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Shota Maehara's Blog

「時」と「心の傷」が他人の苦しみを癒す-『東京家族』から『東京物語』へ

Posted by Shota Maehara : 2月 5, 2013

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昨日私は山田洋次監督の『東京家族』を観に行きました。なぜなら、お世話になっている方々から是非観た方が良いと薦められたからです。私は大の小津安二郎ファンでしたので傑作『東京物語』の現代版リメイクということで期待と不安をもって出かけました。結果から申し上げますと駄作でしたが、それにも一定の効果があるものです。つまり、原作の素晴しさがコントラストの中でなお一層浮き立つということです。それによって、私は小津安二郎の『東京物語』こそ今も現代人の胸を打つ傑作だと考えるようになりました。ではそれはなぜでしょうか。それをこれから両者の比較も織り交ぜながら説明していきたいと思います。

まず、私が原作『東京物語』に感動し、筆をとるのはこれで三度目です。私はこれまで「時間」というテーマでこの作品の素晴らしさについて書いてきました。この作品にあるのは二つの時間の流れです。一つは尾道という田舎の時間。そして、もう一つは、東京という都会の時間です。言うまでもなく、前者はゆっくりとした時間の流れであり、後者はせわしない時間の流れです。尾道から両親が東京にいる大人になった子供たちに会いに来る出来事によって、この二つの時間が交差します。その結果、息子たちは皆仕事で両親の相手をしてやることができないのです。両親は何となく疎外感を感じますが、そんな彼らを東京見物に連れて行ってくれるのが戦争で死んだ長男と結婚した義理の娘・紀子です。両親は奇妙なことに実の子供たちよりも元は他人であるこの義理の娘の親切な行為から、いたわりや愛情を感じます。

34dfdd6bced36a877a52c7dac5c8475f戦争未亡人の紀子はいわば過去の時間に属する人です。なぜなら、大切な夫が戦争で死んでしまった日から時間が静止しているからです。だからこそ、戦後の高度経済成長を迎えているテンポの速い東京で、唯一尾道から来た両親と時間を共にすることができたのです。彼女にとって両親は無情に過ぎていく時間の中で自分の夫を思い出させてくれるいわば過去に属する存在だったのかもしれません。このことが奇跡的にも心の交流を東京の中で可能にさせたのです。私はかつて聖書的な観点から、お金ではなく、自分にとってかけがえのないもの、つまり人生の時間を犠牲にして、他人と一緒に時を過ごし、話に耳を傾けるということこそが愛(アガペー)であると主張しました。言い換えれば、他者と時間を共有することの中に愛(アガペー)があり、それがこの映画のテーマだと主張しました。ただし、『東京物語』の本当の魅力は語り尽くせていないとも考えていました。

しかし、ふと山田洋次監督の『東京家族』を観ていた時、その語り尽くせていない大事なテーマが分かったような気がしました。山田洋次監督の現代版では、戦争未亡人の紀子の代わりに、フリーターの次男昌次と震災のボランティアで知り合った紀子を登場させていますが、観ているとどうもちぐはぐな印象を受けます。なぜなら、なぜ彼らだけが両親と心の交流が生まれ得たのかという決定的な根拠が時間以外に見当たらないからです。

確かに山田洋次監督は、フリーターの昌次に将来への不安を語らせ、紀子という支えによって自立していこうとする若者の姿を温かい眼差しで描いています。昌次は彼女を仲立として、母親と心の交流を深め、やがて長年わだかまりのあった父親とも和解するという形でドラマは終わります。ここに山田洋次監督が一貫して描いてきた社会から疎外されてきた存在に大切な役割を与えるというモティーフを垣間見ることができます。おそらく、実家から上京してきて居場所がないと感じる老いた両親と家族や社会から居場所が無いと感じているフリーターの青年を向かい合わせることで山田監督は両者の心の交流を可能にしようとしたのでしょう。

東京物語それにもかかわらず、原作である小津安二郎の『東京物語』と比べ、作品の深さというものがあまり感じられません。まるでテレビで放送されている連続ドラマを見終わったような浅い感動しか呼び起こしません。では、それはなぜなのでしょうか。

私はここに小津安二郎監督の『東京物語』のもうひとつのテーマが浮かび上がってくるように感じます。つまり、原作で妻に先立たれ故郷にひとり残された父親の心の痛みに義理の娘・紀子だけが時間をとって寄り添えるのは、彼女もまた愛する夫を失ったという「心の傷」があるからなのです。一見すると実に不思議なことですが、私たちは自分の強さや成功を分かち合うよりも、自分の弱さや失敗を分かち合い、深い同情を寄せることによって、相手を真に癒すことができるのです。これは一種の「逆説」(パラドックス)だと言っていいでしょう。新約聖書は次のように私たちに教えています。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」-コリント人への手紙 第二 1:4

もちろん比較することは不毛かもしれませんが、私は原作で紀子が戦争で心の傷を抱えていたからこそ、逆説的に妻を失った義理の父と真にいたわりのこもった心の交流ができたのだと思うのです。この映画が持つ深い感動の奥底に何か観ている私たちをを癒すような力があるように感じるのはそのためなのではないでしょうか。

■参照

現代人にとって愛とはなにか―『東京物語』(小津安二郎)が語るメッセージ

『東京物語』試論―「時間」の共有をめぐって

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