I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘バルト研究’ Category

宗教改革の光と影 7―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 4, 2012

幼児洗礼の問題

七四問 幼い子供たちにも、洗礼を授くべきでしょうか。

―そうです。子供たちも大人とおなじように、神の契約とその教団に属しており、罪からの救いと、信仰を起こして下さる聖霊とが、彼らに対しても、大人に対してと同じように、キリストの血において約束されているのですから、彼らもまた、契約の徴としての洗礼によって、キリスト教会に接がれて、不信者の子供たちから区別されるべきです。それは、ちょうど旧約聖書において、割礼によって区別が行われているのと同様です。この割礼の代りに、新約聖書では、洗礼が設定されているのです。

この問答の出現は、唐突である。洗礼は、信仰の保証である。あるいは、イエス・キリストに血と霊によって、その起源が確かなものとされて、信仰の基礎づけが保証されることである。〔その場合〕自分の信仰を告白し、洗礼を受けることを願う信仰する人間が、前提とされている。ところが、突然に―またこれまで述べて来たこととは明らかに矛盾して、幼児(infantes)の洗礼について語られる。古プロテスタンティズムの神学全体において(カルヴィンにおいても)、幼児洗礼は、このような思いがけない無根拠な仕方で扱われた。すなわち、それまで挙げられていた洗礼にとっての基本的な標識が―ことに受洗者の信仰が、突然不問に付せられる。なぜと言って、乳児が信ずるということは、理性的に受け容れられないからである。「泣き叫ぶ子供」が、ここで罪人がその反抗にもかかわらず聖霊に捕えられていることの、証明なのであろうか。信仰は、洗礼によって、幼児に媒介させるのであろうか。それとも、他の人々の信仰が―恐らくは両親や洗礼立会人の信仰、あるいは集まった会衆の信仰が、その代理をするのであろうか。したがって、この場合、受洗者の信仰は、少しも問題ではなくて、代りの信仰が、問題なのであろうか。しかし、それらすべてのことは、これまで洗礼について教えられてきたことと、どういう関係になるのであろうか。

七十四問には、それ自身としては正しい三つの根拠が、挙げられている。

(1)幼い者も年とった者も、神の契約に属し、聖霊の約束が彼らすべてに与えられているということは正しい。しかし、それによって〈信じていない者、したがってまた自分の信仰を告白し得ない者が、教団に属している〉というようなことが、言われているのではない。教団(ゲマインデ)の一つの活きた肢(えだ)が、他の人の信仰の客体にすぎないというようなことが、あり得るであろうか。それとも、子供は、一つのキリスト教的家庭の子供として、教団に属するのであろうか。

(2)信仰者の子供が、他の子供たちから区別されなければならぬということは、正しい。Iコリント七・一四を見よ!しかし、彼らが教団の肢(えだ)々であるということではなく、ただキリスト者の両親によって、特別の提供がなされるという限りにおいて、彼らが区別されているということである。しかし、このようなことによって、これらの子供たちが、どうしても洗礼を受けなければならぬということについては、まだ何も言われていない。

(3)洗礼が割礼の代りであるということは、正しい。この論証は、改革派教会においては、いつも特別の役割を演じて来た。オランダの教会では、《Verbond》すなわち、神が教団(ゲマインデ)とではなく、キリスト教的諸民族と結び給うた一つの契約について、語られている。われわれがこの観念を広げてゆくと、「キリスト教的西洋」について語ることになる。世界政治的な景観が、展開されるわけである。しかし、教会は、本当に、そのような「キリスト教世界」(Corpus christianum)と同一視され得るであろうか。この問題によって、一切が決定される。イスラエルが諸民族の間にあって、割礼という徴によって、区別されなければならなかったのは、一人の方がこの民の中から、裔として生まれ給うたからではないであろうか。そして、このことが成就され、彼が来たり給うた後においては、この民族の歴史は、終わったのではないであろうか。その後においてなお、どのような意味で、聖なる教会について語ることができるのであろうか。イスラエルと教会は、別のものではないであろうか。そして、われわれは、新しい契約の教団(ゲマインデ)の中へは、信仰に基づいて受け容れられるのではないであろうか。もちろん、イスラエルは、血に基づいて、家族的結合・民族的結合として、構成された。しかし、神の子らの集まりは(ヨハネ一・一二参照!)、聖霊によって召されるのである。神の子らは、一人の人間の意志によって生まれたものではなく、すべての民の中から、御言葉によって呼び出された者たちである。この点に関して、ユダヤ教的理解が力を持っていて、キリスト教的諸民族について、人々が語り得るということは、教会史の多くの誤りの一つである。教会は、もはやイスラエルではなく、イスラエルはいまだ教会ではなかったのである。(もっとも、神の契約が、このような二重の形態を持っているとは、言うことができるが。)このことによって、しかし、洗礼に対する割礼の論証は、力を失う。ただ確信できることは、両方いずれの場合においても、契約の徴が、示されているのだ、ということである。ただし、それは、違った種類の契約の徴なのである。このことは、イスラエル人の男性だけが割礼を受けて、娘たちはやはり洗礼を受けたという事実によっても、証明される。

ハイデルベルク信仰問答は言及していないが、幼児洗礼に対しては、今一つの根拠が、好んで挙げられるのが常である。すなわち、幼児の洗礼こそ、「先行する恩寵」(gratia praeveniens)の不思議な徴であると言われる。宗教改革者たちは、この論証を、少しも用いなかった。それに、この論証が貫穿力(かんせんりょく)を持ち得るのは、幼児洗礼の正当性が証明された場合に限る、ということも、言わなければならないであろう。

しかし、幼児洗礼を執拗に固守する真の根拠は、きわめて端的に言って、もし幼児洗礼をやめるならば、教会は急に驚くべき仕方で空中に投げ出されることになるだろう、という点である。なぜかと言えば、その場合には、一人一人皆、自分がキリスト者であろうと思うかどうかを、決定しなくてはならないからである。しかし、その場合、どれだけのキリスト者が、存在するであろうか。そのことによって、国民教会(フォルクスキルヘ)という考えは、すべて動揺するであろう。しかし、そのようなことが起ってはならない。そこで、人々は、幼児洗礼のために、次々に根拠を挙げる。しかも、根本的に忸怩(じくじ)たるものがあるために、やはり説得的に語ることはできないのである。成人の洗礼を実施しても、それは、もちろん、改革を必要とする教会の改革そのものではないであろう。なぜかと言えば、幼児洗礼を固守するということは、教会が活きておらず・勇敢でなく・ペテロのように海を渡って主に向って進むことに不安を懐き・そのために手摺を探し求めてしかもただ当てにならぬ支柱を見出すという数限りない様々の徴候の一つ―もちろん、きわめて重要なものではあるが―にすぎないからである。

しかし、このように幼児洗礼を固守することの帰結は、第一には、「堅信礼」によって洗礼が、その価値を失うということである。この堅信礼において、洗礼は、信仰によって、保証されねばならない。したがって、洗礼に先立つべきであった信仰告白と〔受洗の]願いが、いわば補充されなければならないのである。人が十五年後に、自分の信仰保証をしなければならない―そのようなことは、不可能である。しかし、幼児洗礼を固守したいと思う限り、それは、やむを得ぬことであろう。その場合には、洗礼は、事実上、後に続く堅信礼を抜きにしては、不完全ということになる。

しかし、今一つの帰結は、必然的に、自分のキリスト者としての存在を少しも問われず・したがってまた受洗の慰めを実現し得ない人々の大衆教会(マッセンキルヘ)が、形成されるということである。われわれは、われわれの教会の中を貫いて流れる無関心と世俗主義の流れを、怪しんではならないのである。

しかし、これらすべてのことによって、数世紀以来行われて来た洗礼が、真に洗礼ではなかったなどということが、言われてはならない。〔洗礼の〕執行(プラクシス)がどうであるにしても、洗礼は、依然として、洗礼である。ここで論じているのは、単に秩序の問題である。しかし、今日新しく提出されている幼児洗礼の問題は、まさに洗礼執行の正しい秩序についての新しい自覚へと、われわれを招くのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四三七~四四〇頁)

Posted in バルト研究, 神学 | Leave a Comment »

宗教改革の光と影 6―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

神の信仰と義

人間がキリスト教団(ゲマインデ)の肢(えだ)として、感謝に満ちた服従の中に、しかも自分の価値や業績に対して何の要求も持たずに、そしてそれゆえにこそ完全にまた強く〈イエス・キリストの死と甦えりにおける神の義なる業は、すべての人にとって、したがってまた自分にとっても、その目標に到達したのだ〉という唯一の慰めに依り頼む確信―それが信仰である。信仰は、このような内容を持っているゆえに、また信仰だけがこのような内容に相応しいものであるゆえに、信仰は―そして信仰だけが、その義認に至る唯一の人間の道である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四二二頁)

宗教改革的認識

人間の信仰は、どの程度に人間を義とする道なのであろうか。また、人間の義認は、どの程度にこの道と結びつけられているのであろうか。われわれは、ここで、「ただ信仰によっての義認」sola fide(ただ信仰によってのみ)という宗教改革的認識の中心に立つ。これは、どのようなことであろうか。

この場合、必然的に三つの境界設定が行われる。

(1)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)、その信仰する主体に残っていたり、あるいは新しく獲得せられた、無垢清浄さによるのではない。また、信仰は、病人を健康にして神に喜ばれるものとする一種の薬ではない(カール・ホル!)。義認ということが、人間の中における何か「善いもの」に関連を持つと考えるこのような考え方は、すべて拒否されなければならないし、また、宗教改革者たちによって拒否されたものである。もちろん、信仰は事実、神の善き被造物の態度であり、またそれは、生活の変革である。ただし、それは、救われた者としても、また救われた者としてこそ、自分が五問、八問、一三問に記されているような罪人と同じ者であることを知っている人間の生活の変革なのである。なぜかと言えば、キリストを信じている人間だけが「人間の悲惨」を知っているからである。したがって、信仰によって義とされるのは、信仰する人間がまだ罪人でないとか、もはや罪人でないとか、という理由によってではない(六〇問の前半)。そうではなくて、信仰する人間は、罪人でありつつ、義とされるのである。

(2)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)、その人間が感謝の中にあって、何か新しい善い生活を生み出すという理由によってではない。〔もとより〕信仰は、そのような生活を生み出す。また、信仰する人間は、必ず信仰において善き業をなすであろう(六四問の「真の信仰によってキリストに接がれた者が、感謝の実をもたらさぬというようなことはあり得ない」という言葉を参照)。また、そのような善き業がいつまでも報いを受けぬということも、必ずないであろう(六三問)。しかし、われわれが、何に信頼するかと自問する場合、われわれは、決して自分の「善き業」を指示したりはしないであろう。そのような「善き業」によっては、われわれは、神の御前に立つことはできないのである。それは、神の御前において通用する義は、「神の律法と全く一致するもの」(六二問)でなければならぬからである。われわれの性向は、われわれの善き業にもかかわらず、いつも「生まれつき、神と自分の隣人を憎む傾向がある」(五問)というようなものである。したがって、われわれは、恩寵によって、そしてただ恩寵によってのみ、神に受け容れられるのである。

(3)信仰が人間を義とするのは(たとえ部分的にでも!)その人間自身の中に宿る何かの性質によるのではない。「それは、私が自分の信仰の価値によって、神に喜ばれる、ということではありません」(六一問)。〔もとより〕信仰は、一つの人間的な行為でもある。信仰の中にあっても、われわれは、なお人間的な動と反動の領域の中におり、したがってその領域特有のあらゆる問題性の中にいるのである。しかも、信仰者こそ、〈自分は自分自身からは信ずることはできない。これは聖霊の業である〉ということを知っている。したがって、人間は、信仰においてこそ、神を正しいとし、自分自身を正しいとしないであろう。

信仰が人間を義とするのは、信仰する人間が、キリスト教団に与えられている約束の下に、身を置くからである。キリスト教団(ゲマインデ)とは、〈神の計画と意志は、すべての人間のために成就され、イエス・キリストにおいて、その目標に達している〉ということを知ることを許されている人間の集まりである。信仰する人間は、イエス・キリストが「私共のためにそこに存す」(四六問)ということ、「彼が天において、その父の御顔の前で、私共の執成しをする者であり給う」(四九問)ということを見る。信ずる者は、神の義なる裁きに信頼する。そして、神に対して「然り」と言って、もはや呟かぬことによって、神との平和の中に生きる。したがって、そのような人は、神を正しとする人であり、まさにそのようにして、同時に神の御前において、正しい人なのである。このようにして、信ずる者は、いまだ途上にありながら、すでに目標に至っており、キリストの中にあるのである。

人の信仰が、その人を義とするのではなく、その信仰の対象と内容が、その人を義とするのである。しかし、この対象は、人間に与えられる一つの贈り物である。それは、信仰者が、ただ受けることだけできるところの・ただ承認することだけできるところの・ただ信頼することだけできるところの恩恵である。このような態度は、神がわれわれに与え給う神の自由な慈恵に、対応するものである。なぜなら、このような態度においてこそ、「あたかも私が罪を犯したことが…ないかのように」(六〇問)神に栄光が帰せられ、神の義認の贈り物は受け容れられるからである。それは、「信仰の大胆な行為」である。「義人はその信仰によって生きる」。すなわち、信仰とその対象との間には、一つの即事的な(ザッハリッヒ)な対応があるのである。信仰者は、自分の信仰を誇ろうなどとは思いつきもしないが、しかし、彼は、神が自分を喜んでいて下さるということを、受け容れることを許されているし、また受け容れるであろう。

このようにして、信仰が―そして信仰だけが、裁きにおいて人間が義とされるに至る道である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四二四~六頁)

Posted in バルト研究, 神学 | Leave a Comment »

宗教改革の光と影 5―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

聖徒の交わり

私と私の信仰が、神の道の目標ではなく、むしろ神の業の完遂がその目標である。神は、一つの光を、地上に点じ給うた。私は、地上に一つの教団が―しかも神の子によって基礎づけられた一つの教団が存在することを信ずる。ここでは、人間が優先的に働くのではなくて(もちろん、ここでは神に対する賛美が鳴り響き、祈られ、宣べ伝えられるが)、一切がイエス・キリストの先手(イニチアティーヴェ)によって起る。そこでわれわれが出会うのは、イエス・キリストの活動である。そこでは、神御自身が「集め・守り・保ち給う」のである。教会の設立とその保持は、彼に依存する。彼が存さぬところ、そこには、何物も存しない。すべての異端的な・また死んだ教会主義の根拠は、そこではキリストがもはやただ独りの創始者として、理解されていないということである。「また、私が、その群れの活ける肢(えだ)であり、いつまでも肢として留まるであろうということ…」。教団(ゲマインデ)の活ける肢であるということ、それがキリスト者であるということである。そして、ここにおいてこそ、「教会の外に救いなし」(extra ecclesiam nulla salus)という言葉が、全き厳格さにおいて妥当する。ハイデルベルク信仰問答が、一人一人のキリスト者の現実存在を、いわばただ教団(ゲマインデ)の現実存在に対する補遺としてだけ、述べているということは、美しいことだと言い得るであろう。しかし、他方から言えば、ここにおいてこそ、問題は一人一人の個人にかかっているのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四一九頁)

Posted in バルト研究, 神学 | Leave a Comment »

宗教改革の光と影 4―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

三位一体

神が「ただそのような方でのみある」ということは、〈このような三一の神でないような神についてどのような観念も(それがどんなに美しく、どんなに意味深遠なものであっても)、一つの偶像、一つの偽りの神の像を築き得るにすぎない〉という意味である。この点からして、二九、三〇、八〇、九四、九五、一〇二、一二五問において見るような、この信仰問答の唯一神論に対する熱中は、理解される。そこでは〔神の〕単一(アンハイト)に対する思弁的な関心が肝要なのではなくて、むしろ〔ハイデルベルク信仰問答の〕編纂者たちにとっては、イエス・キリストの御業において顕わされた三一の神の独一性(アンチヒカイト)が、重大なことであったのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三八三頁)

神は、罪人の死を欲し給わない。むしろ、罪人が悔い改めて生きることを欲し給う。神が完全に厳しくあり・しかも完全に憐れみ深くあり給うということこそ、神の深みであり、神の義の深みである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三九八頁)

神の義が憐憫であるということが可能であり、現実であるのは、われわれの事柄を御自身の事柄とするために、神自身が降り給うたからである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三九八頁)

聖霊なる神

「我は聖霊なる神を信ず」とは、次のようなことである。

五三問 聖霊について、あなたは何を信じていますか。―第一には、聖霊が父および子と同様に永遠の神であり給うということを、信じます。第二には、聖霊は、私にも与えられており、真の信仰によって、私をしてキリストとキリストのすべての恩恵に与らしめ、私を慰め、永遠に至るまで私の許に留まり給うであろうということを、信じます。

〈神は単に私を越えたところにいることを欲せず、私の中にいることを欲し給う〉ということ―これが第三項の語る異常な中心の言葉である。Deus in nobis(われらの中なる神)である。あらゆる新プロテスタンティズムと、あらゆる攻撃者に反して、神はそのような方なのである!しかし、それは、どのようなことであろうか。それは、「聖霊は、私にも与えられており、真の信仰によって、私をしてキリストとキリストのすべての恩恵に与らしめ」給うということである。このようなDeus in nobis(われらの中なる神)。このように聖霊が私に与えられているということ。それは一瞬も、静的に理解さるべきことではない。キリストは、私の信仰の根底として、私に与えられている。したがって、神の方から基礎づけられることによって、われわれのいささかの信仰も、真の信仰である。すなわち、キリストとキリストのすべての恩恵に与ることである。信仰において、われわれは、神がわれわれに向かって差し出し給うものの方に、手を差しのべる。私は、イエス・キリストにおいて、客観的に得られた慰めに、主体的にすでに与っている(一問)ということを、信ずる。信仰が終わることがあり得るということは、信仰の中に基礎を持つ事柄ではない。もし、私から信仰が失せるとすれば、その場合には、私が信仰を投げ捨てたのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、四一七頁)

Posted in バルト研究, 神学 | Leave a Comment »

宗教改革の光と影 3―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

真の信仰

二一問 真の信仰とは、何ですか。

―それは、単に、神が御言葉において私共に啓示し給うたすべてのことを、私が真実であると考えるある種の認識のことではありません。それは、また、心からの信頼であり、この信頼は、全く恵みから、ただキリストの功績のゆえに、単に他の人々にだけではなく私にも罪の赦しと永遠の義の祝福が神から私に与えられるために、聖霊が福音によって、私の中に起こし給うものです。

 ここでは、神の民の存在と行為が記される。この民は、三問―十一問において、その悲惨が記されていた人類の一部分である。それは、他の人類とは、ただ信仰によって区別されているにすぎない(六問)。しかし、信仰者とは、神の真理をイエス・キリストにおいて認識し、約束を捉え、この約束に信頼することを許されている人々である。信仰とは、単に一つの認識ではなく、それは、同時にこのような「心からの信頼」なのである。なぜかと言えば、ここで問題は、一定の理論に関するのではなく、義による救いが私にも与えられ、私に対しても私の罪が赦される、その確かさに関するのだからである。神の賜物を一つの実存的な賜物として認識することが、信仰の決定的な働きである。このような信仰の働きが、人間の中において出来事となる場合にこそ、義による救いを世界に対して証しすることを許される神の民が集められる。なぜかと言えば、この民は、啓示され信ぜられた言葉によって、この上もなく真実の意味において、「その場に」居合わせたのだからである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三七八頁)

Posted in バルト研究, 神学 | Leave a Comment »

宗教改革の光と影 2―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 7月 3, 2012

神の判決

人間は、神の正常性(レヒト)を破壊することによって、自分自身の正常性(レヒト)を失うのである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三六四頁)

神の義

神がただ一人のイエス・キリストにおいて、御自身の正常性(レヒト)と人間の正常性(レヒト)を同時に保証し、またイエス・キリストにおいて、御自身の栄光と同時に人間の祝福を確保し給うたことによって、人間によって乱された秩序は回復され、人間を脅かす危険は回避された。このことがイエス・キリストにおいて起ったということが、人間の望みであり、一切の慰めの根底である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三七〇頁)

イエス・キリストは、神の御前において、人間の責任を引き受け給う。彼は罪に対して、「償い」給う。彼は、神の怒りを忍び、まさにそのことによって、人間の正常でない状態を除去し給う。彼は神と人間を、再びその正常性(レヒト)に移し給う。これがキリストという出来事であることによって、この出来事は、われわれの救いであり、したがって、それによって義が「満たされる」神の憐みの行為である。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三七三頁)

教団(ゲマインデ)は、イエス・キリストの中に「唯一の慰め」を認識し賛美する場合に、自分のなしていることを知るのである。イエス・キリストは、現身(うつしみ)の神の義であり、神の憐みである。―カール・バルト 「キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による」(『カール・バルト著作集9』、三七五頁)

Posted in バルト研究, 神学 | Leave a Comment »

宗教改革の原点―「ハイデルベルク信仰問答」の特徴

Posted by Shota Maehara : 7月 1, 2012

『ハイデルベルク信仰問答』の中心的概念が、問1に現われる「慰め」にあることは言うまでもありません。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
  
 この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。
 
 また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。

 そしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。

 しかし、この概念は、聖書全体を体系的に説明するためのものではなく、イエス・キリストの福音の本質を端的に言い表した信仰の言葉です。人間の業によってではなくイエス・キリストを信じる信仰ののみによる救いの発見、この福音に唯一の「慰め」を見出したことが、宗教改革の原点でした。混沌とした時代にあって、文字通りこの慰めとともに生きそして死んでいった人々にとって、問1の答えは偽らざる信仰の告白であったに違いありません。

 しかしながら、この「慰め」というモティーフは、決してセンチメンタルなものではありません。生も死も、自己の存在のすべてが、ただキリストに根ざすという信仰の確信に基づくものです。それはまた、父・子・聖霊の神の過去・現在・未来にわたる御業の真実また確かさに対する、全人格的信頼の告白に他なりません。罪の悲惨に生きる人間が自分自身ではなく神の大いなる御業のうちに生きる者へと変えられて行く、そのことが私たちの喜びであり神賛美となる、と言うのです。

 この目的に至るために、『ハイデルベルク信仰問答』は、人間の悲惨さ(問3―11)・救い(問12―85)・感謝(問86―129)の三つの知識が必要であると言います(問2)。これは基本的には新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の構造にならったものですが、一キリスト者が信仰を会得して行く過程を繁栄しており、信仰問答全体がキリスト教信仰の一つの道程となっているとも言えます。さらに、『ハイデルベルク信仰問答』の作者たちは、答えの一言一言が人々の心からの告白となるように実に細かな配慮をしています。彼らは、すべての主要教理を十分熟知した上で、それらを問答の中に巧みに取り入れ血肉化する努力をしているのです。そのような作者たちの努力と祈りが、この信仰問答書に独自の深みと温かさを与えていると言えるでしょう。
―『ハイデルベルク信仰問答』(新教出版社、吉田 隆訳、一二九頁~一三〇頁)

Posted in バルト研究, 神学 | Leave a Comment »

宗教改革の光と影 1―カール・バルト「ハイデルベルク信仰問答」を読む

Posted by Shota Maehara : 6月 26, 2012

ハイデルベルク信仰問答は、当時神聖ローマ帝国の領地であった、今日のドイツ南西部にあたるプファルツの都ハイデルベルクにおいて、一五六三年に、キリスト教会の教理を示す目的で、宗教改革者らによって作られた。

それはカール・バルトが述べるように「十六世紀に更新せられた教会の一つが、宗教改革全体の積極的な方向をよく示す仕方で、その福音の認識に対して与えられた形式として、成立したものである」。また一五六三年という年は、もはや宗教改革の初期の時代や戦いの時代ではなく、「むしろ、それは、始まりつつあった反宗教改革の時代」であったことを知っておくことは極めて重要なことであろうと思われる。

なぜなら、後世におけるゆがめられた「宗教改革」ではない、真の宗教改革の主題をそこから垣間見ることができるからである。それは、今日に生きるわれわれとも決して無縁のものではない。たとえば、もし近代のヒューマニズムが、華々しい科学の発展や個人の権利の擁護を生み出したと同時にアウシュビッツに帰結したという見方が許されるならば、人間は神との正常な関係を失うことによって、人間と人間との正常な関係も見失ったと考えることがやはり真理であるように思われるからである。

では、われわれがあの「宗教改革」によって得たもの(光)と見失ったもの(影)とは何なのか。このことを慎重に明らかにしていくことがますます求められてくるのではないだろうか。その一端として、ここに、カール・バルトの「ハイデルベルク信仰問答」に関する講義の一部を引用する。

 七問 では、人間のそのような荒廃した有様は、どうして起ったのでしょう。―
 
     それは、私共の最初の祖先であるアダムとエバの楽園における堕落と不従順から、起ったことです。なぜ
    言って、私共の本性は、毒せられてしまって、私共は、みな罪のうちに孕まれ、罪のうちに生まれることに
    なったからです。
 
  人間が正常性(レヒト)を破壊する者となるのは、契約からの堕落に基づくことであり、人間が歴史の中に入り
 込み、罪という不可能な場所に赴く時にたずさえていく不従順に基づくのである。

 八問 しかし、私共は、どんな善に対しても全く無能力であり、あらゆる悪を行う傾向を持っているというほどに、  
     荒廃しているのでしょうか。―

     そうです。私共が神の霊によって新たに生まれるのでないならば、その通りです。

  このようにして、人間は、人類の一人一人において、あらゆる善に対して無能力な者・あらゆる悪を行う傾向
 を持つ者として、登場する。別の事態が起るためには、「新発足」が必要である。

 九問 では、神は、人間に不可能なことを、人間に対して、その律法において、要求するという不正を、人間に 
     対して行い給うのではないでしょうか。―

     否、そうではありません。なぜかと言えば、神は人間を、そういうことができるように、造り給うたからです。と
    ころが、人間は、悪魔のそそのかしのために、無謀な不従順によって、自分自身とすべての子孫から、この
    賜物を、奪ってしまったのです。

  人間は、自分が何かの歴史的圧力の下にあって、いかんともし難いのだ、というようなことを、申し立てることは 
 できない。神は人間を善く造り給うたのだが、人間は自分の自由を否定し、これを失ってしまったのである。

  注目に値するのは、以上すべての脈絡において、人間の特別な悪行に対する反省(後世になってからは明ら 
 かに行われたが)は、見いだされないということである。人間は十六世紀においてもすでに天使ではなかった。人  
 間の数々の非業を、名を挙げて言うということは、容易いことであったろう。ところが、人間は、あらゆる善に対し
 て無能力であり、神と隣人を憎む傾向を持っているということだけが、人間について語られるのである。聞く耳あ
 る者は聞くべし。―さらに、以上の脈絡においては、人間について恐らくやはり言うことのできる様々の善や長所
 についても、語られていない。人間が悪であるという事実は、動くことがなく、またそれはどんな歴史哲学によって
 も、基礎づけられたり、説明されたりすることは、不可能なのである。
  
  この告発の権威と真理性は、何に基づくものであろうか。それは、われわれがその時々に人間から受けることの
 できる様々の印象に基づくものでは、もちろんない。そのような印象は、変化するものである。人間が根本的に
 善ではないということ。むしろヒューマニズムや文化の上塗りは堪え難いほどに薄いことが示されたということ。この
 上塗りが剥げて、人間の奥にひそんだ動物的な本能をあらわにするのは雑作もないということ。これらの事実
 は、三十年あるいは四十年以前よりも、今日はさらに明瞭である。しかし、われわれが明らかに知っていなけれ
 ばならないのは、今日のこのような有様も、再び変化することがあり得るということである。三十年戦争のころに
 は、〈人間は善ではなく、したがって当然の告発を受けるのだ〉ということを、すべての人が確信していた。この戦
 争は、一六四八年に終わったが、その世紀の終りのころにはもう、ライプニッツが、その楽観主義の学説をもっ
 て、学派を作ることを始め、人間の善と徳についての実に輝かしい見解によって、十八世紀にいたる過渡期を
 形成したのである。このようにして、ローマ・カトリック的見解とヒューマニズムの見解は、〈人間を、あらゆる善に対
 して無能力な者、神と隣人を憎む傾向を持った者という風に、特徴づけることは、行き過ぎだ〉という点で、一致
 しているのである。
 
  しかし、この告白は、議論の余地ある様々の見解や印象に由来しているのではなく、まったく他の場所に根拠
 を持っている。ここでは、問題は、単に人間的な告発に関するのではない。三問―九問の叙述は、楽観主義
 あるいは悲観主義から生まれたものではなくて、むしろ神の律法に対する聴従に基づいている。人間に対する
 比較的寛大な批判も、今日のわれわれの比較的苛酷な観察も、このような「向う側」に立つということが、何
 よりも重要なことである。そしてこのような「向う側」において、〈人間は悪しき者だ〉という決定が、下されるのであ
 る。

 ―カール・バルト「神の告発」(『キリスト教の教理―ハイデルベルク信仰問答による』、三五八~三六〇頁)

Posted in バルト研究, 神学 | Leave a Comment »

カール・バルトを読む―キリストという出来事をめぐって

Posted by Shota Maehara : 3月 23, 2011

二〇世紀の最大の問題の一つが、ナチスドイツや日本の軍部によるファシズムであった点に異論はないであろう。近代は、デカルト以来、自己をあらゆる認識・存在の中心に置き、そこから科学を発展させ繁栄を築いてきた。

しかし、そうした理性や科学の時代こそが、ナチスを生んだのである。したがって、ナチスなどの国家に対して啓蒙主義的(=合理主義的)批判は無力であった。なぜなら、遥かにナチスドイツのほうが科学的合理性(優性遺伝子、メディア操作、原子力、ガス室など)を援用して民族を指導したからである。

では、ここにおいて何がこうした歴史の流れを押しとどめる力となりえるのか。その答えはスイスの神学者・カール・バルトにとって、神であるよりもむしろ、イエス・キリストをめぐる出来事であった。

おそらくバルトはこうしたキリストに対する認識をキルケゴールから得たのではないかと考える。それはバルトがやはりキルケゴールの強い影響を受けて、『ローマ書講解』を書き、それは時に「弁証法神学」とも呼ばれもしたからである。

ここでイエス・キリストとは無論、超越者ではない。むしろ、ありふれた隣人である。だが、この無限なる神がまさに地上に有限者として存在し給うたということ。ここにキリスト教の核心であるパラドックス(逆説)が存在するのである。

この他者性をもったイエス・キリストという出来事こそが、歴史に埋没しない特異な力でいまも我々を正しい道に連れ戻そうと呼びかけている。後期の彼の畢生の大作『教会教義学』はこのキリストの出来事を中心にして展開されていくのである。

本書は、こうした二〇世紀最高の神学者カール・バルトの全仕事を俯瞰することができる画期的なコレクションである。訳者である天野有氏に最大級の賛辞を送りつつ、日々紐解かせていただいている。

Posted in バルト研究, 神学, 書評 | Leave a Comment »