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Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘哲学’ Category

フリードリッヒ・ニーチェ―近代における最後の道化役者

Posted by Shota Maehara : 9月 13, 2011

“ニーチェは世界に絶望していたのではない。ただ自分自身に絶望していたのだ。そして、罪とは絶望のことである”

ポストモダンの予言者・ニーチェは、近代をこう規定している。すなわち、キリスト教や民主主義によって代表される大衆という弱者のルサンチマン、あるいは奴隷道徳が支配力をもつ過程であったと。そして、ニーチェは「神は死んだ」と宣告することによって、大いなるニヒリズムの時代が到来することを予言した。

確かに、ニーチェの指摘の正しさは、今日のポストモダンの「最後の人間」を連想させる刹那的なライフスタイルによって裏書きされているように見える。すなわち、アレクサンドル・コジェーブ流にいうところの、「実質を抜き取られた形式」と定式化できるような現象である。

例えば、資本主義の商品を眺めれば枚挙にいとまがない。伝えるべき内容をもたず、技巧的に洗練された小説群(村上春樹、よしもとばなな)。さらに、コーク抜きのコーラ、ノンアルコールのビールなど。そしてこのことは労働力商品である人間にも当てはまる。生きる目的をもたずただ美しく健康に生きることだけを願うわがポストモダニストたちにおいて。

しかし、自身が著作のなかで認めている以上に、ニーチェ自身こそこうしたニヒリストの哀しむべき例ではないのだろうか。彼の著作は、哲学ではなく、文学であり、今までの病者の思想に対して健康者の思想を提唱する一方で、彼は従軍した後、細菌に感染しベッドの上で介護されて過ごした。そして、精神にも異常をきたし最後は発狂して死んだのだから。彼こそが弱者であったと言えなくもないだろう。

セーレン・キルケゴールは『死にいたる病』の中でこう述べている。絶望している人間は、世界に対して絶望しているのではなく、本当は自分自身に絶望しているのであると。まさにこのことがニーチェにも当てはまるのではないか。ニーチェは弱者の道徳に絶望していたのではなく、弱者としての自分自身にこそ絶望していたのだと言えるのではないか。

もちろん、ニーチェは絶望にとどまってはいなかった。そこから、永遠回帰や超人の思想を生み出す強靱な精神力をもっていた。そこに彼の魅力や影響力があることは認めなければならない。しかし、その思想がナチズムと親和的であったことを考え合わせると、人生を真に肯定的に生きる思想とは言えないのではないか。

我々の時代には、根本的な治療が必要である。そして、それは、人を愛し、生かすものでなければならず、アイロニカルな文学的な比喩(メタファー)ではなく、きちんとした理論や認識としてとして示されなくてはならない。絶望している人間に、世の中を治療することはできない。ニーチェはその意味では、近代の墓標である。我々はその墓標につまずかないように注意しなければならないのだ。

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神なき時代の信仰をめぐって―ポストモダンのニヒリズムからの決別

Posted by Shota Maehara : 9月 12, 2011

信仰は危機意識から生まれる。すなわち時代に対する危機への予兆を感じ取ると同時に、理性自身の批判的な眼差しによって、自らの認識の限界に身をさらし続けること。他者からの声を待ち続けること。それが信仰である。

そこには恐ろしいまでの謙遜さが要求される。なぜならば、人間の義はつねに偽りであり、神の義こそが正しいものであるからだ。しかし、神の義に立つことは、この世的な人間にとって不可能だ。我々に唯一可能なのは、偽りの人間の義を否定すること、そしてその瞬間に立ち昇る神の義の破片を集めることだけである。

我々は今日のニヒリズムの危機において、もう一度神に従うか、人に従うかの二者択一に直面するだろう。ここに「あれもこれも」(ヘーゲル)という選択肢はありえない。ただ、「あれかこれか」(キルケゴール)があるのみである。今や我々は信仰だけでなく、人生を肯定的に生きるための信念までも失ってしまったように見える。しかし神の導きによって、自ら世界を変えることは可能なのである。そう信じて、一歩先へ歩め出さなければならない。

魯迅が言ったように、希望とは道のようなものである。それはあるとも言えぬし、ないとも言えない。ただ、そこを歩く人が多くなればそれが道になるのである。信仰もまた然りである。物質主義的な時代に染まった感性には見えにくくなっている、精神や観念の力をもう一度認識する必要がある。

ドイツの哲学者カール・マルクスは有名なフォイエルバッハ・テーゼの中で、つぎのような言葉を残している。「哲学者は世界をさまざまに解釈してきた。しかし、大事なことは世界を変えることである。」この言葉は実に多くの誤解を生んできた。大事なのは考えることではなく、行動することであるなどと。

しかしこの言葉は、思考におけるダイナミズム(運動性)を表現したものとして受け止められなければならない。例えばハイデッガーは動物は環境しか持たない。人間だけが意味に満ちた世界をもっていると述べている。その意味で我々が見ている世界は、機械のレンズを通したモノクロではない。また同一で単調の映像ではない。網膜に映じた無限の風景は、言葉を通して表象される。それが私たちの生き方を大きく規定している限り、それを精神や認識の力において変えていくことは、すなわち世界を変えることなのだ。

かくて我々現代人が欠けているものは、こういった目に見えない「信念」(精神、悟性、理性、信用、信仰、愛、希望、ユーモア)の力ではないだろうか。この終局の時代に抗して、次の世紀を生き延び得るのかは、この信念の力を取り戻すこと、この一点にかかっていると私には思われるのである。

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ニーチェが予言した「ニヒリズム」の到来をめぐって

Posted by Shota Maehara : 9月 6, 2011

“私が物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきものを、もはや別様には来たり得ないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。”―フリードリッヒ・ニーチェ『権力への意志』(原佑訳)

今、我々の暮らす現代社会とはいかなる社会なのかということについて考えてみたいと思います。私自身、様々な知り合いから今の10代、20代の若者が一様に目標もなく、無気力で、ただ生きているだけにさえ見える。どうしたらいいのだろうかという相談を受けることがありました。その都度、この問題に関して民主主義や精神分析や宗教などの観点から考えてきたわけですが、いまだ本質的な部分を言い当てていないように感じてきました。

時代背景を少し整理したいと思います。1968年のパリ五月革命以後、ヒューマニズムをはじめとする普遍的な価値が疑われはじめ、79年にはリオタールによって『ポストモダンの条件』が出版されました。これは近代の終わりを決定づけた書物です。彼によれば、ポストモダンとは「大きな物語の終焉」を意味しました。これは「ヘーゲル的なイデオロギー闘争の歴史が終わる」と言ったコジェーヴの強い影響を受けた考え方でした。例えばマルクス主義のような人類の解放と言った壮大なイデオロギーの体系(大きな物語)は終わり、高度情報化社会においてはメディアによる記号・象徴の大量消費が行われる、とされました。この考え方に沿えば、”ポストモダン”とは、民主主義と科学技術の発達による一つの帰結と言える、ということでした。

さらに1990年代にアメリカの学者フランシス・フクヤマは同じ流れで、『歴史の終わり』という書物を出版しました。それは、やはりコジェーブの歴史哲学の強い影響の下、世界でイデオロギー対立が終り、今やリベラル・デモクラシーが勝利したと宣言したのです。そして今後経済的な領域で様々な問題が起こるとしても、基本的にはこの枠内での出来事になるだろうと述べたのです。ただし、この夢は2001年9月11日のアメリカ同時多発テロによって脆くも崩れ去ることになるのですが。

こうした流れの中で、日本は徐々に格差社会の様相を強めてきました。私も含めて多くの学者や批評家や評論家が様々な理念を苦し紛れに提示してきました。まず右派の論陣は、伝統やナショナリズムに回帰することを通じて、人々に生きる価値や意味を与えようとしました。地域社会や家族の役割の重要性を強調することはこうした保守の流れと見ていいでしょう。次に、左派の論陣は、憲法九条を守ることを通して、恒久平和を実現すべきこと、また25条にある生存権に基づいて、最低限の文化的な生活を営めるように派遣労働者などを守るべきことを訴えています。ただどちらもともに彌縫策にとどまっている感が否めない。なぜなら、それがどんなに素晴らしい理念だったとしても、真のオルタナティブ(コミュニズム)ではなく地域、家族、平和、セーフティネットなどは過去のネガの焼き回しにしか見えないからです。

では、我々はなぜ答えを見いだせないのでしょうか。ここで多くの人々は気づき始めているのではないでしょうか。そうです、問いそのものが間違っているのです。ポストモダン(近代以後)とは、単に近代の最終的形態であり、それこそニーチェがニヒリズムの到来として予言したものなのです。

 私が物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。この未来はすでに百の徴候となってあらわれており、この運命はいたるところでおのれを告示している。未来のこの音楽にすべての耳がすでに耳をそばだてているのである。私たちの全ヨーロッパ文化は長いことすでに、十年また十年と加わりゆく緊張の拷問でもって、一つの破局をめざすがごとく、動いている、不安に、荒々しく、慌てふためいて。あたかもそれは、終末を意欲し、もはやおのれをかえりみることを怖れている奔流に似ている。(フリードリヒ・ニーチェ『権力への意志』序言、原佑訳)

では、ニーチェによれば「ニヒリズム」とはどのような現象を言うのでしょうか。

 ニヒリズムとは何を意味するのか?―至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」に対する答えが欠けている。(同書)

ニーチェにとって、そうした至高の価値を支えていたものとは、キリスト教やプラトンの形而上学であり、その根底にある奴隷(弱者)の道徳でした。それゆえに「神(真理)は死んだ」と宣言することによって、道徳という支えを失った人々の最終的帰結としてのニヒリズムをあらゆる領域において見出していくのです。

スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが『暴力』で指摘するように、我々が今直面しているのは、消極的ニヒリズムとしてのリベラルで寛容な社会に生きる無気力な先進国の人々と、積極的ニヒリズムとしての最底辺の人々や宗教原理主義者の暴力の噴出なのです。彼らに共通することは本当の意味で、生きるための目的、大義が失われているということです。実は、原理主義者の根底にあるのもは神ではなく、豊かな人々へのルサンチマンです。その証拠に、彼らは同国人が西側の商品を扱う店をしばしば襲撃します。その意味で、彼らはすでにグローバルな資本主義経済によって西側の文化や価値観に包摂されていると見るべきでしょう。過去の衣装は、つねに現在の構造の中から遡及的に見出されるものなのです。例えば、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは『創られた伝統』でナショナリズムの虚構性を暴き出しています。

こうして見てくると政治的対立軸を失った我々の社会は一見すると「ポスト・イデオロギー」の時代であるかのように思えなくもありません。しかし、イデオロギーがないということ自体が今日のイデオロギーであるとしたらどうでしょう。我々はこれにどう抗ったらいいのでしょうか。我々はメディアが報じるイデオロギーなき世界の過剰暴力の前にただ立ち尽くすしかないのでしょうか。

イデオロギーとはあたかも空気のようなもので、それが最も機能しているときほど我々には自明に見えてしまいます。だから今日ほど、このイデオロギーへの仮借ない批判が求められている時代もないと思われます。このための方法は二つあります。一つは、哲学(人間の言葉)による批判。そしてもう一つは、聖書(神の言葉)からの批判です。どれほど困難であったとしても、ポストモダンと呼ばれるニヒリズムの時代に抗して、積極的かつ肯定的な言葉を見出していく必要性があります。そのために我々がまず取り戻すべきなのは「誠実さ」と呼び得るような、今日欠けてしまった何かであると思うのです。

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アドルノ・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』に関するノート(2010年)

Posted by Shota Maehara : 8月 30, 2011

アドルノ・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』に関するノート(2010年)

合理論と経験論の間で一方から他方へと批判するのがトランスクリティークならば、アドルノは合理論(イデア論)の仮借ない批判者で、後のハーバーマスは、その合理論を経験論(コミュニケーション論)で超えられると思ってしまった。しかし、それはカントの「倫理」(理性の自律)や永遠の「自己啓蒙」という理性のとらえ方を超えていない。つまり、フロイトの「超自我」をも超えるものではない。

感情に対して理性の優位を説く合理主義者は、結局、理性に対して無意識の優位を説くロマン主義者の二元的な回路の中にあり、まして理性の名のもとに他を抑圧する傾向がある。それはまるでメビウスの輪のように、「文明」は「野蛮」に反転するものとなる。

それを防ぐ唯一の手立ては、理性の働きを上から抑制する「超自我」(トラウマ的もしくは身体的な過去の失敗の記憶)であり、いいかえればそれは啓蒙主義に対しても徹底して啓蒙的たろうとする「理性」の働きに他ならない。

啓蒙主義以後、現代は感情が生み出す未開人の対立・抗争ではなく、理性自身が生み出す超越論的仮象、すなわちネーション(ナショナリズム)や宗教の戦争にどう対処すべきかを迫られている。それは、かつての感性による対立などよりも、はるかに野蛮で残忍なものとなる恐れがある。ファシズム、広島・長崎への原爆投下などのように。

【注記】

啓蒙主義-市民社会-自由主義の限界を指摘し、その限界を乗り越えさせてゆくことは可能であろうか。

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カントの超越論的批判―物自体、現象、仮象

Posted by Shota Maehara : 8月 30, 2011

カントは、主観の形式によって構成されるものを「現象」と呼び、たえず主観を触発しつつありながら、主観によってはとらえられないものを「物自体」と呼んでいる。さらにつけ加えるべきなのは、「仮象」である。ここで注意すべきなのは、「現象」と「物自体」は、ドクサ(仮象)とエピステメー(真の認識)という旧来の区別とは異なるということである。たとえば、科学的認識がとらえるのは「現象」である。それは物自体ではないとしても仮象ではない。つまり、大事なのは、「現象」と「仮象」が区別されなければならないということである。カント以前の哲学者は、仮象が感覚にもとづくがゆえに生じる、ゆえに、感覚を越えた理性による認識が真であると考えてきた。カントが画期的なのは、仮象をもたらすのは感覚だけではない、ある種の仮象が理性そのものによって生み出されると考えたところにある。彼の仕事は、そのような理性を批判(吟味)することであった。しかし、それは、人がそのような仮象を容易に取り除けるということを意味するのではない。むしろ、その逆である。たとえば、自分(自己同一性)という考えは仮象である。とはいえ、もし自分というものがないとしたら、人は恐るべき心理状態に陥るだろう。カントはそのような仮象を超越論的仮象と呼んだ。

このように、物自体、現象、仮象という三つの概念は、一組の構造をなしている。つまり、そのどれかを捨てても根本的に意味が失われるのである。もちろん、われわれもこの古くさい「物自体」という言葉を廃棄してもよい。が、これらの構造だけは手放すわけにはいかない。たとえば、精神分析において、ラカンが定立した、「現実的なもの」・「象徴的なもの」・「想像的なもの」という区別は、明瞭にカント的である。このように、物自体、現象、仮象という三つの概念が別の言葉でも言い換えられるということは、それらが超越論的に見出される一つの「構造」であること、カントの言葉でいえば、アーキテクトニック(建築術)であることを意味する。カント自身が、それを隠喩として語った。(柄谷行人「英語版への序文」、一五~一六頁、『隠喩としての建築』所収)

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近代哲学について(スラヴォイ・ジジェクのノート)

Posted by Shota Maehara : 5月 24, 2011

「次に、多文化主義を語るうえでの、ヨーロッパの宗教的・イデオロギー的遺産に含まれる貴重な側面があります。私にとって守り抜く甲斐のあるヨーロッパ的価値とは何か?近代哲学の初期段階においてはすでに…デカルトの『方法序説』を読めば、彼が思想の追究を始めたきっかけが書いてあります。他の文化が滑稽に映る様子と同じように、もし自身の文化を異邦人の視点から捉えたらどうか?それで、どれほど滑稽かが認識できる。自らの文化がいかに偶然かを実感するわけです。生れついた文化が自然だと思わせる生来のルーツから、離脱することができるわけです。間違っているかもしれませんが、私はこの体験こそがヨーロッパがもたらしたものだと考えています。そのような意味で、ヨーロッパは真の普遍性を導入した。ヨーロッパの遺産において肯定できる側面です。」―スラヴォイ・ジジェク 『人権と国家』(岡崎玲子訳、集英社新書、二〇〇六年、9頁)

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ユダヤ思想とはなにか―エマニュエル・レヴィナス

Posted by Shota Maehara : 11月 12, 2010

“ユダヤ思想は何に記されているのか?おそらく、あらゆるものの上に。だから、わたしたちはそのすべてを列挙することをしない。しかし、これだけは言える。ユダヤ教の根本的な使信は、すべての経験の意味を人間と人間のあいだの倫理的関係に帰着させることに、つまり、人間の個人的有責性に訴えることに存する、と。というのも、人間はその個人的有責性を通じて、自らを選ばれた者、他のだれによっても代替しえぬ者として覚知し、そうすることによってはじめて人間が人間として遇される人間的社会が実現されるからである。この義なる社会の実現は、事実上、人間が神と交わる準位にまで向上したということを意味している。この社会=交わり(sosiete)の成就こそが人間の至福であり、生きることの意味なのである。だから、「現実的なものの意味は倫理の関数として理解される」ということはただちに「世界は聖なるものである」というに等しいのである。倫理とは神性の光学である。神との関係以上に直截なもの、それ以上に無媒介なものは存在しない。神性は隣人を経由してのみ顕現するからである。神の子の受肉はユダヤ教徒にとって不可能だし、不必要なのである。次の「エレミア書」の言葉がその意を尽くしている。「貧しき者たち、虐げられた者たちのために裁きを下すこと、それがわたしを知ることなのではないか。主はそう言われた」(「エレミア書」二二・16)”―「今日のユダヤ思想」(『困難な自由―ユダヤ教についての試論』、国文社、227頁)

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スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』

Posted by Shota Maehara : 3月 28, 2010

『イデオロギーの崇高な対象』スラヴォイ・ジジェク(河出書房) 

★★★★★――1949年生まれの、全共闘世代を代表する哲学者ジジェク。切れ味は鋭いが、ラカニアン特有の屁理屈くささが根強く残る。

「イデオロギー批判においては、問題は、イデオロギーの歪んだ眼鏡を投げ捨てて、事物(すなわち社会的現実)をありのままに見ることではない。大事なのは、どうして現実そのものが、いわゆるイデオロギー的ごまかしを抜きにしては再現されないのかを明らかにすることである」(p46)

<イデオロギーの定義>
「彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをやっている」マルクス
「彼らは自分たちのしていることをよく知っている。それでも、彼らはそれをやっている」
スローターダイク
「彼らは、自分たちがその活動においてある幻想に従っているということをよく知っている。それでも彼らはそれをやっている」ジジェク

目次:

第1部 症候(いかにしてマルクスは症候を発明したか症候からサントムへ)
第2部 他者の欠如(汝何を欲するか汝は二度死ぬ)
第3部 主体(“現実界”のどの主体か?「実体としてだけでなく主体としても」)

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アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』

Posted by Shota Maehara : 5月 28, 2008

啓蒙の弁証法―哲��的��想 (岩波文庫 青 692-1)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫 青 692-1)

何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の野蛮状態へ落ち込んでいくのか―『啓蒙の弁証法』序文

人は誰しも自分の価値観や基準にしたがって世界を把握したり、 国を治めたりしようとする。そこから人は自分の立場だけは不偏不党で中立だと見なしたがる。それゆえに自ずとその基準からもれる人や価値を誤謬だと判断し、非難してしまう。

伝統的に西洋哲学はこの「同一性」(アイデンティティ)に基づいた体系を重視するあまり、ここからずれる差異(非同一性)を無視し、時には抑圧して成立した。それはあたかも無意識の中に複数の人格が抑圧され、統合されたものが「私」として存在するようなものである。だからそれを一概に否定することはできない。

だが、近代にはこうした合理性を追求する姿勢が徹底化され、すべてを公正で効率的と見える基準やルールで覆い尽くそうとする動きが加速し始めた。そうした文明化の果てに、人間はふたたびファシズムによるユダヤ人迫害・虐殺といった野蛮状態へと落ち込んだのである。

それゆえ、理性がこれを防ぐためには、自己の認識の限界を知った上で、反証してくる他者(自分と価値を共有しない者)との対話によって自らの正しさを解明し続ける永遠の啓蒙主義的態度が不可欠である。それは本書の言葉でいえば、啓蒙とは他人に対する啓蒙から、自分の理性に対する啓蒙に向かわざるを得ない。これが「啓蒙の弁証法」なのである。

具体的に言えば、近代科学はまず自ら仮説を立て、次にこれを実践(実験)によって証明する。そうして反証してくるデータを基に、仮説を修正して理論を打ち立てる。こうして科学は徐々に不可知な領域への認識を拡張していくことができるのである。こうした科学的な態度こそ啓蒙の弁証法の例証である。

何かを認識するためには異質な要素、いわば他者が必要であるという考えは、極めて実践的(倫理的)な動機がうかがえる。彼の哲学が西洋の同一性に閉じ込められた哲学の伝統を超えられたのは、おそらく「アウシュヴィッツ以後」を自らの哲学の原点にしたからである。では「ヒロシマ・ナガサキ以後」を原点にした日本の哲学が生まれないのは何故か。平和憲法を守るべきか否かを考える意味でも、原爆以後人はいかに哲学することができるのかを考えるべきではないだろうか。

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「啓蒙の弁証法」(アドルノ/ホルクハイマー)―理性と国家

Posted by Shota Maehara : 9月 21, 2007

pt-adorno■近代の二つの流れ―理性と国家の支配

A.理性→×歴史→合理性(論理)

B.国家→×社会→超国家(官僚)

かつてフランクフルト学派のアドルノとホルクハイマーは、『啓蒙の弁証法』という書物を著した。「理性」(合理性/論理)は基本的に人間の複数性(差異)というものを認めない。そのため近代は、過去の伝統や歴史を批判して社会生活や価値観を画一化=フラット化していく合理化の過程であると述べている。彼らは、その原動力を資本主義経済の合理性に見出し、そのもとで生まれた大衆社会を批判することを自らの哲学的使命としてきた。

だが、もう一人の同時代のユダヤ人哲学者ハンナ・アレントは、人間の複数性を抑圧するのは、たんに資本制経済を支える合理性ではなく、なにより「国家」(官僚)による合理的支配であることを見抜いていた。理性と同様に、いや理性によって国家もまた社会を自らのイメージに沿ってデザイン(設計)できると考えている。その意味で官僚は無知な民衆を指導する教師の立場から政策を立案・計画しているのだ。

それゆえ国家官僚は人間が織り成す社会の予測不可能性や多様性を許すことができず、その結果、大衆から思考力を奪い帰属する集団や組織を奪って安全の名の下に管理しようとする。すでに1960年代のアメリカで、アレントはこうした市民生活の場としての公的領域の腐食を極めて敏感に感じ取っていた。さらに、彼女の論が何より不気味なのは、人間の中にある思考を放棄してしまいたいという欲望こそがそうした国家の管理を招きよせていると考えているからなのである。

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