自身は他人と一緒に時間を過ごすという事がどれほど出来ているかと自問します。するとそこに結局自己中心に生きている惨めな自分を見出すのです。 それでも私も主の御力によって少しずつ変えられて、本当の意味で自己中心から、神中心の生き方ができるようにと絶えず祈っています。

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信仰の逆説―“私の力は、弱さのうちに完全に現れる”(ローマ)

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2011

日本のキリスト教会で礼拝に参加させていただいている折、熱心な信者の方からよくこんな話を耳にする。世界のキリスト教会の中で、日本は未伝地とされている。つまり、いまだキリストの福音が宣べ伝えられていない土地であるということだ。その証拠に隣の韓国と比べて、日本のクリスチャン人口は全人口の1%以下しかいない。一体どうしたら、日本人の中にキリストの福音を伝えていくことができるのか、というのである。

確かに、聖書の中には一人でも多くの人がキリストの教えに触れて、回心し、滅びの道を歩むことのないようにと諭されている。事実、パウロの頃より、キリスト教は本質的に伝道宗教であり、異邦人に対して福音を伝えていくことを普遍的な使命と考えている。その意味で、日本のキリスト教団の兄弟姉妹の方々が布教に取り組んでいらっしゃるその熱意と努力には深い敬意を感じている。

しかし、私は本当に多数派であることが素晴らしいことであるとは一概に言えないのではないかとも思っている。例えば、アメリカ合衆国を考えて見よう。堀内一史著『アメリカと宗教―保守化と政治化のゆくえ』(中公新書、二〇一〇年)によれば、アメリカは超近代的な高度な科学技術と資本主義経済の大国というイメージとは裏腹に、同時に前近代的とも言えるほどの宗教大国である。まず総人口の約八割はキリスト教徒である。次に、九二%の人が神や霊魂の存在を信じている。さらには「天地創造」を全面的、あるいは部分的にせよ信じている人が六三~八二%いる一方で、「進化論」を支持し、人間の進化に神の関与を否定する人はわずか一四~二六%しかいない。そのアメリカでキリスト教原理主義が勢力を拡大し、ネオコンや、ブッシュ政権を生んだのだ。

ある民族や社会の中で主流になるということは、権力をもつということである。当然その使い方を誤ればその国を間違った方向へと導く。何よりも、主イエス・キリストの福音から離れてしまう恐れがある。かのエルサレムでキリストはつねに社会的に疎外されたもの、弱きものの味方であったからである。

それに対して、マイノリティ(少数派)であるということは一見弱点のようにも思われるが、そこからしか見えない「真理」がきっとあるはずである。何よりも、権力の中心からではなく、周縁的存在という立場から斜めに国家を批判することはできるはずである。批評性は周縁に宿るのである。また、もし国が方向を誤ろうとするとき、ブレーキをかける存在がいなくてはならない。それこそが主イエス・キリストがこの国のクリスチャンに課した伝道と並ぶ重要な使命だと私には思えてならない。

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリントⅡ12:9~10)

この日本という地でクリスチャンであるということは、アメリカのような国でクリスチャンであるのとは全く違った意味を持っている。日本でクリスチャンであり続けることにはマイノリティとしての葛藤があり、社会からの偏見があり、さらには著しく反時代的であることが求められる。しかし、その報いは大きい。なぜならば、キリストが語った真理「弱さのうちに現れる力」とは、まさにそこからしか得られない批評性に宿る力であるといっても過言でないからだ。それならば我々はむしろこの地で少数派であることを誇るべきなのかもしれない。これこそがキリスト教がもつ信仰の逆説なのである。

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霊肉二元論から解放されるために

Posted by Shota Maehara : 12月 2, 2010

敬虔のための鍛錬(マタイ4:1-4)
河野勇一(緑キリスト教会牧師・現東海聖書神学塾塾長)
クリスチャン市民の会「アーモンド」No.3より引用

物質文明を謳歌している現代。その豊かさを楽しむ一方で、人間性や心の回復の必要を訴える声があちこちから聞こえてきます。そんな時に、クリスチャンならずともよく引用する聖書の言葉に、「人はパンだけで生きるのではない」があります。これを引用する人は、人間は物質的なものだけでは満たされない精神的・霊的な存在だから、パンによって肉体の必要が満たされるだけでなく、神の言葉によって心(霊)も満たされなければ生きることはできない、と言いたいようです。

しかし、このポピュラーなみ言葉の使い方は、誤った解釈に基づいています。ギリシャ的な霊肉二元論の影響を受けて、パン(物質的領域)と神の言葉(霊的領域)を別々の領域のものと考えているからです。物質も大切だが霊も大切だ、という考え方は、物質の問題は霊の問題とは関係ない、という考えに容易におちいってしまうのです。

荒野での誘惑において、サタンは空腹のイエス様に向かって、「あなたには人人を救うための大事な仕事がある。あなたは生きなければならないし、あなたは神の子で奇蹟を行う能力もある。いま、その力を使って石をパンに変え、そして神から託された仕事をしなさい」と語ったのでした。

それに対する答えとして、イエス様が引用されたのがこのみ言葉で、申命記8章からのものです。そこには、荒野での40年間、食べ物も水もままならない環境の中で、神が天からの食物(マナ)によってイスラエルの民を養われたのは、人は神に養われ、守られ、生かされている存在であるということをわからせるためであった、と書かれています。

ですから、イエス様がこのみ言葉を引用しておっしゃりたかったことは、「サタンよ、黙れ。人はパン自体で生きているのではなく、パンを創造し、それをご配慮によって与える神ご自身のみ言葉によってこそ生かされているのだ。だから、私は自分の力でパンを獲得することはしない。この父なる神のみ心に全てをゆだねて生きるのだ」ということです。ここにおいて二元論は克服され、パンをも含めた一元的な神の支配への信頼が語られています。

このように考えますと、飽食の時代に生きるクリスチャンにもサタンが同じように誘惑の手を伸ばしていることが見抜けてきます。あり余る食料に囲まれて自分のお金で自由に好きなものを選べる私たちの生活から、日毎のパンを主に求める祈りが消えます。また、日毎の糧が主から与えられているという感覚がマヒして、感謝がなくなるのです。

そんな中でのこのみ言葉の二元論的誤用は、物質的な事柄を信仰の範囲外のこととする考えを生み、浪費やぜいたくの是認につながりかねず、サタンの誘惑を助長しこそすれ、これに打ち勝つ力にはならない、と言えるのではないでしょうか。

クリスチャンのシンプルライフ指向が、単なる資源の節約や博愛精神ーそのこと自体、もちろん大切なことですがーに終わらないで、信仰生活に統合されるためには、霊肉二元論的な思考からくる、肉体的・物質的な生活と霊的・信仰的な生活との遊離という誤りを克服しなければなりません。

テモテへの手紙第一(4:1-11)において、パウロも二元論に基づく禁欲主義という悪霊の教えに警告をうながし、すべてのものに感謝する生き方を教えています。

ここでパウロが言う「敬虔のための鍛錬」(4:7)とは、まず、すべてのものが神の口から出たみ言葉によることを理解し、次にそれらを「神のことばと祈りとによって、聖めて」(4:5)用いる生き方のことです。すなわち、ひとつひとつのものを神の目的にしたがってふさわしく、適量、しかも楽しんで用いるところの「感謝の鍛錬」です。その意味で、シンプルライフとは、クリスチャンが「本当に霊的なライフスタイル」を確率するための鍛錬としてとらえるべき信仰のわざなのです。

(引用元:http://sugito.church.jp/

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我は信ず―使徒信条

Posted by Shota Maehara : 11月 25, 2010

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、

天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、

からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。

アーメン

【ラテン語】

Credo in Deum, Patrem omnipotentem, Creatorem caeli et terrae,

et in Iesum Christum, Filium Eius unicum, Dominum nostrum, qui conceptus est de Spiritu Sancto, natus ex Maria Virgine, passus sub Pontio Pilato, crucifixus, mortuus, et sepultus, descendit ad inferos, tertia die resurrexit a mortuis, ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Patris omnipotentis, inde venturus est iudicare vivos et mortuos.

Credo in Spiritum Sanctum, sanctam Ecclesiam catholicam, sanctorum communionem, remissionem peccatorum, carnis resurrectionem, vitam aeternam.

Amen

– “Symbolum Apostolicum”.

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暴力と恩寵の弁証法―フラナリー・オコナーを読んで

Posted by Shota Maehara : 9月 9, 2010

1.はじめに

フラナリー・オコナー(Flannery O’Connor)は、1925年にアメリカ南部のジョージア州の海辺の町サヴァンナで生まれた。彼女は熱心なカトリック教徒であったが、1949年に父親と同じ紅斑性狼瘡を発病する。以後彼女はこの難病と闘いながら、アメリカ文学史上に残る数々の短編を発表し、1964年に39歳の生涯を閉じた。

代表作「善人はなかなかいない」は1955年に同タイトルの短編集の中の一つとして出版された。彼女の作品には常に底流にカトリック信仰があるが、フォークナーなどアメリカ南部の作家と同様に、その表面は不気味なものや暴力に覆われている。それゆえそこに描かれるその残酷で、グロテスクな人間世界の実像はある種の読者を敬遠させる一因にもなってきた。

しかし、彼女の作品は単なる暴力的な小説の一言でかたづけられるべきではない。では、果たして彼女は人間の暴力を通して、その先に何を描きだそうとしていたのだろうか。この短いエッセイではこの秘密の一端に私なりに迫ってみたいと思う。

2.「自己中心」という概念

キリスト教のプロテスタント教会の説教では人間の自己中心性こそが罪であるという思想がしばしば語られる。例えば、私の尊敬するプロテスタントの作家、三浦綾子も小説やエッセイ、そしてインタヴューの中でこの問題を繰り返し述べている。

そう。キリスト教ではね、その自己中心を罪だというのよ。考えてみると、人のいう悪口は許せない、しかし自分のいう悪口は、悪いとは思わない。自分の夫を取られることは許せない。しかし人の夫を自分が取ることは、美しい恋愛だなどと、うっとりしている。自分のしていることが、どれほど人を傷つけている罪であるか、ということに気づかない。この自分の罪に気づかない、ということが本当に罪だと思うのよ。気づけば神様の前に謝ることができるけど、気づかなければ謝れないわね。この自己中心こそが、罪の素、むずかしく言えば原罪の大きな要素といえるのよ。(「罪ってなあに」『風はいずこに』集英社文庫)

また、プロテスタント系の団体が出している小冊子にも同様の記述がある。

人は本来、造り主である神との交わりのできる神との交わりのできる存在として造られました。けれども、神の命令に背き、神から孤立した、自分勝手な道を歩むことを選び取りました。それで神との交わりが壊れたのです。聖書でいう「罪」とは、神に反逆したり、神を無視したりすることに現れる、人の「自己中心」のことです。(「豊かな人生のための四つの法則」日本聖書刊行会)

さらにはアメリカでもっとも影響力のある牧師であり、オバマ大統領の就任演説でもスピーチをしたリック・ウォレンも全米でベストセラーになった『人生を導く5つの目的(Purpose Driven Life)』において自分の人生ではなく、神の人生を生きることから出発しなければ人生に本当の意義は見いだせないだろうと述べている。

しかし、一体いかにしたら自己中心から神中心の生活へと転換できるのかに関しては誰も語らない。ただ一日も早く神を知るようになってほしいというばかりである。それゆえ、私はこの「自己中心」というキリスト教的罪の概念に半分納得できても、もう半分は何か釈然としない気持ちが残っていた。つまり、単に人間の自己中心が罪だといういうのなら困難でもなんとか自力でそこから逃れていくことは可能ではないかと思われたのである。ならば、それは単なる道徳的な努力目標と何が違うというのだろか。いわゆる「道徳」と「宗教」の差異はここに秘められている。

3.「暴力」という概念

かつて東欧のユダヤア系のエマニュエル・レヴィナスは、人間存在の根源にある暴力性について深く思考した哲学者である。彼は人間の自己中心性こそが暴力であることを次のように述べている。

もちろん暴力とは、別のビリヤードの球に当たるビリヤードの球のなかだけにあるものではない。収穫物を台無しにする嵐のなかだけに、奴隷を虐待する主人のいなかだけに、市民を頽落させる全体主義国家のなかだけに、人々を隷属させる軍事的侵略のなかだけにあるわけでもない。おのれひとりだけが行動するものであり、宇宙の自余のものはその行動を受け入れるためにのみそこにいるかのようにしてなされる行動は何であれ暴力的である。ということは、すべての点においてわたしたちがその協力者であることなしに私たちが蒙ることになる行動は何であれ暴力的だ、ということになる。(レヴィナス『困難な自由―ユダヤ教についての試論』)

私たちは世界のなかで自分を中心にして考えるとき、認識においても、現実においても他者を排除しようとする。それをレヴィナスは広い意味で「暴力」と呼んだのだ。

そう考えると、我々はある袋小路に入り込んでしまったことになる。つまり、生きていくためには他者を押しのけることは避けられず、かといってそれを続けていけば他者と対立し、孤立していくことは避けられない。いわば「生きるとは暴力である」というジレンマ(葛藤)である。ここで重要なのは、このジレンマは個人の努力では解決しない。それは人間の存在に刻みつけられた原罪のようなものであるからだ。

3.神の「恩寵」(Grace)

かくして自己の無力を知った時にのみ我々は神を思うことができるのだ。我々は暴力に浸されている人間存在であるのにもかかわらず、それに反して他人を救おうとする行動に突き動かされることがある。この人間的な物差しで言ったら極めて非合理な無償の行為を促す力をクリスチャンは「恩寵」(grace)と呼んでいる。

12人の弟子のうち、ユダは裏切り、愛弟子のペテロもまた自分を知らないと否認することを予言したうえで、なおも愛によってイエス・キリストは弟子たちを励まして最後の晩餐でこう述べる。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(新約聖書、ヨハネ福音書13:34-5)

ここに示されているのはイエス・キリストによってもたらされた新しい契約、すなわち無償の愛(アガペー)のことに他ならない。まさに神が私たちを愛して下さったことによって、私たちも罪から逃れ互いに愛し合えるのだということ。そのために、人間が神に到達しようとするのではなく、神が人間の世界まで降りてきて我々に神の愛を示して下さったのだ。

この自力による救済から他力による救済への認識の転換(Conversion)こそ道徳のみならず、ユダヤ教徒とも峻別されるキリスト教の本質なのだ。フラナリー・オコナーがアメリカ南部の現実を通して描いた暴力と恩寵の弁証法はこのことをわれわれに教えてくれている。

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「ユダヤ教」をめぐって―知性を尽くして神を愛する

Posted by Shota Maehara : 5月 4, 2010

ある日私が教会で礼拝に参加させていただいているとき、なぜユダヤ人はこれほどまで迫害されるのかということに話が及んだ。その時、それは彼らが「選びの民」だからであると牧師様がおっしゃったのを私は印象深く覚えている。確かに神に選ばれるということ、信仰をもって生きるということは幸いだけでなく、苦難もまた共にすることだとするなら、この言葉の持つ味は限りなく深い。

しかし、我々はどれだけ「ユダヤ」というものを知っているか。さらに言えば、「キリスト教」(新約)から解釈された「ユダヤ教」(旧約)ではなく、真のユダヤ教を。例えば、旧約聖書には「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という有名がくだりがある。ここでとりわけなぜ「知性を尽くして」と書かれているのかを考えてみたい。

かつてリトアニア生まれのユダヤ系哲学者エマニュエル・レヴィナスは『困難な自由―ユダヤ教についての試論』(国文社)の中で、ひとは本能的にユダヤ教徒であることはできないと述べている。その理由を彼はこう説明する。

「ユダヤ教徒であるためには、善をその心の底から願わなければならないし、同時に、単に心の一時の高揚に任せて善を望んではならない。心の高揚を維持しつつ、抑制すること、ユダヤ的典礼とはまさにこのことである!感情(passion)がその情緒の過剰(pathos)に身を委ねることなく、「意識」の覚醒へと変成すること、これである!ユダヤ教への帰依は典礼と学知を前提とする。正義は無知なるものには不可能だからである。ユダヤ教とは極限的な意識の覚醒のことなのである」。

では律法が目指す「正義」とは何か。なぜ、正義に学知が必要とされるのか。こうした疑問にレヴィナスは別の個所でこう答えている。

「ユダヤの叡智はこう教えています。天地を創造され、それを支えられているお方であっても、人間が人間に対して犯した罪を赦すことはできない」

なぜならそれは「神に対して犯された過ちは神の赦しに属する。だが、人間を傷つけた過ちは神の所有に属さない」からだ。ただし、「ユダヤ教は「善」にいついての意識と律法だけに基づいて、それ以外にいかなる超―人間的な要素の介入もなしに、人間が再生すると信じています。」と付け加えている。

レヴィナスによれば、ユダヤ教には宗教的「熱狂」や「霊」も必要ではない。むしろ、近年の宗教=霊であるかのような神秘主義的風潮に警鐘を鳴らしている。それらは結局「無知」によってかたちづくられるものだからだ。それゆえユダヤ教に聖テレジアは不要だと語る。むしろユダヤ教は地上での人間の在り方にだけ自らを局限し、自らの罪を引き受けながら、独自な内在的(=地上的な)「倫理」(善、正義)を追求することに向かう。

「正統的ユダヤ教は道徳的内在性の用語をもって思考されるのであって、教条的な外面性の用語をもって思考されるのではない。超自然的なものは正統的ユダヤ教にとってはなんの強迫観念でもない。ユダヤ教における神性とのかかわり方は倫理の厳密な展開によって規定されるのである。」

その結果ユダヤ教はキリスト教における神の犠牲による人間の罪の赦し、また、信仰のみによる罪からの救済の教義のいづれをも斥ける。もちろん私はこれがユダヤ教のすべてであり、「ユダヤ的」なるものがこの言葉に尽くされているなどと言うつもりはない。当然ショーレムなどの他の文献を深く調べてみなくてはならない。

ただし、ユダヤ教の本質は、正義のための学知であり、熱狂でなく「意識」の覚醒だと述べるレヴィナスの言葉はどこまでも厳しく、美しい。そしてどこまでもこの地上での人間関係=倫理=神性という聖なる方程式を解こうとする姿勢に一神教の一神教たる所以を垣間見るような思いがするのは私だけであろうか。我々は知性を尽くして神を愛することを彼らから学べるし、また学ぶべきなのではないだろうか。

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イエス・キリスト―真理と事後性

Posted by Shota Maehara : 2月 3, 2010

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた(痛みを知っていた)。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ書第53章1~3節)

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かっていった。しかし、主は、私たちすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書第53章4~6節)

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼が私の民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ。彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。」(イザヤ書第53章7~9節)

「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物として分かちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(イザヤ書第53章10~12節)

私たちはともすると自分たちの時代をあまりにも暗く思い描くことがある。もはや自分たちの国には救いはなく、新しい何かが生まれる兆しもないと。しかし、新しい創造は今まさに起きているのかもしれない。本当に優れたモノの価値は、今すぐには分からないからだ。どれほど多くの優れた人たちや彼らの無数の功績が同世代人によってではなく、死後後世の人によって明らかにされてきたことか。だからこれほどみずみずしい感性や深い思想があたかも地下水脈のように私たちの大地の下に流れているのだといつかきっと気づき、驚嘆する日が来るに違いない。奇跡は毎日この瞬間に起こっている。願わくは、どうかそれを見る私たちの心の目を開かせてくださいますように。(2010年2月3日 秋月誠仁)

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苦しみの中におられる方々のための告白…A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

Posted by Shota Maehara : 12月 1, 2009

I asked God for strength, that I might achieve   
I was made weak, that I might learn humbly to obey…

I asked for health, that I might do greater things   
I was given infirmity, that I might do better things…

I asked for riches, that I might be happy   
I was given poverty, that I might be wise…

I asked for power, that I might have the praise of men   
I was given weakness, that I might feel the need of God…

I asked for all things, that I might enjoy life   
I was given life, that I might enjoy all things…

I got nothing that I asked for — but everything I had hoped for
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.  
I am among all men, most richly blessed!
(Author unknown)

This creed is hung on a wall at a waiting room of Institute of Rehabilitation Medicine, 400 East 34th Street NYC

この詩は、青銅の盾に刻まれて、ニューヨーク市イーストリバー沿いの東400丁目、34番街にある物理療法リバビリテーション研究所の受付の壁にかけられている。作者不明。以下、野町試訳。

私は神様に強さを求めました。成し遂げるために。
でも私は、弱い者とされました。従うための謙遜を学ぶためにと。

私は健康を求めました。より偉大なことをするために。
でも私は、病弱を戴いたのです。より良きことができるようにと。

私は富を求めました。幸せになるために。
でも私は、貧しさを授かりました。賢い者であるようにと。

私は力を求めました。世の人々の称賛を得るために。
でも私は、弱さを授かりました。絶えず神に寄りすがる必要を覚えるためにと。

私はあらゆるものを求めました。人生を楽しむために。
でも私は、命を授かったのです。すべてのことを喜び楽しめるようにと。

私が求めたものは何一つとして与えられませんでした。
けれども、私の願いは、すべて神に聞き届けられたのです。

私は神の意に添わぬ者であるにも拘わらず、
心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられたのです。

私はすべての人の中で、最も豊かに祝福されたのです。

のまちゃん牧師のBlog

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パウロ―ガラテヤ人への手紙

Posted by Shota Maehara : 10月 21, 2009

彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながら、ユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」―ガラテヤ 第2章第14節

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。―ガラテヤ 第2章20節

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架に付けられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。―ガラテヤ 第6章第14-16節

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