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Shota Maehara's Blog

Archive for the ‘『原発と神の義』’ Category

ふたたび和解と希望について―脱原発デモの終焉

Posted by Shota Maehara : 1月 21, 2013

反原発デモ首相官邸などの脱原発デモ関係者の間では無力感が広がっているそうです。自分たちの考えとは逆の方向に日本が進んでしまったことからくる挫折感のようです。もしこれを悪しき前例としてデモのない国に戻るとしたら問題です。大切なのは経験であってデモだけでは不十分であるということを学ぶことです。

またキリスト者は粛々と社会に倫理的な議論ができる土台作りを続けていくべきであると思います。人間の基準はかならず時とともに変化しますが、神の基準は変わることがありません。聖書に示された神の義に照らして、私はこの原発の問題に反対をし続けていくつもりでおります。

しかし、脱原発デモが終焉した今、私が左翼の理論家やキリスト教関係者に愛をもって問いかけたいのは、人間や社会を一足飛びに理想主義的に描かないで欲しいということです。例えば、即全原発廃炉、世界平和などは一度でも社会に出て働いた経験があれば無理だと容易に分かるでしょう。

だから、左翼は現実主義を共に持ち合わせ、キリスト者は人間の攻撃性や原罪の根深さをも直視すべきだと思うのです。その長い過程を経て、理想や福音を語ることができるならばその教えは「力」を持ち、人々の心に強い影響を与えることができるでしょう。

レ・ミゼラブル1例えば、「レ・ミゼラブル」が文学作品として、ローマ書7章の惨めな罪の意識で苦しみ、辛うじて光が差してくるところで終わって、8章以降の福音の圧倒的な喜びが語られていないことは欠点ではなく、むしろ優れた文学作品であることの証しです。

なぜなら、そこにいつの時代も大半の人々が陥っている救われない現実があるからです。その逆境の中で、キリスト者がいかに福音の力を現代に蘇らせることができるのかが問われているのだと思います。

主よ、福音は心の貧しきものに宣べ伝えられると教えてくださいました。それは奇跡にも思われました。しかし、確かに私たちは救われここに立っております。どうかキリストに召し出された者として、世の光として、この世界に生きる私たちを御光によって輝かせてください。アーメン。

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原発と神の義 最終講話―日ごとの糧をお与えください

Posted by Shota Maehara : 5月 5, 2012

先の第六講話で、私たちは人間の180度的な転換を図り、謙遜さを取り戻し、他者の声に耳を傾けるべきこと、そうして健全な対話をもった民主政治を日本社会に根付かせることによって、成熟した文化的な国家として新たなスタートを切るべきではないかということについて触れた。こうして、かつての謙遜さを取り戻すこと以外には、原発なき社会の構想を練ること自体無意味になる可能性があるように思われてならない。

今回の最終講話は、主の祈りの一節である、「日ごとの糧をお与えください」という主題をとりあげる。これは一見すると、最初の講話で、「人はパンのみで生きるにあらず、神のことばによって生きるのである」をとりあげ、「人は生きるためにパンを必要とはしない」と述べたことと矛盾するような印象を与えるかもしれない。

だが、そこでともに考えたかったのは、人は神がパンを備えてくださることのみを強調しすぎるあまり、いつしかキリスト者でさえ神のことばを何よりも優先し、そのためにはときにパンを捨てる覚悟すら持たねはならないという真理が見失われてしまうという危険性であった。したがって、神のことばについて語ってきた後に、はじめて「私たちの日ごとの糧をお与えください」と祈ることは正しい優先順位であるといえるだろう。

奇しくもこの2012年5月5日、北海道電力泊原発3号機(北海道泊村)が定期検査のため運転を停止し、国内の原発50基全てが止まることとなった。全基停止は、商業用原発が2基しかなかった70年以来42年ぶりのことだという。もちろんこの「原発稼働ゼロ」がいつまで続くのかは予断を許さない。そして、製造業界が夏に向けての電力供給の対応に苦慮しているとも聞く。だが同時に、地熱発電などの環境負荷の低い再生可能エネルギーへのパラダイム・シフトがおこるきっかけとなってくれることにも希望を持っている。

この3・11の福島第一原子力発電所の事故をめぐる、原子力政策の問題は現代日本のあらゆる問題の縮図であると私は考えている。ここには原発事故で命を亡くされた方々をはじめ、その親族、企業関係者、作業員、周辺住民の方々、日本の市民、メディア、そして政策担当者や有識者の方々など様々な人々の願いや思惑や利害がかかわり錯綜している。そのどれもが彼らの生活を支えていくために尊いものだ。したがって、私は自分自身を努めて、責任の及ばない彼岸にいるのではなく、ともに罪を犯した人間として、いや最大の罪人として見なしてきたつもりである。なぜなら、私は今回の事故が起こるまで、自分たちが享受している文明がいかなる代償を払って手に入れられたものかということに無自覚に過ごしてきたからである。

しかし、日々聖書を読むなかで、次のような声が聴こえたかのような気がしたのだ。すなわち、神の義に照らして、原発は人の義であり、いかなる人間的理屈を用いたとしても、決して肯定されるものではないと。かつて、1960年安保闘争で学生運動が起り、それが1970年代に過激化し、最終的に内ゲバという形で終息して以来、日本にデモによる異議申し立て運動と呼べるものはほとんど存在しなかった。その日本で今回、インターネットなどを介して、これだけデモが市民の中から巻き起こったという事実自体が、神の義の在り処を証し立てている。

では、神の義は私たち人間にいかなる道を進めと教えているのであろうか。その手がかりは聖書の中にある。それは、何千年も人びとを導いてきた「主の祈り」である。イエス・キリストは、弟子たちに、祈るときに、言葉を多く重ねることをたしなめられ、父なる神は、すでにあなたがたに何が必要かを知っておられるとおっしゃられる。そして、次のように祈りなさいと弟子たちに告げる。

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。(マタイの福音書、第6章第9~13節)

ドイツの神学者ティーリケは、これを「世界を包む祈り」と呼んでいる。これは誕生や死の床だけでなく、毎日の食卓などおよそありとあらゆる場面で唱えることができる。その意味で、とてつもない広がりをもった祈りなのである。その中で、主イエスは、神を、私ではなく、私たちの父よと共に呼びかけ、祈り終わった後に、こう嘆願する―「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」。

ここでも「私たちの」という表現によって、あらゆる時代を超えて地上のすべての人びとを家族の一員として含められている。そして、日ごと(今日一日分)の糧(食べ物)をお与えくださいと祈られるのだ。それにしても、なぜ一生分ではないのか。それは、誘惑を避け、人間が一日一日を誠実に謙遜に生きるためである。自らの限界を自覚し、謙って、神の御ことばに耳を澄まして生きる人間には、多様な才能を与えられた隣人との助けあいの中で、必ずや日々の糧が与えられるのである。

(参照/「希望と和解―3・11と福島原発をめぐって」

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原発と神の義 第六講話―力は弱さの中にあってはたらく

Posted by Shota Maehara : 5月 4, 2012

先の講話では、人々と連帯を取り戻すには、まず自らの「自我」(ego)を打ち破るべきこと、また、そのきっかけは単なる同情を超えて、傷ついた他者を目の前にしたときにはらわたをつき動かされて無意識に手を差し出す、まさにそのような瞬間にあることに触れた。その上で、今回の講話では、単独者ではなく、国家戦略として、これまで話されてきた講話にどんな意味があるのかを掘り下げていきたい。

現在、経済産業省では総合資源エネルギー調査会基本問題委員会を開き、2030年の原子力発電や再生可能エネルギーの比率目標­を議論している。その際、原発反対派と原発推進派の不毛な対立は避けつつも、再生エネルギーなどによる完全な代替は不可能であると訴える委員からは、自らの計算の内訳を、安全性を確保した上で、原子炉の耐久年数を40年ではなく、60年にした場合という意見が出されている。その一方で、今回の福島第一発電所の事故の原因も究明されていないまま、原発を使い続けるならこの程度のコストで賄えますという議論自体がどうなのかという意見もあった。

この議論は、政策担当者や有識者が、日立、東芝、GE、三菱電機、富士電機などの原発メーカーや東京電力、関西電力をはじめとする電力会社への配慮もさることながら、日本経済全体の発展や安全保障、すなわち国益の観点から意見を出されているのだと感じている。なぜなら、このまま少子化が進み、経済構造の転換がはかられないままなら、かつて世界第二位とまで言われた経済大国の地位を致命的に失いかねないという懸念があるからだろう。それはまさしくその通りであろうと思う。

しかし、ここには決定的に欠落している視点がある。それは、福島のような事故がふたたびこの国に起きてしまえば、コスト計算を超えた「人のいのち」が失われるだろうということだ。さらに豊かな国土がまたもや放射能によって荒廃してしまうだろうということだ。おそらく彼らは現実にそんな甚大な被害はありえないし、もし関東や関西や四国で同じ事故が起これば違う土地に移り住めばいいと言うかもしれないが、その場合政府や企業に対してナショナリズム(民族主義)が再燃してしまうことは火をみるよりも明らかである。

よく思い出してほしい。かつて世界に覇権を誇ったローマ帝国も外から侵攻してくるゴート族によって滅びたのではなく、人心の崩壊によって、すでに内側から腐りかけていたのである。共和国の理念は廃れ、共同の福利に対して、人々は欲に溺れ、関心を失っていく。そしてついに、帝国は自壊するのである。すなわち、強者の論理は、「人がパン(物質)のみではなく、神のことば(精神)によって生きる」という神の真理を踏みにじるものでしかなく、パンのみを求める物質主義に市民もまた少しづつ染められていってしまったのである。

では、我々はどうすればいいのだろうか。どうしたら健全な民主政治がこの国に根付いてゆくことができるのだろうか。私は、むしろ、国民が強さを誇ることではなく、「弱さを自覚する」ことが鍵ではないかと思っている。

ふつう弱さとはネガティブ(否定的)なものだと捉えられている。だが、キリスト教では、弱さの中にあってはたらく力こそが人を滅びの道から救い出すという信仰の逆説を教えている。パウロはダマスコの途上でキリストと出会い、異邦人(非キリスト教徒)への使徒に召されて以来、数々の苦難に遭遇してきた。その彼が新約聖書コリント人への手紙第二で次のようわたしたちに語っている。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙 第二第12章第9~10節)

このパウロの書簡は、我々に何を伝えようとしているのか。それは順風満帆に思える時、強さを誇ることが、「自己」を中心にものごとを考え、自分の思考や心の中から、「神」(本当に大切なもの)を排除してしまうということである。それは、友人や恋人や家族かもしれないし、掛け替えのない隣人の命そのものかもしれない。そして、傲慢になった結果足元が見えず、過ちを犯すのである。

それに対し、何か危機に直面して、自らの弱さを自覚させられた人間は、自分ではなく「神」を心の中心に迎え入れる。すべてを空け渡し、謙遜に生きる。そして、自分以外のものの大切さを悟り、それらをまず第一に優先して生きる決断をする。そして、心から謙って、人から教えを乞い、危機を乗り越えようと努力する。強さは滅びに向い、弱さは救いに至るのという聖書の真理はこのことを示している。

したがって、戦後日本人はいまこそ自らの弱さをはっきりと自覚し、謙遜に、知恵を出し合うことによって、原発のない新しい社会のモデルやライフスタイルを模索するべきである。それはいまこの瞬間をおいてほかにない。そのためには、経済的な繁栄や軍事力の強さをではなく、文化的な成熟をこそ求めてゆくべきだと私は考える。この国にきちんとした民主政治が根付き、学問や芸術や科学を高いレベルで維持していくことができれば、経済水準はやや下がったとしても今後もイギリスのように世界で発言力をもつことができるであろう。

(祈り:主よ、自らの過ちを心から悔いたことで滅びをまぬかれたニネベの人々のように、原発問題を通して、いまこそ日本が正しい道に立ち戻ることができますように助け導きください。)

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原発と神の義 第五講話―善きサマリア人のたとえ

Posted by Shota Maehara : 5月 2, 2012

先の第四講話では、人間にとって正しいと思えることと本当に正しいこととは必ずしもイコールにはならないということについて触れた。いわば「人間の義」(理性、善意など)の限界についてともに考えてきた。そして、私たちには信仰という形でこの閉塞状況からの脱出口が与えられたことも示唆した。それは、現時点でキリスト教徒であろうとなかろうと、イエス・キリストを通して啓示された神の愛と恵みに無関係な人など地上には存在しないという聖書の解釈に基づいている。

ここで私は最初の「人はパンのみで生きるのではなく、同時に神のことばによって生きる」という主題に戻って、後者ではなく前者を必死に求めようとする私たちの行為がどういった帰結をもたらすのかについて考えてみたい。

2011年3月11日に発生した福島原発事故とそれが周辺住民にもたらした放射能汚染、そして日本に五〇数基ある残りの原発をどうしていくかは、決して日本国民全体に無関係な問題ではない。この問題を解決しなくては日本経済も立ち行かなくなるだけでなく、日本国民の生活も維持していけなくなる。これは自明の事柄である。

しかしながら、新聞やテレビなどの報道によれば、五月の長期連休を迎えて、多くの日本人が海外へ旅行する予定だという。私はこれを聴いた時、日本社会が抱えている課題の大きさと日本人の低い意識の落差にあらためて驚かされた。プレートの活断層以上に、我かんせずというような断層線がこの国には走っているような気がしてくる。ここから見えてくるのは、原発関係者や周辺住民だけでなく、今や多くの日本人が同胞の痛みを感じ取り、共感する力を失ってしまったということではないだろうか。

では、なぜこうした感覚の喪失が近年急速に生じたのだろうか。その問題の根源には、現代の日本人がパンのみを求める生活をひたすら優先してきたことと大きなかかわりがあると私は考える。

人間は精神であるがゆえに、動物と異なり、単なる物質的な糧に加えて、精神的な糧を必要としている。そのゆえに、神学では、神のことばを聴くことは神の食物を食すことを意味する。

実際、私たち自身も日々パンのほかに、友人や先輩などから様々な助言や励ましの言葉をもらうことによって、前向きに生きていく力をもらったような気がした経験が一度ならずあったはずだ。それに対して、日々のパンのみを求める人は、他人に関心を持たず、また、誰からも関心を持たれない。言い換えれば、パンのみを求める人は、利己主義に陥り、他者の痛みに共感する力を失ってしまう。

その最良の例をルカの福音書から引用しよう。当時最高の学者であるパリサイ派の律法学者(ユダヤの知識人)は、イエスを罠に陥れようとして、「何をしたら永遠の命が得られますか」と試問する。するとイエスは逆に律法にはどう書いてありますかと問われる。すると、律法学者は「『汝の神である主を愛せよ』そして『汝の如く隣人を愛せよ』とあります」と答える。それを聴いて、「その通りです。それを実行しなさい。」とイエスは告げられる。

ここで律法学者は、単なる聖書の知識や一般論を問うのではなく、自分自身の立場が問題とされていることに気づいて、たじろぐ。そして自分の責任を逃れるために、では、(自分の)「隣人」とはだれかと律法学者は反論する。それに対してイエスが「善きサマリヤ人のたとえ」によって語られる場面である。

「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」。彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です」。するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカの福音書、第10章第25~37節、新改訳)

この話の核心は、ユダヤ人の司祭やユダヤ教の教師(レビ)が同じユダヤ人が倒れているのを素通りしていったのに対して、むしろ民族的に敵対する関係にあったサマリヤ人が、臓腑(splagchnon)が痛むほどの憐れみを感じて、救いの手を差し伸べたことである。そして、イエスが引き出した結論は、「行ってあなたがたもそうしなさい」ということであった。すなわち、「隣人」とは<誰か>という問いではなくて、自分が目の前の傷ついている人の「隣人」に<なる>ということ、つまり、「隣人」とは他の誰かではなく、「あなた」なのだという点にある。

しかし、同時に、私は自分を省みて次のことを思わざるを得ない。自分を何よりも優先する人は、先の律法の二つの教えを裏返した形「神ではなく自分を愛す」、また「自分自身のようには隣人を愛さない」という結果に帰着せざるを得ないということである。言い換えれば、神ではなく、自分を神の如く愛している人は、隣人をも愛することはできないということである。まず自分を超えた存在を予感し、畏敬の念をもつからこそ、そこから共に生きる人々への愛も流れだすのだということをしっかりと心に刻んでおかなくてはならない。

ここで、私たちはこの講話の最後の段階に近づいた。社会に生きようとするとき、私たちがまず疑ってかからなければならないのは、他者ではなく、自らの心の王座に座った「自我」(ego)なのではないかということ、そして、それは時として他者へのはらわたのふるえるような思いによって、取り除くことが可能になるということである。それこそが、神の愛であり、無償の愛(agapee)にほかならないのだ。

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原発と神の義 第四講話―信仰によって義とされる

Posted by Shota Maehara : 4月 30, 2012

人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが私たちの考えです。―ローマ人への手紙、第三章第二八節

先の第三講話で、生きていくために必死にパンを求めようとする行為が、ときとして本当に大切な「なくてはならぬもの」を見失わせてしまう結果になるという逆説に触れた。言いかえれば、良かれと思ってしている行為が時として最悪の結果をもたらすことになるという皮肉である。今回は、この謎について、もう少し違った角度から掘り下げていきたいと思う。それは、「人間の義」(理性、善意、価値など)の問題と大きくかかわっている。

2012年4月26日に、福井県の大飯原発3・4号機の再稼働をめぐって、おおい町では住民説明会が開かれた。この映像の一部はメディアでも報道された。政府が再稼働に踏み切るに際して、住民に理解を求めたのに対し、多くの住民は安全性や事故の責任を国がどう取ってくれるのかに不信感を示しつつも、意外にも多くの住民が再稼働に賛成されていた。その一番の理由は、やはり金銭の面であった。一例をあげれば、周辺住民が営む民宿や旅館は、ほとんどが原発作業員が利用していたため、原発を停止されると生活が成り立たなくなる恐れがあるそうである。

もちろん、これはきわめて深刻な問題である。なぜなら、決して一個人で容易く変えることのできない、戦後日本社会の構造的な問題であるからだ。唯一の被爆国でありながら、アメリカ(104基)、フランス(58基)に次いで世界第三位の54基の原発を所有するまでの経済大国になり、その上に私も含めた日本人が繁栄を築いて今日まで来た。ともすると電力に過剰に依存した我々の文明はもはや後戻りできないし、またする必要もないと考える人がいたとしてもおかしくはないだろう。

しかし、ここでもう少し冷静に考えてみる必要がある。私はこれに対してどうしても以前教会で敬愛する野町牧師から聞いたある挿話を思い出さざるを得ないのだ。なぜなら、それは今私たちの置かれた現状とあまりに似ていると思われてならないからだ。

18世紀にイギリスは世界中に進出し、広大な植民地を経営し、奴隷貿易が代表するような交易を繰り広げ、大英帝国を建設するに至る。このとき、政治家や商人をはじめとして、英国の人びとは自分たちの繁栄が奴隷の労働力によって成り立っていることにいささかの疑問も感じてはいなかった。

そんな孤立無援の中、イギリスの政治家ウィリアム・ウィルバーフォース は1789年にはじめて議会で、奴隷制反対を訴える最初の演説を行う。そこで彼は、あらゆる人間は平等に創られているという聖書の真理に立って、奴隷貿易は道徳的に避難されるべきであること、また、西アフリカの奴隷船内の過酷な実態を報告した。彼の助言者の一人に、かつて奴隷船の船長であった罪を悔い改め、英国国教会の聖職者となり、のちにアメージング・グレイスの作詞者ともなるジョン・ニュートンがいたといわれている。数々の試練に見舞われながらも、約40年後の1833年、ウィルバーフォースが病に倒れた1ヶ月後に議会は英帝国にいる全ての奴隷に自由を与える奴隷制廃止法を成立させたのだった。

この挿話が意味するものは一体なんだろうか。一つは、人はいかに日々の生活の糧を得るためという理由で、自分たちのしている恐ろしいことが見えなくなってしまうかということ。そして、二つ目は、それでも、奴隷制は廃止されたということである。すなわち、人間は過ちを犯すが、それでも、ときに本当に「なくてはならぬもの」を優先する決断を下しえるということではなかろうか。そして、たとえそれがかすかな希望でしかないとしても、奴隷制=原発に依存しない別の繁栄の道がありえるということではないだろうか。

今回も原発の必要性を様々な理屈で正当化することはできるだろう。いわばかつてイエスを論難したパリサイ派の律法主義、すなわち「人間の義」である。しかし、神の義と人間の義は決して同一平面上には存在しない。たとえ人間の義を無限に延長していったとしても決して普遍的な正しさには至れないのだ。そのままでは人間は滅びていくだけである。それゆえにこそ、神の恵みはこの両者をイエス・キリストという独り子によって、一致させ、彼を信じるその信仰によって生きる者を義と定め給うたのである。

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原発と神の義 第三講話―なくてはならぬもの

Posted by Shota Maehara : 4月 29, 2012

先の講話を受けて、この第三講話では、人はなぜ神のことばよりも日々のパンのほうを求めてしまうのかという問題について、その原因を少しずつ慎重に掘り下げていきたい。なぜならば、この問題は、単に人間の自己中心や欲望などという言葉では片付けられない根本的な主題を孕んでいるように思われるからだ。

まず、2011年の3月11日に東日本大震災が発生し、、その後に津波等の影響も加わって福島第一原子力発電所の事故が起こり、、その後の政府や東電の対応、さらに復興もままならない時期に再び原発を再稼働させようという動きがある。ここに我々は何をみるべきなのだろうか。

一部では原子力政策を推し進めて政府関係者や御用学者の悪知恵や悪意だけが強調されている。しかし、私はむしろここに政府の方々や現場で処理にあたっておられる方々の理性や善意を見る。たとえば、先日たまたま手にした経済誌「エコノミスト」の記事の中で、3・11後の世界の原発政策を冷静に扱っているレポートには次のように書かれている。

確かに福島第一原発事故は大きな衝撃を与えたが、ほとんどの国で原子力は依然として電力源の選択肢として残され、エネルギー安全保障や発電コスト、再生可能エネルギーの可能性、温暖化対策など様々な要因によって、万が一のための切り札として原発の開発計画だけは準備しておこうと多くの国では考えられているのだと。

ここからも読みとれるのは、我々は誰しも自分や家族の暮らし、あるいは企業や国家を維持していくために、善意から知恵を振り絞って日々を生き抜こうとしているということだ。個人は自分の生活や家族を養うため、企業は競争に勝ち残るため、国家は広い意味での国民の安全を確保するために行動している。これらはすべてエゴかというとそう言いきれない。なぜなら、かつてもいまも日本人が馬車馬のように我武者羅に働くのは、究極的に自分以外の「誰か」、「何か」のためであることが多いからだ。

しかし、ここに現代の逆説が存在する。人間が善意で行動すればするほど、それが悪なる結果をもたらすという逆説である。相手のことを家族のことを思ってやることがかえって自分の足かせになってしまうことがある。ではなぜこのようなことが起るのだろうか。人間は善意で行動してはいけないというのだろうか。これを解く鍵は新約聖書のルカ福音書に収められている「マルタの物語」にあると私は信じる。

さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。(ルカの福音書、第10章第38~42節)

マルタは決して悪なるひとではない。自分なりに主をもてなそうと思って働いたのである。そして自分がこんなに頑張っているのに何ひとつやっていないマリヤに目をとめ、心がいらいらし、とうとう不満をぶちまけたのである。これは私たちの職場でもよく見かける光景ではないだろうか。

ここにあるのは人間的な理性や尺度(人間の義)で行動すればするほど、神の義からは遠ざかっているという逆説である。確かにマルタは一生懸命働いているが、主イエスが自分の家に滞在する時間はごくわずかである、いや今晩だけであろう。それなのに、彼女は主の言葉を聞くまたとない機会を逃してしまうかもしれないのである。なぜなら、それは彼女が雑事に煩わされて、一番大切なものを優先すべきことを忘れてしまっていたからである。そして、これはまた福島原発を巡る今日の私たちの姿とも重なる。

この話の教訓は人間の義によってパンを求めて行動することが神に敵対するような結果をもたらしかねないこと、すなわち神の義によって人間の義は絶えず否定されること、その断絶である。そしてなによりも、本当の意味で「なくてはならぬもの」(友人や家族、故郷や祖国、そして神の言葉)を第一にして、そこから生活を組み立てることの必要性を聖書は私たちに語りかけている。

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原発と神の義 第二講話―神の国とその義を第一に求めなさい

Posted by Shota Maehara : 4月 22, 2012

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章31~33節)

先に私は、キリスト教の聖書の中でも非常によく知られた次の言葉、「人はパンのみで生きるにあらず、神のことばによって生きるのである」を取り上げた。

一般にこの言葉は、キリスト者をも含めて、「人は生きていくためにパンと同時に神のことばを必要としている」という意味に誤解されている。つまり、「神は我々に生きるパンが必要なこともよくわかって備えてくださる、神は決して神のことばだけのことを言っているのではない、ありがたいことですね」、という風に解釈されているのだ。

しかし、このようにこの聖句を解釈していると、人はいつしか現実のパンを手に入れることを最優先し、神のことばを実践することを半永久的に後回しにする傾向があるのではないかと私は自戒をこめて危惧する。宗教者ですらそうなのであるから、一般の信仰のない人たちは言わずもがなであろう。

例えば、私はこのところよく話題にされている、福井県の大飯原発を再稼働させようとする問題もさることながら、新聞で見かけた次のような記事に衝撃を受けた。東日本大震災の津波被害を受けた宮城、岩手の沿岸自治体では、堤防の高さを当初計画より引き下げる動きが出ているそうである。どうやら、日本三景の一つ、松島湾に面する宮城県松島町などで、観光業に打撃を与えるという理由から、景観を損ねる高い堤防に反対しているとのことであった。そして、これは本当かは知らないが、もうそんなに高い津波は当分来るはずもないからという声もあるという。

これに対して、あなたはどう思われるだろうか。原発停止は採算が合わない。コストがかかりすぎると言った経済学者と同じ論理が見られるのではないだろうか。この町は、観光で潤っているのだから、生きていくためにはそれを中心にして考えていかねばならないと。そして、またもや人間として本当に大切なことは後回しにされていくのだ。すべてはこの論理である。とりあえず社会を回していかなければならない。それがまともに回っているかは後回し、二の次の問題であるというような。

私はこの話を聞いた時、ここには自分の子どもや孫の世代にまで危険が及ばないようにしたいという考えが微塵もなく、そこにあるのはただ今の自分たちの欲だけだと憤りを感じた。

私はこの震災や原発の問題は、「経済」とは独立した、別個の領域の問題であると考える。つまり、採算が合うか合わないかではなく、例えば「福島」のような汚染されて人が住む場所を離れねばならないような土地を、祖国日本の地に可能性にしてももう一つ作ってよいのか、という観点から組み立てられるべきものであると考える。そして、今回こそはわれわれはパンという経済の論理に引きずられて、大切なもの、友人、家族、祖国、何よりも神のことばを守ることを後回しにすべきではない。

ただ同時に民主党の原発行政に反対する意見があるということに希望を見出す。なぜなら私も含めて日本人は時に多くの間違いを犯すが、他者の痛みに共感するという素晴らしい感覚を持っているからである。それはいわば神から授かったギフト(贈り物=才能)であり、その尊い感覚こそが、政治や企業の愚を糺す力強い流れを生み出すと私は信じている。

政治の本質とは信仰と同様に「決断」の問題である。確実な根拠もなく、それに対しては自分自身で全責任を負わなければならない。それゆえ非常に困難なことではある。しかし、今でなければいつ我々は正しい方向に舵を切れるというのだろうか。もしこの国がこのままことなかれ主義で進めば、子々孫々にまでその代償は測りしれなく大きいものになるだろう。

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原発と神の義 第一講話―人は生きるためにパンを必要とはしない

Posted by Shota Maehara : 4月 19, 2012

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」―新約聖書マタイの福音書4章4節

私は大学生時代、教授などが集まる研究会に許可をいただいて参加させていただいていた。そのときの事でいまだに印象に残っている出来事がある。それは農業経済学の権威で、インドの経済学者アマルティア・センの流れをくんでいたある学者が立食パーティーの席でふと漏らしたことばだ。彼は相手の女性の学者に対して「人はね、まずなによりも明日の飯をどうするかということを考えなくちゃいけないんですよ」と言ったのだ。

これに対して私は不意に胸をつかれたような気持ちになった。私はこの時まだマルクス主義の文献を研究する左翼系の学生でしかなかったが、瞬間にそれは違うという思いが頭をよぎったのである。「人はパンのみにて生きるにあらず、神のことばによって生きるのである。」というマタイ福音書第4章4節の聖句が思い出されてきてならなかったからである。

一般的に、農業経済学やセンが業績を上げた厚生経済学は、フリードマンなどの自由市場経済学とは異なり、現代の貧困格差の問題に敏感な倫理や道徳を重視する立場だといわれている。もちろん私もそのように考えてきた。

しかし、実際は彼らの価値観は、「経済」を何よりも重視するという点で新自由主義経済学者と大同小異であったのだ。私はこの席で何とも言えない違和感を胸に家路に就いたことを覚えている。そしてこの違和感は今日に至るまで完全に拭いさられることはなかった。つまり、同じ価値観を共有する者同士が他方を批判し合っているだけなのではないか、そして、もしそうならば本当にこの世の中を改革することができるのかということに対する疑問であった。

今、私は今日の閉塞状況に直面して、この時の私の認識というか直感は正しかったのではないかという感を強くしている。そして私には、この人間の義のどこが間違いなのかをはっきりと指摘することができる。

確かに多くの人々と同様、私は生きていかねばならない。そのため、したくもない仕事をせねばならぬときがある。そして、家に帰れば体を休めねばならない。こうして日々は光陰のように過ぎ去っていく。私が本当になすべきことがなにかがわからぬままに。

しかしやがて不幸に出会った日には、打ちひしがれ、「なぜ自分がこんなつらい思いをして生きているのだろうか」と疑問に感じもするだろう。そのとき心は飢え渇いて、物質的なものだけでは満たされないと感じるだろう。それはまさしく人間が精神であるからである。だから、人は誰かの言葉を日々必要としている。

したがって、私は聖書のことばをより過激に再提示して見たいと思う。すなわち、「人が生きるためには、日々のパンを棄ててでも神の言葉を選びとらねばならぬ瞬間(とき)がある」。本当に生きるという意味で、パンは必要ではない。正しい道を歩むということ、このことを単に生きることのために犠牲にしてはならないのではないだろうか。原発に依りかかって生きるというあり方を含めて今の私たちは神のことばに寄り添い正しい道を見出していかなければならない。

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和解と希望―3.11と福島原発をめぐって

Posted by Shota Maehara : 4月 26, 2011

それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。―創世記11章9節

2011年の3月11日に、東日本は未曾有の震災に見舞われた。そして、それに伴う津波による被害は、何万という人命を一瞬にして押し流していった。その被害の爪後の大きさに対しては私を含む日本人は誰しも言葉を失ってしまう。そして、誰も予想しなかったのが福島にある東京電力の原子力発電所での爆発である。この施設からの放射能漏れの恐怖は、今も我々を脅かし、多くの近隣住民が避難を余儀なくされている。前者は天災であり、後者は人災であることが次第に我々国民の目にも明らかになってきた。

東京電力は、半ば国営企業として東日本の電力利権を独占し、何より原子力発電の安全をめぐる様々な現場技術者の警告を無視し、利益を優先させ、原子炉の安全管理を怠ってきた。また、同種のケースとして中部電力の浜岡原発も今後予測される東海地震のプレートの真上に立っているといわれる。そしてもちろん最大の罪は、本来これらの企業をチェックする義務を怠った原発行政である。こうした問題は、原発の技術者であった平井憲夫氏によるレポートでも語られている。

私は一人の人間として義憤を感じるし、デモの一つや二つでもしなければ気が収まらないという思いにもなる。実際、私も2011年4月24日の東電本社前や経済産業省の前でデモ行進に参加する知人友人から参加しないかというメールをいただいた。私はこの時都合で行くことはできなかったのだが、心の内には疑問があった。それは安易に他者を批判するということの難しさである。

なぜ、我々が東電と同じ人間でないと言いきることができるのか。これまで福島原発が供給する電力にたよって文明を享受してきた我々が。こうした極めてカント的な問いかけが今の日本には必要なのではないだろうか。

おそらく彼ら自身も気づいてはいないだろうが、今日の環境問題や原発反対のデモにはかつての60年代の左翼の学生運動と同じ病がある。それはつまり、自分達は正しくて、相手(体制や権力者)は悪いと断裁する自己中心の罪である。彼らは体制側の罪と闘い、自分達の心の中に巣くうもう一つの罪と闘うことをしなかった。それゆえに、かつての左翼運動は仲間同士の内ゲバに帰結してしまった。残念ながら現在も、左翼系知識人同士が批判し合って自分を上の立場に置こうとする光景を目にする。

私は、日々電車の中で自分が引きずりまわされている「罪」について考えている。神学的にいえば、罪とは虚偽であり、高慢であり、怠惰であるそうだ。とくに虚偽や高慢の罪によって、私は他者と共に生きることを拒む。それによって、すべての絆が断たれ孤独に生きていかざるを得ない。私は知識が悪いとは思わない、ただそれを用いる者が罪にとらわれているからこそ社会を低き流れに導いてしまう。

では、一体どうすべきなのだろうか。マルクス主義なき後、私たちにとって明日を生きる希望はもうどこにも存在していないのだろうか。いや、決してそうではない。人間が生きている限り、人間の手でこの社会秩序を作り変えることができる。しかしその前に、我々は自分達ひとりひとりの中にある罪ともう一度向き合わねばならない。そして、ここから日本人は出口を必死になって探さねばならない。かつてのローマでのパウロのように。地球上のあらゆる生き物のために。

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