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Shota Maehara's Blog

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罪の意識がないという罪

Posted by Shota Maehara : 3月 6, 2013

三浦綾子え三浦綾子さんの本に次のような言葉があります。

「もしかしたら、私には罪の意識というものが、欠けているのではないだろうか。罪の意識がないということほど、人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしても何ら良心の呵責がない。それと同様に、私もまた、人の心を傷つける ことをしても胸が痛まないのだ。こう思ったとき、私は、『罪の意識のないのが、最大の罪ではないだろうか』と思った。そして、その時、イエス・キリストの十字架の意義が私なりにわかったような気がした。」

確かに法律的には、犯罪を犯すわけではないが、人を見下し、人を傷つけていて、罪の意識が皆無の人がいます。

この罪の意識がない、人の心を傷つけても胸の痛みがないというのが問題です。罪の意識がないと、イエス・キリストの十字架の意義がわからないのです。

罪の意識が芽生えてくると、神様に近づけます。罪の意識があると、和解が生まれてきます。

クリスチャンは人間であり、罪人です。ですから争い、いさかい、人間関係のこじれが生じます。

しかし嬉しいことに、その人間関係のこじれが、和解したという話もよく聞きます。その時に何があったかというと、当事者同士が、自分の罪と悪に気がつき、お互いに相手に赦しを求めて、涙の和解となるようです。そして当事者の両方が、自分の罪のほうが、相手の罪よりも大きいと感じているのです。

自分の罪を知ること、そして自分では罪の問題を解決できないこと、そしてその罪の罰を、すべてイエス・キリストが十字架に身代わりに受けてくださったことを知るときに、自分の罪の大きさを自覚するのです。ですから争いがあっても、いさかいがあっても、罪の自覚のある人同士であれば、イエス様を見て和解できるのです。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(新約聖書エペソ人への手紙4章32節)

キリストの十字架によって、自分が赦されたということを知るときに、人間は他の人を赦すことができるのです。

しかし罪の自覚がない人、三浦綾子さんの言葉によると、最大の罪を持っている人は、和解できないのです。常に自分は正しくて、問題の原因は相手にあると考えて、 さばき、高ぶってしまうのです。

罪の自覚は、実は、神様のあわれみによるものであって、自分から出たものではないのです。自分が罪人であることがわかるということは、 神様の子として生きることの出発点になるのです。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:738BpPdmZBAJ:heartland.geocities.jp/seishonomegumi/column8.htm&hl=ja&gl=jp&strip=1

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赦されること・愛すること(ルカの福音書7:36ー50)

Posted by Shota Maehara : 3月 6, 2013

ルカの福音書36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、

38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。

40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。

41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。

42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」

43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。

44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。

45 あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。

46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。

48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。

49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

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キリスト者とは誰か

Posted by Shota Maehara : 2月 28, 2013

img_1493959_52831216_0 「キリスト者とは誰か」――改めてこの問い掛けを自分に向けてみると、その答えは単純でありながらも深いものであることに気づかされます。「キリスト者」とは、「キリストに属する者」あるいは「キリストに従う者」でしょうか。この名称は、最初は外部から与えられたものであって、イエス・キリストの道を歩む者たちが自分たち自身を指すために使い始めたものではありません。しかもそれは蔑称的なものであったようですが、後に、彼らはむしろそう呼ばれることを誇りに思い、自分たちの方から用いるようになったようです。それ以前、キリスト教は「この道」(使徒言行録9・2)と呼ばれ、それゆえ、紀元43年ごろ、シリアのアンティオキアで、イエスの道に従う人々が「キリスト者」と呼ばれるようになったと言われます(同11・26)。

一人の人間がどのようにしてキリスト者となるのか――聖書はそのことについて、さまざまな召し出しの場面を描いています。例えば、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1・17)――そう言ってイエスは、湖で網を打っていたシモンとその兄弟アンデレを招きました。パウロの召命は劇的です(使徒言行録9・1-19、22・6-16、26・12-18)。「わたしが選んだ器」(使徒言行録9・15)として、イエスは自分を迫害していたパウロを有無を言わせず捉えます。その他にも、たとえ聖書には記されてはいなくても、多くの人びとがそれぞれのイエスとの出会いを体験したことでしょう。

イエスと弟子との関係は、極めてユニークなものでした。まず、弟子が師を選ぶのではなく、師が弟子を選びます。弟子となる者は、「一切を捨てること」(ルカ14・33)、すなわち、凛とした覚悟が求められます。その意味で、キリスト者となることは、確かに「狭い門」(マタイ7・13)であり、自分を捨て、日々、自分の十字架を担いながらイエスに従うことが求められます(ルカ9・23)。しかし同時にまた、イエスと労苦を共にする者は、その喜びにも与ります(二コリント7・4参照)。
真のキリスト者となること、それは決して、一時的な感情の高まりや無分別な判断によるものではありません。ある種の落ち着きが必要です。単純で素朴な心でイエスのことばを聴いて悟り(マルコ7・14)、腰を据えて(ルカ14・28、31)、彼の招きに応えることが大切です。しかしそれは、私たちのうちに常に揺ぎない確信があるというわけではありません。私たちは弱く不確かな存在であり、たとえ誠実であろうとしても過ちを犯し得る存在です(ローマ7・15参照)。しかしそれでも、イエスの真心に自らを託したい、その心に偽りはありません。パウロが語るように、神は「世の無力な者」(一コリント1・27)を選ばれます(申命記7・7参照)。自分の弱さ、あるいは自分が取るに足りない者であることを謙虚な心で認めるとき、私たちは真のキリスト者となる一歩を踏み出すことができるのではないか、そう思います。

http://seseragi.jesuits.or.jp/sasage/0710-1.htm

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FOOTPRINTS(あしあと)

Posted by Shota Maehara : 2月 12, 2013

FOOTPRINTS

One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
“Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I’m aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don’t understand why, when I needed You most,
You leave me.”

He whispered, “My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you.”

copyright(C)1964 by Margaret Fishback Powers

footprints

あしあと
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワーズ
translation copyright(C)1996 by Pacific Broadcasting Association

 

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いつくしみ深き(賛美歌312番)ーWHAT A FRIEND WE HAVE IN JESUS

Posted by Shota Maehara : 2月 11, 2013

WHAT A FRIEND WE HAVE IN JESUS

作詞: Joseph Scriven (1820-1886)
作曲: Charles Converse (1834-1918)
What a friend we have in Jesus, all our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry everything to God in prayer!
O what peace we often forfeit, O what needless pain we bear,
All because we do not carry everything to God in prayer.

Have we trials and temptations? Is there trouble anywhere?
We should never be discouraged; take it to the Lord in prayer.
Can we find a friend so faithful who will all our sorrows share?
Jesus knows our every weakness; take it to the Lord in prayer.

Are we weak and heavy laden, cumbered with a load of care?
Precious Savior, still our refuge, take it to the Lord in prayer.
Do your friends despise, forsake you? Take it to the Lord in prayer!
In His arms He’ll take and shield you; you will find a solace there.

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて
などかはおろさぬ 負える重荷を。

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ。
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん。

いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて いたわりたまわん。

「日本基督教団讃美歌委員会著作権使用許諾第2414号」

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マイスター・エックハルトについて

Posted by Shota Maehara : 1月 14, 2013

マイスター・エックハルトエックハルト

マイスター・エックハルトMeister Eckhart1260年頃 – 1328年頃)は、中世ドイツ神聖ローマ帝国)のキリスト教神学者、神秘主義者。

エックハルトは、ドイツのテューリンゲンにて生まれる。タンバハという村で生まれたと推測されている。 パリ大学にてマイスター称号を受ける。トマス・アクィナス同様、同大学で二度正教授として講義を行った。 ドミニコ会ザクセン地方管区長やボヘミア地方副司教等を歴任した。 1326年ケルンで神学者として活動していたエックハルトはその教説のゆえに異端の告発を受け、これに対し「弁明書」を提出。 当時教皇庁があったアヴィニョンで同じく異端告発を受けたウィリアム・オッカムとともに審問を待つ間(もしくはケルンに戻った後)に、エックハルトは没した。 その死後 1329年、エックハルトの命題は異端の宣告を受け、著作の刊行・配布が禁止された。 これによって彼に関する記録はほとんどが失われたため、その生涯は上記の「弁明書」等から再構成されるのみであり、不明な部分が多く残されている。

目次

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教義 [編集]

との合一を、そして神性を説く。

「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう」

このようなネオプラトニズム(新プラトン主義)的な思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなった。

神と被造物 [編集]

エックハルトは、神はその源初において無というほかはないと述べる。この状態で神は安らぐことがない。神からロゴス(言葉)が発し、被造物が創造されることによってはじめて神は被造物において自分自身を存在として認識する。

この時の被造物に対する神は唯一の存在であり、それに対する被造物は無に過ぎない。被造物は神に生み出されることによって存在を持つのであって、被造物それ自体ではまだまったく持っていない。被造物はそれ自体では存在すらできない純粋な無である。

神は生むもの、被造物は生みだされたもの。この両者はアナロギア関係にある。アナロギア関係は次のようにたとえられる。「健康な尿」という言葉があるが、尿それ自体が健康であるということはない。「健康な生物」がそれを生み出したから尿が健康だと言われるのである。被造物における「善き者」などもそれ自体が善いのではなく、「善性」がそれを生み出したから善いと言われる。神がそれを生み出したから被造物は善き者であることができ、知性を持つことができ、生きることができ、存在することができる。だから被造物において絶対的に義なるものはありえない。善い意志を持とうとする被造物の側からの努力もエックハルトにとっては空しい試みである。では、被造物にできる最高のこととは何か。それはに徹することだとエックハルトは言う。無のうちには最大の受容性がある。「あれ」「これ」といった特定の存在が消え去る純粋な無の中にこそ純粋な存在たる神が受容される。「我の無」すなわち「神の有」。神は充溢した存在そのものであるからその本性からして無に存在を注ぎ込まずにいられない。神は被造物と気まぐれな関係をもつのではなく、本質的に被造物と関わっている。神はその本性からして私(被造物)を愛することをやめることができないという。

無になることの重要さをエックハルトは繰り返し説く。板の上に何かが書き込んであるとして、そこにいかに高貴なことが書き込まれていようとも、その上に更に書くことはできない。神が最高の仕方で書くには何も書かれていない板が最適であるという。極限の無になることで自分を消し去ったとき、内面における神の力が発現し、被造物の内にありながら創造の以前より存在する魂の火花が働き、魂の根底に神の子の誕生(神の子としての転生)’が起こる。

しかし人が神の子になるというこの思想は教会にとっては非常に危険なものであった。そもそも神の子はイエスただ一人でなければならないし、個人がそのまま神に触れうるとすれば教会や聖職者といった神と人との仲介は不要になってしまう。

神の慰め [編集]

みずからを消し去り、神の子として生まれ変わったものは被造物を超えた存在となるため、いかなる被造物からも悩まされることがなくなる。被造物から生まれたものは被造物に悩まされるが、被造物にあらざる神の子として生まれ変わったものは被造物による悩みを持ちようがない。

それでは現に悩みがある者はどうすべきなのかというと、悩みを神から受け取るべきであるとエックハルトは言う。神のうちで「神、ともに悩み給う」のを喜ぶべきなのである。悩みが消えるような慰めが神から与えられないときは、「恩寵を受けない」という仕方で受け取っているのであり、受けないということで受けることにより一層本来的に神を受容することになる。

あらゆるものを受容することはエックハルトの中心的な教説のひとつである。神の意志は「あれ」とか「これ」とかいう風に指し示せる特定の事柄として現われるのではない。「これが神の意志だ。」と言う人は被造物たる己の意志を語っているに過ぎない。神が何を意志するか、神が何を与えてくれるかが問題なのではなく、神の与え給うものも、そして与え給わぬものも、一切を断念することが重要である。一切の消滅的な事物を放下した者はそのすべてを神のうちで再び受け取る。神において受け取る一匹のハエは最高天使それ自身の存在よりも貴いとまでエックハルトは言っている。

あらゆるものは時間の上ではそれらが神から流出したという点で等しく、永遠の上ではそれらが神のうちにあるという点で等しい。神にすべてをゆだねた者にとっては神が神自身であるようにその者自身が神なのである。そのような神の子の誕生は神自身にとっての喜びでもある。

神性への突破 [編集]

エックハルトにとって最高の徳は離脱である。それは愛や慈悲や謙虚よりも貴い。愛することよりも離脱が高貴だというのは、愛が私に神を愛させるのに対し、離脱は神に私を愛させるからである。愛は神のためにあらゆるものを忍従する。離脱はあらゆる物から脱却し、神をみずからの内に迎え入れて神を神たらしめる。

離脱は内面において達成される。外的な所有物をいくら捨てても、己の意志を捨てなければ離脱することはできない。これは当時ドミニコ会に対立していたフランチェスコ会の、自分の所有物を捨てようとする清貧の運動に対する批判を含んでいる。

イエスの「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである。」という言葉は解釈が分かれる言葉であるが、エックハルトは「心の貧しい者」を、意志の貧しい者、自己を捨てたものとみなして同意している。彼はここで無我を唱える仏教に近づいている。しかし彼のキリスト教の枠からの跳躍はここにとどまらない。エックハルトはさらに神からの離脱を説く。神と考えられるもの、それは真の神ではない。考えが消えれば考えられた神は消えてしまう。そのような神は所詮、我の立てたものである。エックハルトが神と神性を分けているのは重要である。神は三位一体という形を有するが、神性が、神をそのようにあらしめているもの、いわば神の本質である。エックハルトはしかしこの神の本質を神性としての無と表現する。有として形ある神は突破されなくてはならない。

純粋な有たる神が本質的には神性という無であり、無という神性に徹した我が、最高の存在になるというのは、初発に無と有を峻別しながらも、無の貫徹に終わる境地である。「生むもの」と「生まれるもの」は、一方が能動、もう一方が受動であるという以外は全く同じ一つの「生」であると言われる。エックハルトは一切の神イメージを持つことから脱し、神と合一した自己をも捨てた究極の無を目指している。

後世への影響 [編集]

ドイツ語圏を中心に中世末期のみならず近代以降の思想家にも、強い影響を残している。

中世

近世 ・現代

関連人物 [編集]

著作邦訳 [編集]

  • 『ドイツ語説教集』 (ドイツ神秘主義叢書 2) 上田閑照訳、香田芳樹訳註、創文社、2006年
  • 『エックハルト論述集』 (ドイツ神秘主義叢書 3) 川崎幸夫訳、創文社、1991年
  • 『エックハルト I』 (キリスト教神秘主義著作集 6) 植田兼義訳、教文館、1989年。[ドイツ語説教集、神学論集、ヨハネス22世の教皇勅書]。
  • 『エックハルト II』 (キリスト教神秘主義著作集 7) 中山善樹訳、教文館、1993年。[創世記注解、ヨハネ福音書注解]。
  • 『エックハルト説教集』田島照久訳、岩波文庫1990年ISBN 4003381610
  • 『神の慰めの書』 相原信作訳、講談社学術文庫、1985年ISBN 4061586904

参考文献 [編集]

  • 上田閑照『マイスター・エックハルト』(人類の知的遺産21) 講談社、1983年。
  • 上田閑照「『神の子の誕生』と『神性への突破』」、上田閑照編『ドイツ神秘主義研究』増補版、創文社、1982年、107-232頁所収。
  • 西谷啓治『神と絶対無』(西谷啓治著作集第7巻所収)、創文社、1987年。

外部リンク [編集]

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フス派について―チェコ宗教改革の源流

Posted by Shota Maehara : 8月 15, 2012

フス派は、カトリック司祭ヤン・フスチェコで始めた改革派。フーシテン(ドイツ語:Hussiten)とも呼ばれた。主にチェコとポーランドに勢力を拡大した。

フスは、パンの秘蹟のみならずワインの秘蹟にも民衆が預かる二種聖餐を主張し、また、チェコ語典礼を行い、当時の支配者であるドイツから睨まれ、また教会の腐敗を批判したため、コンスタンツ公会議に喚問され、異端とされた後焚刑にされた。当時のボヘミアはルクセンブルク家に支配され、ドイツ語が強要されるなどした為、ボヘミアにおいてはチェコ人の民族運動としての側面が強かった。

いっぽう、ポーランド王国にもボヘミアに匹敵する規模のポーランド人フス派信者がいた。ボヘミアと異なりポーランドは伝統の自由主義のもと13世紀から制度的にも宗教的寛容が実現していたため、フス派が宗教的理由で迫害されることはなかった。そのためフス戦争の期間も一度に数千人ものチェコ人のフス派が義勇兵としてポーランドの戦争の際ポーランドに味方したり、これまた一度に数千人ものポーランド人のフス派がボヘミアに遠征してチェコのフス派に味方したりと、互いに連帯して敵と戦ったのである。

フス戦争後期には遠征(侵略)も行ったためドイツ民衆には災厄のように恐れられた。また、一部のフス派は強盗団同然に不良化し、フス派の味方であるポーランドでさえも村々を渡り歩いて狼藉をはたらき、ポーランド民衆から疎まれた。

フス派は後に和約が成立し、カトリックに復帰したが、意味合い的にはプロテスタントの先駆けである。

15世紀前半、ボヘミアでのフス派消滅後、チェコ人のフス派信仰者のうちの多くはポーランド南部に大量亡命した。18世紀終盤に「ポーランド分割」によりポーランド王国が滅亡すると、フス派の系統の人々はみな、ポーランドの地を支配する外国による厳しい統治が始まったポーランドからアメリカにわたり、現在もアメリカで広く活動しているモラヴィア兄弟団などが残っている。彼らはワルドー派など諸派を合流させた。ジョン・ウェスレーなど、既存のプロテスタント指導者にもフスの思想の影響を受けた者がいる。

また、後の時代には三十年戦争が、このフス戦争を模倣する形で開戦した。なお、ボヘミアのフス派自体はこの三十年戦争の初期、1620年白山の戦いでプロテスタント系の貴族がハプスブルク家に敗れた事で完全に壊滅した。このときも生き残ったチェコ貴族の多くがポーランドへと亡命している。

ただし、19世紀末から始まったボヘミア地域でのカトリック改革運動は、チェコスロバキア建国による民族意識の高揚を受けてフス派の教義への復帰とカトリックからの離脱運動へと転化し、1920年にチェコスロバキア教会が成立した。同教会はフス派の後継者を自称し、1971年チェコスロバキア・フス派教会と改称している。[1]

ウィキペディアより)

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神の恵みの選び―「予定説」をめぐって

Posted by Shota Maehara : 8月 11, 2012

「カルヴァン神学の中心教義は予定説二重予定説)である」というアレクサンダー・シュヴァイツァーの学説は、マックス・ヴェーバーらに影響を及ぼした見方ではあるが、現在は支持されないという主張を行う者が現れているがその者の名前を知る者は多くはない。[要出典]「予定」の項目が現われるのは『キリスト教綱要』第3版からである。カルヴァンの中心思想を特定することは困難であるが、「神中心主義」などと表現されることが多くなった。

予定の教義は、カルヴァンの死後も後継者の手によって発展し、1619年ドルト会議の「ドルト信仰基準」(ドルト信仰告白)などを経て、カルヴァンの死後約100年後のウェストミンスター教会会議1643年7月1日1649年2月22日)において採択された「ウェストミンスター信仰告白」(1647年)によって現代見られるような形で一応完成した。それ以来、改革派神学者の保守的陣営において、19世紀の終わりまでは二重予定論に関して、ウェストミンスター信仰告白の枠組みを抜本的に変えることを迫るほど新しく有効な議論が起こされた形跡はない。

しかし20世紀に入ると、カール・バルトが主著『教会教義学』[12]等のなかでカルヴァンやウェストミンスター信仰告白の二重予定説を強く批判したのを受けて、それまでは保守的陣営にとどまっていた改革派神学者たち自身が、二重予定説の立論そのものについての抜本的な再検討へと動き始めた。

とくに、アムステルダム自由大学神学部で長く教鞭をとった改革派教義学者G. C. ベルカウワーによる再検討は、抜本的なものであった。ベルカウワーは、神の予定の二重性は「非均衡的」であること、つまり、選びと遺棄は同等の強調を置かれるべきではないこと、また、「キリストにある選び」(Election in Christ)という点、つまり、予定論のキリスト論的側面を強調することが重要であることなどを主張した[13]

ただし、カール・バルト自身の予定論(恵みの選びの教説)の大意は「神の御子イエス・キリストが十字架において遺棄されることによって、万人が選びに定められた」ということであり、人間のなかに救いへと選ばれる者と遺棄される者がいるとするカルヴァンの予定論とは全く趣を異にするものである。

カルヴァンは、職業は神から与えられたものであるとし、得られた富の蓄財を認めた。この思想は、当時中小商工業者から多くの支持を得、資本主義の幕開けを思想の上からも支持するものであったとされる。

ウィキペディア ジャン・カルヴァンより)

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「義人は信仰によって生きる」ローマ人への手紙1章16-17節

Posted by Shota Maehara : 3月 4, 2012

礼拝メッセージ「義人は信仰によって生きる」ローマ3

聖書箇所:ローマ人への手紙1章16ー17節

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマ人への手紙1章16-17節

帝国の首都ローマにおいて、福音を恥と思ってしまうキリスト者がいたとしても不思議ではありません。パウロはそんな人々に配慮して、「私は福音を恥とは思いません」と語ります。なぜパウロが福音を恥と思わないのか、その理由は2つです。

①福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だから。

もし福音が、人を救うことができない無力なものであれば、あなたは福音を恥じることしかできないでしょう。けれども福音はあなたを救うことのできる神の力です。

②福音には神の義が啓示されていて、神の義は信仰によって人を義人として生かすから。

「義」という漢字は「我」の上に「羊」と書きます。「羊」とは主イエスです。主イエスを信頼し、あなたの上に迎えるならば、あなたは救われ、神との正しい関係・絆を回復することができます。主イエスは、あなたの罪を十字架によって取り除き、3日目に墓から復活され、今も生きておられます。

杉キリスト教会礼拝より)

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ボンヘッファー「安価な恵みと高価な恵み」について

Posted by Shota Maehara : 10月 10, 2011

ベルゼブル論争
2009年9月27日
ヨナ書3章1~10節、ルカによる福音書11章14~36節
松本雅弘牧師

1.イエスに対する2つの批判
 ある時、イエス様は、口を利けなくする悪霊を、ある人から追い出されました。その出来事を見た群衆の中に2つの反応が起こりました。反応の1つは、悪霊の頭ベルゼブルの力によって、手下の悪霊どもを追い出したのだと言って、イエスこそが悪霊の頭だとする非難です。もう1つの反応は、イエス様がキリストであることを決定付ける確かな「しるし」を求める要求でした。

2.ベルゼブル論争
 第1の非難に対してイエス様は、「内輪もめ」する国は滅びるのだから、たとえ悪魔の国であっても、頭と手下どもで争いを起こすはずがないのだ、とお答えになりました。

 また、この時代には、宗教家たちの中に、悪霊を追い出す働きをしていた人々がおりましたから、同じことをしている彼ら宗教家たちに対しても、自分に向けたと同様に「ベルゼブルによって悪霊を追い出しているではないか」と、批判しなければならないのではないか、とも反論されました。 そうした上で、イエス様が「神の指」で悪霊を追放しているという現実を「強い人が武装して屋敷を守っている状況」にたとえながら、悪霊たちよりももっと強い者であるイエス様が来られた今、サタンの支配に、ほころびが生じているのだ、とお語りになったのです。

3.天からのしるし
 2番目の「もっと決定的な天からのしるしを示して欲しい」という投げかけに対するイエス様の答えはどうでしょう。

 この聖書の箇所を詳しく見てみると、この答えは2種類の人々に向けて語られていることに気づきます。1つは、群衆の中に混じってイエス様を非難する敵対者たちに向けての言葉。もう1つは、イエス様の弟子に対して語られている言葉です。

 ここで主イエス様は、「ソロモンにまさるもの」、「ヨナにまさるもの」と言っておられます。平仮名で「もの」と書かれています。これは、原文のギリシャ語でも中性形で書かれているのです。つまりイエス様が、「ソロモン、ヨナにまさるもの」という言葉を使って表したかったことは、「ソロモン、ヨナにまさる者」という人物ではなく、神様の指によって神の国がすでに来たという事実そのものだったのです。

 イエス様は、このように歴然とした神の国の「しるし」が、すでに与えられているというのに、なお悔い改めようとしない敵対者たち、いや、悔い改めない悪い時代には、イエス様の働き自体が、彼らを「罪に定める」という、裁きしかもたらさないだろうと言われたのです。

 次に、光と闇の概念を用いて、弟子たちにも教えておられます。その中心は、神の国のメッセージを注意深く聴くように、また、それを現して生きるようにということでした。

 イエス様の時代に、自らを「光の子」と呼び、隠遁生活をするグループがありました。また自分たちは「見える」のだと、全く安心しきっているユダヤ教徒たちもいたのです。

 しかし、ここでイエス様は、そうした「光の子」を自称する宗教グループや、当時のユダヤ教徒たちだけにではなく、すでに、光に照らされて光の子とされた弟子たちに対して語っているのです。

 
 それは、弟子たちには、まだ光なるキリストに出会っていない人々に対して証し人となる使命があるのだと説き、さらには、光と出会った後にも、信仰を棄て、堕落に陥るような危険があるのだという警告を語っておられるのです。最後に、それらを総括するように、「全身が明るく」なること、「全身が輝いている」こと、つまり、光に照らされて、光のうちを歩むようにと勧めているのです。

4.安価な恵みと高価な恵み―決断を迫るイエス様
今日与えられた聖書箇所から学んできました。この一連の教えの中心は何でしょう。

 それは、イエス様がメシアとして来られたことによる、神の国の到来という恵みの現実の前で、今こそ決断の時なのだ、とイエス様ご自身が問うておられるのだということです。ひと言で言えば、評論家のようなところに立って、どっちつかずの傍観者の態度は許されない、ということでしょう。

 
 主イエス様は、今、目の前で教えを聞いている人々に向かって、行き場がなくなった汚れた霊が戻って住み着く、空き家同然の人としてではなく、全身を神様の指に向けて明け渡すようにと、鋭く、迫っておられるのです。

 私たちは、こうした主の御言葉の前で、もう一度、自己吟味をさせていただきたいと思うのです。私は、つい最近、ナチドイツに対する抵抗運動で殉教した神学者ボンヘッファーの言葉が心に浮かぶ経験をしました。

 彼の著作の中に、『キリストに従う(服従)』という本があります。その中で「安価な恵みと高価な恵み」ということを対比しながら、聖書の教える本当の恵みついて、次のように述べている「くだり」があります。

「安価な恵みは、われわれの教会にとって許すべからざる宿敵である。われわれの戦いは、今日、高価な恵みをめぐって、くり広げられている。安価な恵みとは、投げ売り品のような恵みである。投げ売りされた赦し、投げ売りされた慰め、投げ売りされた聖礼典のことである。それはまた、教会の尽きることのない貯蔵庫のようなものである。恵みが手軽にはばかるところなく、際限もなく、ぶちまけられる。それは、とりも直さず、代価のいらない、コストのかからぬ恵みのことである。・・・安価な恵みとは、教理としての恵み、原理としての恵み、体系としての恵みのことである。・・・この世は、みずからの罪を悔いることもなく、ましてや罪から解放されたいと願うのでもないのに、この[恵みの教理をもつ]教会の中に、彼らの罪の安価な隠蔽を見出すのである。・・・安価な恵みは罪の義認であって、罪人の義認のことではない。じっさい、恵みがいっさいのことをひとりでやってくれるから、いっさいは依然として旧態のままにとどまることができるのである。・・・安価な恵みとは、われわれが自分自身で手に入れた恵みである。・・安価な恵みとは、主に従うことなき恵みであり、十字架なき恵みであり、生けるイエス・キリストなき恵みである。

 高価な恵みは、[福音書のイエスのたとえのように]畑に隠された宝である。そのためには、人間は出かけて行って自分の持ち物を全部喜んで売り払うのである。それは、値段の張る真珠であって、その支払いのために商人は自分の全財産を犠牲にする。・・・さらにそれは、イエス・キリストの招きであって、それを聞いたとき、弟子たちは網を捨てて従うのである。高価な恵みは、繰り返し求められねばならない福音である。それは、祈り求められねばならない賜物であり、叩かれねばならない扉である。それは、服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。それは、人間の生命をかける値打ちがあるゆえに高価であり、またそうすることによって人間に初めて生命を贈り物としてあたえるゆえに恵みである。」(『ボンヘッファーを読む-反ナチ抵抗者の生涯と思想』、宮田光雄著)

 ここでボンヘッファーが「安価な恵み」と「高価な恵み」という2つの言葉を使いながら、聖書の恵みの意味を説き明かしています。その対称の中で示されているのは、神様の恵みに対する私たちの服従の有無、服従があるかないかということです。

 ボンヘッファーは、服従のない恵みは安価な恵みであり、聖書の福音ではない、と語ります。私は、この言葉を読み返して、今日、示されたキリストの言葉と響き合うように思ったのです。

 聖書に戻ります。27節には、人々に向かって語っておられるイエス様に感動したある女性が、声高らかに、「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」と言ったことが記されています。これほどの力を帯びた息子を持つ母親マリアは何と幸いな人でしょう、と言いたかったのだと思います。私たちも、表現は違いますが、そのような幸いを求めているのではないでしょうか。出来のよい息子を持つことは母親の誇りでしょう。そして、それは素晴らしいことです。しかし、それらを追い求めて生きる私たちに対して、キリストは服従することこそ、本当の幸いなのだと、26節で「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われました。

 自分自身、御言葉を聞き、それを守る人であるかどうかを、もっと基本的なこととして、私はキリストの弟子として、御言葉を聞く生活にあるかどうかを、もう一度、自己吟味し、26節で語られるイエス様の言葉に込められた、クリスチャンとしての本当の幸いにあずかる私たちでありたいと願います。お祈りします。

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